永遠を乗せて飛ぶ僕ら
エイトとジェイの二人には欲しくて、たまらないものがある。目玉が飛び出しても買えない、人体のパーツを切り売りしても足りないほど、値段が張る高額なものであった。特に貧しい地区で生まれ育った二人にとっては。
彼らは、小型の宇宙船が欲しかった。
宇宙船の個人所有が徐々に広がりつつある中、少しずつ値段は落ちてきているものの、そう簡単に一般人が入手することは難しい代物だった。
二人は金になる仕事を求めることにした。彼らの生まれた地区は、明日の食料を確保するだけで大金を叩かねばならない、劣悪な環境であった。彼らのような子供はまともな教育を受けることはできない。一般的に最も給与水準のいい技術者への道は早々に絶たれていた。
二人は身体を売ることにした。
目を見張るほどの美少年であったエイトは、道楽に走るしかない絶望した大人相手に売春を。大柄で身体が丈夫なジェイは、スカベンジャーになった。ジェイは簡素な装備だけを着て、人間が生存するのは難しいと言われている、よどんだ空気の地上で金目のものを漁っている。
「また緑の斑点が増えているよ、ジェイ」
十八歳になった二人は、地下都市の中心部の、小さなコンクリートの穴蔵に住んでいる。身体はどんどんすり減っていき、ジェイの皮膚に深緑のおぞましい斑点が多数浮かんでいることが、それを雄弁に語っていた。
エイトとジェイが生まれた頃には、地球から植物が希少になっていた。メトロポリスの科学技術を駆使した温室で栽培されるだけの僅かな存在となっており、その植物によって得られるわずかな酸素が人類の命を繋いでいる状態である。彼ら二人が誕生する半世紀前には地上で生存できる生物の数が激減しており、つまり、相次ぐ環境破壊に耐えかねた地球の命は燃え尽きる直前になっていた。その状況を作りあげた人類はしぶとく己達の技術で延命を図ろうとしているのだが、焼け石に水であることは明らかだった。
「お前の悪趣味な痣よりはマシだろ」
「……昨日の客は最悪だったんだ。拷問しながらじゃないと興奮しない政府のお役人様」
「終わってやがる」
「イエス。支払いが少なかったら刺し殺してたよね」
エイトの透き通った白い手首には赤黒く、縄で縛られた跡が残っている。その腕の指先が、ジェイの緑の斑点に触れようとした。
「こら! 触るんじゃない。これは毒だ」
「感染するものなら一緒にいる僕にもとっくに現れているはずだよ」
「万が一ってこともあるだろ。お前の肌にこんなものが出来てみろ」
「……そうだよね、気持ち悪い肌じゃあ僕が高く売れなくなるもの!」
エイトの真っ青の瞳が自嘲して揺れた。ヒステリックに声を荒げて、身体に巻き付けていた布を投げ付けて、穴蔵から出ていく。ジェイを一瞥もせずに。
ジェイは何も声をかけることのできない自分が許せなかった。言葉が足りなかった。
綺麗なエイトの身体にはひとつたりとも汚らわしいものを近寄らせたくなかったのだ。自分の人間離れした、汚染された肌に触れてほしくなかったのだ。
二人は焦っていた。金がまだまだ足りない。ボロクズのように身体を酷使しても足りない。
環境は明らかに悪化していた。地下都市の末端部分には酸素が供給されなくなっていた。二人の生まれた地区から脱出出来なかった者は窒息死してしまったらしい。この星のカウントダウンは一桁に突入しているのだろう。生き残っている生物は愚かだと言えるほどに。
ジェイは地上で見つけたものを、廃品回収業者に売ることを収入源にしていたが、数ヶ月前からそれを休止していた。エイトにも話していない計画を一人で淡々と進めていたのである。彼は、現在は廃墟と化しているものの、かつて、国家秘密とされていた軍事研究所を地上で運良く発見していた。この場所で宇宙船そのもの見付けることはできなかったが、宇宙船の操縦方法や、移住可能な惑星の開発計画など、一般人では知ることのできない記録が大量に、廃棄されずに残されていた。
つたない知識を総動員させて毎日少しずつ資料を読み進めていた。ジェイには科学を理解する才能があったのだろう、現在ではおおよその記録を理解できるようになっていた。
