86 地主と公爵令嬢
木漏れ日の中を進む。
傍らには公爵令嬢を伴っている。
かつてならば、心踊った一時であったはずだ。
だが今は、そんな日々すらも遥か遠く過ぎ去った出来事のように思えた。
あえてカルヴィナの存在は無視したのだが、それくらいで見過ごす女ではないのがルゼだ。
エスコート役を引き受けたのも、さり気なくカルヴィナから遠ざけるため。
二人、しばらく無言で庭を進んだ。
双方、お互いの出方をうかがっている。
要は腹の探りあいだ。
示し合わさずとも、足が向かう先は自然と決まっていた。
かつてのささやかな逢瀬の順番そのままに、とりあえずの目的地は庭の奥にある東屋だ。
確かに二人きりで会話をするのには、最適の場所ではある。
そこに立ち入ってもいいのは、鍵を持っている者だけだからだ。
庭師にも手入れの際には、俺自身が鍵を渡し、作業が終わり次第返却してもらう。
貴族のしきたりなんぞに倣う気は無かったが、身分ある人を招くのならそれくらい当然かもしれないと考え、造らせた庭園だ。
そういえば、ここを訪れるのはずい分と久しぶりだった。
腰の高さほどの扉を開ければ、薔薇をからませたアーチが出迎えてくれる。
だがもうとうに花の時期は過ぎている。
思えばそれ以来、ここには訪れていないのだと思い出す。
花の盛りの頃には大輪の、そして色とりどりの薔薇が香しく咲き誇っていた。
毎年迎えるはずのその季節も、どこか遠いもののように思えてならない。
今年のその季節、この館にカルヴィナはまだ居なかったのだ。
もし居たのならば、この庭の鍵を渡していたかもしれない。
次の花の盛りには必ず、と思う。
彼女が微笑むのは、何も咲き誇る花にだけでは無いと知っているとしても、俺はそれを望んでいた。
今は無性にカルヴィナが丹精込めて世話している、あの小さな畑に戻りたかった。
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「あの子猫ちゃんの事、考えてるでしょ?」
絡めた腕を引き、わざとらしく密着してくる。
そんな令嬢に辟易しながらも、まさか振り払う訳にもいかない自分が嫌になる。
ルゼもまた、それを承知の上でやっているのだ。
ささやかな権力行使の嫌がらせ。
先ほどだってそうだ。
カルヴィナを前に、俺たちの関係を匂わせるような会話運びだった。
正直、ルゼの気性からすると「彼女らしくはない」やり方だったように思う。
公爵令嬢などという肩書きの貴婦人の割に、箱入りではないのがルゼだ。
無邪気に己の身分を高位と位置づけて、人を見下すような真似はしない。
いや。
俺が勝手に、そう思い込んでいただけなのかもしれない。
彼女を崇拝するあまり、何かを見落としていたのか。
そのルゼが、カルヴィナをこき下ろしていた。
「子猫ちゃんは一人では上手に歩けないのね」
さり気なかったが、アレはカルヴィナに対する攻撃だった。
カルヴィナとてそう感じただろう。
少なくとも、俺は不快だった。
一体、何を企んでいるのやら。
ただ無言で歩みを止め、やんわりと東屋の方へと促した。
かつてここに並んで腰下ろし、一緒に庭を眺めたものだった。
風雨にさらされた腰掛ではあるが、ルゼは構わず腰を下ろす。
俺は横に並ぶこともなく、立ったままで距離を置いた。
挑発的に微笑む女を見下ろす。
ルゼもまた、視線をそらすことなく俺を見据える。
美しい姿の、公爵令嬢だ。
かつて恋焦がれた女。
手に入れようと躍起になっていた。
自分には無いものを、何もかも兼ね備えた女性。
手を伸ばしても、そうやすやすとは届かないところで咲き誇る花だった。
ただ、それだけだったと今は思う。
「レオナル。貴方の飼い猫ちゃんは結構、気が強いのねぇ。言われっぱなしじゃなかったもの。もう少し話していたかったのに、残念だわ。邪魔が入って」
そこは全く同感だ。
カルヴィナは控えめであるが、けっして大人しい性格ではない。
言われっぱなしであってくれた試しが無いのだ。
カルヴィナにその気は無くとも、何かしらの形で俺は報復を受けてきたとすら思っている。
まあ、全て自業自得だと言えばそれまでだが。
「あれは物を知らぬから。何かご無礼でも働きましたか?」
「いいえ。逃げ出したいようだったけど、我慢して居てくれたように思うわ。わたくしの手を拒まなかったもの。優しいのね、あの子」
「優しい? 確かにそうだが、こんな短時間で解るものなのか?」
「わたくしにあの子の何が解るのかとでも言いたげね、レオナル。解るわよ。貴方は鈍いから、ようやく最近気がついたのかもしれないけれど」
「確かに周りからは慕われているな。本人にあまりその自覚は無いようだが」
「そうね。でも、わたくしはあの子、嫌いだわ」
くすくす笑いながら、さらりとルゼは言い切った。
「あの子が現れてから、貴方が変わったからかしらね?」
『レオナル、前の女とはきっちりケジメつけとけ。』
仮タイトル、そのままの内容でした。
ドロドロ~泥沼。
そんな始まりの予感。