57 地主と言い伝えの獣
この深い森の、そのまた奥深く。
人の子では到底、踏み入る事が許されぬ森の奥地に住まう獣がおりました。
いつしか、そこは聖域と呼ばれ、獣は森の主と呼ばれるようになりました。
とうの獣は、そう自分を崇め始めた生き物を不思議な気持ちで眺めておりました。
その中でごく稀に、自分の声を聞く事が出来る者に出会いました。
年若い娘です。
娘は自分は巫女なのだ、こうやって貴方様のお言葉を聞いて、皆に伝える役目なのだと申してきました。
『何かご所望のものはございませんか?』
――何でもよいのか?
『はい』
――ならば。おまえが我の側に居る事を望む。
そうして獣は娘を森の奥深くへと、さらってしまいました。
今までさらっていた家畜や子供の代わりに。
すると、どうでしょう。
獣は子供や家畜をさらう事を忘れました。
代わりに、花や果物や木の実をとる事を覚えました。
そうすれば娘はとびっきりの笑顔を見せてくれます。
それでも時折り、娘は残してきた家族や仲間を思って泣く事もありました。
娘が自分以外を想って泣く事に、獣は胸を痛めました。
ですが、娘を帰してやる気がどうしても起きません。
やがて……。
やがて。
獣は初めて知りました。
娘と自分とでは、流れる時間の長さが大きく違うという事に。
それでも――。
ただ娘の側に居られれば、獣は満足でした。
優しい眼差しと、毛並を梳いてくれる指先は、ずうっとずうっと変わりませんでしたから。
それでも訪れた日。
娘ともう過ごせなくなるという、最期の日。
さようなら、ありがとうと告げる娘の御魂に、獣は縋りつきました。
『どうか、どうか。行かないでおくれ。ずっと側に居ておくれ』
『あなた様がそれほどまでに望んで下さるのならば、また生まれ変わったら、必ずあなた様のお側に参りましょう』
そう約束してくれた娘は、森の白き女神の樹に宿りました。
幾度でも生まれ変わり、獣の前に現れる事を誓った魂を、獣は今も森の奥深くで待ち侘びているそうです。
永遠を誓い合った絆にあやかりたいと、現世に身を現す男女の願いも込めて。
深い森の、遠い昔の、あったかもしれない物語。
・。・:*:・。・:*:・。・:*:・。・:*:・。・:*:・。・:*:・。・
この土地に生まれた者ならば、誰でも知っている昔語りだ。
カルヴィナは言い伝えを語りながら、俺の役の台詞や立ち回りを説明してくれた。
物語は生きる世界が違う者同士の哀しい、それでいて美しい結末を伝えている。
暗闇で微かな光にすがるかのような……。
とうの昔に置き去りにした、泣きたい出したい気持ち。
心細さ。
そんな想いが去来する。
獣の目を通してみているのだと気が付く。
そうでなければ―――。
こんなにも世界が娘中心で見えるわけが無い。
普段の自分ことザカリア・レオナル・ロウニアであれば、まず意識に上るのはもっとほかの事だったはずだ。
見て回らねばならない貸し地や、その荘園の具合、援助を求める有力者とのやり取り。
神殿の護衛団の訓練。
そういった仕事の事が大半を占めていた。
だが仮面をつけた今やどうだ?
この世界の美しさにのみ集中している。
心を傾けるべきものは、本来はそれだけなのかもしれないとすら思えてくる。
そんな自分を否定したい。
いつもの、忙しく立ち働く地主ぜんとしろと理性は命じてくる。
それは何と、ちっぽけな自己かとすら想い始めていた。
意識の変化に戸惑いながらも、素直に身を委ねてしまう。
それが正しいと思う。
どこかしら、たゆたうような眼差しが目の前にある。
カルヴィナに、こんな顔をさせたのは誰かと怒りが湧く。
―― 何 故 、我 を 見 て 微 笑 ま な い ?
(この娘の心が俺には向いていないからだ)
頭の中で、あがった疑問に答えてやる。
この娘の自由を奪い、己のものにするための画策を練り始める。
―― こ の 娘 が 欲 し い 。
身も心も魂までを縛り付けたい。
どうやって誘い込み、組み敷き、思うままに貪るか。
そんな想いに囚われ始めている。
「地主様? 今の私の説明で大丈夫でしたでしょうか?」
にこりと笑う娘に頭を振った。
「ああ。問題ない」
この娘の微笑を守らなければならない。
貪り、食い尽くしたらところで獣の飢えは治まらない。
それどころか。
真の獣へと身を落とす事だろう。
胸の奥、己の内部の奥深く――。
(シュディマライ・ヤ・エルマ。大人しくしろ。貴様に、カルヴィナに触れる資格は無い)
唸り声を上げる獣に、言い聞かせた。
『昔語り。』
なんと。これも半年前にすでに出来ていたらしい。
日付を見て、自分で驚きました。
やっぱりUPすると少し変化します。
いや。おおいにか……。




