その六
会社は四階建てのクリーム色のビルで、この周辺じゃ比較的背の高い建物だ。屋上に看板が建ててあって、「高村商事株式会社」と書かれている。
別に工場があるとかいうわけではなく、どうしてこんな田舎にあるのかは謎。就職活動がさっぱりうまくいかず、困り果てているときに拾ってくれたところだから感謝はしているが、本音を言うともっと通勤が楽なところに勤めたいとは思う。まあ、然程大きい会社ではないので、比較的アットホームな雰囲気が過ごしやすかったりもするのだが……。
会社に入ると、女性人は事務服に着替えるのに一度更衣室に行ってしまう。それは立花さんも例外ではなく、俺達は会社の一階で分かれた。俺はそのままエレベーターに乗り、二階にある自分のフロアを目指す。
「おはようございまーす」
そういいながら事務所に入ると、既に何人かは先に来ていて、そういう人たちが一応挨拶を返してくれる。なんとなくやっている朝のお約束に等しいものなので、誰に挨拶して、誰が聞いていないとかはチェックしない。
「あれ?」
机の上に書類の束が置いてあった。A4用紙で十枚ぐらいだろうか。一番上にはメモが載っており、「会議の議事録まとめといて、十時まで 牧」と書いてあった。斜向かいに座る牧谷さんに視線を送ると、ちらりとこちらを見て、一瞬意地の悪い笑顔を見せた。朝からやってくれる…。生意気な後輩に天罰と言うわけか。神気取りも大概にしろと言いたいが、同じ部署での先輩後輩に当たるわけだから、仕事を割り振られるのも当然だ。この「十時まで」とかいう括りがなければ、普通の仕事だし。てゆーか、ビルに入ってから、これをここに置くまでが早すぎませんか?ベテランの技?
とりあえずパソコンの電源を入れ、立ち上がるまでに書類に目を通す。出ていない会議の議事録は、本当に読んでいてもつまらない。というか、理解できない。とりあえず、要点だけ拾い上げてまとめておくか。そう思っているところに、立花さんが入ってきた。
「おはようございます」
丁寧に、通り道にいる人一人一人に挨拶をしながら通り過ぎていく。最終的に辿り着くのは俺の隣の席だ。
「おはようございます」
駐車場で挨拶したのに、わざわざもう一度挨拶をしてくれる。
「おはようございます」
俺も座ったままで小さく会釈しながら返事をした。本当にいい子だ。机の上にわざわざ仕事を乗せておくという、テロリストみたいな真似をする人とはえらい違いだ。そう思いながら牧谷さんのほうを見ると、なぜか彼女もこっちをみていた。しかも、軽くこっちを睨んでいるような気がする。何で?
きっかり十時、俺は牧谷さんに書類の束と、完成した書類を叩き返して休憩室に来ていた。
「あー、もう、朝から疲れた」
やる気の問題なのだろうが、朝はエンジンがかからない。そんなときに急ぎっぽい括りのついた仕事がまわってきたら、疲れようというもの。もう一日分のやる気を使ってしまいました。自販機でカップのドリンクを買い、適当な椅子に座ってぼんやりしているとこのまま就業時間が終わらないかなと思ってしまう。
ふと、ポケットの携帯電話が震えた。取り出してみるとメールが届いていた。映美からだ。
『ボス、夕飯は餃子が食べたいけど、何買ったらいい?』
誰がボスか。さすがは近年まれに見る料理音痴。餃子の材料も分からないのか。つーか、何で 餃子?そもそも仕事中に何をやっているんだあいつは。まあ、俺もだけど。
『何餃子が食べたい?』
そう送り返してみると、すぐに返事が来た。
『えび餃子』
まためんどくさいものを。
『チルドでそれっぽいの買えば?』
『やだ、作って』
ええい、この我侭っ子めが。仕方なく俺は思いつくままに材料を書いて返信することにした。
『えび、豚肉、にら、白菜、餃子の皮。後はうちにあるもので何とかなるだろ』
『ラジャ!!』
敬礼している姿が目に浮かぶような返信だな。昨日のパトレンジャーが頭に残っているのだろう。
そうか、今日は餃子か。久しぶりに手間のかかりそうなメニューだな。何とか定時で終わらせたいなぁ。牧谷さんがいらない仕事を増やしませんように。
そんなことを考えながら、携帯電話を閉じると同時に、誰かが休憩室に入ってきた。
「お、サボり発見」
開口一番不愉快な発言をしてくれたのは、同期入社で一つ上のフロアにある営業課で働いている石原巧という大変いけ好かない友人だった。
「休憩だよ」
「何?またお局さんにいじめられた?」
お局さんは牧谷さんを指す。確かに影の権力者であるが。当人もそう呼ばれていることを知っているらしいが、当然面と向かっていうと怒る。石原はかなり気軽に言っているが、このフロアでそういう発言をすると、場合によっては手痛い目に合わされたりもする。
「そんなわけないだろう。仲良くやってるよ」
「へぇ、そいつは凄いな」
