その九
駐車場に車を止めながらアパートを見上げると、既に俺の部屋には電気がついていた。どうやらもう映美は帰っているらしい。さすがに帰る時間はまちまちなので、帰りは駅からバスに乗ってもらっている。
階段を二階まで上がり、部屋までの廊下を歩いていると、けたたましい笑い声が聞こえた。この笑い袋のボリュームを上げたような馬鹿っぽい声は映美だな。ついに頭の線が切れたかな。
「ただいまー」
ドアを開けると同時に、黒い影が飛び掛ってきた。
「ちぇすとー」
パカンと軽い音がして、頭に衝撃が走る。
「いてっ」
「ふふふ、パトロッド真っ向一文字切り」
新聞を丸めた「パトロッド」を手に、意味の分からないポーズを決めているのは、もちろん映美だ。何故帰ってくるなり、しかもわざわざコンビニに寄ってあげた彼氏に対して暴力を振るうのか。そのあたりは大変に聞きたいので、むんずと襟首をつかむ。
「にゃーっ!!」
奇声を上げる映美。ネコか。
「何のつもりだ」
「まさか……、パトロッドが、通用しない……」
ほう、続けるか。取り急ぎ、襟首をつかんでいた腕を引き寄せてみる。
「みゃー!!」
ネコかって。
「何・の・つ・も・り・だ・?」
女性に対しては丁寧に。紳士のたしなみと言う奴だ。
「た、たすけてぇ、ピンク」
ほほう、助けを呼ぶ元気がまだあるか。って助け?ふと足元を見ると、見慣れない靴が一足あった。誰か来てるのか?
「あのー、お邪魔しています」
「由香ちゃん!?」
おずおずと、部屋のほうから顔を覗かせたのは、焼きそば屋さんの売り子ちゃん改め、映美の後輩の木下由香ちゃんだった。
映美と付き合うようになってから、ちょこちょこと会うようになった。初めのころに感じたお喋りで明るいという印象そのままの子だった。
「ピンク、親しげに話している場合じゃないわよ。こいつは地球人の振りをした、アクリアンなんだから!!」
ちょっと黙れ。誰がアクリアンか。由香ちゃんが困ったように笑っているじゃないか。ちなみに、アクリアンはパトレンジャーに登場した悪い宇宙人達のことである。
「改めて、何のつもりだ?」
「ピーンク、今しかないわ。私ごと貫いてぇ。彼を呪縛から解き放つのぉ!!」
「え、ええっと……」
よく見れば、由香ちゃんの手にも丸めた新聞が握られていた。この、見た目と心がちびっ子に付き合ってくれていたのかと思うと、申し訳なくて涙が出そうになるな。
「人の話を聞け。買ってきたハーゲンダッツを、俺と由香ちゃんで平らげても良いんだぞ」
ハーゲンダッツの入った袋を映美に見せながら俺がそういうと、不思議なぐらいにぴたりと黙った。この手は使えるな。
「うう……」
襟首をつかまれたまま、肩越しに俺を見上げる映美。あ、ちょっと泣いてる。そんなに?
「だって、退屈だったんだもん。おなかも減ったし」
「暴れたら、余計に腹が減るだろうが」
ぷん、と拗ねたようにそっぽを向く映美。俺はため息を一つついて、とりあえず襟首を離してやった。
「まあ、いいや、それじゃ大急ぎで作るから、少しだけおとなしくしててくれ」
「はあい」
つまらなそうに返事をする映美。昔、三十歳ってのはすごく大人だと思っていた時期があったけど、どうやら完全に思い違いだったようだ。
「それにしても、由香ちゃん御免ね。わざわざ来てくれたのに、あんなので」
「いえ、私も先輩に会えるのは嬉しいので」
「そう言って貰えると、嬉しいけどね。まあ、ご飯食べていってよ」
「あ、ご馳走様です」
ぺこりと頭を下げてくる。うちのちびっ子に比べて、なんて大人なんだろう。
初めて会ったときに学生だった由香ちゃんも、今年から社会人だ。まだ五月だとしたら、会社に慣れていないだろうし、実はしんどいんじゃないのかなぁ。いつもなら、もっとはきはき喋っているような気もするし。
俺と一緒で、実家に帰るのを面倒臭がってこっちで就職してしまったくちなので、住んでいるところは変わっていないらしい。自転車で、多分二十分ぐらいだろうか。
冷蔵庫の中には、ちゃんと俺が指示した材料が入っていた。よっぽど食べたかったのだろう、珍しく買い忘れや買い間違いはないようだった。
ボウルにひき肉と、荒微塵にした海老、それから細かく切った韮や調味料を放り込む。白菜は軽く下茹でしてから、やっぱりみじん切りにしていく。
「由香ちゃん、なんか見る?」
映美の声が聞こえた。どうせ、映美ちゃんコレクションだろう。疲れている人間に見せるものではないような気がしたが、止めて止まるものでもないしな。ごめん、由香ちゃん。
「あ、お任せしますよー」
ふむ、やっぱりいつもより静かだ。由香ちゃんの声には何だか張りもないようだった。
「……由香ちゃん、元気無いね」
「そう、ですか?」
「うん。パトレンジャーごっこじゃ、駄目かー」
はぁ?あれは元気付けようとしてやっていたのか?駄目に決まっているとは思うが。どういう思考回路の繋がり方をしているんだか。
それにしても、単にはしゃいで由香ちゃんを巻き込んでいたわけじゃないんだな。俺は、ちょっとだけ映美を見直した。
「仕事?話なら聞くよ。こう見えてもOLの先輩なんだからさ」
「あ、はい……」
少し静かになった。
切った白菜も混ぜて餡は完成。冷蔵庫から餃子の皮を取り出し、餡をちょいちょいと包んでいく。餃子作りの中では、かなり楽しい工程だと思う。
「実は、仕事で失敗しちゃいましてね。ちょっときつく怒られたものだから」
お、話が再会した。俺は、手元で餃子を作りつつ、二人の話に耳を傾けた。
「私、やっていけるのかなーって」
あー、それはきっと、誰もが通る道だね。なれぬ空間の中で起こす初めての失敗は、意外と心に圧し掛かってくるものだ。
「大丈夫だよ。大丈夫。全然平気。余裕」
ポジティブな単語を並べて見せる映美。そんなに強調しなくて良いとは思うけど、確かにその通りだ。
「まだ入社したばっかりなんだから。怒られるのは、由香ちゃんがちゃんと気付ける子になって欲しいからだよ。だから、次から気をつければいいの。向いてるかどうかなんて、分かるのはもっと後。今は、がむしゃらに頑張るときだよ?」
そうそう。向こうからは見えていないけど、頷いて俺も同意しつつ、最後の一つを包み上げた。
「先輩……」
「よしよし、不安だよね。新しいところで一人で、でも、大丈夫だからね」
え、映美が慰めている……。突然、隣の部屋が異世界になったような錯覚を覚えた。頭を撫でられることはあっても、撫でる側に回るなんて。それより何より、ちゃんと年上らしいこと、出来るんだ。
何もかもがあまりにも新鮮で、そして俺の積み上げてきた映美像からは違いすぎていたので、びっくりがおさまらない。
けど、何となく誇らしかった。俺の目は、狂っていなかったような気がする。
由香ちゃんが泣き始めたみたいだったので、その声が聞こえないように俺は餃子を焼き始めた。