97 スレンとシャル・メイユ
まるであやすような手つきと口調に、私は子供じゃないと文句を言いたくもなったが、いかんせん眠い。
その手つきが心地よくてウトウトしてしまう。
抱きかかえられて廊下を進む。
どこか別の部屋でお休みであろう、地主様を目指して。
差し出された彼の手を取って、部屋を出た。
これは夢だ。
夢なんだ。
きっと夢に違いない。
そうでなければ説明がつかない。
ここはジルナ様のお屋敷で、スレン様はいくら親しかろうとも部外者だ。
そんな人がこんな夜更けに、しかも寝室に訪ねてこれるはずがない。
『それが出来るんだよ。さすが、僕だろ?』
ふふ、と小さく笑いながら、私の前髪を自分の顎先でかき分けながら、呟く。
スレン様のまとった外套にくるまれて、あたたかい。
おおよそ彼に似つかわしくないような、夜闇を切り抜いたかのような色だった。
おかげで私というカラスは、厳重に闇にしまわれて人目には付きにくかろう。
いつの間にか心地よい揺れは収まっていた。
話し声が聞こえる。
拾い上げた声音は地主様のもの。
私の意識は、嫌でも現実に引き戻された。
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「姉上。一体どういうつもりなのですか?」
「あなたこそ、どういうつもりなの? レオナル」
「どういうつもり、とは?」
「私が聞いているのよ」
緊迫した空気であることが、口調からも伝わってくる。
それでも地主様の声は静かなものであったし、ジルナ様も同じだった。
お互いを思いやってこそのものだろう。
扉の隙間から漏れてくる声だけでは、二人の様子をはっきりと知ることは出来ない。
でもその分、余計に二人の緊張した状態が感じられる。
私は眠気も吹き飛んで、耳を澄ませてしまっていた。
こんな事をするのは間違っている。今すぐに立ち去りたい。
そう思って胸元にすがったが、スレン様はびくともしなかった。
きっぱりと拒否されたと知る。慌てて降りようともがいた。
でもそれもまた、封じ込めるように抱き込まれてしまっては、どうしようもない。
ちゃんと聞いて、フルル――。
そう、言われた気がした。
嫌だ。聞きたくなんてない。
頭を振って耳を塞いだけれど、どうしてか二人の声は響いてくる。
「巫女王様の体調は思わしくないと聞くわ」
「ほんの少しだけだ」
「今までにそんな事なかったわ。だから、周りだって余計に深読みする」
「確かにそうかもしれない。ご高齢であるから昔より、回復が遅いだけだ」
「あなたに巫女王様の、何がわかるって言うのレオナル?」
「巫女王様からのお言葉だ。心配はいらないと」
「側仕えたちの、でまかせかもしれないでしょう。あなただってもう、しばらく巫女王様にお会いしてないのでしょう?」
「……。」
「だからこそ、周りが動き始めたんじゃないの? 現にジャスリート公も動いているようね。その証拠にルゼ嬢があなたの所に押しかけた」
「それは、姉上。あなたが……。」
ガシャン!
何かを言いかけた地主様を遮るように、ジルナ様が大きな音を立てたようだった。
勢い良く立ち上がったせいで、茶器がテーブルから落ちたのだろうか。
「私のリディを神殿に何てやるものですか。絶対によ。あの子の、普通の女性としての幸せを奪うような真似はさせない」
「姉上。あまり興奮すると身体に障る」
「レオナル。貴方が大魔女の娘を連れてきたのは、私たちの意見と一緒だったからでしょう? そうよね」
「姉上……。それは」
地主様は黙り込んでしまった。
それが答えだと言うことだろうか。
「何とか言ったらどうなの、レオナル? 税を納めずにいたあの子を召し上げて、次期、巫女王として神殿にあげるために連れてきたのではなかったの。養女にすれば名目上でも、ロウニア家から輩出された血筋と認められる。そうすればリディを盗られることもない。貴方は望みの地位を築ける。あの子だって何に煩わされることなく、神殿の奥深くで暮らせて幸せでしょうに」
「それが本当に、カルヴィナの幸せだとでも?」
「あの子は人を恐れているわ。特にあなたをね、レオナル」
場が凍りついたような気がした。
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違います! そんな事はありません!