コーヒーを買いながら、からかうような口調で石原はそういった。確かに、今朝はどういうわけか朝一番から嫌がらせのような仕事を貰ったけど。基本的にはうまくやっているんではなかろうか。
「まあ、なんだな、あの人が年下なら放っておかないんだけどな」
石原は見た目が良いだけに結構女性からの人気は高い。しかし、自分より年下しか興味がなく、範囲外の女性には見向きもしない。
「相変わらず偏ってるなぁ」
「まあ、お前のところの部署なら、立花さんかなぁ」
「うちの部署なら…って、他の部署もチェックしてるのか?」
「ああ、まあ一通りな」
うーん、恐るべし石原。これで実は結構仕事も出来るから人生は不公平だ。
と、丁度そこへ件の立花さんが入ってきた。
「あのう、西田さんいらっしゃいますか?」
「はいはい、いらっしゃいますよ」
俺は片手を上げて返事をした。ほっとしたような表情を浮かべる立花さん。やっと見つけたって感じだ。
「あ、立花さん。こないだの話、考えてくれた?」
「え、あ、あの…」
俺に用だったみたいなのだが、先に石原に捕まってしまった。こないだの話ってことは、どっかで声を掛けていたんだな。困っているじゃないか、立花さんが。
「いいじゃん、食事ぐらい。ご馳走するよ、ね?」
押せ押せの石原にたじたじの立花さん。目線がちらちらとこっちに飛んでくるって事は、相当困っているのか、用事が急ぎなのか。多分両方だろう。
「可愛い後輩を妊娠させる気か馬鹿」
俺の言葉にぎょっとした表情を浮かべる立花さん。そりゃそうだ。
「お前、訴えるぞ」
振り向いて、鬼の形相で俺を睨みつける石原。その隙に立花さんが用件を伝えるべく口を開いた。
「あの、牧谷さんが探していました。どこだーって」
「え、怒ってた?」
「はい、少し」
「そりゃ、やべぇ」
俺は慌てて残っていたドリンクを飲み干して、カップをゴミ箱にほうりこんだ。
「あーあ、お前の顔も見納めか。心配するな、同期として骨は拾ってやるから」
「うるせぇ、コーヒーで喉詰めて死ね」
形勢逆転とばかりに、けらけらと笑う石原に罵声を浴びせ、俺は休憩室を出た。立花さんもついてくる。その立花さんに石原が声を掛けてきた。
「立花さーん、そいつと喋ると、梅毒になるよー」
「てめぇ、いつかぶっ殺す」
立花さんの代わりに、愛のこもった返事を俺が返しておいた。何てこと言うんだ。みろ、立花さんが大変困った顔をしているじゃないか。
「あの、助けてくれてありがとうございました」
少しうつむき加減に、小さめの声で立花さんがそう言った。
「え、ああ、どういたしまして。迷惑そうに見えたから。立花さんもはっきりいったほうが良いよ。アイツは諦め悪いから」
「あ、はい」
ぽつりと、やっぱりうつむき加減に立花さんは呟くように返事をした。基本的には、性格も穏やかで良い子なのだが、どこか危なっかしいところがある。俺は隣同士で入社当時からいろいろと接点が多いから、比較的普通に話してくれるようだが、石原のような強気の相手にはなす術もない。まあ、自分で気付いておいおい治していくしかないのだけど。
そんなことを考えているうちに事務所についた。
「西田くん、待ってたわよ。あ、立花さんありがとう」
先に声を掛けられてしまった。何事もなかったように声を掛ける算段だったのに、イニシアチブを取られてしまうとは、さすがは牧谷さん。
「今朝貰った書類なんだけど、ちょっと直して欲しくて」
はいはい、そんなことだろうと思いましたとも。俺は腹を括って牧谷さんのデスクに近づいた。
「一応、赤で指示入れといたから、その通りにやってくれる?」
「はい」
差し出される書類の束。一番上のページが、既に全体的に赤く見えるんですけど。
「大至急でお願いね」
「はい」
大至急で仕上げて何に使うんだ、こんなもの。心の中でそういいつつ、書類を抱えてデスクに戻る。それからぱらぱらと書類を見直してみると、本当に全体的に赤だらけだった。本当に細かい表現まで、逐一赤が入っている。一応どころか、どうにも悪意が感じられるのだが。まあやらねばなるまい。
「あの…どうぞ」
俺が一心不乱にキーボードを叩いていると、お茶の入った湯のみが机の上に置かれた。画面から目を離し、横を見てみると、お盆を抱えた立花さんが立っていた。
「お客様に出したお茶、一回で捨てるのもったいないから…。良かったら」
小声でそんなことを言ってくれた。ありがたい話ださっきのお礼のつもりなのだろうか。別に気にしてもらわなくても良かったのだが、まあ滅多に口に出来ない高級茶だ。ありがたく頂くとしよう。
「ありがとう、頂くよ」
俺がそういうと、立花さんは偉く照れたような顔で小走りに立ち去って行った。早速一口頂こう。そう思った瞬間、なにやら射すような視線を感じた。慌てて周りを見回したが、こっちに視線を向けている人は見当たらない。牧谷さんも電卓を叩きながら、なにやら計算書と格闘しているようだ。…気のせいか。