ネバー・セイ・ネバー
スがぼくたちのクラスにやって来たのは、夏休みが終わって一週間後の、風の強く吹く日だった。いつものように学校に来て、教室の後ろにあるロッカーにカバンを入れていた時、めずらしくマリエがぼくの所にやってきて言ったのだ。
「転校生。」
ぼくは思わず、えっ、と訊き返して立ち上がった。マリエはちょっと後ずさって、ぼくの襟元のあたりを見ていた。小学校の頃からの付き合いになるけど、マリエが人の目を見て話した回数はきっと片手の指で数えれば充分に足りる。口数が本当に少なくて、仲のいいぼくたちでなければ何が言いたいのかわからない、そんな女の子。だけど時々、先生でも顔色を変えるような鋭い事を言う。
ぼくはプレゼントの箱を開ける時のような気分で、彼女が後ずさった分だけ近づいた。
「どんなやつだった?男?女?」
「見てない。先生たちが、話してた。」
「うちのクラス?」
「小澤先生だったから、たぶんそう。」
すごいすごい。
転校生が、よりにもよって自分のクラスにやってくるなんて、ヘーボンなニチジョーが七色に光って回り始めるような、そんな出来事なのだ。ぼく自身はこの町で生まれて、この町で育って、転校をした事は一度もない。ついでに言うと、自分のクラスに転校生が入ってくるというのも初めてだ。男だったら、ぼくらの仲間になってくれるような明るくて優しいやつがいいな。メジャーリーグとか、ヨーロッパサッカーの話が出来る奴だったら、なおいい。女子だったらすれ違った時にいいにおいのする、真っ黒い髪のかわいい女の子…と思いかけて、でも、それだと困っちゃうな、と思った。ぼくには今、好きな女の子が居るのだ。小学校で2年生から卒業するまで同じクラスだった矢野恩。今は隣の3組にいるメグというあだ名の、運動が大好きで、頭もけっこう良くて、ちょっと乱暴だけどまっすぐな女の子だ。ぼくがメグを好きだってことは、ぼくの親友たちにだって話した事はない。メグだってきっと、ぼくの事を親友だと思ってくれてはいてもオトコとしては見ていないんだろうな、と思う。そういうぼくだって、メグの事がほんとうに女の子として好きなのか、あんまり自信がない。友達としては文句なしにサイコーのやつだけど、ぼくがケッコンしたいのは長い黒髪の、静かにニコニコ笑っている優しい女の子なのだから。
はじめはぼくとマリエだけだった1年2組の教室にもだんだん人が増えてきて、仲のいいクラスメイトたちと声を交わす。
とにかく、転校生が来るとなったからにはぜひ仲良くなりたい。ぼくは待ち切れずに、落ち着きなく席に座ってそわそわとノートをめくったりシャーペンの芯をつぎ足したりしながら、ホームルームの時間を待った。
チャイムが鳴って、それとほとんど同じタイミングで小澤先生が入って来た。小澤先生は野球部の顧問で、真っ黒に日焼けした顔のちょっとこわい先生だ。入学式のときに担任が発表された時、名前を呼ばれてぼくたちの前に立った先生を見た時、絶対悪いことは出来ないな、と思った。小澤先生は怒るとやっぱり怖いけど、普段は優しくていい先生なんだという事もこの何ヶ月かの付き合いで知った。
小澤先生は
「ほら、席つけー。」
と手を叩きながら教壇に立って、日直に号令をかけさせる。気を付け、礼、おはようございます。この毎日繰り返される儀式で、今日も一日が始まるのだ。だけど、いつもならすぐに今日の予定や前の日にあったことを真面目な顔で話し始める先生の様子が、今日はちょっと違っていた。教室の外を気にしながら、開いていた出席簿を閉じて、こう言った。
「まずはじめに今日は、今日からお前らの新しいクラスメイトになる子を紹介する。」
それまでひそひそ話やシャーペンの音でざわついていた教室がしん、と静かになり、それから大きなどよめきが起こった。
「まじかよ、転校生?」
「おまえ知ってた?」
と話す声が聞こえる。先生は真面目な顔でもう一度手を打ち鳴らした。
「ほらほら、うるさいぞ。注目。」
みんながおしゃべりをやめて、先生の方を見る。何人かは教室のドアを、わくわくするように見ている。
「よし、入っていいぞ。」
閉じられたドアの向こう側に向かって、先生が声をかけた。スッと空いたドアの向こうから入って来たのは、背の高い男の子。だけど、ちょっと雰囲気がちがう。すらっとした長い脚に、なんだかふわふわとした坊主頭。そして、真っ黒い肌。
クラス全体がおおっ、と息を呑んだ。ぼくも目を見開いて、ほんとうに、驚いていた。ぼくにとって初めて迎える転校生は、アメリカの映画やドラマに出てくるような黒人の男の子だったのだ。もっと驚いたのは、先生が黒板に大きく、彼の名前を書いた時だった。
栗原康彦―
彼の名前は完全に、誰が見ても、日本人の男の子のそれだったのである。
そして、極めつけは彼の自己紹介だった。
「佐世保市立下霞中から来ました、栗原康彦です。東京は初めてやけんわからんことばっかりやと思うばってん、よろしく。」
彼はぶっきらぼうに、ちょっと恥ずかしそうに、まるで大河ドラマに出てくる西郷隆盛みたいな話し方でそうあいさつをしたのだった。
休み時間、栗原君の席の周りにはクラスの半分ほどが集まって、彼を質問攻めにした。
「ハーフなの?」
「英語喋れるの?」
「方言って、カッコイイよね!」
「身長何センチ?」
矢継ぎ早な質問に、栗原君は相変わらず無愛想に、やっぱり西郷隆盛みたいなイントネーションで短く答える。べつに聞き耳を立てていたわけじゃないけど、ぼくの二つ前の席で繰り広げられる大がかりなインタビューは、嫌でも耳に入ってくる。4時間目の終わりまでに、ぼくは栗原君が九州にある長崎県の佐世保市という所から引っ越してきて、お父さんがアメリカ人で、お父さんは日本語が上手じゃないから彼と話す時はいつも英語で、好きなスポーツはアメフトで、彼の身長が178cmあるということを知った。悪い奴じゃなさそうだったけど、ぼくは彼が会話の合間にたまに見せる、ちょっと疲れたような顔が少し気になった。どこかで見たことのある表情だったが、それがどこで見たものなのかは思いだせなかった。
「栗原くん。ちょっと付き合わない?」
昼休み、ぼくは彼にそう声をかけた。新聞記者顔負けのインタビューにちょっと疲れているようにも見えたけれど、ぼくは栗原くんに学校を案内してまわろうと思ったのだ。
「何すると?」
「学校探検。まだ全然見てないんだろ?」
ぼくが言うと、始めはきょとんとしていた栗原くんはああ、そうか、という風に頷いて立ちあがった。ぼくはまず、1年生のクラスを案内してまわった。1組から初めて、メグの3組、それから4組、最後にゲンちゃんの5組。メグは教室にいなかったけれど、ゲンちゃんはぼくたちに気がついて、おっす、と手を挙げた。ゲンちゃんは制服のワイシャツを第2ボタンまで開けて、ズボンを少し腰パンしている。中学生になってから頭にワックスを付けるようになった。小学生の時より不良っぽくなったけれど、ガラの悪い先輩や、それに影響されて一緒になってつるんでいる奴らと違ってみんなで集まって悪いことをしたりはしない。一匹狼というやつだ。それがいかにもゲンちゃんぽくて、カッコイイ。
「おっ、お前転校生?」
栗原くんを見るなりゲンちゃんはそう言って今日してから出てきた。ぼくはそう、と答えて、栗原くんにゲンちゃんを、ゲンちゃんに栗原くんを紹介した。ゲンちゃんは真っ先に手を差し出して、それから栗原くんもはっと気付いたように手を出して、二人はがっちり握手をした。
「じゃあお前、今日からヤスな!」
「え?」
「ヤスヒコだから、ヤス。オレはゲンちゃんでいいから。」
ゲンちゃんはそう言うと、ほら、学校見せてやるんだろ、とぼくに目配せしてまた自分の席に戻っていった。
「高尾くんかあ。あん人、俺のこつ見てもちっとも驚きよらんかったね。」
2階に向かう階段の途中で、栗原くんが嬉しそうにつぶやいた。実は、ぼくも同じ事を考えていたのだ。クラスのみんなは一番に彼の見た目に目が行って、ハーフとか、英語とかそういう話ばかりしていたのにゲンちゃんは違った。きっと、ゲンちゃんにとっては栗原くんはただの「転校生」で、それ以上でも以下でもないんだと思う。
それって、なんだかすごくいい。
何が、と聞かれても困るけれど、いい。
それからぼくは職員室や放送室のある2階を回って、1階に戻った。2年生や3年生のクラスのある3階と4階には行かなかった。不良の先輩に絡まれたら嫌だな、と思ったからだ。1年生が教室の前を歩いていただけで目を付けられてしまう事もあるのだ。それを言うと栗原くんはへえ、と目を丸くしていたけれど、そんなに驚いた様子でもなかった。たぶん、彼の前の学校も同じような感じだったんだと思う。2組の教室の前で、ぼくは栗原くんに声をかけた。
「栗原くん、俺ちょっと3組に用があるから先入ってて。」
栗原くんはわかった、と小さく頷いたあと、
「ヤスでよかよ。」
と言った。
「え?」
「高尾くんも言うとったろ?だけんヤスでよか。」
ヤスは照れたようにそう言って、教室に入っていった。途端、クラスの女子たちがわっと集まってきて彼を取り囲んでしまった。ぼくは、ちょっと嬉しくなって、
「ヤス。」
と口に出して言ってみた。ぼくたちはきっと、仲良くなれる。
そんな予感がした。
3組には、委員会の用事があった。ぼくは1年2組の代表委員で、明日の代表委員会では3組の今口さんと共に「全校美化計画」の途中経過を発表しなければならない。面倒だなあと思うけれど、ぼくはほとんど今口さんに任せっきりだ。だいいち、「全校美化計画」というのも今口さんのアイディアだし、明日の発表のための資料だって、
「私がいろいろ調べてみるから。」
という今口さんのお言葉に甘えて、ぼくは発表に使う模造紙をぐちゃぐちゃと描いただけなのだから。今口さんは栗毛色の天然パーマのボブカットに、大きな垂れ目の、小柄で一件大人しそうな女の子だけど、実はかなりのしっかり者だ。代表委員になって知り合った彼女は議論に積極的に参加して、みんなの意見をまとめるのがうまくて、司会進行だってソツなくこなしてしまう。クラスには、今口さんのファンも多いんじゃないだろうか。
教室に入ると、どこへ行っていたのか、さっきは居なかったメグが女子数人とおしゃべりをしていた。ぼくに気付いて、おーっす、と笑う。
ぼくも、おーっす、と返して、今口さんを探した。今口さんは一番前の自分の席で、集めた資料を並べて整理している所だった。
「あ、ごめんね。もう終わるから。」
ぼくが声をかけると、今口さんはぼくに初めて気がついたというように慌てて資料を一つにまとめて、席から立ち上がった。教卓の上にせっせと資料を並べて、
「これだけ集めたんだけど、たぶん全部は使えないと思うのね。だから柏木君も見てみて欲しいんだけど。」
と次々に資料を紹介していく。新しく買いそろえられた清掃用具のリストに、校庭の銅像を何人かが一所懸命に掃除している写真、先生たちのコメント…ほんとうに、いつの間に用意したのかと思ってしまうくらいにどの資料もしっかりしている。それをぼくに選んでくれなんて言われても、困るんだよなあ。
「じゃあ、これと、これと、これだけ抜いちゃえば?」
ぼくは大して内容に目も通さずにいくつかの資料を選び出した。これが意外に今口さんと同じ考えだったみたいで、
「そうだよね、やっぱりこんな感じがいいと思う?」
なんて嬉しそうに言われて、ぼくはちょっと恥ずかしくなってヘヘっと笑った。何気なく3組の教室を見渡したら、メグと目が合った。ぼくは何か声をかけようかと思ったけれど、メグはすぐに視線をそらして、また友達とのおしゃべりに戻ってしまった。ぼくはあれ?と思って視線を送ったけれど、メグはこっちを見ようともしない。
最近、たまにこういう事がある。ぼくが今口さんと打ち合わせをしている時や、廊下でクラスの女子と喋っている時、メグは急にそっけなくなって、近くにいるクラスメイトとおしゃべりを始めてしまうのだ。二人で話している時はいつもと変わらないからシカトされているわけではないと思うし、ぼくがクラスのヨウくんやダイちゃんと話している時は平気で話に入ってくる。怒らせたのかな、とも思うけど、メグは怒っている時にシカトするようなタイプじゃない。真っ先に手が出る。これは小学校の時から変わらない。だいいち、怒らせるような事なんて、ぼくは何にもしていない。変なの。
帰りはゲンちゃんとメグとマリエ、それからヤスと一緒に帰った。ヤスを誘ったのはぼくだ。
「帰ろうぜ。」
と言ったぼくに、
「おう、よか…いーよー。」
と慌てて言い直していたヤスがなんだかおかしくて、思わず笑ってしまった。
「無理して直さなくていいのに。好評だったじゃん、方言。」
「東京でこげん言葉ば話しよると、バカにされるち母さんが言いよったけん、ビビっとったとよ。」
ヤスは照れくさそうにそう言って、
「ばってんね、」
と続けた。ばってん、っていうのは、~だけど、っていう意味。ヤスが休み時間に教えてくれた。
「かっこよかち言われるとは思わんやった。でもやっぱ変やなかね?こん見た目で長崎弁ちゃ。」
「えー、いいじゃん。うん、スゲーいいよ。ギャップ萌えってやつ?」
ゲンちゃんが笑う。すっかり声変わりしても、やっぱりゲンちゃんはゲンちゃんだ。
「そうそう、それにヤスってスゲーいい奴だし。」
メグも言った。
「あれ、メグ俺が3組言った時いなかったじゃん、最初。」
「そうなんだけどさ、終礼の後あたしコミセンに頼まれて資料室に荷物は持ってってたんだ。そしたらヤスが段ボール何個か持ってくれて、チョー助かった。」
メグはそう言って、ヤスにお礼を言った。コミセンというのは地理の小宮山先生のことだ。
「そげん言わんでよか。男が力仕事ばすっとは当たり前やろうが。」
ヤスはまんざらでもなさそうに、まるで中学生ドラマに出てくるキャラクターみたいに人差し指で鼻の下をこすった。
「ワタル、ゲンちゃん、聞いたか?ヤスだけだよ、あたしを女の子として見てくれるのは。」
メグは大げさに右腕で涙を拭う真似なんかしている。
ゲンちゃんはあーはいはい、と言って笑っていたけれど、その時ぼくはなんだかメグを取られてしまったような気がして、ちょっと面白くなかった。やっぱり前言撤回。こいつとは、仲良くなれないかも。
「どこに住んでるの?」
商店街のすぐそばまで来た時、マリエが訊いた。
「若葉台。」
「へぇ、ちょっと遠いんだ。」
ぼくはびっくりして言った。
若葉台は商店街を越えて駅を過ぎ、線路を渡ってもっと先に行った所にある。駅を過ぎて少し行った所にあるぼくの家よりも、ずっと遠い。
駅の手前でマリエとゲンちゃんと別れ、1丁目の交差点でメグと別れると、ぼくとヤスの二人だけになった。すれ違う人たちがちらちらとヤスを見る。やっぱり目立つよなあ、と思う。でもヤスはそんなふうに見られる事なんて慣れっこなんだというようにぼくとおしゃべりを続けた。赤信号で立ち止まった時、ふいにヤスが言った。
「ワタルは、メグんことば好いとーとね?」
