春と別れの話
「***」
少年の声がした。
温かく滑らかなその声に、名を呼ばれた少女は振り返る。
春だった。冬の冷たく張りつめた空気が緩み始め、暖かな日差しが白い校舎の側面を照らす。正門の喧騒から離れた校庭の隅に、少女は一人で立っていた。
それまで桜の淡い桃色と空の青さばかりを映していた少女の瞳に、詰襟の制服を着た少年の姿が映る。
「卒業おめでとう」
「・・・ありがとう」
セーラー服の少女は、口の端を小さく持ち上げた。
「楽しかったかい?」
「まあまあかしら」
少年の問いに少女が答え、少年がまた尋ねる。
「やり残したことはない?」
「ええ」
「もう、大丈夫?」
「・・・そうね」
少女の答えを一通り聞いて、少年は微笑んだ。初めて出会ったときと変わらない、優しい笑顔だった。
「それは良かった。・・・――またね」
少年は嘯いて、少女は目を閉じた。
強い風が吹いた。風は少女の耳を掠めて、ごうっと音を立てた。少女は目を閉じたまま、その音を聞く。校庭の砂と薄桃色の花弁が風に舞いあげられる様子が、見えたような気がした。
風が走り抜けて、少女は目を開けた。
そこに少年は居なかった。砂の上のうっすらとした足跡も、微かな人の体温も、そこに人が居た気配すら残さずに、少年は居なくなっていた。
『またね』
そう言った少年の声を思い出した。その声と同じ優しい笑顔を、確かにそこにあった温もりを、少女は思い出した。
その別れの挨拶は、少年が口にした最初で最後の嘘だった。
少女は正門に向かって歩き出す。脇に抱えた卒業証書に、透明な雫が滴って丸い染みを残していた。
雨は降っていない。