そう叫んでやりたかった。だがそれは許されなかった。
スレン様のマントにくるまれる。
カチャリと音が響いた。
扉が開け放たれたらしい。
口を塞がれているから、言葉を発することが出来なかった。
それに視界も遮られている。
スレン様はどう言い訳する気だろうか――?
だが、聞こえてきた声はあまりにも平坦だった。
「誰もおりません。風でしょう」
何ひとつ、動揺の感情も伝わってこない。
いくらなんでも、地主様でも無理な芸当だろうと思われた。
私だけならまだしも、部外者のスレン様がこんな夜更けに屋敷に忍びこんでいるのだから。
まったく気がつかれなかった?
そんな馬鹿な。
どうか地主様の演技であって欲しいと思うと同時に、ホッとする自分も居た――。
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次に視界が晴れた時には、寝室に戻っていた。
あまりの出来事に言葉が出てこない。
ただ、眼差しだけで問う。
今のは一体、どういったものなのか。
説明して欲しい。
人目につかず、闇を滑るように移動する術があるのかと、問い詰める。
スレン様は肩をすくめて見せただけだった。
私を寝台に座らせると、窓際へと寄りかかった。
『ねえ、本当に腹が立つよね。人間って勝手でさ。僕たちの事を、いつだっていいように使うのだから』
僕たち。それは私の事も含めて言っているのだろうか?
「私は利用されてなんて、いない」
『どうしてそう言い切れるのさ?』
「どうしてって、そんな。私に何の価値があるというの?」
ただの、小娘が次期巫女王だなんて、そんな話し……あるわけがない!
あるわけがない! あるわけがない!
そう強く拒否しながら、頭を振り続けた。
『あるさ。大有りだ。今の話しをちゃんと聞いていただろ? その証拠にレオナルは君を抱かないでしょ』
「抱っ……!?」
『いくらでも機会はあっただろうにさ。ね?』
「それとこれが何の関係があるっていうの」
『巫女は処女じゃなきゃダメだからね』
いつの間にか、側に立っていたスレン様は私の顎を持ち上げると、そうしみじみと呟く。
「ねえ、あなたはだれ? 誰なの?」
『僕は僕だよ』
「納得できません」
『どうして僕たちの言葉で話さない? 大魔女の娘』
「……。」
唇の端を釣り上げたのが、闇の中、うっすらと見えたが瞳は笑ってない。
『今さら、そちら側に留まっていたくなったの? 僕たちをいいように使う事しか、考えていない奴らの側に』
そんな事はない。
認めたくない。必死で首を横に振った。
苛立っているのが伝わってくる。
それは静かに夕闇が迫ってくるのに似ていた。
『僕は風。忍び寄る夜の闇。空から零れ落ちる雨の雫でもあるね』
万物のひとつだよ。
君もね、フルル。
本当は知っているくせに。
首を両手で包むようにして、瞳を覗かれる。
その瞳は闇を映していた。
私と同じだ。
『僕はもう嫌なんだ。彼女たちから、置いて行かれるの何て……。』
『置いてゆく?』
『それは辛い。ひどく辛いよ、フルル。誰一人として僕とは、ずっとは居られないんだ。そのくせ、軽々しく永遠を誓うなどと言い出すんだから! 人間はどうしてああも、もろくて儚い造りをしているんだろうね?』
『スレン様?』
『フルル。君もそんな悲しみを覚悟してレオナルの側にいられるの? 時に連れ去られて行くにつれ、彼らの向けるなんとも言えない……あの、瞳に耐えられる? フルル、レオナルもそうだよ。時にさらわれ行く運命の者』
『そんなこと……。』
『僕はもう嫌だ!! 耐えられない!!』
スレン様が叫んだ。
その叫び声があまりにも悲痛で、私は耳を塞ぐ。
『ねえ。今度こそ僕を選ぶよね? 僕の花嫁』
――シャル・メイユ。
我が花嫁と宣言された途端、身動き出来なくなる。
差し出された手のひらだけが、闇の中で浮かんで見えた。
『一角の君あたりもほざいてましたね。そういえば』
シャル・メイユ。
古語で我が花嫁って意味でございます。
裏切りは最初からなのか。
辛いですね、魔女っこ。