96 ミノムシと地主と従者
大きな手のひらに、すっぽりと頬を包み込まれる。
のぞき込むようにしていた、目線が合わされた。
もう片方の手はゆっくりと首筋を伝っていた。
指先がゆっくりと、私という線をなぞって行く。
「ようやくこちらを見てくれたな、カルヴィナ」
ひとつ、瞬きをすると涙が伝い、零れ落ちた。
地主様だった。
また知らない男の人という顔を見せられて、私は怖くなってしまった。
さっき、地主様に触れられた場所が熱い。
そっと見下ろせば、胸元のリボンは解かれ、大きく開かれたままだった。
慌てて隠すように胸元に手をやったが、大きな手に邪魔されてしまう。
それに加えて囁やき込まれた言葉もまた、私を追い詰めてくる。
「カル、ヴィナ……。」
またあの、掠れた声に呼ばれて我に返った。
目の前には地主様の顔があった。
近い。
だから少し、首をすくめて後ろに下がろうとした。
それを許さないように、顎をすくい上げられてしまう。
鼻先が微かに触れ合う。
吐息も、また……。
「嫌っ!!」
――パンッ!
乾いた音が響いた。
「ご、ごめな、さぃ」
ぶってしまった。
思わず、無意識の内に手が出ていたのだ。
何てことをしてしまったのだろう。
直後、じんと痺れたのは手のひらだけでは無かった。
今まで見られた事のないような、鋭い目付きで睨まれたからだ。
体中が麻痺して動けなくなってしまう。
そこに覆いかぶさるように、地主様が寝台に両手を置いた。
「おまえが俺を焦らすから悪い。それにその格好は、誘っているのだろう?」
そんなつもりなんかじゃない。
首を振りながら、胸元を隠すようにした。
解け落ちたリボンが掠める。
慌ててリボンを結ぼうとしたが、うまくは行かない。
指先が震えて、思うように動いてはくれないのだ。
不自由なのは足だけで間に合っている!
思い通りに行かないもどかしさに、癇癪を起こしそうだと思った。
こんなにも間近で見つめられたまま、必死でリボンを結ぼうとしている姿は、さぞや滑稽に違いない。
そう思ったら、また泣けてきた。
「……っ、ぅえっ」
こらえきれずしゃくりあげると、体を引き寄せられた。
「ああ、ああ! 違う。俺が悪かった。また、おまえを責めるような事を言ったな。許せ」
泣きやもうにも、嗚咽が止まらなかった。
安心したせいもある。
地主様だ。
ぎゅうと抱きしめて包まれて安心した。
地主様だ。
もう、来ないかと思っていた。
あんまり期待してはダメだと、自分に言い聞かせてもいた。
でも、来てくれた。
何とも言えない気持ちを、どう表せばいいのかわからない。
地主様の香りと体温に包まれて、恥ずかしくなってしまう。
まだ胸がはだけたままだ。
腕で庇いながら、もぞもぞと体をずらそうとした。
そんな風に身を任せきれない私をどう思ったのか、不満そうな声が降ってきた。
「カルヴィナ。そんなに警戒しないでくれ、と言っても無理……か」
そっと体を離されたと思ったら、地主様はリボンを結び直してくれた。
ホッとして、少し肩の力が抜けた。
と、思ったらまた紐解かれてしまった。
「!?」
気が付けば背中を寝台に預けて、天井を見上げていた。
「ここならお前にしか見えないから、いいだろう?」
何を言われているのか、理解できなかった。
混乱したまま、自分の鼓動を跳ねるのを聞いている。
その心臓の上に、温かなぬくもりを感じて我に返った。
ここなら――。
それはすなわち、私の心臓の上だった。
「やぁ!」
「カルヴィナ」
かすれた声にすら、肌を嬲られたように思えて、ただただ震えていることしか出来ないでいた――。
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地主様の動きが止まった。
何の前触れも無く、ピタリと。
驚いてしまい、思わず見上げた。
遠くから誰かの、忙しそうな足音が近づいてきた。
よくよく耳を澄ませば、馬のいななきも聞こえてくる。
誰かが訪ねてきたに違いない。
そう思ったら、控えめに扉を叩く音がした。
「レオナル様。申し訳ありませんが、お急ぎを」
そっと気を使うように声を掛けられた。
声の主はエルさんだった。
「エルさ……んぅ!」
思わず確かめるようにその名を口にした途端、口付けられてしまっていた。
唇同士をそっと合わせるようなものではなく、噛み付かれたと表現するのが相応しい気がする。
口付けというよりは、口封じだった。
どうしたことか、怒らせてしまったようだと言うことだけは伝わってくる。
眉根を寄せて耐えていると、勢い良く抱き起こされた。
また、ぎゅうと抱きすくめられてしまう。
「もう少し、時間がかかる。だが必ず迎えに来るから、待っていてくれ」
そう言い残すと、地主様は去って行った。
私はといえばほうけたまま、言葉もなくその背を目線で追うだけだった。
レオナル様。
私は本当にミノムシになってしまったかのように、何の言葉も出てこなかった。
危なかった。
安堵するけど、残念な気もしてしまう。
残念――?
