99 レオナルと夢の雫
ひどく優しいものに包まれている夢を見た。
自分が猫にでもなって、ひだまりの中、まどろむような。
正体の見えない心地よさ。
例えば降り注ぐ陽射しのように、与えられるだけの。
それがもどかしくて、手を伸ばしていた。
くすくすと小さな忍び笑いが、俺をくすぐる。
あるはずのない影に手を伸ばした。手応えがあった事に驚きが隠せない。
逃してはならない。やっと妖精を捕らえられたのだ。
今にも消え去ってしまいそうな儚さを引き寄せる。
「これは夢か?」
抱き寄せた身体が、か細く震えながらも頷いたように感じた。
夢自身から肯定された。
胸に広がり行くのはあたたかな想いと、何ともしがたい――黒い想い。
(この浮き世離れした娘を俺の側に……留めおきたい)
二度と、彼女の本来あるべき清らかな場所になど、帰してなるものか。
妖精の抱き心地に酔いしれる。
夢は立ち去ることなく、舞い降りたままでいてくれた。
それに嬉しさがこみ上げてきて尋ねた。
「だったら俺の好きにしていいのだな」
いつも夢の中で幾度となく彼女を……。
彼女に吐息を埋め、熱を送り込んだだろう。
淡雪が熱に耐え切れず溶け落ちた所で、いつも目が覚めていた。
「はい……。レオナル様のお好きなように、お役立て下さい」
夢が答えた。
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縫い止めた手首の細さにめまいらしきものを覚えながら、自分の下に組み敷いた。
無邪気に信じてくれているであろう絆を今、踏みにじろうとしているのかもしれない。
姉の言った言葉が蘇った。
――あの子は人を恐れているわ。何よりも、貴方をね、レオナル。
意識が覚醒して行く。それと同時に再び夢見心地になって行く。
柔らかでありながら弾力のある肌は、どこもかしこも艷やかで甘い果実そのもののようだった。
胸元に唇を埋めると、鼓動が伝わってくる。
そこに印を付けるのが、ここ最近の俺たちの間の儀式のようなものになっていた。
鼓動の度に俺の想いを刻んで欲しいと、俺がそう望むからそう始めた。
いつもは恥ずかしがって、どうにか逃れようとするカルヴィナだが、今日はやけに大人しい。
そこにも違和感を覚える。
「カルヴィナ?」
『ええ、そうです。私は夜露です』
『俺の 夜 露』
夜の間に落ちる雫を味わいたくて、唇を寄せる。
俺の熱が伝わっても消えることのない淡雪の肌が、いよいよ幻ではないと教えてくれた。
『ええ、夜露です』
『俺が名付けた』
そう囁くとカルヴィナの体が一瞬、張り詰めた。
『ええ……。あなた様が付けた名前です』
『では、それを真の名にしてくれるのだな』
俺の頭を胸に抱きとめながら、カルヴィナが息を呑み込む。
『あなた様が、こよ、今宵、私をっ……。』
泣き出すのを堪えながら、苦しそうに言葉を紡ぐ。
その言葉の先をただ待った。
促すのもかわいそうな程、カルヴィナが思い切ろうと気持ちを固めているのが分かる。
―― だ い て く だ さ る の な ら ば 。
『カルヴィナ?』
間違いない。これは夢だ。
夢でもなければ、カルヴィナがこのような事を口にするはずがない。
自分で進んで口にしておきながら、震えているような娘だ。
何がそこまで決心させた?
