79 スレンとフ・ルールゥ
心地の良い風が迎えてくれる。
すべての風が行き着く場所だと思う。
いつもなら心踊る場所のはずだった。
でも今は勝手が違う。
いつのまに?
しかも案内が無いというのに、どうやって?
何故、スレン様がこの場所を知っているのだろう?
次から次へと疑問が沸き上がる。
それが、この一見優男にしか見えない彼を、得体のしれない存在だと突きつけてくる。
あなたは、だれ?
そう尋ねたくとも、恐ろしさからか声が出てこない。
「さあ、降りようか」
スレン様は軽く一礼して見せてから、馬から飛び降りた。
意外にも思える行為に、スレン様にも一応の礼儀が備わっているようだと思った。
さすがは森の彼だとも感心する。
曖昧に頷いているのだか、頭を下げようとしているのだか解らない私を、スレン様が降ろしてしまう。
そのまま、さも当たり前のように、後ろから腰を抱えられた。
居心地悪く感じたが、あまりに自然なので構うのも馬鹿らしく、身を任せた。
ゆっくりと進む。
ぎこちない足取りは、途中で何度ももつれた。
ともすればそのまま、うずくまってしまいたいとすら思った。
だがそれは許されなかった。
その度にスレン様に抱え直され、向き合わされる。
スレン様は何も言わなかった。
ただ、私の足で一歩づつ彼へと向かわせた。
近づく度に大きな気配が濃厚になって行く――。
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「森の彼」は変わらず威厳に満ちて、凛と立っている。
ところが私ときたら、どうだ?
泣きすぎて思考はうまく働かない。
きっと目も腫れていることだろう。
姿勢を正したい所だったが、そうするにはあまりに酷い有様のように思えた。
思わずショールを深くかぶり直してしまう。
まるで寝起きなのに地主様に出くわしてしまったかのような、そんな気持ち。
つくづく私は決まらない、と情けなさまでこみ上げてくる。
だが歩みを止まらせる事は出来なかった。
スレン様は私がためらう度、やんわりとだが強く促すように一歩を踏み込んで、ここまで連れてきた。
「さて。この樹の下でかつての乙女と若者も見上げたんだ。二人揃って」
いよいよ森の彼の枝の下に入ると、スレン様は切り出した。
何の抑揚もない呟きだったが、何故か私の心をざわめかせるのには充分だった。
それに呼応するかのように、風が吹いて大きく枝がしなる。
ぱらぱらと視界を掠める何かが落ちてきて、足元を見ればそれはオークの実だった。
「いてて」
ふと見上げれば、スレン様は片手で頭を庇うようにしている。
きっとオークの恵みに打たれたのだろう。
いつかもこんな事があった。
一緒にオークの恵みに打たせてもらった。
楽しかった思い出に、僅かに頬が緩む。
でも何故か、心が重い。
やり切れなさが広がった。
今、一緒に恵みに打たれているのが、スレン様だからだと思う。
それを見透かしたように、スレン様が言った。
「フルル。やっぱりレオナルの方がいいんだね」
「……。」
からかいは一切、感じられなかった。
だからこそ余計に、私は何も答えられなかった。
ただ、黙り込む私にスレン様は続ける。
「ねえ、やめておきなよ。言ったよね。レオナルは、君には不釣合いだって。レオナルは……だし。君は大魔女の、森の娘だもの。これから先が予想できるでしょ」
「……あなたは、一体、」
それだけ言うのが精一杯の私を遮って、スレン様は言葉を止めようとはしなかった。
「レオナルはこれから先々、また君にとんでもないことをしでかすよ。別に君が悪いとかそういう事じゃない。それはレオナルがレオナルであるからこそ、起こりうる事なんだ。その前に僕たちとおいでよ」
――ねぇ、そうしなよ。
動けなかった。
否やと答えたいはずなのに、どうしてか首を縦に振ることすら叶わない。
ここに踏み止まりたい。
ただそれだけを願う。
ここという場所がどこなのか。
それは。
まぶたを伏せ、それは何処かと自分の胸に尋ねる。
間違いなくまっ先に浮かぶと思われた、森の姿は無かった。
その事に驚いて、目の前のスレン様を見上げる。
スレン様は困ったような顔をして、それから笑った。
「ね? フルル、そうしなよ。君の事を大好きな者たちも、それを望んでいる」
手を差し伸べられる。
それはそれは優雅に。
一緒に踊ろうと誘うかのような気楽ささえも、憎らしかった。
その手を拒むにはどうしたらいい?
でもどうしてその手を拒む必要があるの?
簡単だ。
ただその手に、手を重ねればいいのだから。
全てはそれで済む事を、私はどこかで承知していた。
今ならまだ間に合う。
取り返しのつかなくなるその前に。
この手を取りさえすれば、おそらく私は笑って過ごせるだろう。
これ以上、泣くこともなくなる。
これ以上、胸を痛ませることもなくなる。
これ以上、戻れない想いが降り積もることもだ。
あの方も私を置いて行ってしまう人。
それを忘れてはならない。
それでも。
それでも?
「フルル」
優しく促すように名を呼ばれた。
それから言い直された。
『僕らの、フ・ルールゥ』
発音が違えば意味合いも異なる。
それはいきなり優しい響きを持って、私を呼んだ。
フ・ルールゥ。
それは古語で愛し子を表す言葉。
一気に涙が溢れた。
説明のつかない、あたたかなもので満たされて溢れ出したかのような涙だった。
懐かしい。懐かしい。懐かしい、私の還りつく場所。
私はゆっくりと、手を差し伸べていた。
『何もかも遠ざかって行く感覚。』
また訳の分からないものを表現せよ、と自らに課してみた様子。
それは寂しくもあり、懐かしくもあり。
頑張ります~!
おかしいな、9月中に完結しない。