「へっ?」
予想もしていなかった言葉に、思わずヘンな声が出た。慌ててヤスの顔を見たけど、ヤスは「そうなんだろ?」とでも言いたげにまっすぐぼくを見ていた。そんなことない、と言うと逆にもっと立場が悪くなりそうな気がして、答えに困った。
「ゲンちゃんも、マリエちゃんも知っとるとやなかろうか。」
そう言って、ヤスはやっと笑った。
ぼくはそんなにわかりやすかったんだろうか。今日会ったばかりのヤスにばれてしまうなんて、すごく恥ずかしい。それとも、ただぼくをからかおうとしているだけなのかな。
何か言い返したかったけれど、いくら探しても答えが見つからずあたふたしているうちに信号が青に変わった。ぼくは、
「メグは、親友だから。」
と早口で言って、
「それじゃあ、俺こっちだから。またな。」
と言って早足で歩きだした。
「うん、また。今日はいろいろありがとう。」
そう言うヤスに振り返らず片手を挙げて応えて、少し歩いた所で、今のじゃ、バレバレじゃん、と思って急に恥ずかしくなった。恥ずかしすぎて、涙が出そうだった。
明日、ヤスはみんなに喋るだろうか。もしそうなったら、ダイちゃんやクラスの女子からなんて言われるだろう。もしかしたら他のクラスにも伝わって、メグの耳にも入るかもしれない。
ぼくは生まれて初めて、学校に行きたくないと思った。
でも、たぶんメグは、
「ワタル、あたしのこと好きなんだってなー!」
なんて笑って、本気にしないかもしれない。きっと、多分。いや、たぶん、絶対。
そう思うと、少しは気持ちが楽になったようで、なんだか残念なような気もして、どっちがいいのか、自分でもよくわからなくなってしまった。
そーだよ、好いてんだよ、悪いか。
次の日の土曜日、ぼくたちはメグの家に集まって遊ぶことになっていた。
ぼくたちというのはもちろんぼくと、メグと、ゲンちゃんと、マリエ。それに、私立の中学に行った小学校のときからの親友のタイチ。タイチはシューサイと呼ばれて小学校の頃からずば抜けて勉強ができる奴だったけど、「難関」と言われる爽稜学園に行ってからも学年ではトップクラスをキープしているらしい。最近はメガネなんかかけ始めて、ますますシューサイっぽくなってきた。小さい頃から習っている空手もまだ続けている。
ぼくたちは中学に上がってからも、こうして週に一回はみんな揃って遊ぶ。野球をすることもあればテレビゲームで遊ぶこともあるし、先週は阿須摩川でフナ釣りをした。
ぼくは朝ごはんを早めに食べて素早く着替えを済ませると、「行ってきます」を言わずに家を出た。自転車のカバーを外していると郵便受けから新聞を取って来たパジャマ姿に寝ぐせ頭の父さんに、
「お、もう遊びに行くのか。」
と言われたけど、ぼくはちょっと頷いただけで言葉は返さなかった。
最近、いってきます、やただいま、を言わないことが多くなった。
「行ってきます。」
「いってらっしゃい。」
なんて、ちょっとガキっぽいし。あ、でも父さんは毎朝会社に行く時必ずぼくと母さんに
「行ってきます。」
って言う。でももしかしたらそれはぼくがいるからで、父さんと母さんだけだったらそんなこと言わないのかも知れなくて、それってぼくが子供扱いされてるってことだと思うから、やっぱりガキっぽい。後ろで父さんが、
「なんだなんだ、反抗期だな。」
と言う声が聞こえて、ぼくはむっとして振り返らずに自転車にまたがって、全速力で漕ぎだした。
「ハンコーキ」とか「年頃」とか言われるのって、ちょーウザイ。
「大人なんだから、お前の事は何でもわかるんだぞ」
って言われてるみたいで、ムカつく。
ぼくはぼくなんだから、そうやって「イッパンテキな中学一年生の男子」みたいなまとめ方をされるのって、すごく嫌だ。わかってくれないオトナより、わかっているふりをするオトナの方がずっと、ずーっとムカつく。
ぼくがいつもより早く家を出たのには理由があった。じつは今日はヤスにも声を掛けてあるのだ。ヤスがぼくの仲間たちを気に入ってくれたら嬉しい。
待ち合わせ場所は商店街にあるカフェ、「ヴェール」の前。青白赤のフランスの国旗が目印のおしゃれなお店だ。小学校の時から、待ち合わせ場所として使っている。
ヤスはこの町に来たばかりだから道に迷ってしまわないか心配だったけど、待ち合わせの時間にちゃんと、いた。遠くから見てもやっぱり背が高い。それに悪い言い方かもしれないけど、ヤスはすごく目立つ。ぼくがおーい、と声をかけるとヤスは耳につけていたイヤホンを外して、手を挙げて応えた。ぼくはこっちこっちと手を振った。
「迷ったらいかん思うて早めに出たけん、えらい待っとったよ。」
イヤホンを巻き付けたウォークマンをポケットに入れて、ヤスは笑う。昨日の夜気付いたことだが、ヤスの話す長崎のことばは父さんがおばあちゃんと話す時のことばによく似ている。おばあちゃんの家は瀬戸内海の小さな島にある。車だったら一時間くらいで一周できてしまうような、本当に小さな島だ。父さんはそこで生まれて、高校生までそこで暮らしていた。おじいちゃんはぼくと姉ちゃんがまだずっと小さい頃に亡くなってしまったからほとんど覚えていないけど、おばあちゃんはいつもニコニコしていてぼくたちの事を可愛がってくれる。最後に行ったのは去年の夏休み。高校生になった姉ちゃんと、中学受験をしないと決めていたぼくを連れて、父さんは家族四人で里帰りをした。おばあちゃんは父さんのお兄さん、つまりぼくの伯父さん夫婦と一緒に車で港まで迎えに来てくれた。
「こげん大きゅうなって。よう来んさったねえ。」
皺だらけの顔をもっとくしゃくしゃにして笑うおばあちゃんに、父さんも、
「来年は航も中学生じゃけえ、親の言う事やら聞きゃせんわ。」
なんてふるさとの言葉に戻って笑っていた。
おととい、突然おばあちゃんから電話がかかって来た時も、
「いきなり電話やら、何かあったんかと思うてびっくりするじゃろうが。」
なんて、ちょっと怒ったように、でも笑いながら話していた。おばあちゃんと話している時の父さんを見ていると、やっぱり父さんはおばあちゃんの息子なんだな、と思う。当たり前のことなんだけど、なんだか不思議で、こころが少しほっこりする。
そんなことを思い出しながら歩いていると、隣でちょっと古びた黒の自転車に乗っているヤスがそういえばさ、とぼくに訊いた。
「タイチくんって、どげん人ね?」
初めて会うタイチの事が気になるみたいだ。
「会えば分かるよ。ちょっとキザっぽい所もあるけど、ほんとうはすごくいい奴だから、きっとすぐ仲良くなるんじゃない?」
ぼくはスピードをあげて、少し前に出た。
メグの家の前に置いてあった自転車を見て、もうみんな集まっているのがわかった。玄関のチャイムを鳴らす。どどどっ、と階段を降りる音が聞こえて、それから真っ白なTシャツを着たメグが顔を出した。
「おっ、来たな。」
「うん。みんなもういるの。」
「おう、今スラローム2やってたとこ。」
「スラローム2」は、アメリカかどこかの街中でレースをするゲームだ。ぼくは前作の「スラローム」を持っていて、腕にはけっこう自信がある。普通の車も走っていて、ぶつかるかぶつからないかギリギリのところを抜ける「スラローム」という技でポイントを稼ぎながらレースに勝たなくてはいけない。コントローラーがあれば最大で10人まで対戦できるので、ぼくたちが遊ぶのにはもってこいのゲームなのだ。
「ほら、ヤスも入れよ。お前、ゲームとかするの?」
メグの問いにヤスは、
「なかなかのもんばい。」
と得意そうに笑う。これは面白くなりそうだ。
二階のメグの部屋では、ゲンちゃんとマリエが壮絶なデッドヒートを繰り広げていた。説明書をぱらぱらとめくっていたタイチにおっす、と声をかけて部屋に入ると、タイチが顔をあげて応え、それからヤスを見て、ああ、こいつか、というように立ち上がった。ヤスはどこか緊張したように体を縮みこませる。
「栗原くん、て言うんだよな。」
「うん。」
「俺、福田太一。みんなはタイチって呼んでる。」
「みんなから聞いとるよ。福田くん、頭のバリよかとやろ?」
「タイチでいいって。なんだそれ。」
タイチは笑って、座りなよ、とヤスのためにスペースを作ってやる。ヤスはまだ恐縮したまま、ゆっくりと腰を下ろした。
「背高いな。何センチ?」
「178…確か。」
「すげえな。」
短いおしゃべりを繰り返しているうちにヤスもだんだん緊張がとけてきたようで、ぼくは少し安心した。ヤスがこのままずっと緊張しっぱなしで、つまらないと思われてしまうんじゃないかと心配だったのだ。ぼくとメグもその輪に加わってあれこれ話をしていると、突然ゲンちゃんのうおお、という叫び声が響いて、ぼくたちは何事かとテレビの方を見た。画面に映った「PLAYER 1 WIN!」の文字と、力なく仰向けに倒れ込んだゲンちゃんの姿。
ゲンちゃん、失格。
他の車にぶつかり過ぎて、車が壊れてしまったのだ。
マリエはコントローラを持った右手を無言のまま高々と掲げて勝利宣言をしている。
「もう一戦!」
ゲンちゃんはそう言ってすくっと起き上がり、
「あれ、ワタルとヤス来てんじゃん。」
なんて今更気がついて、
「よっしゃ、じゃあみんなで勝負しようぜ!」
と息まいている。
ちなみに、これまでゲンちゃんはこのゲームで一位になった事は一回もない。
一人一つずつコントローラーを握って、それぞれ自分が使う車を選ぶ。ぼくは赤のスーパーカー、メグはブルーのスポーツカー、マリエは黄色の軽自動車で、タイチは黒のセダンをいつものように選んだ。ゲンちゃんもいつもと同じ、大型のダンプトラック。それじゃあ勝てないよといつも言うのに、ゲンちゃんはダンプを選び続ける。
「男は大型なんだよ。」
なんて言ってるけれど、ぼくたちはなんとなくゲンちゃんがそれを選ぶ理由を知っているから、それ以上は何も言わない。
ゲンちゃんのお父さんは、長距離トラックの運転手だ。
最後までヤスはどの車にしようか迷っていた。みんなヤスが何を選ぶのか気になって、車を選択する画面にみんなの真剣な顔が映った。
「ごめんごめん、もう決めたけん。」
そう言ってヤスが選んだのは、よく田舎に走っているような軽トラックだった。
6台の車が横並びになって、スタートの合図を待つ。三つの赤いランプが全て緑色になったらスタートだ。
「提案。」
タイチが言った。
「ビリはみんなにジュース一本。1位には二本。」
「乗った!」
ぼくはアクセルを空ぶかししながら答えた。
「200ポイント以上でお菓子付き、どうだ?」
メグは白い歯を見せて言ったけど、目が笑っていない。
「ちくしょー、燃えてきたぜっ!」
「目にもの見せちゃるけん!」
ゲンちゃんとヤスも気合十分だ。マリエだって、もともと大きな目をもっと大きく見開いて画面を食い入るように見つめている。
スリー・ツー・ワン
カウントが始まった。
スタート!
結果は、ぼくのぶっちぎりに終わった。
レース順位1位、獲得ポイント260で総合1位。我ながらなかなかの好成績で、ジュース二本お菓子付きの権利を勝ち取った。2位はメグ、3位には予想以上の走りを見せたヤスが入り、タイチ、マリエと続いて、ビリはやっぱりゲンちゃん。わー、だの、ぎゃー、だのと騒いだ挙句に前から走ってきた大型バスとド派手なクラッシュを演じてまたしても失格になった。ゲンちゃんは魂が抜けたように仰向けに寝転んだまま動かない。ちなみに200ポイントを上回ったのはぼくとメグとヤスの三人。同情するよ、ゲンちゃん。
「久しぶりにちかっぱ燃えたー!」
なんて言いながらベッドの上に倒れ込んだヤスはすっかりぼくたちになじんで、まるでずっと前から一緒に遊んでいる仲間のような感じがした。ヤスはうーん、とひとつ伸びをして、それからあっ、と気がついたように起き上がった。
「こげん騒ぎよって、怒られんやろうか。」
「確かに、ちょっと騒ぎすぎたかもなー。でも、うちは大丈夫。」
ゲームのコンティニュー画面を操作しながらメグが答えた。
「お父さんとか、寝とるとやなかね?」
「父さん今日は仕事なんだ。心配ないよ。」
「お母さんは?」
その一言に反応してみんながちらっ、とヤスを見る。ヤスはなに、なに、というようにぼくたちの顔を見回す。メグは最初えっ、という顔になって、それからああ、そうか、というように、苦笑いで頭を掻いた。
「あたし、母さんいないんだ。」
今度はヤスがびっくりしたような顔をして、そのまま俯いてしまった。メグが慌てて、
「気にすんなよ、別に。むしろ気にされた方が困るし。」
ととりなしても、ヤスは神妙な顔をしたままで、そうなんだ、と小さく頷くだけだった。
「まあ、びっくりするだろうな。」
タイチがフォローなんだか何なんだかわからないことを言うと、ヤスがようやく顔をあげた。
「同じやけん、びっくりした。」
みんながえ、と聞き返すと、ヤスは困ったように笑って言った。
「俺も父さんのおらんけん、びっくりした。」
それから、ヤスは初めてお父さんのことをぼくたちに話した。長崎の佐世保市にあるアメリカ軍基地に勤めていた軍人だということ、そこでヤスのお母さんと知り合ったということ、去年、中東の平和維持のためにアフガニスタンに派遣されたこと。そして、その日から毎月やりとりをしていた手紙が、もう半年返ってきていないということ。
アフガニスタンに行く事が決まり、帰ってこられるかどうかわからないから、とヤスのお父さんはお母さんと別れることを決め、お母さんは最後まで押すことを嫌がった判子を離婚届に押して、思い出の詰まった長崎を出てヤスと一緒にこの町にやって来たのだった。
戦争。
これまでテレビや歴史の教科書の中だけでの出来事だったものが、ものすごい速さでぼくのすぐ目の前に来たような感じだった。
横浜に住んでいる母さんのお父さん、ぼくのおじいちゃんは若い時、戦争で南の島に行ったことがある。おじいちゃんはその時の話を何度かしてくれた。
「海は綺麗で空は真っ青、こりゃあいい所だって、一緒に行った友だちと話してたんだ。」
でも、青い空はそのうちに煙で真っ黒になり、白い砂のビーチは真っ赤に染まった。
子どもが生まれたばかりだったというその友だちは、日本へは帰ってこなかった。
おじいちゃんは戦争の話の最後にはいつも、こんなことを言っていた。
「航の名前は海を越えていく、っていう意味なんだよ。海を渡って、いろんな所のいろんな人たちに会ってごらん。できたら、仲良くなってごらん。もうひととひとが傷つけあわなくても良くなるように。」
その話を聞いてぼくは、昔はそんな大変なことがあったんだとは思ったけれど、ちっともリアルじゃなかった。昔の話だし、社会科の授業で「日本はもう戦争をしない」と教わっていたから、はっきり言って関係ないじゃん、とさえ思っていた。そのことを、急に思いだした。
一番新しい、だから最後になった手紙を、ヤスはぼくたちに見せてくれた。お守りとしていつも持ち歩いているという、大切な、大切な手紙だ。
―Dear my dearest.