暗がりの中、目を凝らしてその表情を読み取ろうと見つめた。
頬を包むようにすると、震える指先を重ねられた。
『カルヴィナ、どうした? 誰かに何か言われたのか? そうなのだな』
ここ数日、姉の家に預け置いたままでいたのだ。
そのせいで、ひどく不安にさせたのだろう。
体を起こし、膝に乗せるようにしてから抱き込んだ。
『レオナルさま……。』
『わかった。ずっとこうやって抱きしめておこう。だから安心してくれ』
抱きしめながら、その背を撫でてやった。
本当なら、言われるままに自分のものにしてしまいたかった。
そうしてしまえばいい、と囁く声をどうにか振り切る。
今ここで奪ったら最後、カルヴィナを芯から怯えさせる事だろう。
誰かにそそのかされて俺を誘った事が、カルヴィナの真の望みではないのが分かる。
奥歯を噛みしめ唸るしかない。
『だ、だいてくださるの?』
棒読みの台詞に内心苦笑した。たまらない程の可愛らしさだった。
愛しさが募りゆく。
『カルヴィナ、男を試すものではない』
うち震えながら涙を溢れさせる姿に、胸が締め付けられた。
幾度も泣かせた。幾度も痛めつけた。
その度に自分自身の胸も、同じように痛むようになって行った。
それは日増しに度合いを強めてゆく。
初めて怯えさせたあの日。
正直、なんであれ女が泣くのは気分が悪い。その程度しか思わなかった。
だが今は違う。
それでいて、まるで待ちわびていたかのようにも思う。
俺を想って涙を流してくれる姿が、愛おしくて仕方なかった。
恋焦がれる者の雫に、唇を寄せる。
こぼれ落ちる涙を受け止めるために。
まぶたに、頬に、鼻筋にと伝う涙を追いかけた。
『ためしてなんて、いません』
『おまえは。男に抱いてくれと言う意味を、ちゃんと解っているのか?』
『う……。レ、レオナルさまのものにして下さいって意味です』
『具体的には?』
『ぐたいてき?』
緊張のあまりか、こころなしか舌足らずな口調に尋ね返された。
思わず、ため息を付いてしまう。
『おおかたスレン辺りにでも、そそのかされた口だな。そうだろう?』
『そんなこと、ありません。私の、望みです』
抱いてくれと言いながら、その実どうされるのかを知らない娘に苦笑した。
それでもいい。充分、伝わってくるものがある。
拙いながらも精一杯の、幼い誘惑に胸が張り裂けそうになった。
ここ最近、訪れてもろくに口をきいてくれなかった娘が、想いを告げてくれている。
『これは夢か? 夢なのだな』
思わず漏らした呟きに、ひゅっとカルヴィナの息がつまる。
俺の唇を指先で押し止めると、吐息と共に囁いた。
『そう、これは夢ですわ。一夜の夢。夜露は朝日と共に消えるのが定め』
『……夢?』
『ええ、夢です。今までの事は何もかもが夢の中の出来事です』
『何もかも、だと?』
『ええ、すべては夢』
『夢……。』
そのまま二人、寝台に横になった。
カルヴィナの唇が、目蓋に押し当てられる。
あたたかな吐息を肌に感じた。
そのまま、抗いがたいまどろみに、引きずられるように身を任せた。
最後の力を振り絞って、カルヴィナを抱き寄せる。
再び、目蓋にぬくもりを感じた。
おやすみなさい、そう囁く声を聞いた気がした。
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そう、すべては夢。
夢。
一夜の……まぼろし。
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夢を見ていた。
だが何の夢だったのかは思い出せない。
朝日に暴かれる。
夢の残骸を拾い集めようとして、頭を振った。
それがあまりにも無意味だからだ。
寝台から起き上がる。
カーテンを開け、全身で朝日を受け入れる。
手を握り締めた。夢の名残を握りつぶすかのように、力を入れる。
夢など、夜の見せる幻でしかないのだから。
俺が向かうべきは夢などではない。
現実だ。
今日も勤めが待っている。
そうだ。
今日はスレンが保護した「大魔女の娘」とやらを、神殿に迎える日だ。
その娘は――髪も瞳も闇色まとうカラス娘だという。
娘は次代の、巫女王候補となる。
『いざとなったら。』
レオナルは間違いました。
だからこその結果です。
みなさまにちゃんと伝わりますように……。