記録を読めば読むほど絶望が広がっていく。彼が知っていた移住可能候補の星、火星への自力飛行は無意味であると。二人が生まれてまもなく開発計画が中止されている。他の星についての記録もあるが、その星にたどり着くことは素人の独学では不可能だ。宇宙ステーションが定期運航している大型の移住用の宇宙船に、小型宇宙船の数倍の大金を支払って乗船し、十数年かかるような星ばかりであった。
ジェイは結論を出した。
どこかの金持ちから船を強奪し、宇宙へ飛ぶ。二人でため込んできたお金は、食、芸術、娯楽などの、今まで自分たちに縁のなかったものを宇宙船の中で享楽するために使ってしまおうと。エイトに最も幸福な、時間と希望を与えてやりたかった。
夢の宇宙空間で、眠るようにして美しい姿のまま苦しみもなく、最期の時を迎えて欲しい。
それを横で見届けることさえ出来れば思い残すことはないのだ、と。
エイトとジェイは死ぬために宇宙に飛ぶことになる。それは、心優しいジェイの決断だ。計画から遂行そして最期まで、何一つエイトに話すつもりはなかった。何があろうとも嘘を貫き通す。あまりにも悲しい現実を知ってエイトを絶望させるのだけは避けたい。そのためには、どんな手段でも使うつもりだった。
軍事施設だということで、旧式の兵器が壊れたまま取り残されていた。ジェイが少し修理してやると何台かは使用可能になった。レーザー光線が主流の現在、銃弾を発砲する銃器はほとんど見かけなくなったものだ。
これらの武器は旧石器時代の打製石器だと言えよう。人類が捨て去った地上に落ちていた、ゴミ。見向きもされなかった存在。しかし、ジェイは彼らに、この上ない可能性を見出だしていた。
日付が変わろうとする時間にジェイは穴蔵に戻った。身体を売りに行ったエイトが戻るのは早朝であろうと予測していたが、それは外れた。
入り口でうずくまったままエイトが倒れていた。
すぐさま駆け寄って抱き起こすと、口元には嘔吐した痕跡、加えて下半身からべったりと赤黒く出血していた。息が粗い。骨が通っていないようにぐったりした身体は熱を発している。簡易のベッドまで運び、水を口に持っていく。明らかな異常に心が冷えていく。
「こんなになるまで何てことをしていたんだ……エイト、しっかりしてくれ」
苦しそうな息遣いでしかエイトの反応を確認できない。少しでも楽になるように身体を擦ったり、冷たい水に浸したタオルを当ててやったりすることに専念する。綺麗な顔が苦痛で歪んでいるのを見ていると、ジェイの頬をぽたぽたと涙がつたっていた。
「っく……あ、あああ、ああ、……やめ、いたい痛い、やああああ!」
「どうした!?」
エイトが息を吐き出した途端、うめき声を上げて四肢をばたつかせた。瞳は見開かれ、とろけるような金の髪からは冷や汗が滴っている。錯乱しているエイトを腕の中で捕まえた。ジェイは安心させるように背中を優しく叩く。
「大丈夫だ。俺だ。ここには俺たちしかいない」
「はあっ、はあっ、……ジェイ、ごめんなさい、ごめんなさい、ううっ」
「謝らなくていい。落ち着け、大丈夫だ」
「ジェイに優しくされるような、そんな資格、……僕にはないよ」
落ち着きを取り戻したエイトがゆるやかにジェイを拒み、腕から逃れようとする。力を入れてジェイはそれを許さない。二人は涙を殺しながら無言で抱き締め合った。
「シリコン製のドリルの、悪趣味な玩具で腹を掻き回される感覚って最悪なんだよ。知ってた?」
にこやかに軽やかに、エイトが言葉を発した。小さな身体は思い出しているのだろう、震えている。
「昨日の役人か?」
「ううん、ずうっと位の高い人。お金がありすぎてさ身体、機械化しちゃったんだって」
「……随分な道楽者だな」
「宇宙船も買っちゃってそれでも有り余ってるんだって、なら、とっとと他の星に消えてくれないかなあ。あんなゴミみたいなの」
「……そうだな」
「ふふふ、あのねえ、お金貰ってくるの忘れちゃったァ。僕、もう一回行くよォ。今度こそ、ふんだくってやるんだ」
エイトはとっくに人間として大事な部分に傷が入ってしまっているのだ。金銭の話をする時に、最も生きていたいという思いをみなぎらせている。笑い声が壊れた玩具のようだ。ケタケタと渇いた音が冷たいコンクリートに吸い込まれていく。
