85 子猫と貴婦人と地主
この方は、かわいそうな人なのかもしれない、だなんて。
そう思った私が馬鹿だったに違いない。
確かに寂しい気持ちは本物かもしれないが、だからといって黙ってからかわれているなんて、嫌だ。
「私、子猫なんかじゃありません」
「じゃあ、何だっていうの? 子猫ちゃん」
「大魔女の娘です」
「ええ。知っているわ? 何でも真の名は名乗れないのだ、という話でしょう。だったら好きに呼ぶしかないじゃないの」
それがどうかして? とでも続けられてしまいそうで、私は言葉を失う。
でもそのまま、見失っては駄目だと自分を叱咤した。
それに、どうして私の事を知っているのだろう?
その事にとてつもない違和感を覚えるのは、何故なのだろうか、気持ちが悪かった。
もやもやとした重い澱のようなものが、胸に積もってゆくかのようだった。
振り払い様もなくただ、ただ幾重にも重なって行く。
「さ、さようでございましたか。私は地主様にお仕えしております。失礼ですが、お客様はどなた様で……。」
「カルヴィナ! ルゼ!!」
「ルゼ、様を付け忘れちゃダメでしょ、レオナル」
――いらっしゃいますか?
思い切って尋ねた言葉は、続ける前に遮られていた。
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聞きなれた大きな声が二つ、聞こえたと思ったら、あっという間だった。
地主様とスレン様が駆けつけてきた。
彼らにしては珍しく血相を変えている。
その勢いに押されて、思わず身を引き気味にした。
それに二人とも、お勤め用の正装をしている。
何だか物々しい。
それでも、この傍らの貴婦人は微塵も動揺していない。
それどころか、まるで構ってもいないようにも映る。
いや、先程よりも気安さが薄らいだかもしれない。
表情も笑っているけど、固く、どこかぎこちない。
先程までの屈託のなさは、どこに行ってしまったのだろう。
二人を見ようともせずに、つまんだままの前掛けの紐を見ているだけだ。
「ルゼ――。ジャスリート公爵令嬢どの。このような場所ではなく、どうぞ客間へお戻りください」
地主様も目線を合わせるようにしてから、きっちりと頭を下げられた。
スレン様までもが同じようにした。
公爵令嬢?
目の前の女性は、間違いなく高貴な方なのだ。
公爵様のお嬢様というご身分の方がどうして、ここにいらっしゃるのだろう?
慌てて私も頭を下げた。
「カルヴィナ? 古語で夜露って意味ね。レオナルにしてはやるじゃない」
跪いてうやうやしく礼をする地主様に、遅れを取ることもなく、この女性は手を差し伸べていた。
「あらあら。わざわざご丁寧に呼ばわってくださるのね? レオナル。それで私を子猫ちゃんに説明したつもりなのかしら?」
地主様はやや、ためらってからその白い指先を取ると、唇を寄せられた。
触れるか、触れないかという所でルゼ様が声を掛ける。
「いつも通り呼び捨てでも構わなくてよ?」
お姫様と騎士様の関係が、目の前で繰り広げられていると思った。
何と絵になる二人だろうか。
感嘆のため息が漏れそうになる。
それなのに、またしてもこの胸を重くする澱の正体は何だというのだろう。
二人は完璧だった。
何というか、その。
寄り添う雰囲気が、何者にも犯しがたく感じられる。
「客間にはまだ、戻りたくありません」
きっぱりとルゼ様は仰った。
「もう少し庭を散策してからでもいいでしょう? レオナル、案内してちょうだい」
「……仰せのままに」
ただならぬ様子に早く立ち去らねばと頭を下げて、杖を引き寄せた。
「公爵様のお嬢様とは知らなかったとはいえ、ご無礼をお許し下さいませ。その、私は、これで失礼致します」
「ちっとも構わなくてよ。あら。子猫ちゃんは一人では上手に歩けないのね」
「……はい。でも自分で歩けますから、大丈夫です」
なるべく、何でも無いことのように受け流して、立ち上がろうとした。
足場が柔らかいため、少しだけよろめく。
でも、スレン様が後ろから支えてくれた。
「フルルは僕がお部屋に連れていってあげるから。さぁ、立って立って。ちゃんと泥を落として、お着替えしてね」
言いながら、幼い子にするように服の汚れを払ってくれた。
「リディアンナも待っているから、急ごうねえ」
スレン様は明るく促してくれているように思えた。
そう。努めて明るく、いつもの通りに。
私をこの場から遠ざけようと、この場に置いてはならないという緊張感すら漂う。
有無を言わせない、私に選択権を与えない確固とした物言いだった。
それは口調だけでは無く、私を助け起こす腕にも表れているように思う。
この二人は、二人きりで話さねばならないのだ。
そう。
二人きりで。
私だってそんな場面に、のんきに立ち会っていられるほど図太くはない。
むしろ、即刻立ち去ってしまいたいに決まっている。
こんな時、思うように駆け出せない自分の足を悔しく思う。
「フルル。掴まって」
この時ばかりは腰に回された腕に、素直にすがる。
「スレン」
二人に背を向け歩き出すと、地主様が呼んだ。
「頼んだ」
「任せて」
そっと振り返って見ると、地主様もルゼ様も既に背を向けていた。
先程から、ずっと。
地主様は一度も、こちらを見ようとはしなかった。
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「全く! レオナルは何だってこんなに奥の部屋を、フルルに与えたの? って訊くまでもないか」
やれ遠すぎるだの、フルルが大人しく抱えられてくれれば話しは早いのに、とぼやきながらスレン様は付き添ってくれた。
それすらも彼なりの気使いと感じてしまうから、不思議だ。
「着替え、手伝おうか?」
「結構です」
部屋の扉の前につくと、スレン様らしくお約束の事を聞かれた。
もちろん、即座に断る。
「一人で大丈夫?」
「もちろんです」
「そう。なら、いいんだ。慌てなくてもいいけど、急いでくれる? リディアンナが待っているから」
それは大急ぎで、手際よく着替えろと言うことだろうか。
神妙に頷く。
「リディアンナ様が?」
「そう。僕と一緒にリディの屋敷に行くよ。ジルナ様も待っているからさ」
ジルナ様とはここの所、お会いしていなかった。
体調がすぐれず、寝込んでいると聞いている。
そう教えてもらったのは実は最近で、お祭りが終わった後の事だった。
何でもジルナ様は、赤ちゃんが出来て「つわり」に苦しんでおられるそうだ。
「でも、ご病気な訳ではないらしい、から」
そう努めてなんでもないように、笑って見せてくれたが、リディアンナ様も心配していた。
私もジルナ様にお会いしたい。
強く頷いて見せる。
「わかりました。急いで着替えます」
「ん。じゃあ、この辺で待ってるよ」
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そして私は見てしまったのだ。
窓辺から、親密に語らう様子の二人を――。
『僕は!?』
タイトルに入れてもらえなかった色男のボヤキです。
うん、ごめん。
今回のスレンはあくまで脇役だから。
ルゼ嬢の登場でばっちり波乱の予感です。