そう始まっていた手紙はもちろん全て英語で書かれていて読めなかったし、ヤスも訳そうとはしなかったけれど、ぼくたちはじっとその手紙を見ていた。
意味なんてわからないはずなのに、文字を見ただけでヤスのお父さんの苦労や寂しさ、何よりヤスのことをどれだけ大事に思っていたのかが伝わってくるような気がして、瞼の裏が熱くなって、鼻の奥がつんとした。きっと、みんな同じ気持ちで手紙を見ていたんだと思う。ぼくはとくに、最後に書かれていた言葉が気になった。
Whenever and however you feel lonely, disappointed, or depressed, here are your words of magic,
―Never say never.
なんとなくわかるような、でもちょうどいい日本語がどうしても見つからないまま、ぼくはその一文を見つめた。
ネバー・セイ・ネバー。
静まり返った部屋の雰囲気に押しつぶされそうになったのか、ヤスが立ちあがってわざと明るい声を出した。
「ごめん、こげん暗か話するつもりは無かったっちゃん。それよか早うジュースとお菓子ば、買いに行こ!」
「あのさ、ヤス…」
「いいけん。」
ぼくの言葉をさえぎって、ヤスは優しく笑った。
「父さん死んだって決まったわけやなか。まだ諦めとらんばい、俺。」
そっか、そうだよな、と思って、ぼくも立ちあがった。ぼくはやっと、転校初日に気なっていたヤスの疲れたような顔をどこで見たのか思いだした。
あれは、お母さんの話をする時の、メグの顔だ。
「ゲンちゃん。ごちそうさま。」
マリエの言葉に、ゲンちゃんはうげーっ、と情けない声をあげた。みんなの顔に笑顔が戻って来た。
外に出ると、昨日はびゅうびゅう吹いていた風がずいぶん柔らかく、おとなしくなっていた。
メグがクラウチングスタートの姿勢を取った。
「じゃあ、コンビニまで競争!」
ゲームと同じように、みんなが横一列で構える。走るのが苦手なゲンちゃんとマリエは何か言いたそうだったけれど、よーい、ドン、の合図で一斉に走り始めた。メグの家から一番近いコンビニまでは、信号のない一本道だ。メグはやっぱり早い。小学校の時からずば抜けて早かったけど、中学に入ってもっと早くなった。陸上部に入らなかったのがもったいないくらいだ。
「やってみたかったんだよ、ハンドボール。」
なんて言って、一年生なのにレギュラーに選ばれているけれど、やっぱりメグは陸上の短距離だとぼくは思う。
ぼくが驚いたのは、ヤスだった。早い。それも「超」がつくくらい。メグの後にしっかりついて走っている。綺麗なフォームで飛ぶように走る姿を見ていると、夏休みにテレビで見た世界陸上を思い出した。たしかジャマイカという、アメリカの南、カリブ海に浮かぶ島国から来た選手だった。ゲンちゃんは、
「ジャマイカって、国なのか?」
と驚いたのをタイチにバカにされて、
「そんなもん知るわけないジャマイカ!」
と言ってスベっていたっけ。
コンビニに着いた時には、ぼくはすっかり息が上がってぜえぜえと大きく空気を吸って、それから吐いた。メグとヤスは深呼吸をして息を整えている。
「ヤス、早えなー。本気で走っちゃったよ。」
メグが足の筋を伸ばしながら、感心したように言った。
「走っとは得意やけんね。ばってん、メグはほんなこつ早かばい。」
「今はな。だけど、そのうち抜かされちゃうんだろうなー。」
そんな風に楽しくおしゃべりをしている二人を見てヤスがすっかりぼくたちの仲間なったことが嬉しいはずなのに、こころの奥の方が、なんだか、嬉しくない。なんて言うんだっけ、これ。そうだ、「ソガイカン」。
二人とも足が速くて、二人ともそれぞれお父さんとお母さんが居なくて、ゲームが得意で…考えれば考えるほど、ぼくの頭の中で二人の距離が音を立てて縮まっていく。遅れてやって来たタイチたちが声をかけてくれなければ叫び出したくなっていたと思う。
「ワタル、何やってんだよ。チャンピオンが決めてくれないと俺らも決められないだろ。」
ああ、そうか、と思い出す。ぼくは優勝賞品をゲットするために来たんだった。だけど一度気になりだすと、どうしても気になる。メグとヤスをちらちらと見比べながら適当にコーラとサイダを選び、ポテトチップスを取ってかごに入れた。ヤスはコーヒー牛乳を選んだ。コーヒー牛乳はぼくも好きだ。
「コーヒー牛乳好きなの?」
ぼくが聞くと、ヤスはうん、と笑って頷いた。
「それに俺、炭酸苦手っちゃん。」
そう言ってチョコレート菓子を棚から取り、かごに入れる。メグは最初から決めていたように迷いなくコーラとアイスキャンディーをばさばさっとかごに放り込む。
ぼくたちの中でもぼくとメグはコーラが大好きだ。ぼくはメグがコーラを選んだことがちょっと嬉しかった。ただそれだけのことなのに、すっと気分が軽くなった。もしメグがコーラじゃなくてコーヒー牛乳を選んでいたら、と思うとすごくビミョーな感じだけど、今はそれは考えないようにしよう。
ゲンちゃんは、
「お前らちょっとはエンリョしろよなー。」
なんてぶつくさ言っていたけれど、ぼくが、
「コーラかサイダー、どっちかあげるよ。」
というと、自分のお金なのに、
「えっ、マジ?うおーさすがワタル!」
なんて言って目を輝かせた。それがすごくゲンちゃんらしくて、ぼくたちは声を出して笑った。それからぼくたちはメグの家に戻って、何個か別のゲームをして盛り上がった。
お昼になって、メグが言った。
「なあ、みんなメシどーすんの?」
「俺一回帰るよ。どうせ午後は外で遊ぶだろ?」
タイチが言った。中学に入ってからも通い続けている塾や、空手の稽古がない日にはこうやって一日付き合ってくれる。
「そうだなー。久しぶりに野球しようか。」
ぼくが言うと、
「オレ昼は家で食うって言って来ちゃったから、オレも一回家戻る。」
「俺も。」
ゲンちゃんとヤスも言う。何も言わずにリュックを背負っているところを見ると、マリエも昼は家で食べるみたいだ。ほんとうはみんなでどこかに食べに行きたいところだけど、もちろんそんなお金は無い。今日のゲンちゃんは、特に。
「ワタルは?」
メグに聞かれて、ぼくが、
「弁当持ってきたわけでもないし、帰ろうかな。」
と立ち上がろうとするとメグが思いもしなかったことを言った。
「うちで食ってっちゃえば?」
「ええっ。」
思わず、声が出た。その後でなんだか恥ずかしくなって、いや、でも、なんて言って頭を掻いた。別に家で食べると言って出てきたわけでもないし、メグと二人でお昼って言うのは正直嬉しい。嬉しいけど…と困っていると、
「心配すんなよ。あたしはいつも自前なんだし、ちゃんと食えるもの作るからさ。」
と笑った。こんなときに「心配すんなよ」なんてこの笑顔で言われてしまうと、ぼくは何も言えなくなってしまう。
「そうだよ、ワタルのグローブ俺が持って来てやるからさ。」
「そうたい。せっかく作ってくれるち言いよるとやけん。」
ゲンちゃんやヤスまで面白がってそんなことを言う。ぶん殴ってやろうかと思ったけど、今日のゲンちゃんは、
「ふったりっきり、ふったりっきり!」
なんてはやし立てたりしないだけ、まだいい。ぼくはわかったよ、と言って床に座り直した。
「じゃあ、昼食ったら外町グラウンドに集合、ってことで。」
「おっけーい!」
えらいことになってしまった。
オトコとオンナがお昼ごはんで二人きり。これって、何かものすごくアブナイ感じがする。だけどみんな帰ってしまったし、今からぼくも帰るなんて言うわけにはいかないし。
まいったなあ、と思っていると、一階からメグがぼくを呼んだ。
モヤモヤした気持ちのまま一階に降りて行くと、メグがフライパンを火にかけている所だった。
「チャーハンでいいか?」
「あ、うん。何か手伝おうか。」
ぼくが言うとメグは少し考えてから、
「じゃあ、そこの棚にわかめスープがあるから、それ作っといて。食器はそのへんのテキトーに使っていいから。」
とぼくの後ろにある棚を指さした。
スープはぼくの家にもあるインスタントのやつで、ポットでお湯を注げば出来上がり、という簡単なものだ。
中身を開けて、ポットを探した。メグが使っているガスコンロのすぐ隣にあった。お湯を注ぎながら、そっとメグを見た。楽しそうに、お気に入りのロックの英語の歌詞を口ずさんでいる。ぼくはロックなんて全然知らないから、何の歌かは分からない。
真っ白いTシャツの下から、水色のブラジャーが透けている。ぼくはそのブラジャーの、さらに奥に意識を集中した。自分の心臓が動く音が聞こえる。はっきりと、どくん、どくん、と高鳴って…
メグと目が合った。メグの目が大きく見開かれる。
やばい、と思った。
メグが、口を開けた。
「ワタル、お湯!」
「え?」
お湯は、今にもお椀から溢れだしそうなほど溜まって、タプタプと波打っていた。
ぼくは慌てて、ポットの注ぐボタンから指を離す。
「何やってんだよ、もー…あーあ。うっすいぞー、それ。」
反省している。
お湯を入れ過ぎたことをじゃない。
ぼくが、ヘンタイエロ坊主であることを、だ。
わき見運転で事故を起こすのは、きっとぼくみたいなやつなんだと思う。
ぼくは入れ過ぎたほうを自分の分と決めて、かさを減らすためにずずっとスープをすすった。
ひどく薄いわかめスープだった。
メグは相変わらず歌を口ずさみながらチャーハンを作っている。なんだかすごく楽しそうだ。いつも一人でご飯を作っているから手さばきはすごく慣れているし、料理が好きなんだな、と思う。だけど、もしかすると、今こんなに楽しそうなのはぼくが居るからで、いつもは誰もいない家の薄暗い台所で、寂しい思いをこらえながら毎日台所に立っているのかもしれない、とも思う。せめてお父さんが早く帰って来てあげればいいのに、と思うけど、でもきっと、お父さんが遅くまで仕事を頑張っているのはメグの笑顔が見たいからで、メグのお父さんはオトコとして、娘を守るために働いているんだろうな、ということもなんとなくわかる。メグのためにメグに寂しい思いをさせて、メグと一緒に暮らしていたいからメグに会えない日が続く。それって、なんか変。だけど、なんとなく筋は通っている気もする。頭がこんがらがってきた。割り切れない割り算の「あまり」みたいに、こころの中がすっきりしない。遅くに仕事から帰ってきて、真っ暗なリビングのテーブルにメグの用意した夜ご飯を見た時、朝早く、まだ寝ているメグを起こさないようにそっと会社に出かける時、メグのお父さんは、いったいどんな気持ちでいるんだろう。
うちの父さんは、夕食の時間には必ず帰ってくる。
「父さんはべつにえらくなろうと思って仕事してるわけじゃないから。」
といつも言っている。えらくなるのとならないのでは、えらくなったほうがいいに決まっているのに。ぼくがそう言うと、お父さんの口ぐせが出る。
「えらくなると、見えなくてわからなくなっちゃうことがたくさんあるんだよ。」
それって、マケイヌのトーボエってやつじゃねー?