今までよく頑張った。本当に頑張ってくれた。これからは俺に任せてくれ。全て終らせてあげるから。
ジェイはもう一度エイトを抱きしめてから、少しだけ泣いた。
ジェイはエイトが穴蔵を出ていくのを狸寝入りで見送った。寝ることなんて不可能だった。
ボロボロのエイトが再び眠りについてから、こっそりと地上に行き、戦力になりそうな武器を持ち帰ってきた。それらをエイトにばれないように胸に隠している間、ジェイの心臓はどんな時よりもばくばくと音を立てていた。
この一日、いや、数時間で、この星を脱出できるかが決まってしまう。失敗は許されない。もっと入念に計画を練るつもりだったが、傷付いたエイトの姿を見たくない、その一心で大博打を決行しようとしている。
あまりにも武器が多いと動き辛いだろう。小さな拳銃を二丁だけ、その銃弾を沢山、いくつかの手榴弾だけを持って穴蔵を出た。もう、ここに帰ってくることは二度と無い。寂しいだとか、そんな類いの感情は一切湧かなかった。
エイトの後を追った。都市の中心部から少し離れたこの一帯は、特権階級や大金持ちの邸宅が並んでいる。男娼の身分でありながら、街並みに臆することなくエイトは堂々と足を進めていく。 人通りは少ないもののたまにすれ違う住人に視線を寄越されると、エイトは冷たく妖艶に微笑みかけて、相手の視線をシャットダウンした。一方のジェイは人目を避け慎重に追いかける。
エイトの足が止まった。ここだ。それを十分に見届けてからジェイも正面から突き進んだ。下手な小細工なんてするつもりは無い。もう隠れる必要もない。誰かが足止めをしようとするのならば、そいつより早く発砲するだけだ。それぐらいやってみせる。
富裕層の居住地域の中でも、とりわけ大きな外観の屋敷がある。その家に取り付けられている監視モニターが二つの人影を捕らえた。ただ、どちらも電子光学機器の所持反応はない。それは影の正体が下層市民であることを示している。
新人警備兵は首を捻って、隣で盛大ないびきを立てている上司を揺さぶり起こすかどうか、数分間思案していた。 新人は迷ったあげくに上司を遠慮がちに揺さぶって起こし、モニターの異常を伝えた。だが、眠りを妨げられた上司は、面倒くさそうに欠伸をしながら、馬鹿にした調子で新人に告げた。
「それぐらいでガタガタ騒ぐな、クソが。……男娼のガキだな。主様が大層贔屓にしているな」
「その男娼は一人ですよね? なぜ、二つの影があったのでしょう?」
「今回は二人の少年とお楽しみになるんだろーよ、珍しいことでも何でもないんだぜ? お分かり? 異常なし、だ」
たるんだ警備兵は確固たる意思を持って目を閉じた。次に何かあっても絶対に起きないぞ、という。
新人が怠惰な上司に向かって、抗議をしようと口を開きかけた、その瞬間、声が消えた。
上官のこめかみから鮮血が飛び散った。新人が状況を飲み込もうとした時には、声が出なくなっていた。喉を潰されている。
「通信を一切遮断しろ」
腹の底から発せられている低い声。だが、若い。声の持ち主である侵入者を振り返ると、新人の虚しい口が大きく開いた。大柄な体格を覆う肌は、本来の色とかけ離れた緑の不気味な斑点で汚染されていたからだ。
ジェイはもう一度同じ指示を静かに出して、銃口を警備兵の後頭部に押し付けたまま固定した。
新人は主への薄っぺらな忠誠心より生存欲がはるかに上回り、震える腕を押さえ付け、的確に素早く邸宅の通信管理システムを無効化していく。ご親切に外部へ妨害電波まで撒いてみせた。パニックを起こしているせいで、まともな状況判断ができなくなっていたのだろう。これで敵は邸宅内の人間のみになった。ジェイは銃に込める力を少し抜いてやった。
情報を遮断され孤立化した警備兵達は無力そのものだった。人質として新人を連れたまま邸宅を一掃していく際、ジェイは淡々と銃弾を放っていく。警備兵が侵入者を発見し、人質を見て困惑し、ジェイの化け物染みた様相に絶句すると、その時点で彼らは正確無比な一発によって崩れ落ちた。
