80 愛し子と夜露
カルヴィナ!!
「あ、れ……? 今、誰かが、私を?」
呼んだ?
呼ばれたと思う。
辺りを見渡す。
スレン様の手に、手を重ね置く寸前に強く呼ばれた。
強く、強く。
それが現実なのか、夢の続きなのか区別がつきにくい。
ぼんやりとした頭は働かず、答えを導き出すこともない。
ただ、今まさに重ね合わされようとしていた手のひらはそのままだ。
スレン様が、小さく舌打つのが聞こえた。
『時間を与えるっていうの? これ以上の猶予に、一体何の意味があるっていうんだろう』
勢い良く吐き捨てられた言葉は、私にではなく誰かに向かってのようだった。
誰に?
面を上げたがスレン様しか見当たらない。
急に何もかもが恐ろしくなって、一歩後ろに逃げた。
背に当たるのは、尊敬する森の彼だった。
ゴツゴツとしていて無骨な彼だが、しっかりと私の体を受け止めてくれている。
それに心強さを感じたら、何だか視界が晴れ渡った気がした。
視線を定めてスレン様を見上げると、変わらずこちらに手をさし伸ばしたままだった。
まるで追い詰めるかのように。
私はその手のひらと、スレン様との瞳とを代わる代わるに見た。
深い森そのままの瞳に宿る光は鋭かった。
たちまち、射すくめられてしまいそうになる。
それでもどうにか首を横に振る。
『どうして? フ・ルールゥ?』
これ以上は後ろに下がることが出来ない。
声音はこの上なく優しかった。
でも、潜んだ苛立ちは隠しようもない。
スレン様の指先ひとつ取ってみても、それが滲み出ていた。
この方は感情の波が無いのではない。
深くにひそめる事が出来るだけなのだ。
目的のためならば、そうする。
私が人の持つ感情に過剰に反応してしまうと、知っていたからこその振る舞いだったのだ。
恐怖にすくみそうになりながらも、必死で抗うために両手を後ろに回す。
『ねえ、僕らの愛し子。君だって本当は知っているはずだ。何をどうするべきか、何て』
それでも首を横に振り続けた。
弱々しくても、頭を振るのをやめなかった。
スレン様の瞳がすがめられる。
差し伸べられた手は、そのまま伸びて私の顎を捕えた。
緑の眼にしっかりとのぞき込まれる。
もがいたが、そらすことは許されなかった。
どうしたわけか目蓋を閉じることさえも。
『ねぇ、うんと言ってよ。この手を取っておくれ。― ― ― ― 』
風が強く吹き抜けて行った。
オークの木立が大きくしなり、ざわめいた。
それと同じように私の血もざわめく。
それが本格的な恐怖へと入れ替わるのに、そんなに時間は必要無かった。
なぜ?
なぜ、私の真名をこの人が呼ぶのだろう?
『なぜ、あなたが私の……。』
それ以上言葉が出てこなかった。
知らばっくれようにも、真名を呼ばれた強制力のせいなのか、それは出来なかった。
喉が乾き切っていた。
それ以上の言葉は紡げない程に、カラカラに乾いている。
きっと馬鹿みたいに泣きすぎたからかもしれない。
だからこうして大事な時に、声が出ないなんて羽目になるのだ。
スレン様がまるで見せつけるかのように、自身の唇を舐めて湿らせるのを、目の前で見ていた。
『ん? ふふ。ダメだなぁ。ちゃんと用心しなきゃ。森の中で放たれた言葉は全て風にさらわれてしまうって、大魔女から教わったはずでしょ』
確かにそうだ。
でも、私が自分の真名を教えたのはこの後ろの、森の彼だけ。
遠い昔に囁いた事があっただけだ。
ただ、その、一度だけだ――。
『ね? 僕たちと来るでしょ?』
心は嫌だと叫び声を上げている。
でも声にならない叫びだった。
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スレン様の両手がオークの木に当てられて、私は閉じ込められていた。
『― ― ― ―』
耳元に唇が押し当てられてから、真の名を囁かれた。
首を振って逃れようとしたが、今度は抱きすくめられてしまった。
やんわりと慎重でありながらも、容赦の無い戒めだった。
そうして逃げられないようにされてから、再び呼ばれてしまう。
『― ― ― ―』
どうかその名で呼ばないで欲しい。
その名で呼ぶのは、そう。
あの方だけであって欲しい。
レオナル様、レオナル様、レオナル様、レオナル様。
ただそれだけを叫び続けた。
私を夜露と名付けてくれたあの人の名を呼ぶ。
人は追い詰められると、本当に頼りにしている人の名を呼ぶ。
それがおばあちゃんでは無くなっていた事に驚きと、戸惑いが隠せなかった。
先程、私があるべき場所と浮かべたのは森ではなかった。
そんなはずはないと打ち消そうとしても、それはならなかった。
それは。
それは。
「カルヴィナ!」
それは私を夜露と呼ぶあの方の隣だ――。
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「カルヴィナ!!」
風のざわめきに乗せて、確かにそう呼ばれた。
強く確かな響きが私を呼んだ。
「レ……オナル、さま?」
「あ~あ。残念。良いところだったのに、追いつかれちゃったよ」
スレン様は、おどけたように言うと私から少し離れた。
その背に隠れて見えなかった人影がさした。
「カルヴィナ! 大丈夫か? スレン、どけ!!」
乱暴にスレン様の肩を押しやると、レオナル様は私を抱きしめた。
足が浮き上がる。
私もためらいなく抱きついていた。
まるで私という存在を確かめるみたいに、背を撫でられる。
「カルヴィナ、すまなかった。カルヴィナ、カルヴィナ、無事か?」
「っく、レオナ、レオナルさま。ごめんなさい、ごめ、ごめんなさい」
温かさに包まれて安心する。
だから素直に謝る事が出来た。
背をあずけていたオークの木と同じくらい暖かで、頼りになる気配に涙が溢れる。
素直に怒りも苛立ちも、喜びもあたたかい想いも溢れるままに、表してくれる人。
「カルヴィナ、カルヴィナ、カルヴィナ」
幾度も名を呼んでもらえて、私はやっと落ち着くことが出来た。
「すまなかった。来るのが遅れた。怖い思いをさせてしまったな? ――スレン! どういうつもりだ!」
私を大事に隠すようにしながら、スレン様に詰め寄る。
「ん? 二人とも意地っ張りだから悪いんだろ。良かったじゃない。仲直りできて」
そこにはいつもの、本当に今までと変わらないスレン様しか居なかった。
『フ・ルールゥとカルヴィナ』
スレンの正体たるや、何だ。
敵なのか味方なのかすら、はっきりしません。
レオナル、ぎりぎりセーフ!
どうやってここまで来れたのかは、また次回~です。