第一、前にショーシンして課長になった時は、
「この俺が課長だよ。まいっちゃうな、うちの会社も。」
なんて、まんざらでもなさそうに母さんに話していたのを、ぼくはちゃんと覚えている。
なあ、メグ。
出来あがったチャーハンをいそいそとテーブルに運んでくるメグを見て、ぼくはこころの中で話しかける。
お前、寂しいのか。
学校で嫌なことがあったとき、誰もいない真っ暗な部屋で、ひとりで泣いたりするのか。
「さ、とっとと食っちゃおうぜ。」
笑顔で差し出されたスプーンをぼくは黙って受け取って、まだ話しかける。
ぼくを誘ったのって、寂しいからなんじゃないのか。
たくさんの割り切れない「あまり」がこころの中をあっちこっち駆けまわって、止まらない。スプーンを持つ手に力が入った。
メグがあれ、というようにぼくを見る。食べないのか、とあごを動かす。
「メグ。」
ぼくがいきなり名前を呼んだので、メグは驚いて、スプーンをくわえたまま目をまんまるに見開いた。
「俺…メグの、メグの味方だから!」
そんな言葉が、勝手にぼくの口からあふれて音になった。
「俺も、タイチも、マリエも、ゲンちゃんも…ヤスだって、お前の味方だから!」
何でそんなことを言ったのか分からない。だけど、ぼくはメグが大事で、下着とかおっぱいとかそんなものとび越えてメグが大事で、たぶん、メグのお父さんのことを考えて、もしかしたらお母さんの事も考えて、ヤスのお父さんの事ももしかしたら考えてたのかもしれないけど、なんかこころがぎゅっと痛くなって、メグがいっぱい笑えて幸せになれたらいいのに、とか思って、瞼の裏が熱くなって、泣きたくなって、なんて言えばいいのか分からなくて、そういうのジョーチョフアンテーって言うことも知ってるけど、ぼくはそんなんじゃなくて…
思ったことが全然形にならないまま、ぼくはただスプーンを固く握りしめて、メグを見つめていた。
「何だそれ。ワタル…お前大丈夫か?」
メグはそう言って吹きだした。ぼくも今になってやっと、何言ってるんだろう、なんて思って、急に恥ずかしくなった。だけど、メグはまたチャーハンを食べ始めて、ぼくの入れたわかめスープを少し飲んで、
「でも、サンキュ。」
とちょっと寂しそうに笑った。ぼくは止まっていた時間が動き出すように、すごいスピードでチャーハンを口に運んだ。
「いきなり名前呼ぶからさ。」
メグが食べ終わった食器を片づけながら言った。ぼくは、ん?と答えてまた一口チャーハンを頬張った。
「告られんのかと思った。」
苦笑いでぼくを振り向いたメグは、なーんてな、とおどけて台所に向かって行った。その時に、ぼくふと思った。なんて言ったらいいのかわからないけど、胸が痛くて、泣きそうで、だけどどこかあったかくて、
それって、「好き」ってことなのかもしれない。
ヤスが振りかぶって、投球の体勢に入る。しなやかな長身から繰り出される弾は、球威のある直球。ぼくは球だけを見つめて、ぐっと地面を踏みしめて、そしてこころのもやもやを振り払うように、バットを振り抜く。
スカン、と気持ちのいい音が響いて、ボールはグラウンドのフェンスを越えて、消えた。
「あーあ、何やってんだよワタル。試合じゃないんだからそんなにぶっ飛ばしてどうすんだよ。」
ゲンちゃんの声ではっと気がついた。
そうだ、ぼくは今いつものメンバーで草野球をしていたのだった。
外野のメグが両手を一杯に広げて、取れるか、と抗議のポーズ。ぼくはごめん、と謝って慌ててボールを取りに行く。あのコースだとたぶん、隣にある草むらに飛びこんでしまったのだろう。昼にあった色々なことをぼーっと考えていて、ついフルスイングしてしまったのだ。よりによって、めったに出ない場外ホームラン。
案の定ボールは全然見つからない。見かねたみんなが手伝いに来てくれたが、なかなか見つからない。
「多分ここより遠くへはいってないはずなんだけどなあ。」
タイチがおでこの汗を拭いながら言う。ぼくもそう思うけれど、夏までに生い茂った背の高い草むらの中から野球ボールを見つけ出すのは一苦労だ。ゲンちゃんは草の葉で指を切ってしまった。
「ごめん、俺のせいで。」
「いや、いいけどさ、ワタル今日調子悪くねー?具合悪いのか?」
「うん、そんなことないと思うけど…。」
「もしかしてメグの飯のせいかー?」
そう言って大笑いしていたゲンちゃんは、全てを聞いていたメグに派手にぶっ飛ばされてさっきぼくが打ったボールと同じような弾道を描いて草むらに消えた。
「あれ、ボール、あったと?」
ヤスの声で皆が振り向くと、マリエがぴんと背筋を伸ばして、ボールを右手で高々と掲げていた。ぼくはゲンちゃんやマリエの様子がなんだかおかしくなって、思わず笑い出してしまった。みんなはなんだこいつ、という目でぼくを見ていたけど、だんだんつられてみんな笑いだした。
「そろそろ帰ろう。俺明日稽古だし。」
タイチがそう言って腕時計を指さしたのを合図に、みんながグラウンドを引き上げた。
「じゃ、また月曜日に学校でな。タイチはまた来週!」
ひとり方向の違うメグが自転車にまたがって手を挙げた。みんな口々にそれに応える。ぼくは「お昼、ありがとう。」と言おうと思ったのに、何か恥ずかしいような気がして、喉が変なふうにつっかえてとうとう声に出せなかった。タイチとマリエもさっさと帰ってしまい、ぼくとゲンちゃん、ヤスの三人が最後に残った。
いきなりヤスが肩を組んで、
「で、どげんやったと?お昼は。」
とニヤニヤしながら訊いてきた。ゲンちゃんは手にマイクを持つふりをして、
「一体ナニをなさってたんですかあ?」
なんて気持ちの悪い声でその手をぼくの口元にぐいぐいと押し付けてくる。こいつら、いつかぶっ飛ばす。
「フツーだよ。」
ぼくは努めて低い声を出した。意外にうまく声が作れた。
「ソッコーで飯食って、グラウンド行ったから。」
「で、どうなんですか。やっぱり、柏木さんは矢野さんが好きなんでしょーか?」
二人でおんなじ目をして、ニヤニヤしている。こいつら、本当にしつこい。小学校の頃なら「好きじゃねーよ、あんな暴力ブス。」なんて言ってゲンちゃんたちを追いかけまわしていたと思うけれど、ぼくはもうそんなに子どもじゃない。子どもじゃないから、逆にどうやったら否定できるのか分からなくて、いっそのこと認めちゃおうかとも思うけど、こいつらは絶対にしゃべる。今まではもしメグの耳に入っても、「あたしのこと好きなのかー?」
なんて笑ってくれるだろうと思っていたけど、今は分からない。「告られるのかと思った。」と言った時のメグの苦笑いが気になる。それって、「告られたらやだなー」ってこと?結局ぼくには、そっけなく、
「そんなことねーよ。」
と言ってそっぽを向くのが精一杯だった。バレバレだってことはわかっている。だけど、はい、そうです。ぼくは矢野恩さんが好きです。と認めたところで、ぼくは一体何をしたらいいんだろう。
好きです。と言う?付き合ってください。なんて、ドラマみたいに?だいたい、付き合うって何なんだろう。手をつないでデートに行くこと?口と口でキスをすること?セックスをすること?ぼくはメグとそういうことがしたくて、それでドキドキしたりするんだろうか。それがわからないから、ぼくはほんとうにメグが好きなのか、わからなくなる。
「父さんはさ、母さんを自分のものにしたかったの?」
夕食を終え、リビングのソファに寝そべってテレビを見ていた父さんがずるっ、と音を立てて転げ落ち、台所からがたん、と物を落とす音が聞こえてきた。ぼくの目の前では姉ちゃんが口と目を大きく開けたまま、サラダのプチトマトがフォークから落ちたのにも気がつかないで固まっている。
「あっ、あんた何言ってんの?」
顔を真っ赤にした姉ちゃんがぼくをフォークで突き刺そうとするのをよけながら、ぼくはソファに座って父さんの顔を見た。
「違うの?」
「ち、違わないけど。」
父さんはひどく打ちつけた腰を左手でさすりながらゆっくりと起き上がって、しかめっ面のままぼくの隣に座り直した。
「やっぱりデートしたりキスしたりセックスしたりしたかったの?」
父さんがまた音を立ててソファからずり落ちる。台所から、また音がした。今度は割れたかもしれない。姉ちゃんはとうとうフォークを落とした。
恥ずかしい事を聞いているんだってことは、ぼくだってちゃんとわかっている。だけど、それ以上に、ぼくはもっとずっと大切なことを知らないで生きているんじゃないかという気がして、訊かずにいられなかったのだ。
「お前…どうしたんだいきなり…。」
「俺、好きな子がいるんだ。」
とうとう姉ちゃんが頭を抱えてきゃー、と声をあげた。
「だけど、だけどね、俺わかんないんだ。好きって何なの?誰かを好きになったら、俺はどうしなくちゃいけないの?」
父さんはしばらく口をパクパクさせてスキナコ、スキナコ、とうわごとのように呟いていたけれど、そのうち思い直したようにぼくの肩を掴むと、力強く立ち上がった。
「よし、航。父さんの部屋に行こう。な?父さんいくらでも付き合うから。母さん、ウイスキー。ボトルごと。」
いつもはお酒はほどほどに、なんてうるさく言う母さんが、へなへなと力なく台所の流しの下からぼくの見たことのないウイスキーの瓶を出して父さんに渡した。父さんは瓶を受け取ると、ぼくの手を引っ張って自分の部屋に連れこんで、慌ただしくドアを閉めた。
いそいそと二人分の座布団を敷いて、ぼくがそれに座ると自分もどっかりと腰を下ろした。
「よし、何だって?」
ぼくはさっきと同じ質問を、父の目をまっすぐに見て投げかけた。逆に父さんの方があちこちに視線をそらしてうーん、と唸った。ウイスキーをお茶みたいにがぶ飲みして、父さんが言った。
「ごめんな、航。」
「え?」
「それは父さんがお前に教えてあげられることじゃないんだ。」
「ハズカシイの?」
「うん、いや、それもあるけど…そうだ、好きって、一人一人違うものなんだ。」
ぼくはよく分からずに、黙ったまま首をひねる。父さんはようやく答えを見つけたというようにさっきとは正反対の自信たっぷりの顔で続ける。
「例えば父さんが好きなものとお前が好きなものは違うし、逆に父さんの嫌いなものとお前の嫌いなものだって違うだろ?」
ぼくの頭には真っ先に緑色のアスパラガスが浮かんだ。
「それとおんなじで、好きっていう気持ちって、似ているけどみんなちょっとずつ違うんだよ。だから、父さんが母さんを好きっていう気持ちと、その、誰とは聞かないけど、お前がその子を好きだっていう気持ちは、それぞれがかけがえのないものだけど、全然別のものなんだ。誰とは聞かないけどな。」
父さんがすごく知りたそうだったから、ぼくは素直に教えてあげた。
「メグだよ。小学校から一緒の。」
「メグ…ああ、あの男勝りの元気な。そうか、うーん…そうだったか…。」
またウイスキーをがぶ飲みしたのに、父さんは全然酔っ払わない。
「お前、父さんとシュミが似てるんだな…。」
なんて独り言みたいに言ってから、またウイスキーを注いで、一気。父さん、後でぶっ倒れなきゃいいけど。
「とにかく、その別々の「好き」がたまーにどこかで誰かとぴったり合う事があるんだ。それが、好きになるって事だと父さんは思う。」
「向こうはどうだかわからないのに?」
ぼくが食いつくと、父さんはまるでライオンかトラに詰め寄られたみたいにのけ反って、苦しそうにそうだよ、と言った。
「だってそれはお前の「好き」だからさ。お前がいくら好きだと思っても、相手の「好き」がぴったり合わないと、両想いにはなれないんだ。それで相手を責めちゃいけないし、好きになったことをお前自身が後悔してもいけない。たまたまお前の「好き」と相手の「好き」が会わなかっただけのことで、お前がその子のことを好きだなあ、と思って、大切に思った事は、ぜったいに、間違いじゃないんだ。」
なんだかぼくがメグに嫌われたみたいな言い方でちょっと引っかかったけど、それでもああ、そうか、と思う所もいくつかあった。ぼくは勢いにまかせて、その日ぼくが考えたこと、感じたことをそのままに父さんに話した。とうさんはうんうん、と相槌を打って、そのうちちょっと目を赤くして、笑った。
「航は、いい奴だな。誰かを好きになったらさ、とにかくその気持ちを大事に育ててごらん。どうせ駄目だなんて言っちゃだめだ。途中で枯れちゃうことも、そりゃあたくさんあるけど、大事に大事に育てていれば、きっとどれか一つには、花が咲くから。その時に、自分の「好き」はこういう「好き」だったんだって、初めて分かるんだと父さんは思うなあ。」
ほんとうは今すぐに答えが欲しかったんだけど、それでも父さんに話してみてよかったな、と思った。父さんは酔っているのか泣いているのか、洟をずずっと啜って、
「うまくいくといいな。」
と笑った。素直に頷けた。
ただし、と父さんは悪戯っぽく笑って続けた。
「父さんはめぐみちゃんの味方だぞ。泣かせたりしたら、ぶっ飛ばすからな。」
今初めて気がついたことがある。
父さんは、ほんのちょっと、ゲンちゃんに似ている。
リビングに戻ると、姉ちゃんが怒ったように、
「父さんは?」
と訊いてきた。寝ちゃった、とぼくが答えると、ふうん、と言ってまたテレビを見始めた。そういえば姉ちゃんは、今好きな人とかいるんだろうか。
だめだなんて、言っちゃだめ。
それって、なんとなくヤスのお父さんの言っていたNever say neverに似ていると思う。訳としては間違っているかもしれないけれど、何故だかそんな気がした。
月曜日、いつものように登校して下駄箱で上履きに履き替えていると、あとからやってきたヤスに後ろから声をかけられた。
「おはよう。」
ぼくは振り向いておはよう、と返して、何の気なしにヤスの右手を見た。握りこぶしの、指の付け根に絆創膏がふたつ、綺麗に並んで張られていた。左手に比べて少し腫れているようにも見える。
「ケンカ…?」
ぼくは恐る恐る尋ねた。するとヤスは、
「そげなこつせんよ。」
と笑ったけれど、その笑顔はどこか寂しそうだった。転校初日に気になった、あの顔だ。お父さんのことかな、と思った。そんな予感がした。
白のスニーカーを下駄箱に入れ、せっせと上履きに履き替えているヤスの背中に向かって訊いた。
「何か、あった?」
ヤスの動きが止まった。それはほんの少しの間だったけれど、ぼくたちが言葉を交わさなかったその少しの間が、ぼくにはすごく長く感じられた。
