67 疾風まとう獣とレオナル
カルヴィナの指先が頬を伝う。
まるで俺という形を確かめてるかのような、幼い好奇心に突き動かされたかのような。
そう思うのが自然だろう。
だがそう思いたくとも、そう思えなかった。
どうしてか、その指先に拙いながらも色気を感じてしまうのは、俺の欲望のなせる技なのかもしれない。
この娘は本当に理解していないのか?
その眼差しと指先が、どれほど目の前の獣を刺激するのか、毛の先ほども考えが及ばないのか?
潤んだ眼差しに加えて、薄く開かれた唇が強く何かを訴えてくる。
大きくはだけた胸元もさることながら、もがいたせいで足も見えている。
先程、俺が撫で上げた傷跡が日にさらされているのだ。
今一度、その手触りを確かめたい――。
温かく滑らかな、娘の手触りがすぐそこにある。
それよりも、目の前に差し出された首筋に牙を立て、味わうべきか。
獣は獲物のどこに食らいつくか、頭がいっぱいだ。
それを見透かしたように、名を呼ばれた。
『シュディマライ・ヤ・エルマ?』
なるほど。
俺は獣だと。
その通りだった。見抜かれたのだ。
そう心で肯定する。
『シュディマライ・ヤ・エルマ』
今度は確信を込めて呼ばれた気がする。
間違いがないと。
だから答えた。
『……真白き光』
そうだ。俺はシュディマライ・ヤ・エルマの仮面に支配されている。
疾風まとう暗闇という名の、ただの森の獣であった彼に。
その状態で自らを差し出すような、恐ろしい事を訊く。
『シュディマライ・ヤ・エルマ。私を……食べるの? 食べたら飢えは収まるの?』
俺の言葉を真に受け、その事に傷つく少女が横たわっている。
男の力に抗えず、無力さをあらわに涙する姿を存分に嬲る。
闇を映した瞳を占拠しているのは、紛れも無く俺という存在だと確信する。
また泣かせてしまったという罪悪感と共に、胸に居座るのは何とも身勝手な想い。
『シュディマライ・ヤ・エルマ。満たされないのならば、その、私を食べ、食べ、ればお怒りは収まりますか……?』
たどたどしくも、懸命に尋ねてくる。
カルヴィナは俺をシュディマライ・ヤ・エルマと捉えているようだ。
俺の言動が、仮面に魅入られた者の所業と信じているのだろう。
いや。
むしろそうであってくれという、懇願にも似た響きに愛しさと欲望が同時に募る。
『いいや。おまえの命を奪うことなど考えられない。真白き光』
祭りの儀式の続きさながらに、繰り出された言葉に乗って返事をした。
カルヴィナは小さく安堵して、俺に微笑みかけてくれた。
俺であって、俺でない存在の仕業。
その事にいくらか安心したようだった。
獣そのものの存在の眼前に晒され、カルヴィナは生きた心地がしなかったのだろう。
俺自身も抑えきれない自分に焦りを覚えていた。
だが、とてもじゃないが制御できそうもなかった。
その事に焦りを覚えつつも、野に放たれた獣を応援してやりたい気持ちも同時にあった。
獣の思うように貪らせてやりたい。
手綱など最初から無かったものとし、獣の本能の赴くまま突き進ませてしまいたいと願う。
その唇を瑞々しい肌を全て、魂ごと奪い尽くしたい、というのが本音だ。
それはシュディマライ・ヤ・エルマの望みなのか?
そうかもしれない。
だが、それだけではない。
済まされない。
それは俺の願望にほかならない。
俺の。
ザカリア・レオナル・ロウニアの、偽らざる本音だ。
『どうかしたの? シュディマライ・ヤ・エ……。』
ゆっくりと、しかし大きく首を横に降ってみせる。
俺を疾風まとう獣と呼ぼうとした唇を封じるために、親指を当てて制した。
『レオナルだ、カルヴィナ』
『地主様?』
『レオナル。呼んで、呼び戻してくれ。俺を、ザカリア・レオナル・ロウニアを』
見下ろしたまま告げると、カルヴィナはおずおずと頷いてくれた。
押し倒した身体を抱き起こし、膝に乗せる。
とたんに伝わってくる柔らかさに、再び押し戻してしまいそうになるのを堪えた。
恥ずかしいのだろう。
居心地悪そうに、俯き加減で身をよじるカルヴィナの背に手を当てる。
支えるようにし、向き合わせるために項も支えた。
『カルヴィナ。俺を呼び戻してくれ』
赤く染まった耳元に、懇願を囁き込む。
同時に柔らかく抱き込み、僅かに震える身体をさすった。
小さく頷いたのが伝わってくる。
いくらか力をほどき、カルヴィナを見逃すまいとのぞき込んだ。
『レ、レオナル様』
かすれる声がそっと名を呼んでくれた。
だが、まだ足りない。
まだ、獣から戻れない。
促すように首を横に振って見せた。
『まだ、だ。まだ戻れない。カルヴィナ』
『レオナル様』
『様はいらない。カルヴィナ、俺に与えられた名をすべて呼んでくれるか?』
こくんと小さく頷くカルヴィナを抱き寄せ、額同士を合わせる。
仮面越しにもカルヴィナの熱が伝わってくるようだった。
その時を聞き逃すまいと瞳を閉じる。
祈りの言葉を待つのは仮面に支配された男か、獣か。
――自分の中では答えが出ている。
『ザカリア・レオナル・ロウニア』
『ああ、そうだ。カルヴィナ』
呼び声に答える。
それが答えだ。
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目蓋をあけ、光を受け入れる。
とたんに闇は去ったように思った。
肌に違和感を覚える。
それは違和感というよりも、解放感だった。
カルヴィナも密着していた分、気づいたのだろう。
とうに緩んだ仮面の紐が引かれるのを感じた。
カルヴィナだった。
二人の胸元に挟まれるようにして、仮面が滑り落ちていた。
『……。』
『……。』
互いに無言で、しかし笑顔で見つめ合う。
仮面を見て、また顔を見合わせる。
『カルヴィナ。俺は戻れたようだ』
『はい。地主様』
『違う』
俺を地主と呼んだ唇を、口で封じた。
『……ぅ、ん、や……じぬ……。』
『違う』
俺をちゃんと名で呼ばないのなら、また獣に戻ってやる。
それを思い知らせるために、甘い仕置きを続けた。
頑ななカルヴィナの抵抗が止むまで、ずっとそうしていた。
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『そういえば俺は何ひとつ、おまえに申し込んでいなかったな』
『え? 申し込む、ですか?』
すっかり呼吸を乱してしまったカルヴィナが、たどたどしく尋ね返してきた。
これ以上ここに居ては、取り返しのつかない事をしでかしそうになる己を諌めた。
今はまだここまでと言い聞かせる。
『そうだ。俺と一緒に祭りに参加して欲しいとも、踊って欲しいとも言っていなかった。カルヴィナ、俺と踊ってくれるか?』
『踊れません、地……レオナル様。誰とも……。この足では』
『大丈夫だ。嫌ではないのだな?』
おそるおそるといった様子で、カルヴィナは頷く。
『だったら何の問題もない』
カルヴィナがまたあれこれ考え始める前に早くと、その身体を抱き上げた。
『もはや使い果たしたなんてもんじゃない』
レオナル、頑張りました。
いろいろ問題点はありますが。