邸宅内で生きている人間が四人となった頃には、ジェイの斑点は目立たなくなっていた。どす黒い赤色が緑を覆い隠しただけで更に異相を獲ていただけであるが。
「主人の部屋へ」
人質は迷うことなくジェイを案内した。もう少しで解放されると瞳に生気が戻りはじめている。
邸宅で最も重厚に装飾された扉がジェイの容赦ない侮蔑を受け止めている。どうやら、指紋と虹彩の認識をクリアしないと扉は開かないらしい。人質に視線で促すと、彼は首を振ってジェイに返事した。
ジェイはほんの少しだけ迷う。しかし、エイトの昨日の様子を思い浮かべると答えは出た。エイトの幸せに笑う姿しか、もう、見たくない。
人質の瞳に絶望の感情が広がる前に、眉間に銃弾を埋め込んだ。
自分達と同世代の少年の未来を消し去った瞬間、ジェイの腹に見えない杭が打ち付けられた。今までに味わったことのない、ひどい吐き気がする。この部屋の前にたどり着くために、何人も殺した。弱い者を平気で見捨てたり、自分たちが生き残るために、直接的ではないにしろ、人が目の前で息絶える瞬間なんて感覚が麻痺してしまう程に、見慣れてしまったのに。今回だけは、あまりに苦しい。
少年の瞼をそっと閉じて深く息を吐く。痛い。
扉の脇に位置する純白の壁を見据えて手榴弾を力任せに投げ付けた。それでも、ぼたぼたと溢れ出る、視界を覆う涙ををジェイは止められなかった。
見事に穴が貫通した。ここで二人の計画が良くも悪くも狂っていたことが判明する。
「……随分と早かったねジェイ」
貼り付けた微笑みが剥がれそうになりながらも、先に口を開いたのは、悪徳な道楽者に性的暴行を加えられている、はず、だったエイトだ。
道楽者であろう、首から下がスクラップと化した機械の塊にエイトは馬乗りになっていた。右手に掌サイズのナイフを持ち、ジェイが呆然と見守る中、機械のコードを乱暴に抜き出して鋭利な刃物でブチブチとコードを切断し続けていく。そのたびに首から上の、もはや顔の原型を留めていない、辛うじて人間だと判別できる箇所は悶絶の痙攣を繰り返していた。
「あーあ、最後の最後で見られちゃうなんて、誤算だった。というか正直、ジェイを見くびってたよ」
ジェイは頭から爪先まで固まって動けない。しかし、涙だけは真っ直ぐに落ちていく。その様に慌てたエイトはすぐさまナイフを捨てて、生命を賭けて愛した親友に走りよった。血で汚れながらも純朴なジェイの身体を精一杯、抱き寄せた。
「言い方がすごく悪かった。ごめんね。ジェイが無事に来てくれて心の裏側もくるめて嬉しいんだ」
「……エイトが予想外に元気でどうしていいか分からない」
ジェイが頑張って口を回してみたところに、エイトは優しい苦笑いを返してあげた。彼がジェイに救い出されることを一方的に待ちわびる、薄幸の美少年ではなかったことが露呈した。
「とりあえず、手榴弾を投げて、一緒に逃げてくれたらいいかな」
ジェイはゆっくり頷いた。手榴弾を機械の残骸に向かって放ると同時に、手を固く結んだ二人は走り始めた。爆風を耳の裏手に生々しく感じながら。二人は、邸宅の長く豪奢な廊下を疾走した。細い足を絡ませるように必死に駆ける二人は、燃え尽きようとする落下直前の流星だった。
途中、警備兵の死体を踏み付けてしまったエイトが唇を尖らせ口笛を吹いた。
「見事なもんだね。僕はこんなに綺麗に殺せないもの」
ジェイは自分がどんな顔をしてエイトの言葉を受け止めたのか分からない。誇らしいといった類いの感情は一切なかった。だが、残酷なことを軽い口調で告げるエイトに嫌悪感は抱けなかった。視線で事情の説明を求めた。
「……ジェイが誰よりも大事だから、軽蔑されたくなかった。それでも僕がやってきたこと知りたいの?」
「当たり前だ」
「僕は自分の身体と稼いだ金を担保にして、さらに儲けを増やそうとしたんだ。短期間で爆発的に」
「危ない客を相手にしてか」
「半分正解。危ない客を通じて人脈を作ったのさ。ある程度信用ないと、役人がこんな浮浪者と寝る訳ないでしょう? 時には金を握らせて。時には殺人恐喝なんでもね。撒けば芽が出るんだ、今日みたいに」
エイトが唇を震わせながら、言った。