「母さんと、ちょっとな。」
こわい想像をした。こんなに「いいやつ」のヤスが、振り上げた拳をお母さんに向かって何度も、何度も振り下ろす、そんな想像だ。ぼくの考えたことが分かったみたいに、ヤスは慌てて両手を顔の前で振って見せた。
「殴っとらんけんね?」
それから拳の絆創膏を見て、ちょっと俯いて、言った。
「壁、以外。」
思ったより大きな穴が開いたという。それに、思った以上に痛かった、とも。教室に向かって歩きながら、ヤスは昨日のことを話してくれた。
ヤスは、土曜日にみんなで遊んだことをお母さんに話した。ジュースをかけてゲームをして、午後から野球をして遊んだことをヤスが楽しそうに話すと、お母さんは、
「友達が出来たと。よかったねえ。」
と笑っていた。
だが、ヤスがメグのお母さんのことを話すとさっと表情を曇らせた。ヤスがお父さんの手紙をみんなにも見せたと言うと、お母さんは急に不機嫌になってしまったらしい。
「そげなこつ、よその子に話さんでもよか。」
「そげなこつっちゃ何ね。俺の東京の仲間たちばい。俺んこつばいっちょんせびらかさんと話ば聞いてくれたとよ。」
「いっちょんせびらかさんと」というのは「少しもバカにしないで」という意味らしい。ヤスがそう言ってもお母さんはふう、とため息をつくばかりで、ヤスはそれが悔しくて、拳をぐっと握り締めた。そしてお母さんはさらに、ヤスの心を真っ二つにしてしまうようなことを言ったのだ。
「あん人ん事は、忘れんさい。」
「なして忘れっとか!俺の父さんばい。」
「もうおらんとやけん!」
甲高い叫び声だった。
「…もう、おらんとやけん。」
お母さんはそう言って泣きだしてしまった。ヤスは「帰ってくるけん!」と怒鳴って力任せに壁を殴りつけた。そうして後に残ったのは、壁と、こころに開いた大きな穴。ヤスのお母さんは、ほんとうにもう、諦めてしまったのだろうか。でも、ほんとうは、いつか帰ってくるんじゃないかと期待してしまう自分が嫌で、自分に言い聞かせるためにそんなことを言ったんじゃないかという気も、する。だから長崎から遠く離れたこの町にやって来たんじゃないかとも思うし、もしそうなんだとしたら、それってすごく、悲しい。
ぼくは教室に入って席に着いたあとも、そのことがなかなか頭から離れなかった。ヤスのお母さんに比べたらちいさな事だけど、ぼくだってそういう事はある。もしかしたらメグが僕を好きになってくれるかもしれないと思って、頭の半分ではそんなわけないだろ、と自分に言い聞かせているのに、頭の残り半分はもしかしたら、もしかしたら、をいつまでも繰り返している。落ち着かない気持ちで、並べられた机の数を数えるみたいに前からひとつずつ眺めた。あそこがマリエの席、それがタクヤの席、石戸さん、クラ、外山さん…
本人が座っていてもいなくても、ぼくは順番に机の並びを目でなぞる。男の子と目があった。小学校から同じの、沖修二だった。読んでいた本からふっと目線をあげた時に、たまたまぼくの目線とぶつかった。
シュウジは少し微笑んだ。ぼくも、よう、と口の動きだけで返した。小学校の時から大人しくて、目立たない奴だった。でも、貝塚中でシュウジは有名人だ。1年生から3年生まで、顔は知らなくても、ほとんどの生徒が名前くらいは知っていると思う。そして、有名人なのに、彼の机の周りに彼と話にやって来る人は、誰もいない。ホームルームや授業の時、たまに声をかけるのは小澤先生くらいのものだ。
ヤスも、転校してきてすぐに違和感を覚えたようで、
「あいつ、いじめられよると?」
とぼくに訊いて来て、ぼくは少し考えたあと、小さく首を横に振った。ヤスは納得していないようだったけれど、嘘ではない。ぼくがシュウジに話しかけることは結構多いし、反対にシュウジからぼくに勉強を聞いて来るする事はふつうに、ある。
女子たちがぼくたちを見てひそひそとおしゃべりをするのが少し気になるけれど、みんなシュウジのことが嫌いなわけじゃない。
シュウジは小学校5年生の時に一度だけ、かなしい過ちを犯してしまった。
小学6年生から高校生まで混ざっている不良のグループに「パシリ」にされて、万引きをさせられたり、家からお金を持って来させられた。やつらを怒らせるのが怖くて、いやだ、と言えなかった。
悪いことだとわかっていた。やってはいけないことだし、ばれたら警察に捕まるかもしれない、とも思っていた。やりたくなんかなかった。
でも、生まれて初めて誰かに
「お前、やるじゃん。」
とほめられて、やりたくなかったけど、すごまれて殴られることより、「誰からも相手にされないやつ」に戻ることが怖くて、続けた。
だから、苦しかった。せめて、クラスの誰かが、普通の遊びに誘ってくれたら。
自分から声をかけられない自分を責めて、責めて、責めきって、もうこれ以上責める所がなくなったシュウジは、クラスのみんなを憎んだ。ここにいる自分に気付いてくれないみんなを、彼をひとりぼっちにしようとしている世界を、恨んだ。
文房具やから消しゴムを万引きさせられた帰り道、道に飛び出してきた栗毛のネコと目が合った。
「おまえは、終わりだよ。」
しゃべるはずもないネコがそう言ったのが、確かに、聞こえた。
おもいきり蹴飛ばした。人に慣れていたのか、ネコは逃げなかった。右足はネコのお腹にめり込んだ。えっ、という表情をして、何メートルか宙を飛んで、地面にたたきつけられたネコは動かなくなった。
ぼくにだって、倒せるんだ。
シュウジはそう思った。
次の日から、お金を取られたり万引きをさせられるたびに、シュウジは家からバットを持ち出して、リビングで見つけたお父さんのライターをポケットに入れて、ネコを探して歩き回るようになった。小学生の男の子が野球帽をかぶってバットを持って歩いていても誰も怪しまなかったし、声なんてかけなかった。
夜寝るとき、目を閉じる前に、
「8」
とつぶやいて布団をかぶった。
これまでに殺したネコの数だった。
すべてのことがわかって、学校は大騒ぎになった。夏休みにもかかわらず全教員が呼び出され、緊急の臨時会議が何日も開かれた。
シュウジは児童相談所に送られてから家庭裁判所に行き、保護観察処分になった。10月のはじめに、シュウジは学校に戻ってきた。
男子は珍しいような、怖がるような目でシュウジを見たし、女子はひそひそとおしゃべりをしながら、誰もシュウジに声をかけようとはしなかった。
ぼくとゲンちゃん、タイチ、マリエ、メグの5人は、シュウジをしっかり迎えてやろう、と決めていた。シュウジのやったことがわかってしまったのはぼくたちのせいだ。犯人探しをしていてたまたまシュウジを見つけてしまっただけだったけれど、そうでなければ誰にも知られないまま、シュウジはネコ殺しをやめていたかもしれない。だから、シュウジが夏休み明けからその日まで学校に来られなくなったのも、クラスのみんなに変な目で見られるのも、ぼくたちのせいだった。
それに、事件のもっと根っこのほう、シュウジをひとりぼっちにしてしまったのは、やっぱりぼくたちなのかもしれなかった。
ぼくたちは待ってるからな、とシュウジを見送った。だから帰って来たシュウジを、しっかり迎えてあげなければぜったいにいけなかった。クラスの雰囲気に負けそうになったけど、タイチが小さく
「おかえり。」
と言ってくれたおかげで、ぼくも、ゲンちゃんも、メグもマリエも
「遅かったな。」
「待ってたぞ、バカ野郎。」
なんて言いながら迎えてあげることが出来た、と思う。シュウジは泣きながらありがとうといつまでも言っていた。だからたぶん、間違っていなかったと思う。
シュウジは逃げも隠れもしないで、全てを知っているみんなの所へ戻ってきた。中学も同じ学区の貝塚中を選んだ。ぼくはそのことが、すごく嬉しい。
先輩たちが1年生の教室までやってきて、
「お前か、ネコ殺し!」
なんて言ったこともあったけれど、その時シュウジは表情一つ変えずに、
「そうです。」
と答えた。
自分の弱さとしっかりと向き合ったひとは、決してもう弱くはないんだとシュウジが教えてくれた。そのことが、ぼくはやっぱり嬉しい。
ゲンちゃんやメグは中学に入って別のクラスになってしまったけれど、今でもよくシュウジと喋りに来る。
「おーっす、キャット・キラーいるかー?」
なんて言いながら入ってきてくだらない冗談や下ネタで笑いを取るゲンちゃんや、
「ゲンちゃんなんかと喋ってっとバカになるぞ。それよかさ、またなんか面白い本、ない?」
と本を借りに来るメグのことが、シュウジだってきっと好きなんだと思うし、そうであってほしい。ぼくたちと話していて、最近シュウジは前よりも笑う事が多くなってきた。
シュウジはきっと、自分のしたことを一生忘れずに生きていく。忘れてはいけないんだろうな、とも思うし、忘れられるわけがないとも思う。だけど、それはきっと「引きずる」とは違うことなんだとぼくは信じている。
目の前の席でヤスがふう、とため息をついた。背中が丸くなって、寂しそうに見えた。「ネバー・セイ・ネバー」が頭の中で頼りなくゆらゆらと揺れて、いまにも考えごとの波にさらわれてしまいそうだった。シュウジだけじゃない。ヤスだって、マリエだって、クラスの、学校の、もしかしたら世界中のみんなが、何かに傷ついて、何かに悩んでいる。ぼくだって、悩んでいる。ぼくがおとなになったら、何でこんなことで悩んでいたんだろうと笑ってしまうような悩みかもしれないけれど、世界中どこを探してもない、ぼくだけの悩みが、ここにある。
一時間目の英語の授業が始まって、担当の楠先生が教科書を開くように指示を出しても、教科書を机の上に出してすらいないままでぼーっと考え事をしていたぼくは、楠先生に柏木くん、と注意されるまで物思いにふけっていた。
「はい、今日から新しいページですね。まずは誰かに読んでもらいたいんですが…うん、せっかくだから、栗原くんに読んでもらおうかな。」
やさしいおばちゃんという感じの楠先生は、ヤスを見てにっこりと微笑んだ。ヤスは、はい、と短く返事をして、クラスの誰よりも新しい教科書を持って立った。
―Hi, Jim.
―Good morning, Ms. Yamaguchi.
―Jim, is that your dictionary?
―No, it isn’t. This is Kanako’s.
たった四行の文章をヤスが読み終わると、教室中からおお、と歓声が上がった。まるで全部が一続きの言葉みたいに、ヤスはスラスラと、付属のCDみたいな発音で読んだ。楠先生も、さすがね、栗原くん、と笑顔で拍手をした。みんなが、それに続いた。ヤスはちょっと恥ずかしそうに笑って、静かに席に着いた。ぼくはひとり、みんなとは違う事を考えていた。ぼくには、会話文がこう聞こえてしまったのだ。
―ハーイ、ジム。お父さんはまだ帰らないの?
―おはようございます、山口先生。そうなんです。どこかの誰かに、殺されてしまったんでしょうか。
「佐世保ば帰りたか。」
休み時間にベランダから校庭を眺めながら、ヤスが独り言のように言った。ぼくはそっか、とだけ答えた。するとヤスはあっ、という顔になって、
「勘違いせんでね。ワタルたちとおるのが嫌なわけやないけんね?」
と早口に言った。ぼくは笑って、わかってるって、と返す。
「もし父さんの帰ってきよったら、俺と母さんのおらんことなっとーけん、寂しかろ。」
「うん。」
「俺、高校は長崎ば帰ろう思うとっちゃん。」
えっ、とぼくは思わず訊き返した。ヤスは校庭を見つめたまま、静かに続ける。
「寮のある学校ば見つけて、長崎で父さんの帰ってくっとを待とうと思う。」
「だけど、それじゃあ、」
ヤスも、お母さんも、ひとりぼっちになっちゃうじゃないか。
「夢、見るとよ。毎晩毎晩。俺と母さんは佐世保の家におって、俺が学校から帰ると、リビングで父さん、仕事の服着て座っとると。俺の顔ば見て、「帰ったか。」ち笑うっちゃん。そげん夢ね。」
毎晩、見るとよ。と寂しそうに笑って、
「げっ、次数学やん。宿題終わっとらん!」
なんて大げさな動きで席に戻るヤスの目は、ちょっと赤かった。高校の事は、たぶんお母さんには言っていないと思う。言ったら、また大喧嘩になるんだろうな、とも。
こんなとき、ぼくは友達として、一体どうすればいいんだろう。
昼休みにぼくはマリエとゲンちゃんとメグを呼んで、その事を伝えた。みんななら何かいい考えが出るんじゃないかと思ったのもあったけれど、なんとなくぼくひとりでは抱えきれない問題のように感じたことが大きかったと思う。
ぼくの話を聞いてみんな、そうか、と頷いてくれた。でも、それ以上誰も何も言わなかった。
「ゲンちゃんは、どう思う?」
ぼくはゲンちゃんが笑って、何か冗談で返してくれることを期待して、尋ねた。でもゲンちゃんはうーん、と唸るだけだった。
小学生の頃のゲンちゃんなら、
「じゃあ、ヤスんちに行っておふくろさんを説得しようぜ。」
なんて言いだしてぼくが止める、そんな展開になっていたはずだ。だけど、言わない。それが何の解決にもならないことを、ゲンちゃんもメグもマリエも、そしてぼくも、知ってしまっている。
「あたしらがどうこうできる問題じゃないような気がする。」
ヤスががつんと言わねーからだろ、まずはあいつに気合入れてやんなきゃな、なんて言うかと思ったメグにはそう言われたし、黙ってぼくらの後に着いてくるはずのマリエはもっと現実的だった。
「もし、ヤスくんがお母さんと戻っても、お父さん、帰ってこなかったら、もっと寂しい。」
ぼくたちはまだおとなじゃないけれど、もう子どもじゃない。
毎日走りまわって笑い転げていた小学生から中学生になって、ぼくたちの周りの世界はどんどん変わって、過ぎていく毎日がみんなのこころの形を少し、変えてしまった。
それは、ぼくだっておんなじだ。
だから、みんなから返って来た反応に驚きはしなかったし、みんながやさしくなくなったわけじゃないんだということも、ちゃんと分かっている。
それでも…
「なんかさ、悔しいじゃん。」
ぼくの声はちょっとうわずって、震えていたと思う。
もし…考えたくないけど、ありえないって思ってるけど、もし、お父さんが帰ってこなかったら、これから先ずっと、二人きりの家族として生きていく。その二人きりの家族が離ればなれになってしまったとしたら、それってすごく悲しいことだと思う。うまく言えないけど、ぼくは、悲しい。
