87 レオナルとルゼ
かつてと何ら変わらない笑顔で、口調で、ためらいもなく言い切る女を見た。
いつかの想いはあまりに遠かった。
今、この胸を占めるのは嫌悪感だ。
この女、何を言い出すのかと腹が立つ。
無力なカルヴィナを攻撃する様子は、ただの弱い者虐めだ。
そしてそれを阻止できなかった己に対しても、憤りを感じている。
「俺が変わった?」
「今だってそうだわ。話し方からすでに距離を置こうとしているものね」
顎をそびやかし、流し目をくれながらルゼは続けた。
「レオナル。貴方はわたくしに求婚したのよ。恐れ多くもこの、公爵令嬢のわたくしによ? 爵位もない地方の一地主でしかなかった貴方が」
「ルゼ、それは」
「忘れたなどとは言わせない。貴方は身分の差を必ずや埋めて見せるとまで宣言したわ。そうでしょう?」
「……ああ。そうだったな」
「そうだったな、ですって!? そんな事で済ませようというの」
取り出した扇で俺を指しながら、ルゼは笑った。
それはどこか自嘲じみていて、言うほど俺を責めてはいないように思えた。
「貴方がおおっぴらに求婚したことで、わたくしは迷惑を被っているのよ。だから、貴方も困ればいい気味だわ」
「ルゼ。あんたとは終わったと思っている。とっくに。今更なんだ?」
勝気な瞳が俺を見据えている。
そこにあるのは強い挑戦的な光だった。
まっすぐに射抜くように視線をぶつけてくる。
少しでも怯む俺を見逃すまいとしているのか。
敵と見立てた相手に敵意を隠しもしない。
ルゼのこの挑戦的な生き方は、けして嫌いではなかったはずだった。
今は受けて立つ気も起きず、ただ受け流すに止めた。
「何故?」
「あんたは婚約した」
「そうね。お父様に逆らえずにね。けれどもまだ、正式にではない」
「嫌々なのか?」
「そうでもないわね」
「だったら何をしにきた」
「貴方が悪いのよ。いつまでも、わたくしを想って努力し続けているようだったから」
「引くに引けないところまで来てしまったから、引っ張り出されるだけだ」
思いがけずに手にした立場の重責は、次々と努力を必要とされる。
それに応えねば、仕事をしたとはいえまい。
だから向き合う。それだけの話しだ。
「あらそう。世間はそう見なくてよ。それに随分なでしゃばり具合じゃなくて? 特別な能力者でもない貴方が、神殿入りしているだけでも異例なのに。それが護衛団の総指揮者ですって? しかも巫女王様の覚えもめでたいときている」
ふふふ、と軽く小馬鹿にしたように鼻を鳴らされた。
だが気にするところでもない。
それよりも、そんな事をいちいち口にするルゼに対して疑問を覚えた。
「俺には神秘の能力とやらは確かに備わっていない。だがしかし、そういった能力に恵まれたあまりに偏った見方もしない。そう言った点において、あの集団に必要な指揮が出来る能力はあったのだろう。そこを磨いたまでだ」
「相変わらず抜け目のないこと。そうね。あそこは比較的高い能力者の集まりではあるけれども、組織としてはもろい部分も否めない。そこに事務処理能力にも優れた貴方が高く買われたって訳ね」
ルゼの洞察力は相変わらずだった。
物の見方が俺と近い。
だからこそ、彼女との会話は子気味良いと感じてもいたのだ。
そこに親しみを覚えたのかもしれない。
だが、今こうして話してみると、それは同志としてだったと思えた。
「そうだな。俺にしてみたら何故、今までその点に誰も気がつかなったのか疑問でならない。まあ、古い組織ほど訳の分からない縛りが多いものだろうから仕方がないのかもしれないが。幸いなことに巫女王様が柔軟であってくれたからだ。運が良かった」
「それでも神殿内の風当たりは強かったでしょうに」
「せいぜいジジイどもの嫌味くらいで、実害はそうでもない」
「そんな風に流せるとは思えないけど。邪魔者は排除する。それがあそこのやり方でしょ」
「だから俺は運が良かったのだと言っている。巫女王様のお力添えがなければ、今の俺は在りはしない」
「そうなのでしょうね。お噂にしか聞いたことは無いけれど、あの御方の聡明さはよく耳にするわ」
「古いものを全て否定しても始まらない。だが、新しいものを入れる必要があるとあの方は知っておられた。そこにちょうど良く、俺のような染まっていない余所者が現れただけだと仰っておられる」
「まあ。思っていた以上に先を見据えている方なのね。だったらお父様の手のひら返しも、解らないでもない」
「手のひら返し?」
「もともと王属よりも、神殿側に付いていたのがジャスリート家だったもの。うちもかつては能力者が多く出る血筋だったようだし。今は上手く均衡が保たれているようだけれど、どちらに付いたら公爵家の命運は開けるか。お父様が目を付けたのはそこよ」
相変わらずのタヌキぶりだ。
口には出さなかったが、表情には出ていたのだろう。
同意したようにルゼが頷く。
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ルゼはしばらく扇を開いたり、閉じたりしながら、黙っていた。
言葉を選んでいる。
そう思ったから、俺も黙って待った。
ここからが本題だろう。
そう察する。
ルゼは声を潜めて、口火を切った。
「そんな貴方が次代の巫女王の後見者となったら、その地位は揺るがないものとなるわ」
「何の話しだ」
「そういうことよ。ロウニア家は最初、リディアンナ嬢を候補に上げていたはず。それを覆し、今度は大魔女の娘を候補にしたそうじゃないの」
「何の事だ?」
「しらばっくれないで!」
「ルゼ、俺には話しが見えない」
訝しむような眼差しが向けられた。
それに臆する理由もない。
本当に、何の陰謀が一人歩きしているのだ?