「あの機械人間から、……宇宙船を、もらってやったんだ」
ジェイは唸った。完敗だった。
必死になって資金をただ集めていただけでは、宇宙船を買うには程遠かったのを自覚していたからである。
加えて、エイトの計画の方が、実行期間も緻密さも現実性においても、はるかにジェイの考えを上回っていたからだ。
二人の命の結晶である宇宙船用の資金は、エイトが全面的に管理していたが、それを途中から未来を見越してあちこちに投資していたのだ。足りない分は無茶な売春で補い、その過程で、エイトはジェイより遥かに多くの人間を抹殺してきたのだろう。ドロドロに腐った世界を果敢に着実に泳ぎきったのである。今日の今日までジェイに悟られずに。
「もっと早く話せ、馬鹿」
「……ごめんなさい」
「どうせ、俺が考えてたことも気付いてたんだろう?」
「何となくは。ここまで真っ正面から宇宙船を盗もうとするとは逆に思いつかなかったけど」
「結局、俺は役立たずってことか」
リズミカルに言葉を紡いでいたエイトの口が止まる。少し考える素振りをしてから、逃走が楽にはなったかな、と、取って付けたような満面の笑みで称えてみせた。
ジェイは絶句した。二人ともなんて無茶をして、他人を殺めてまで、お互いのことしか考えてこれなかったのだろう、と。人を殺すことにほとんど罪悪感を持たないほど、精神が荒んでしまっている。
それでもなお、利発で聡明で残酷な、美貌の少年はジェイにとって、かけがえのない、生涯の全てを捧げてでも愛すべき存在だった。神なんて何処にも居やしない絶望の世界で、ささやかな光を放ち続ける、信仰にも似た愛、そのものだった。
「確認しておきたい。資金は使い切っているんだよな?」
「イエス。宇宙船と僕らの身体しか手元にないよ。もう、後戻りも出来ない。誰かさんのおかげで立派なテロリストになっちゃったからね」
「後悔しているのか?」
「まさか! ジェイこそ今更になって怖じ気付いちゃったの?」
「まさか。夢見心地だ」
ジェイが心の底からの笑顔を浮かべた。肩の位置にある小柄なエイトの頭をがしがしと撫で付けてやった。
二人はようやく足を止めた。ロック付きの巨大な扉の向こうに宇宙船があるはずだ。拷問で聞き出したのであろう扉の設定解除パスワードを、一息ついてからエイトが慎重に一桁ずつ入力していく。
最後の数字のパネルに触れてから、扉が開くまでの間はそれほど長い時間ではなかったろう。だが、二人は息が出来なくなっていた上に、生まれてはじめて信じてもいない神に祈りを捧げていた。
「これで……こいつに乗って、ようやく……叶うんだね」
邸宅内で最も広い空間は、莫大な数のコンピューターに接続されていた。その中心地で、流線型の白銀の宇宙船は製造された時から、二人の若いパイロットを待っていたかのように堂々と鎮座している。
ジェイは感嘆の息をもらすだけで精一杯だった。
もしもの話だが、エイトとジェイの二人が、ほんの一世紀前の豊かな地域に生まれていたとしたら、二人は全人類の希望を若々しい身体で受け止め、未知の銀河系を探索することに明け暮れる、正規の星間パイロットとして大いに活躍していたであろう。
それぐらいの評価がついてもまったく不思議でない奇跡を、二人は成し遂げたのである。第一級の重罪犯罪人として、彼らが世間を震撼させるころには、とっくに地球を脱出していたために、歴史に決して小さくはない爪痕を残したことを、本人たちは知ることができなかったが。
エイトとジェイの行動、その存在と、その名は、地球に残された貧しい人々の新たな信仰となっていく。
ジェイが自己流で習得した宇宙船の操縦方法によって、二人は無事に黒曜石のように輝く沈黙の宇宙空間を漂っていた。オートコントロールに操縦を任せたジェイはコックピットから出て、エイトに手招きされるまま浮遊して移動する。無重力を楽しむことに飽きはこないだろう。
「格好いいや。宇宙の平和を守るために旅立つヒーローみたいだよ」
「ちがうな、俺は悪の手下だ」
エイトに敬礼をしてみせると、満更でもなさそうに意地の悪い表情を作って微笑み返された。冷えたビール瓶が手渡され、乾杯を交わす。蓋を開けてすぐさま喉に流し込んでいく。泡がはじけて消えていく感覚にジェイはすっかりご満悦だ。