「わかるよ。」
マリエが言った。いつもの無表情が、少しさびしく翳った。
「あーあ」
ゲンちゃんがやっと大きな声を出して、伸びをした。
「なんかさ、漫画とかドラマみたいに、すぱーっと解決すりゃいいのにな。」
ほんとうに、そうだ。
だけど、もしもみんなのなやみがすぱーっと解決するのなら、誰も漫画やドラマなんて作らないんじゃないかな、とも思った。
「辛いよな。」
メグは足もとの床の木目をじっと見ていた。喉のすぐ下に、何かがつっかえているような、少し苦しそうな顔だった。
「死んじまうってのも辛いけど、多分死んじまってて、だけどもしかすると帰ってくるかもしれないって思いながら毎日過ごすのって、きっと、すごく辛いよ。」
悔しそうな、寂しそうな、もどかしいような顔。
これからおとなになって、歳をとって、いつか死んでしまうその日まで、メグはあと何回、こんな顔をしなければいけないんだろう。
休み時間も終わりが近づいて、ぼくは暗い気持ちのまま、教室に戻った。
教室ではヤスが自分の席でじっと手の傷を見つめている。
ぼくはそっと自分の席に座り、ヤスに声をかけた。
「ヤス、お父さんのことだけどさ。」
「ごめん。」
ヤスはぼくが話し終わらないうちに、振り向かずに言葉をかぶせてきた。
「その話、もうせんでくれんかな。」
静かだけど、冷たい、刺すような言葉だった。
先週の強い風が遠い外国の空から雨雲を連れてきて、その週は火曜日から、ずっと雨になった。
あれから三日間、ぼくとヤスは一言も言葉を交わさなかった。お互いに避けているわけではなかったけれど、くだらない話をしようとすると、ヤスに言われた一言を思い出して声をかけるのをためらってしまった。そんなとき、ぼくはズボンのポケットの中で手をぎゅっと握りしめた。
ヤス、ケガ、まだ治らないのか。左手の新しい傷は、どうしたんだよ。お母さんと、まだ話できてないのか。
言いたかったことはぜんぶ、ぼくの右ポケットに吸い込まれていった。
木曜日の終りのホームルームで、プリントを配っていた小澤先生がヤスのケガに気付いて、声をかけた。
「栗原、どうした、ケンカか?」
ヤスがそげなんやないです、と苦笑いで答えると、先生は、
「ほどほどにしろよ。まあ、俺もお前らくらいの時はいつもあっちこっち傷だらけだったけどな。」
と笑った。
小澤先生はいい先生だ。すごく優しい。ほんとう、優しい。
だけど、何も分かっていない。
帰りに体育館のわきを通ると、開いた扉の隙間からハンドボール部の室内練習が見えた。雨のせいで今週はずっと、男女共に体育館で練習をしているらしい。先輩と笑って喋っているメグの姿が見えた。ぼくは立ちどまらずに体育館の前を通り過ぎて、校門を出た。
透明のビニール傘越しに灰色の空を見上げて、ぼくはひとつため息をつく。
「幸せが逃げるわよ。」
と怒ったような顔で言う母さんの顔が浮かんだ。その母さんがまた野菜が高くなったと言ってはため息をついていることを、ぼくはちゃんと知っている。
雨の街はなんだか寂しく見える。
車が通る時のシャーっという音はいつまでも耳に残って、揺れ動く。
後ろからバリバリと大きな音を立てて、二人乗りの原付がぼくを追い抜いた。若い男の人が運転して、制服の上から黄色のレインコートを着た女の子が後ろに乗っていた。派手な化粧をして、髪の毛も染めている。3年生の先輩かもしれない。3年生の女子の先輩には、高校生のヤンキーと付き合っている人もいると聞いたことがある。でも、原付の女の子は、なんだかつまらなそうな顔をしていた。
列車待ちの踏切で、通り過ぎる電車を見ていた。乗っている人たちは吊り皮を掴んで本を読んだり、携帯をいじったりしていた。
やっぱりみんな、つまらなそうな顔だった。
家に帰ってリビングに入ると、つまらなそうな顔をしたアナウンサーが読み上げるニュースを、母さんがつまらなそうな顔をして聞いていた。ぼくはカバンを部屋の隅に降ろして、手を洗うために洗面所へ向かった。洗面所の鏡に映った自分の顔を見て、ぼくはああ、そうか、と妙に納得した気分になった。世の中の人たちがみんなつまらなそうな顔をしているように見えたのは、ぼくがこんなにつまらなそうな顔をして歩いていたからだったんだ。
夕飯の時に父さんが、
「航、なんか疲れた顔してるな、大丈夫か?」
と訊いて来たけど、ぼくは、
「別に、大丈夫だよ。」
と答えた。自分でも、ちょっとそっけなかったかな、と少し反省した。
金曜日、ヤスは学校に来なかった。風邪で休む、と本人から先生に連絡が入ったらしい。
「季節の変わり目だからな、みんなも体調管理は気を付けろよ。」
小澤先生の話を、女子たちの何人かが、
「意外。体丈夫そうなのに。」
「慣れない環境で疲れたのよ。」
とひそひそ話しながら聞いている。
ぼくは本当に風邪かな、たぶん、風邪じゃないんじゃないかな、と思った。でも、ここのところずっと雨だし、ほんとうに風邪なのかもしないけど。
「気にしすぎ気にしすぎ!ワタル、ほんと心配性だよなあ。」
ゲンちゃんは笑いながらぼくの背中をバンバンと叩いた。
「ヤスが風邪だっつってんなら、信じてやってもいいんじゃないか?」
メグにも苦笑いで言われた。
「そうかな。うん、そうだよな…。」
ぼくはここのところ、少し人間不信になっているみたいだ。マリエが何も言わずに「こころの健康」という本を差し出してくれたおかげで、やっと笑う事が出来た。
お母さんとまたケンカをして、雨の中家を飛び出して、風邪をひいてしまっただけだ。きっと今頃は、お母さんも仕事を休んで、ヤスの看病をしてくれている、はずだ。きっと、たぶん。でも、もしかして…
「考えすぎだ。」
タイチにも、同じことを言われた。
土曜日の午後、ぼくらはいつものように集まっていた。今日はタイチの家だ。
「でも、ワタルらしいよな。タイチもそう思うだろ?」
午前中に部活のあったメグは午後からやってきて、ぼくの差し入れのお菓子を食べながら笑った。
「まあ、確かに。それがワタルのいいとこだよな。」
タイチも笑った。
ぼくはそうかあ、そうだよなあ、と笑いながら、やっぱりどこかすっきりしない気持ちのまま頷いた。月曜日、ヤスは学校に来るだろうか。もし、来なかったら。
やっぱり、ぼくには何も出来ないんだと思う。
ゲンちゃんはマリエを相手に熱心に格闘ゲームに励んでいる。今のところ1勝5敗だ。
メグがお菓子の袋をぼくに差し出した。
「まあさ、お前が悩んだってしょうがねーんだから。今は信じてやろうぜ、ヤスのこと。」
ぼくはあいまいに頷いて袋からお菓子を出すと、大きく開けた口に放り込んだ。
ぐああー、とゲーム音量よりも大きな声を上げて、ゲンちゃんはあえなく6敗目を喫した。
画面の中でファイトポーズをとっている黒人のキャラが、一瞬ヤスに重なった。
「来週晴れたらさ、久しぶりに川に釣りしにいこうぜ。ヤスも誘ってさ。」
ゲンちゃんは床に仰向けになったまま、思いついたように言った。ゲンちゃんは、ほんとうにいいやつだ。メグも、マリエも、タイチだって、すごくいいやつだ。
だから、戻ってこいよな、ヤス。
金曜日の夕方に一度止んだ雨は、土曜日の朝からまた地面を濡らしていた。
帰り道、自転車でぼくの前を走っていたメグが振り向いた。
「ワタル、最近日曜って何してる?」
ぼくは一言、家にいる、とだけ答えた。中学に入ってから、タイチは空手の稽古、ゲンちゃんは引きこもり、メグは部活でマリエは行方不明とみんな予定が合わず、日曜日は家で過ごす事が多かった。
「来週、新人戦なんだ。もし暇なら見に来ない?」
メグが試合に誘ってくるのは初めての事だった。ぼくは言葉に困ってあ、うん、と気のない返事を返す。
「ゲンちゃんもどう?終わったら食福軒で杏仁アイス食ってこうよ。」
食福軒の杏仁アイスクリームは小学校の頃からのぼくたちのお気に入りだ。最近は全然食べていない。
「えー、オレ、その日父ちゃん休みだから阿須摩にアユ釣り行くって約束しちまったよー。」
ゲンちゃんのお父さんが日曜日に仕事を休みになるのは珍しい。困ったような声でゲンちゃんは言ったけど、顔は何となく嬉しそうだった。
「そっかー。ワタル、どうする?」
行くよ、と反射的に答えた。あまりの返事の早さにメグはおかしそうに笑って、でも、
「ありがとな。」
と微笑んでくれた。
この笑顔が、やっぱりぼくは大好きなのだ。
ルールも知らないハンドボールをひとりで見るのはなんだか心もとないけれど、その後二人きりで杏仁アイスというのは、すごくいい。
ぼくは嬉しくなって、自転車のスピードをぐんぐん上げてメグを追い抜いた。
「おっ、やるかあ?」
メグも負けじと自慢の変速ギアを使って追い上げてくる。
これで月曜日、ヤスが学校に来て、ぼくがごめん、と言ってヤスと仲直りできれば文句なしだ。
ぼくはその夜、久しぶりに幸せな気持ちで布団に入った。
月曜の朝、ぼくはいつもより30分早く学校に着き、ヤスが来るのを待った。
もちろん、一番乗りだ。
誰もいない教室で授業で使うものだけをカバンから出し、カバンはロッカーにしまって、準備が整ってしまうと今度はそわそわと落ち着かなくなった。一時間目の英語のノートを取り出し、宿題だった場所を意味もなく見返したり、シャーペンの芯を出したり引っ込めたりしていると、マリエがやってきた。
「早。」
いつも一番乗りのマリエが、入ってくるなり席でこれまた無意味に地理の地図帳を広げていたぼくを見つけ、ぼそっと呟いた。ぼくは相変わらず落ち着きなくおはよう、と言って無意識に地図を指でなぞっていく。ぼくの指はあっという間に中国大陸に渡り、ジェット機も真っ青のスピードでインドからパキスタンに入り、ある国の上でピタリと止まった。
アフガニスタン。
首都のカブールという街の名前が赤い文字でくっきりと浮かび上がる。
パンパンパン、と妙なリズムの銃声が聞こえる。
いつの間にかぼくの目の前には中東の街が広がっていて、ミミズみたいな文字が書かれた看板を掲げた店がいくつも立っている町のなかに、ぼくはいた。
水が満タンに入ったドラム缶が三段くらいに積み上げられ、その陰でひとりのアメリカ兵がゆっくりとヘルメットを脱いで、座り込む。
ざりっ、と砂の音がした。
兵士は持っていたライフルを足もとにおいて、わき腹にくくりつけた水筒からひと口水を飲んだ。やがてゆっくりとした動作で懐に右手を入れ、家族の写真を取り出して、眺めた。
テレビのドキュメンタリー番組で見たそんなワンシーンをぼくは思いだしていた。兵士の顔が、見たこともないヤスのお父さんと重なる。どかん、と大きな爆発音がして、兵士は慌てて写真を懐に戻すと、もうひと口水を飲んで、ヘルメットをかぶり直して、ライフルを担いだ。ドラム缶の陰から勢いよく走り出て、重たい装備を背負ったまま走っていく。
兵士は、振り返らない。どかん、とまた大きな音がして、弾は今度はすぐ近くに落ちて砂ぼこりを巻き上げる。
兵士は振り返らない。砂ぼこりにまぎれて兵士の姿が見えなくなった所で、ぼくはいつの間にか教室がずいぶんにぎやかになっているのに気付いた。
勝田さんがいる。トルっちがいる。シュウジも、外山さんも、クラも…
でも、ヤスはいつまでたっても入ってこない。ぼくは急に心配になってきた。
もしかして、いや、まさか。
ネバー・セイ・ネバー、ネバー・セイ・ネバー。
焦るぼくをまるで嘲笑うみたいに、ヤスはついに姿を現さないまま、小澤先生が教室に入ってきた。小澤先生は教壇からゆっくりと教室を見渡し、
「ほら、はじめるぞー。」
と生徒の注意をひいた。
「えー、栗原はまだ風邪が良くならないと言う事で今日も休みだ。それ以外はみんないるな?」
マリエがちら、とこちらに目配せした。
ヤスは、今日も休み…
嫌な予感がした。それも、すごくはっきりとした予感が。
「ヤス、来なかったか。」
昼休み、メグがそう言ってベランダで外の景色を見ていたぼくの隣にやってきた。ぼくの2組には女子ハンドボールの部員が何人かいるので、メグは顔パスで堂々と入ってくる。
「どーんまい、ワタル!」
後ろからゲンちゃんが羽交い絞めにしてきたけれど、ぼくの返事はぱっとしない。ゲンちゃんは1年生全体で結構有名だから、やっぱりよそのクラスにも堂々と入ってくる。
一度、クラスメイトで結構かわいいと評判の金子さんに、
「柏木くんってどうして高尾君と仲いいの?」
なんて真顔で訊かれたことがある。「高尾君」という言葉と「と仲いいの」という言葉の間に慌てて消された「なんか」という言葉も、しっかり聞こえてきた。
「ほらほら、柏木くん、顔が暗いぞっ」
ゲンちゃんに頬を引っ張られても、今日のぼくはやり返さなかった。
「俺、今日ヤスんち行ってみる。」
「本気か?」
メグが眉をひそめるのが視界の端で見えた。ゲンちゃんもぼくにちょっかいを出すのをやめて、そっか、と急にしぼんだ声になり、シュウジと喋りに行ってしまった。
学校に来なくなるより先に、ぼくたちに相談してほしかった、と思うのは、勝手な願いだろうか。
「俺、行くよ。」
ぼくは、自分の言葉を確かめるようにもう一度言って頷いた。メグはそっか、と言って、ぼくを止めるようなことはしなかった。そのかわりに真剣な表情で、
「無茶はするなよ。」
と釘を刺してきた。ぼくは大丈夫だよ、と笑って返したけど、うまく笑えたかどうかわからない。メグはぼくの肩を叩いて出て行った。
ぼくが席につくのを見計らったように、女子バスケット部の笹森さんと小松原さんがにやけた顔でいそいそとやってきて、低い声で言った。
「柏木くん柏木くん、柏木くんと矢野さんって、付き合ってるの?」
ヤスの事ばかり考えていたぼくは何気なくうーん、と空気の抜けたような返事をして、あれ、と気がついて、「ツキアッテルノ」という言葉の意味を頭の奥深くから掘り起こしてきて、ようやく、
「えっ、何言ってんの、俺、誰とも付き合ってねーよ。」
と正しい答えを返す事が出来た、と思った。笹森さんたちの表情を見ると、なんだかアテが外れたような顔だったから、ぼくはもしかして質問を取り違えたかもしれないけれど。ちょっと困ったように顔を見合わせていた二人は、気を取り直したように次の質問をぶつけてきた。
「じゃあ、柏木くんていま誰か好きな人いたりするの?」
えっ、と変な声が出た。体中にむずがゆいものが走る。もしかして、さっきこの二人、ぼくとメグが付き合ってるのかって聞いてた…?