事の重大さを見過ごす訳には行かない。
カルヴィナを神殿に上げる。
次代の、巫女王として。
確かに身内から巫女の王となる者が出れば、その影響は計り知れない。
はじめの頃、その案は否定しなかった。
だが今は違う。間違ってもそれは無い。
あれは俺の側に置く。
ずっと。
そう決めている。
そこに邪推を働かせた奴がいる。
俺が大魔女の娘に入れ込むのは、自分の地位を確かなものにし、公爵家に取り入るためなのだと。
冗談ではない。
事の真相を明かしてやりたい。
早いところ対処し、くだらない話しの出どころを潰さねばなるまい。
ルゼにその先を促した。
「一体、誰の企てが一人歩きしている?」
「貴方で無いと言うのなら、わたくしには解らないわ。でもね、レオナル。その噂はずい分と広まっているの。お父様が、貴方を婚約者の候補に加えてもいいと言い出しているくらいに」
「公爵が?」
思いもよらない事態だった。
ルゼの父親である公爵は、相当なタヌキで間違いがないと改めて認識した。
しかし俺に対する評価は、地を這うほどだったと記憶している。
当然、俺のことなど、歯牙にもかけないでいたくせに今更何だという。
「そうよ。どうしてくれるのよ。おかげで、あの人との婚約は事実上白紙に戻ったわ。それなのに、貴方だけが幸せだなんて、許せる訳がない」
「改めて問う。どういう意味だ」
それには答えないまま、ルゼは微笑んで見せた。
「しばらく匿ってちょうだい」
「それは出来かねる。お引き取り願おう」
「最後くらい言うことくらい聞きなさいよ」
「最後も何も最初からあんたとは何もない。始めることすら許されなかったのだから。そうだろう?」
静かに告げる。
もう、話すことなど何もない。
少なくとも俺はそう思っている。
真正面に立つ貴婦人は何も答えなかった。
冷たさを含んだ風が、頬を撫でて行く。
「喉が渇いたわ。お茶ぐらい振舞ってくれるでしょう?」
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それは和解の申し出なのだと受け取った。
カルヴィナの元へと急ぎたいのを堪えて、招かれざる客人を案内する。
何の感慨も無かった。
いっそ、清々しいくらいに。
一体、この傍らとの女性との時間は何だったのだろうかと、首を捻りたくなる。
お互い異性であったからこそ、生じた幻想に踊らされてしまった気がする。
そうだ。彼女が同性であったなら、間違いなく同志として仲間になっていたことだろう。
それこそ、言っても始まらないが。
ルゼとて、同じことだろう。
嫌にあっさりと引いた。
もとより俺に対する執着は薄い。
自身の婚約が決まってからは、まるで連絡が無かった。
ルゼは恐らく、婚約者のことを少なからず想っている。
だからだ、と推測する。
俺にどうにかしろと文句を、忠告もかねて押しかけたといった所か。
このタヌキ親父の血を引く娘は、けして本心を暴露する事は無いだろうが。
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急にルゼの歩みが止まった。
「な、」
『このルゼ・ジャスリートがザカリア・レオナル・ロウニアよりも高みに立つ』
問いかけるよりも早く、何事かを呟かれた途端、俺の足も止まった。
足だけではなく、体が動かなくなった。
咄嗟に彼女と間を取ろうとしたのだが、遅かった。
縛られた。
自由がきくのは眼差しだけだった。
精一杯睨んでも、ルゼは笑みをたたえたまま、ゆっくりと近づいてきた。
柔らかな体を押し当てられ、首筋を細い指が這う。
『屈んでちょうだい、レオナル』
抗わない自分の膝が恨めしい。
その途端、彼女の唇が額に、次いで唇の真横に当てられた。
女の柔らかさに、煩わしさを感じたのは初めてだった。
きっと腕が自由だったら、突き飛ばしていただろう。
ルゼとてそこを踏まえていたからこそ、妙な術を用いたのだと思う。
油断していた。
『ザカリア・レオナル・ロウニアを解放する』
そう長い時間では無かったはずだが、ずい分長いように感じた。
「ルゼ! 戯れが過ぎるぞ」
「ふふ。怖い顔。ダメよ、レオナル。そんな風じゃあ、ますます子猫ちゃんに怯えられちゃうわよ」
背後に微かな気配を感じて振り返った。
だがそこには誰も居なかった。
しかしそこはカルヴィナへとあてた部屋の前だった。
もしや、まさかと視線を上げる。
見上げたバルコニーに人影は無かったが、わずかに出入りの窓が開いているのが見えた。
「ルゼ、何がしたいんだ?」
「決まっているわ。もちろん」
――嫌がらせ。
「どうしてわたくしが振られなくちゃいけないのかしら? わたくしが貴方を振るの。そうでしょう?」
訳の分からない主張をするルゼに背を向け、駆け出していた。
『ルゼ、居座る気まんまん』
ただで帰るもんかの構え。
せめてレオナルからは一本取りたい。
そんな意気込みです。
ルゼは頭の良すぎる女性なんだけど、そこは女らしく感情が結構先走る
っていう設定です。