88 スレンと女の子
地主様が、あの方、と……。
慌てて手すりから離れようとして、転ぶ。
「うっぇ」
嗚咽が漏れた。
すごく、惨めで仕方がなかった。
痛い。
どうしようもなく、胸が、痛い。
切なさとやりきれなさ。
そして無力感。
自分で立ち上がることすら出来ない。
そのまま突っ伏して泣いていると、影が差した。
「ああ、転んじゃったの? 泣き虫なんだから」
スレン様が手を貸してくれる。
確か内側から、鍵を掛けたはずでは?
でも、どうして、とは思わなかった。
今は構うところではない、という余裕のなさが本音だ。
「フルル、はい、よいしょっとね」
私を抱え起こすと、当たり前のように首のリボンを解かれる。
「お着替えしようね?」
また、ごしゃごしゃと頭を撫でられた。
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スレン様の手つきは思いの外、優しかった。
私も抵抗なく、されるがままでいた。
スレン様は何も言わない。
そんな私を見つめる瞳と目があった。
深い緑。
まるで雨に洗われる森の木々のように、そぼ濡れているかのように揺れて、惑う。
それは私の瞳が涙で霞んでいるせいだろうか。
「ど、ぅして?」
「うん?」
「スレン様が泣きそうなのですか?」
「そう見えるんだ」
そう言うと、スレン様はぽんぽんと私の頭を軽く叩いた。
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「ねえ、見て見て。フールールー?」
ねえねえと歌うように名を呼ばれて、ゆるゆると目線を上げた。
「うっわ。レオナルの奴。痛いなぁ。何だこの贈り物の多さは!」
スレン様が次々と、棚に納められた衣装を取り出し始めた。
次々と寝台に置かれて行く衣装たちに、何故だか顔を背けてしまった。
どれもこれも気後れするほど、魔女の娘には過ぎた物だと思う。
こういう物はああいった方にこそ……。
そこまで思って自分の卑屈さに嫌気がさした。
頭を振って唇を噛み締める。
自分を貶めたって何にもならない。
この衣装を贈ってくれた地主様に対しても、失礼だ。
「ねえ。これはもう着てみた事はある? あ、そう。じゃ、これは?」
藍色の衣装は、この間の夕食の時に着た。
静かで深い夜の静寂をまとうかのように思えた。
だから心を落ち着けて、どうにか食事の時間を乗り切れた気さえした。
それきり、袖を通した事はない。
新しい物が次々、次々と用意されてしまうから。
お姉さんたちも次々と新しい、まだ着たことのないお衣装をどうぞ、と言って勧めてくる。
いつも、ためらいながら通す衣装たち。
深い藍色、薄めの空色、明るめの深緑に、薄淡い黄緑色。
色とりどりの洪水は変わらない。
でも最初のころよりもずっと、控えめな物を用意されている事くらい、ちゃんと気がついている。
どれもこれもみんな、私の心許せる森にある色合いばかりだ。
そう感じるのは、私の思い上がりなのかもしれないけれど。
そうしていくつかの候補の中で、目が覚めるような赤い衣装を当てられた。
これはいくら何でも派手すぎやしないだろうか。
目立ちすぎて恥ずかしい。
そんな気後れが表情にも表れていたのだと思う。
スレン様はニッと笑った。
「んん? 自分で着る? それとも僕が着せてあげようか?」
首を横に振る。
「どうして? これじゃ嫌なの?」
「あ……。派手すぎるから」
「派手? そうでもないと思うよ。こんなの」
「充分、派手だと思います」
「そう。この色は何の色に例えようか、フルル?」
「え? えっと。ナナカマドの赤い実の色みたいです」
「お。いい例えだね。アレは雪景色の中でも、鮮やかに赤くて小鳥たちに存在を教えてくれているよね」
「はい」
「でも、フルルは派手すぎる何て思わないでしょ」
そうだ。
秋空にも充分映える赤い実は、冷え込んでも実りを付けてくれているのだ。
雪をかぶって赤い実は、ひときわ鮮やかに映る。
確かに派手すぎるだなんて、思ったりしない。
ナナカマドはナナカマドだから、赤い。
「はい」
「じゃ、これね」
何だか丸め込まれてしまった気がしないでもないが、すんなりと受け取る事が出来た。
「そうそう。どんな時だって面を上げていなけりゃ、女がすたるよ。それに。そんな気持ちを助けてくれるような、装いってものがあるわけ」
そこで一つ、息を大きく吸うとスレン様は目を細める。
『ナナカマドの赤は燃えたぎる炎にも匹敵する。剣をも鍛えるあの、炎のように。それでいて七度釜戸に焼かれても燃え尽きることのない樹木。そんな色彩をまとう事に、何を気後れする必要があるだろうか。森にあるもの全ては、君の力添えになりたいと願っていると言うのに』
一息に告げられた言葉は古語だった。
きっと何らかの意味合いを持つ、言葉の並びのように響く。
その意味を問いかけようにも、ただひたすらに見つめて、言葉の余韻に浸る事しか出来ずにいた。
手渡された衣装を強く握り締めるくらいしか。
そんな私にスレン様は背を向け、ひらひらと手を振った。
「何だか、誰かさんの足音が近づいて来ているから、早くねー」
「!?」
慌てて衝立ての後ろで着替える。
急いだのと、着慣れないせいで、思ったより手間取った。
そんな時、ドンドンと扉を叩く音がした。
驚いて肩が跳ね上がる。
「はいはい、レオナルちょっと待っててー。フルルはお着替え中だから、開けちゃダメー」
そんな事をさらりと、扉の向こうに言わないで欲しい。
ドンドン・ドンドンと乱暴に扉が叩かれている。
幾分、下の方からも響いて聞こえたから、扉を蹴りつけているのかもしれない。
―― ス レ ン! 貴 様 こ こ を 開 け ろ !
そんな怒鳴り声もどこか遠い。
「フルル、気にしなくていいからね。でもレオナルが扉を蹴破っちゃう前に、お着替えしてあげて」
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相変わらず、扉の向こうからは大きな音がしている。
そんな事はお構いなしで、スレン様は自分の調子を崩さない。
私を鏡台の前に座らせると、白く柔らかなショールを肩にかける。
「うん。いいね。ナナカマドの花の色だし、ピッタリ」
それから髪を梳かして整えると、素早く香油で撫で付けてくれた。
別の入れ物も素早く開けると、すくった蜜蝋を私の唇に塗る。
手の甲で私の頬を撫でて、考え込んでいたのだが「いいか。このままで。おしろい必要なし」と言うと、手を離した。
「はい、出来た。ん、可愛い可愛い。……まずい。僕も、はまりそう。女の子で着せ替えゴッコ」
支度が終わると、ひょいと抱きかかえ上げられてしまった。
そのまま、歩き出す。
扉は変な軋み音がし始めていた。
「もう、泣かない、泣かない。いいこ、いいこ。フルル、ちゃんと見てなよ。レオナルの顔」
そう、扉を開ける前に囁かれた。
『魔女っこのこれからの出方。』
どうした訳か、またしてもスレンが出しゃばる。
スレンのセリフにご注目。
「僕も、はまりそう。」
も、って。
うん。はい。はまってます。
着せ替えゴ……?