答えに困りそうになった時、ぼくの肩にずしん、と重たいものが乗った。
「なになにー?笹森さんと小松原さん、ワタルをめぐって争ってるワケー?」
ぼくの肩に腕をまわしたまま、ゲンちゃんがニヤッと笑って顔を突き出した。笹森さんも小松原さんもびっくりしたような恥ずかしがっているような変な表情になって、
「ち、違う違う!」
「部活の友達が聞いて欲しいって…あ、言っちゃった…。」
「もー、シホのバカ!」
なんて、コンビ漫才みたいになってくれたおかげで何とかごまかす事が出来たけど、バスケ部の誰かがぼくのこと好きなのかも、と思うと今度はそっちが恥ずかしくなって、ぼくの顔は結局、真っ赤になってしまった。でも、とりあえずゲンちゃんに感謝だ。
二人は自分たちから聞いてきたくせに、
「ね、行こうよ。これ以上バラしちゃまずいって。」
なんて勝手なことを言いながら女子のグループに戻っていってしまった。ゲンちゃんは、
「ワタル、モテモテじゃーん。」
と笑って、シュウジにまたな、と声をかけて教室を出ていった。
まだ顔を赤くしていたぼくに、シュウジは、
「高尾君て、いいキャラしてるよね、ほんと。」
とぼそっとささやいて、閉じていた本をまた読み始めた。
別のバスケ部の女子、松枝さんがシュウジに声をかけた。シュウジはぼくをちらっと見て、
「んーとね、柏木くんの好きな子は、眼鏡で、クールなんだけど子供っぽい事も嫌いじゃなくて、勉強がめちゃめちゃ出来て、今、共星中に通ってる子。」
松枝さんとシュウジが話しているところを、ぼくは初めて見た。
だけどそれより、シュウジが言ったぼくの好きな子って、まんま、タイチなんだけど。うまくごまかしてくれたつもりなんだろうけど、なんだかなあ。
今頃休み時間に退屈し切っているはずのタイチがくしゅん、とくしゃみをするのが聞こえた気がした。
前にみんなで遊んだ時にヤスの家の場所を聞いていたおかげで、放課後ぼくは一度家に帰って着替えてから、ほとんど迷わずに来ることができた。
ひとりで来るはずだった。
だけど今、ぼくの後ろにはメグと、ゲンちゃんと、マリエがいる。
ゲンちゃんとマリエはなんだかんだ言いながら学校からついて来てくれたし、メグはヤスのアパートの前で待っていた。
「わざわざ先輩に嘘ついて抜けてきたんだからな。感謝しろよ。」
なんて言いながら、やっぱり気になっていたのだろう、メグがは先頭を切ってヤスの部屋の前までやってきた。
ぴんぽーん、と乾いた音を立てて、ボタンの固くなったチャイムが鳴った。
はーい、とどこか投げやりに言いながらドアを開いたヤスは、ぼくたちの姿を見てぎょっとしたような顔になって、慌ててドアを閉めようとした。ぼくは閉じられようとしているドアに手をかけて、
「話、あんだけど。下降りてきてくれないかな。」
と言った。ヤスは躊躇うような表情になりながらも、傘を手に、チェーンロックを静かに外して出てきた。上下灰色のスウェットを着ていた。
「ヤス、学校どうしたんだよ。」
思っていた以上に低い声が出た。ヤスはぼくの目を見ず、少しふてくされたように右足で足もとの水たまりをつついた。
「俺の問題やけん、お前らには関係なか。ほっといてくれんね。」
ぼくたちはヤスを取り囲むようにして立っていた。ヤスの真後ろにいるメグが、慌てんなよ、と口の動きだけでぼくに伝える。
わかっている。ぼくはヤスとケンカをするために来たわけじゃない。だけど、ヤスの言葉はぼくのこころの柔らかい部分に突き刺さった。
「関係ないこと、ないだろ。お母さんとちゃんと話したのかよ。」
「もう、よか。長崎ば帰っとは諦めたけん。」
言葉の割に、ちっともすっきりしていない顔だ。たぶん、お母さんとはろくに話をしていないんだろう。
「お前、もう諦めちまったのかよ。どうすんだ、親父さん帰ってきてお前らに会いに行こうと思ったら、お前ら東京にお引っ越しだぜ?」
ゲンちゃんが挑発するような口調で言った。だけど、目は大真面目だ。ヤスは面倒くさそうに、ぼくたちを睨んだ。
「俺一人が長崎ば帰りたい言うて、どうもならんとやけん。」
「だけど、お母さんとしっかり話し合う事は出来るよ。諦めないで話そうとし続ければいいだろ。壁や物に当たるの、もう、やめろよ。」
ぼくが言うと、ヤスの眉がひくっ、と動いたのが分かった。ぼくよりずっと背の高いヤスが拳をぎゅっと握りしめて、まっすぐにぼくを睨みつけてくるのは、正直、怖かった。それでもぼくは、ヤスがもう戻れない所まで行ってしまう前に、どうしてももう一度ちゃんとお母さんと話をして欲しくて、だから、ぼくもヤスをまっすぐ見つめたまま、
「このままじゃ、お父さんがかわいそうだろ。」
ヤスの表情が変わった。
ぼくに掴みかかろうとして振り上げた右手の傘の先が、メグの顔に、当たった。
「痛っ…」
メグは右目の上あたりを押さえて、その場にしゃがみこんだ。マリエがメグに駆け寄る。抑えた指の間から、赤い血が滲んだのが見えた。ヤスは一瞬はっとしてメグの方を見たけれど、すぐにぼくに向き直って睨みつけた。きっとすごく怖い顔で睨んでいたんだと思う。だけど、その時ぼくは、キレてしまっていた。
メグに謝れ。
全身の血が一瞬のうちに沸騰して、体が熱くなって、気が付いたら、傘を放り出してヤスの頬をグーで思いっきり殴りつけていた。
「ワタル!」
メグが叫んで、ゲンちゃんが大慌てでぼくをヤスから引き離した。
バランスを崩して地面に尻もちをついたヤスの手を、メグが後ろから引く。
「なんで話せないんだよ、二人だけの家族だろ?何で、なんで話せないんだ!」
ぼくは必死に叫んだ。マリエとメグに引き起こされたヤスは、そのままアパートまで引っ張られていく。マリエがさしている傘の影に隠れて表情はよく見えない。
「あたしは大丈夫だから、ゲンちゃん、ワタルのこと頼んだ。」
「おう!」
メグの言葉に応えて、ゲンちゃんがさっきよりも強い力でぼくを引っ張っていく。ぼくは泣きそうになるのを必死でこらえながら、ヤスたち三人がアパートの部屋に入っていくまで睨み続けた。
「ワタル。ワタル、間違ってねーよ。」
ヤスのアパートに続く細い道路の隅に座りこんだぼくを覗き込むようにして、ゲンちゃんは言った。
だけどさ、とゲンちゃんはぼくの隣に同じように腰をおろして、続けた。
「ヤスだってわかってるんだよ。わかってるのに出来ないって、すげー辛いんだと思う。」
ヤスが苦しんでいるのは、わかる。
わかるけど…
「あんなやり方じゃ、ダメだよ。壁を殴ったって物壊したって、お互い傷つくばっかりじゃないか。」
ぼくは奥歯をぎゅっと噛みしめて、洟をすする。いつの間にか抑えていた涙が、あとからあとから溢れて、慌てて腕で拭うと、溢れる涙はもっと増えて、ぼくの頬を伝った。ゲンちゃんはぼくの方は見ないで、
「メグ、大丈夫かな。」
と呟いた。ぼくは何も答えない。ぱっくりと切れた右瞼から流れる血が、今頃になって頭に浮かんだ。
「でもさ、」
ゲンちゃんが悪戯っぽい笑顔をぼくに向けた。
「好きな女のために立ち向かうなんて、ワタルかっけえよなあ。」
ぼくはやっと笑って、何だよ、それ、とそっぽを向いた。
「惚れたかもよ、メグ。」
えっ、と言って振り向いて、
「な、何言ってんだよゲンちゃん。バカ!」
と怒鳴った。うわずって、途中で裏返って、へんな発音になった。ゲンちゃんは相変わらずニヤニヤしながらぼくを見ていたけど、何気なくぼくの腕のあたりを見て、うわっ、と声を上げた。
「ワタル、手!」
つられて見てみると、拳の人差し指と中指のところが赤紫色になって腫れていた。見つけた途端、そこが急にずきずきと痛み出した。
「痛、いたたたた…」
思わずうめき声を上げるぼくを見て、顔を真っ青にしたゲンちゃんが弾かれたように勢いよく立ちあがった。足もとの水が跳ねた。
「病院。病院行こう!」
ぼくの拳には、見事にヒビが入っていた。病院に着いて母さんに電話をかけたら、母さんは怒った声でいろいろなことを次から次へと質問してきたけれど、ぼくはただ、
「大丈夫だから。大したことないから。」
と繰り返した。病院の先生に、
「ケンカでもしたの?」
と訊かれた時にはドキッとした。父さんや母さんに、今日のことをなんて説明したらいいか分からない。
ふざけてただけです、と答えたぼくの言葉を、先生がどこまで信じてくれたかは分からないけど、レントゲンの写真を見ながら、
「あー、やっぱりヒビ入っちゃてるなあ。」
と笑った先生は、それ以上何も聞かなかった。
母さんには、ゲンちゃんとふざけていて手が電信柱に当たった、と言う事にしておいた。ゲンちゃんも身振り手振りを混ぜてうまく口裏を合わせてくれた。
病院を出て、ゲンちゃんを家まで送ると、車の中で母さんに、
「明日からもの書いたりご飯食べたりするの、どうするの?」
とあきれ顔で聞かれて、ぼくは初めてあっ、と気がついた。どうしよう。ちょっとこれ、やばいかも。
月曜日から、サイテーの一日になってしまった。明日、包帯を巻いて登校したぼくを見て、クラスのみんなや小澤先生はなんて言うだろう。ヤスはまた、学校には来ないんだろうか。ちゃんとメグに謝って、手当てしてやってくれたかな。
フロントガラスの前で行ったり来たりを繰り返すワイパーの動きを見て、ぼくはぼんやりとそんなことを考えた。
ぼくはその日の夜、必死になって左手で文字を書く練習をした。
「お友達のノート、コピーさせてもらえばいいじゃない。」
と母さんは言っていたけれど、ぼくは、どうしても左手でしっかりした字を書こうと思っていた。隣の席の茅島さんにノートを借りて、休み時間のたびにコピーを取りに行く。茅島さんは優しいから、だめ、とは言われないはずだ。だけど、もしヤスが学校に来たら、そんなところ、ぜったいに、死んでも、見られたくない。
しかし、利き手と逆の手でしっかりした文字を書くと言うのは、ぼくが思っていた以上にたいへんな事だった。まず、力の加減がわからない。ちょっと力を入れると、シャーペンの芯が途端にポキン、といい音を立てて折れてしまう。逆に力を抜いて書こうとすると狙いが定まらず、薄い糸のような線が左右に小刻みに揺れる。保健の教科書に乗っていたアルコール中毒者の文字にそっくりだ。日付が変わった頃に、ぼくはとうとうギブアップ宣言をして、ベッドにもぐりこんだ。自分でも気がつかないうちに疲れていたのか、布団に入ってすぐに眠りに落ちた。
次の朝、ぼくは久しぶりに母さんに起こされた。寝坊かと思って慌てて時計を見たら、いつも目を覚ます時間より20分も早い。
「どうしたの?」
眠い目をこすってゆっくりと起き上がるぼくに、母さんが言った。
「高尾くんが迎えに来てるわよ。」
タカオクン…最初それが名字だと気づかずに、ゲンちゃんだと気付くまでぼくはぐるぐるとさえない頭で考えていた。
「ワタルー!生きてるかぁー?」
この声でああ、ゲンちゃんか、と気づいて、ぼくは慌てて階段を下って玄関へ向かった。
「おっはよーう。」
ゲンちゃんはぼくの眠そうな顔の前にピースサインをぐっと突き出した。ピースサインが刃物のように見えたのは初めてだった。
「何だよゲンちゃん、早いなあ。」
「ほら、ワタル手ケガしただろ?いろいろ不便だろうから、オレがカイゴしてやろうと思って。」
「カイゴ」が「介護」だと分かるまでに、また少し時間がかかった。母さんが、時間がかかるから、とゲンちゃんをリビングに招き入れた。ゲンちゃんはお邪魔しまーす、と調子よく応えて母さんの後に続いた。ぼくは超特急で顔を洗い、着替えを済ませ、テーブルに用意されていた朝ごはんをかき込んでゲンちゃんと一緒に家を出た。
「寝ぼけたワタルの顔、久しぶりに見たなー!」
ゲンちゃんはひひっ、と笑って、それから大きなあくびをした。気遣って迎えに来てくれたのは嬉しいけど、中学生にもなって母さんに起こされている所を見られてしまったのが恥ずかしくて、ぼくはわざと怒ったようにそっぽを向いた。
ゲンちゃんはちぇっ、シカトかよ、とおどけていたが、商店街を過ぎたあたりで急にまじめな声になって、言った。
「ヤス、来るかな。」
来ればいいよな、と続けるゲンちゃんの声は、自然に耳の奥に入り込んできた。ぼくはうん、と頷いて、そのまま二人で学校まで歩いた。
雨は降ったりやんだりを繰り返しながら、もう一週間以上太陽を雲の中に隠してしまっている。
一番乗りの教室には雨の匂いが漂っていた。ぼくはカバンを机の上に置いただけで、すぐにまた廊下に出た。ちょうど同じタイミングで、ゲンちゃんも5組の教室から出てきた所だった。ぼくはこのまま、廊下でゲンちゃんと一緒にヤスが来るのを待つことにした。教室でひとりで待っていてヤスが入ってきたら、ぼくはどんな顔をして迎えればいいのかわからなかったからだ。ゲンちゃんが来なければ、ぼくはいつもよりも遅めに家を出るつもりだったのだ。ぐおん、と風が音を立てて鳴らした窓ガラスに、雨が細く不格好な「!」マークをいくつもつけていく。廊下の窓際の手すりに並んで寄り掛かって、ぼくとゲンちゃんは落ち着かない気分で、廊下をこちらへ歩いて来る人影を探した。そのうちにマリエがやってきて、ぼくたちの姿を見つけて歩み寄ってきた。
「ヤス、待ってるの?」
「うん。」
ぼくが答えると、マリエは何も言わずにぼくたちの横にカバンを下ろして、ぼくたちと同じように手すりに寄り掛かった。
「ワタル。」
「うん?」
「メグ、大丈夫。」
そっか、よかった、とぼくは応えて、どうしてマリエがぼくにそれを伝えたのかと考えて、ちょっと恥ずかしくなったから、ぼくはマリエの方は見ずに廊下の向こうを見つめ続けた。部活の朝練を終えた生徒たちがばらばらとやってきて、ぼくたちの方をちょっと気にしてから、教室に入っていく。女子ハンドボール部の集団の中に、メグの姿を見つけた。右の瞼に、ベージュの絆創膏を付けている。ぼくたちに気がつくと、それまでおしゃべりをしていた子に何か言って、ぼくたちの方に駆け寄ってきた。
「おーい!」
ぼくたちもおっす、とかよう、と言って片手をあげて応える。確かに、「付き合ってるの」と訊かれるのも不思議じゃないよなあ、と思うと、少し顔が火照った。メグはぼくの右手の包帯を見てあれ、っという表情になった。
「ほら、あの時にさ。」
聞かれる前に苦笑いでそう言うと、ゲンちゃんが、
「ヒビ入ってやんの。カルシウム足りてねーんだよ、ワタル。」
と茶化した。メグはマジかよ、大丈夫?と包帯の巻かれた右手に触れてきた。ぼくはびくん、と肩が跳ねてしまって、それをごまかすために肩を上下に動かすふりをしてからメグの目の上の絆創膏を指さした。
「メグは、大丈夫だったのかよ。」
「おう、二針縫ったけどな。平気平気、傷もほとんど残らないって。」
メグは絆創膏を指でさすりながら言って、
「たまんねーよな、女の子は顔が命だぞ。」
なんて笑っていたけれど、ぼくは本当にほっとした。ほっとして、あと少しずれていたら目に当たっていたんだな、と思い、ぞっとした。
「ごめん。」
思うよりも先に、メグに謝っていた。メグは一瞬びっくりしたように目を丸くして、それから、何言ってんだよ、とまた笑った。
「何でワタルが謝るんだよ。」
「うん、でも、ごめん。」
ヤスの家に付き合わせて、ケガさせて、ごめん。
わけわかんねえ、とメグは声を出して笑っていたけど、ぼくが思っていた事が分かったのか、ちょっと真面目な顔に戻って、小さく、
「来るといいな、ヤス。」
と言った。
ぼくはうん、と答えて、またヤスを待った。
来るよ、きっと。