宇宙船の中は日常生活に不自由しないよう、最低限の設備が整えられていた。二人にとっては、最上級のもてなしの空間で、夢のような贅沢気分を満喫できた。
モニターを指でいじくり回すだけで、上質なクラシック音楽が次々と再生され、憧れであった立体娯楽ゲームを楽しんだ。保存食も備蓄されていたため、満腹になるまで食べ尽くしてやった。
「あとどれくらい?」
エイトは古いヴィンテージの高級な赤ワインを一気に飲み干して、口を乱暴にぬぐった。色白の頬を紅く高揚している。首筋も鎖骨の周辺も、大きく開いた胸元も、同様に鮮やかに色付いている。
「地球の時間に換算すると二時間」
「……今から僕の時間を、全部ジェイにあげる。いらないなんて言わせない」
酸素が尽きてしまうまで、もう時間が残っていなかった。十数年を費やして、やっと獲得できた、わずかな最初で最後の、誰にも邪魔されない、二人だけの自由時間。
耳まで真っ赤にしたエイトは、ジェイに自らを託そうと瞼を伏せて誘惑する。たった一人の想い人を誘うために、恥も承知で過剰にアルコールの力を借りていたのだ。
ジェイは胸を押さえて深呼吸してから、動けなくなってしまった。もう酸素が薄くなってきているのだと、錯覚しなければ、この息苦しさに飲み込まれてしまいそうであった。
触れてもいいのだろうか?
こんなに汚れた手が情を込めてエイトに触れることは、許されることなのか?
どんな芸術品より神々しいエイトに口付けをして、胸に閉じ込めて、耳元で愛を囁くことは?
「意気地無し、ヘタレ、ビビり、弱虫。馬鹿。僕からは言わない。最後ぐらい男になってよ」
甘く、ゆっくりと、瞬きもしないで、エイトが余裕ぶって鼻を鳴らす。震える肩や脚を懸命に隠そうとする小さな、儚く消えてしまいそうな、何があっても逃がしたくない存在を、ジェイは真っ直ぐに見据えた。
触れる直前に、「愛してる」と呼吸して、そのまま、唇へのキスを落とす。
背伸びをした幼い子供同士が、みじかいキスをした。
「僕も、愛してる。好きで、いとおしくて。もうこれからは二度と離さないで。離れないで」
「離すもんか。死んだって、腕の中に閉じ込めておく」
「もう、また泣いてる。ジェイばっかり先に泣いてズルいや」
我が子をなぐさめる母のように、エイトがジェイの目元に溜まる涙を、熱い舌で舐めとっていく。ジェイはまた雫を溢し続けてエイトを呆れさせる。身体だけは大きく成長したものの、木偶の坊な少年の心を保持するジェイは、エイトを抱き締めたまま、じっとしていた。
「すまない、分からない」
「知ってる。そういうところも含めて、大好きだよ」
エイトはジェイの台詞をちゃんと理解していた。
分からないのではなく、出来ないのだと。
金儲けのために駆使した、セックスという行為は、二人を苦しめる。
エイトにとっては、身体を痛め付けられる、不快でおぞましい行為だと長年の経験で刷り込まれている。抱かれている間、ジェイへの思いさえも完璧に殺していた。心が削ぎ落とされるのを軽減するために。
ジェイは、エイトを道具のように抱いてきた大人たちと同じになんてなりたくなかった。愛情を込めて優しく抱くこともエイトには酷な行為であろうと。そうすれば、きっとエイトは自分を呪って責め抜くだろうから。
「セックスなんかよりキスがしたい。……だから、もっと」
これがすべてだった。
二人の愛は今までの不足分を補うために、言葉を交わす時間も惜しんで、口付けを繰り返す。
小さく、つついて、舐めて、吸って、息が出来なくなってもいい。息なんてどうせ、もう、必要なことではなくなるのだから。
残りの酸素を、共有して、奪い合って、絡めて、混ぜて、飲み干して、また大きく吸い込んで、互いに与え合っていく。
何も見えなくなって、聞こえなくなって、真っ白に包み込まれるその時であっても。触れ合ったままの唇や皮膚からの熱だけは享受し続けられれば、寂しくなんてない。
手を繋いだまま胸を張ってどこまでも果てのない旅を。
もうすぐ二人は宇宙の端を手に入れる。