自分にそんな想いが湧き上がった事に赤面してしまう。
指先で唇の輪郭をなぞった。
地主様の動きを再現するように。
はしたないのかもしれない、と一人顔を赤らめる。
自分で自分の両頬を打った。
そのまま頬を挟み込んだまま、体を二つ折りにする。
恥ずかしくて、誰も見ていないというのに、何となく顔向けできなかった。
誰にという訳では無いけれど、何となく。
私は臆病者だ。
差し出されたものを受取れず、かといって拒む事も出来ずに、ただ持て余しているだけなのだから。
カーテンにくるまったまま、動けずにいた。
彼から伝わってきた想いを噛みしめながら、打ち震えていることしか出来ないでいた。
本当は伝えなければならない事があるはず、なのに。
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それからも、地主様はふいに訪れては去ってゆく――。
私は相変わらず臆病なミノムシのままだった。
目には見えないかもしれないが、小枝の鎧をまとったままで地主様と向かい合う。
その度にミノムシはまた、ささやかな鎧を取り払われてしまう。
微かな熱を私に与えては、必ず迎えに来るからもう少し待つように言いおくのだ。
もう少し、ってどれくらい何だろう?
それすら怖くて訊けなかった。
曖昧に頷きながら、その背を見送る。
聞きたいことがたくさん、たくさんあったはずなのに。
地主様もまた、言いたいことがたくさんあるように思えるのに。
お互い何かをごまかしながら、短い時間を重ねている気がしてならなかった。
私も地主様も、何かを静かに待っている。
それが何なのかは言葉にするのは、ためらわれてしまう。
だから、お互いにいつもほとんど何もしゃべらないのだと思う。
その正体を明かすのは、怖い――。
地主様がふいに訪れてくれる短い時間だけが、今の私の全てだった。
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夜中、ふと目が覚めた。
そっと頭を撫でられた気がして、闇に目をこらす。
『やあ』
「スレン様?」
『ん。こんばんわ、フルル』
「こんばんわ」
『さ。起っきして?』
眠い目をこすりながら、どうにか身を起こすと、横抱きにされた。
夜具から出された途端、ひんやりとした空気が意識を引き締める。
「どこに行くのですか?」
『ん? いいところ』
音も無く、闇の中を滑るように、スレン様は進む。
笑みの形を作る、口元だけしか見えなかった。
『いいところ?』
小さくあくびを噛み殺しながら、私も古語で返した。
『そう。レオナルのところ』
『こんな時間に?』
『こんな時間に』
くすくす笑いながら、背中をぽんぽんと叩かれた。
『えも言われぬ不安に押しつぶされそう。』
どこかで予感しているだけに、言葉にできないでいる魔女っこです。
おお、シリアスだな。
さあ、がんばって!
応援、よろしくお願い致します……!