1年生の廊下に、ぼくたち四人が揃った。ひとりではどうやって迎えたらいいのか分からないヤスの事も、四人ならまた前みたいに迎えてあげられるような気がした。
ヤスはいつもの時間に、ちゃんとやってきた。ぼくと目が合うと、一瞬気まずそうに立ち止まって目をそらしたけど、やがてゆっくりとこっちに向かって歩いてきた。ぼくの拳を受けとめた左の頬が少し腫れている。
おっす、来たか、とメグたちが声をかけた後で、ぼくも、
「おはよう。」
と言った。ヤスはちょっと泣きそうな顔になって、それからごめん、と頭を下げた。ぼくは慌てて、
「あ、いや、俺の方こそ殴ったりして、ごめん。」
すっと上げたヤスの顔は、すっきりしたような表情に変っていた。
「よーし、仲直り完了っ!」
ゲンちゃんは笑って、ぼくたちに握手をするように言ってきた。右手が使えないぼくは、ためらいがちに左手を差し出した。ヤスもそれに気づいてゆっくりと、左手を出す。
ぎゅっ、と音がしそうなほど、ぼくたちは固い握手を交わした。それから、ヤスはゲンちゃんとマリエと、それからメグに順番にごめん、と言った。みんな笑って、気にすんなよ、と言ってくれた。
「おーい、ホームルーム始めるぞー。」
後ろから聞こえてきた小澤先生の声に、ぼくたちは一斉に振り向いた。ぼくたちをひとりひとり見回して、先生は眉をちょっとひそめると、
「なんだ、柏木も栗原も矢野も、おまえらいつもどんな遊び方してるんだ?」
と首をひねって教室に入っていった。ぼくたちは顔を見合わせて、笑った。ノート見せてあげようか、という茅島さんのありがたい申し出を断って二時間目の国語の授業の途中まで左手一本で粘っていたぼくは、太陽の「陽」という字で挫折して、素直に茅島さんにノートのコピーをお願いした。
「いいよ、もちろん。頑張ってたけど、やっぱりキツかった?」
左手一本で拝むようにお願いするぼくの格好がおかしかったのか、茅島さんはあははっと笑って快くオーケーしてくれた。茅島さんは今、どんなことで悩んでいるのかな、とちょっと気になった。
昼休みに、いつものようにベランダから外を眺めていると、ヤスが隣にやってきた。
「雨、あがったね。」
ぼくはうん、と答えて、赤く腫れたヤスの頬を見た。ヤスは頬を少し気にして、ぼくの真似をしてベランダから少し身を乗り出した。
「メグにちかっぱ怒られた。」
「メグに?」
「うん。ワタルにあんまり悲しい顔させんなよ、って。」
メグがそんなことを言ったのか。
ぼくは、ちょっと嬉しいような、恥ずかしいような何とも言えない気分になった。目の上の傷を気遣って、ごめん、と謝り続けるヤスの手を振り払って、今度ワタルにあんな顔させたら、あたしがぶん殴るからな、なんて言ったらしい。
「こりゃ脈アリたい。のう柏木くん。」
「だから、違うんだってのに!」
思わず言い返したぼくを見てヤスはおお、ムキんなっとるばい。分かりやすかねー、とからかった。面倒になって黙り込んだぼくに、ヤスはそっと言った。
「俺、ちゃんと母さんと話してみるけん。」
びっくりして振り向くと、ヤスは力強く頷いた。ぼくもうん、と頷き返して、それから、二人で笑った。
ばらばらになり始めた雨雲の隙間から、秋晴れの青空が少しのぞいた。ぼくたちはそのちいさな青空を、いつまでも眺め続けていた。
日曜日、ぼくは初めて隣町にある神沼中へ行った。普段サッカー部が使っているコートを半分ずつ使って、ハンドボールの新人戦が行われていた。右半分で男子が、左半分で女子がそれぞれ試合をしている。ぼくが着いた時には、大森中と河原谷中の女子が試合を行っていた。スコアは0-0のまま、もう残り時間はあまりないようだった。ぼくは目立たないようにテニスコートの近くに座って、貝塚中のハンドボール部を探した。小学生の頃、子供会のサッカー大会でここのサッカーコートを使った事を思い出した。ゴールキーパーのゲンちゃんが手を使えないエリアで手を使って審判に怒られたり、メグのまぐれのパスから、ぼくが生まれて初めて綺麗なボレーシュートを決めたことを思い出す。
運営委員会のテントのすぐ近くに、メグの姿を見つけた。チームメイトと一緒にウォーミングアップをしている。
結局、ひとりで来ることになった。ゲンちゃんはお父さんと阿須摩に釣りに行っているし、タイチは空手の稽古、マリエは相変わらず日曜日はどこにいるのか不明で、ヤスは今頃、しっかりお母さんに自分の気持ちを伝えているはずだ。これからだんだん、ぼくたちは会えなくなってしまうのかな、と思った。二年生になり、三年生になって、高校、大学。
大人になるにつれて、ぼくたちはきっと会えなくなっていく。そんな予感がした。
今だって「来週土曜日、何時にどこ」なんて約束をしなければ、ぼくたちは会えなくなってしまった。小さい頃はふと思いついて誰かの家のインターホンを鳴らせば、いつでも遊べたのに。ぼくたちはいつから、そんなふうに遊べなくなってしまったんだろう。
試合終了の笛が鳴って、大森中と河原谷中の試合が引き分けのまま終わると、入れ替わりに貝塚中の選手が素早くフィールドに入った。貝中の初戦の相手は、富士見東中だった。ハンドボールの、それも女子は知らないけれど、たしか野球部とサッカー部は結構強い学校だ。円陣を組んで声出しをしてから、選手たちがそれぞれのポジションに散っていく。ぼくのクラスの外山さんや村上さんも、教室で見るのとは違って真剣な表情をしていた。メグがチームの仲間たちにしきりに声をかけている。練習をしていたテニス部が貝中の試合を見ようと集まってきた。
笛が鳴って、敵味方の選手たちが一斉に走り出した。ハンドボールの試合を見るのは初めてだった。試合開始の笛を聞きながらぼくは、まるで自分が試合に出ているみたいに緊張していた。手が少し震えているのが分かる。ハンドボールはバスケとサッカーをくっつけたみたいな競技で、選手たちはボールを持って3歩までしか歩かず、テンポの良いパス回しで相手のゴールに迫っていく。パスを受けたメグが横にいた選手にパスを出して、ゴールに向かって走る。パスを受けた選手は受けたパスの勢いそのままに、再びボールをメグに返す。誰も追いつけないスピードで一瞬にしてゴール前に出たメグは、ゴールキーパーをあざ笑うようにフェイントをかけ、高くジャンプすると思い切りゴールに向けてボールを、文字通り叩き込んだ。ゴールキーパは一歩も動けずにボールを見送ることしかできなかった。
わっ、と歓声が上がる。
「ナイスパスー!」
「ゴール決めた子、早ぇー!」
テニス部から歓声が上がる。顧問の先生も指導を中断してハンドボール部の試合をくわえタバコで見守っていた。
ボールを持った1組の山本さんが敵に囲まれて、横にパスを出す。メグが走り込んで、そのまま一番右サイドにいた木下さんにパスを通す。4組の伏見さんが後ろから木下さんを追い越してパスを貰うと、そのまま前に走っていたメグにラストパス。
メグはガラ空きになったゴール前に躍り出て楽々シュートを決めた。
あっという間の2-0。
「おおー。」
「かっけー!」
走り込みをしていた野球部の誰かが言った。
でもメグは本当にカッコよかった。カッコよすぎて、ぼくは思わず、行け、と叫んでしまったくらいだ。
試合はその後相手チームも1点を返し、後半に入った。休憩を終えてフィールドに入ってくる時、メグはぼくに気がついて手を振ってくれた。ぼくも思い切り振り返した。ほんとうに、左腕がちぎれるくらい。
後半になると相手も警戒して、メグを徹底的にマークした。メグに向けられたパスはことごとくカットされ、ドリブルを始めるといっぺんに二人の選手がボールを奪いに来た。顧問で監督の宮田先生は何人かの選手を入れ替えて、いくつかの攻め方を試した。ゴール前で友坂さんが相手からボールを奪った。何とか手を伸ばして奪ったボールを、相手のゴールの方向へ思い切り投げた。その先には、メグが走っていた。一瞬の加速に相手は誰も付いていけず、ゴールキーパーと一対一になる。メグは高く跳びあがって、シュートをすると見せかけて、後ろから来ていた山本さんに素早くパスを出す。山本さんがふわっと浮かせたボールはキーパーの頭の上を越えて、ネットに吸い込まれた。3-1。決定的な一点が入った。試合はそのまま終了。新人戦の初戦は、貝中が見事に勝利を収めた。チームメイトたちと抱き合って喜ぶメグを見ていると、大げさなたとえでも何でもなく、涙が出た。ぼくは感動してしまって、次の試合が始まってもしばらくフィールドを呆然と眺めていた。メグは絶対に陸上だ、と決めていたぼくは、その時、ハンドボールのメグもぜったいに、ありだ、と思っていた。
試合を終えて解散になってメグがぼくの所にやってきてからも、ぼくはしばらくボーっとしてしまって、メグに頭をはたかれた。
「メグ、すげーかっこ良かったよ!」
とぼくが言うと、
「そ、そうかな。ありがと。」
とそっけなく言って荷物を取りに行ってしまったけど、ちょっと赤くなっているのが見えて、なんだかぼくまで恥ずかしくなってしまった。
神沼中の校門を出て、自転車で食福軒に向かった。
駅前で、お父さんと一緒に歩いて行るゲンちゃんを見つけて、ぼくたちは自転車を止めた。
「ゲンちゃん!」
ゲンちゃんはあれ、と言う表情になっていた。隣で同じ顔をしているお父さんにそっくりだ。
「阿須摩じゃなかったの?」
ぼくが尋ねると、ゲンちゃんはがっかりした顔で聞いてくれよ、と話し始めた。
「オレと父ちゃんの釣りスポット、工事中でやんの。橋か何か作るんだと。」
それで別の場所で試してみたが全く釣れず、諦めて帰って来たのだと言うゲンちゃんの顔は本当に残念そうだった。
「じゃあ、杏仁アイス、行く?」
メグが聞くと、ゲンちゃんのお父さんも、
「行ってこいや、ゲン。父ちゃん先帰ってっからよ。」
と言ってくれた。ゲンちゃんはうん、と目を輝かせた。自転車でないゲンちゃんのために、ぼくとメグは降りて自転車を押して歩きだした。
「あれ、お前ら何やってんの。」
後ろから声がかかった。
振り向くと、胴着を担いだタイチが驚いた顔で立っていた。
「あれぇ。」
ぼくたちは笑って、タイチをアイスに誘った。タイチは、
「行く行く、久しぶりだなあ。」
と嬉しそうだった。食福軒は、駅からクヌギ山公園に向かって行く途中にある。中国人のヤンさんというおじさんとおばさんが経営している。
食福軒の引き戸を勢い良く開けたぼくたちは、あっ、と声を上げた。
店の一番奥の席に、ヤスとマリエが座っていたのだ。二人もぼくたちに気付いてああ、来た来た、と言うふうに手を振った。
「何だお前ら、いたのかよ!」
ゲンちゃんが笑う。
「マリエがここのアイスのうまかち言いよるけん、気になっとったとよ。」
「メグ、今日来るって言ってたから。」
「なんか、みんな揃っちゃったなあ。」
ぼくの声は嬉しい驚きではずんだ。みんなで杏仁アイスを注文すると、おばちゃんはにっこり笑って
「アンニンアイツ、二つー。」
と厨房のおじさんに声をかけた。おばちゃんは昔から、「アイス」が「アイツ」になる。
ぼくたちは色々な事を話した。ぼくが、
「今日のメグすごかったんだぜ、俺感動したもん。」
と言うとみんな今度見に行く、と言い、メグは怒ったようにいいよ、大げさなんだよワタルと言い、ゲンちゃんが照れるなよー、とちゃちゃを入れた。タイチが今度の昇段試験の話をすると、ヤスはすげー!と声を上げた。
ゲンちゃんが何気なく何読んでるんだ?とマリエから取り上げた本のタイトルが「海老の精神世界」だったことに、ぼくらはお腹を抱えて大笑いした。マリエはおかしいかな、おかしいかな、と真面目な顔で本を見つめていたけれど、ぼくらはお腹がちぎれそうなほど笑った。
その後、ぼくらは運ばれてきた杏仁アイスを食べた。昔から変わらない不思議な甘みに、ぼくたちはうっとりしながらあっという間に食べきった。
「こげなん、あるとやねー。」
どうやらヤスにも気に入ってもらえたみたいだ。
「今年も、もう半分以上終わっちまったんだなー。」
ゲンちゃんがガラにもなくそんなことを言った。
「中学の三年間はあっちゅう間げな、母さんの言いよった。」
「そうそう、あっと言う間に高校受験なんだぞ、みんな、分かってるのか?」
タイチが小澤先生みたいなことを言ったのがおかしくて、ぼくとマリエは顔を見合わせて笑った。
「あれ、タイチ高校受験するの?」
メグが聞くと、タイチはそのつもり、とだけ答えた。タイチが通っている私立の中学は、エスカレーター式に大学まで付いている。無理に受験をしなくても、ある程度の成績をとりつづければ大学生になれるのに。
「高校はまだしも、うちの大学のレベルなんてたかが知れてるからな。高校はもっと上のランク目指すよ。」
タイチは一体、どのランクまでいってしまうのだろう。たぶん、ぼくたちよりもずっと遠くへ行ってしまう。学校のランクも、いる場所も。
「受験かー。考えたことなかったな。」
メグが言う。だけど、メグは勉強も人よりよっぽどできる。きっと早々と進路を決めてしまうんじゃないだろうか。
「ワタルは、どこの高校行きたいとか考えてる?」
メグに聞かれて、ぼくはうーん、と困った。自分で言うのも変だけど成績はクラスで三番以内には入っているし、かといってタイチみたいに上へ上へと目指すタイプでもない。一番近い一高かな、なんて思っている。
「お前ら、一緒の高校行ったらよかろーが。」
とにやけながら言ったヤスに、
「なんでだよ!」
と言った時のぼくとメグの息はぴったりだった。
「高校かー。どうしよっかなー。勉強するために受験勉強なんかしたくねーよー。」
ゲンちゃんが頭を抱える。すごい理論だけど、なんとなく納得できなくはない。タイチがなんだそれ、と言って笑ったけど、なんだかゲンちゃんの言葉に賛成しているような言い方だった。
ぼくたちはその後もいろんな話をして、夏に比べて早くなった夕暮れ時まで食福軒で過ごした。
その日が、みんなが揃った最後の日になった。
ヤスの転校が決まったのは、それから二週間後の、道端のススキがすっかり茶色くなった頃だった。
お母さんと一緒に、長崎にあるお母さんの実家に行く事になったのだ。ヤスの想いが、お母さんを動かしたのだった。
「長崎、やっと帰れるね。」
ぼくの言葉にヤスはにっこりと頷いてから、ちょっと寂しそうに言った。
「ばってん、寂しゅうなるばい。」
ぼくはなにも言わなかった。
その時ぼくは、ヤスと全く同じことを思っていたから。
「いつお父さん帰ってきても言いようにさ、元気でやれよ。」
と言うメグの目は、少し赤かった。
ヤスはその日の夜、お母さんと一緒に東京行の電車に乗って町を出ていった。
一カ月後、ぼくにヤスからの手紙が届いた。
手紙にはお母さんの実家での暮らしや新しい学校のこと、少しの間だったけれど楽しかった、と言う言葉、そしてメグとのこと、応援しとるけんね、なんて書いていて、ぼくはばーか、と苦笑いで呟いた。
便箋の一番下、p.s.と言う文字で手紙は続いていた。
―俺のこと、覚えていてもらえるように、俺からのお守りを入れておきます。
みんなにも勇気を出すきっかけになったらいいなと思います。
封筒に入っていたもう一枚の紙を、ぼくは広げた。
―Dear my best friendz.
みんな、元気か。
困ったり迷ったり、悲しかったりつらかったりした時、俺はみんなの味方やけんね。
西の空に、長崎の空に向かって、魔法の言葉を言ってみてください。
Never say never.
ダメだ、なんて言うたら、ダメだ!
Yasu
ネバー・セイ・ネバー。
ぼくは静かに、だけど大切に、その言葉を言ってみた。