50 魔女と一角の彼
私はとても浮かれていた。
駄目だと諦めていた、祭り前の森に居られるのだ。
心の底から安心した。
これで約束を違えずに済む。
そうも思った。
「彼」のことだ。
私が姿を現さなければ、何をしでかしてくれるか分からない。
誰にも相談できずに、時間だけが差し迫ってきている。
その事に気を取られてしまい、ろくに食事も取れなくなってしまった。
だからまた、地主様に叱られた。
ますます、何かを口にする気も失せて、面倒だった。
ミルアが落ち込む私に気が付かないはずも無く、それとなくどうしたのかと訊いて来た。
だから答えた。
ただ、祭り前の森の気配を感じたいだけだ。
それなのに、地主様はお許し下さらない。
魔女の娘にとって、どれほどそれが辛いか。
それを訴えた所でまた一蹴されるのは目に見えるから、諦めただけだと。
この時ばかりは、ミルアの強引さには感謝している。
――いつの間にか私の事を、巫女役に祀り上げていたことを許せるくらいに。
それはそれで頭が痛い……。
ともかく私は浮かれていた。
これほど浮き足立ったのは、あの抜け出して港町で船を見かけた時以来だ。
夜の深い闇も私を温かく包んでくれるから、怖くは無かった。
むしろ、とても心地が良い。
私の髪も瞳も闇と同じだ。
このまま溶けて、一緒になってしまえたらどんなにいいだろう。
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目的の湖に着いた。
湖面は静かに月光を受け止め、巨大な鏡のようだった。
月も喜ばしげに鏡を覗き込んでいる。
もうそれはそれは息を飲む美しさだった。
『森の深くの そのまた深く 森に住まう獣がおりました』
小さく言い伝えの歌を口ずさむ。
古語で。
そういえば久しぶりに歌った気がする。
森に居る時はこうしてよく歌ったのに。
地主様に仕えるようになってから、それも忘れていた。
歌いながらゆっくりと地面に腰下ろし、衣服を脱ぐ。
肌を掠める風すらも、夜の濃密な気配がする。
深い闇色を引き連れて、私を包んでくれる。
裸になる事に躊躇いはない。
だって、ここに近づける人は居ないもの。
私だけ。
衣服を脱ぎ去り、つま先を浸す。
小波が伝わって行く。
それを合図に「彼」が現れた。
頭に一角を戴き、蹄を持つ彼。
相変らず、気高く凛としている。
『久しいな。大魔女の娘』
『お久しぶりですね。----さま』
彼の名の部分だけは声には出さず、唇で形作るに留めた。
『おまえはまだ、我に真名を教える気にはならなんだか?』
そう尋ねる彼に曖昧に微笑みながら、手を差し出す。
彼もそれ以上は追及してはこず、私を湖へと導いてくれた。
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水の中は好きだ。
だって、足の不自由さをあまり感じずに済むから。
一緒に水の中の浮き加減を楽しむ。
時折りじゃれつくようにしながら、耳元で『おまえの真名を当てたら我のものだぞ?』と次々に名前を挙げられる。
『春の花』
『月の娘』
彼の挙げてくれる名はいつだって美しい。
そう。
私はうっかりと彼の名を当ててしまったのだ。
ならば、おまえも名乗れと言われたのだが断った。
彼は憤り、そのまま森の中を追い掛け回された。
彼にしてみたらふざけたらしかったのだが、それ以上に死に掛けた私に驚いたらしい。
それなりに反省した彼は、それ以来無茶に追い掛け回すような真似はしなくなった。
ただし条件をつけられている。
『名を当てた者の罰として、月の一番力の強い晩は我に付き合え』
それから、と一角の彼は付け足した。
『我の花嫁となるならば足を治してやってもよい』
それも断ったら、唸るように吐き捨てられた。
『ならば不具の身体に留まれ、森の娘』
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彼の呟く古語に酔いしれながら、昔の事を思い出しているとふいに名を呼ばれた。
『夜露』
体が跳ねた。
『当たりか!?』
嬉しそうに目を細め、鼻先で頬に擦り寄る彼に、首を横に振った。
それは地主様が付けた名だ。
そう呼ばれるうちに、私は縛られるようになったらしい。
カルヴィナ――。
夜露、と。
そう私を呼ぶ声を思い起こす。
その時だった。
側の彼の体が強張った。
一瞬、満月に雲が掛かったのだろう。
辺りが暗くなった。
獣の彼は森の中、闇の中を鋭く見つめている。
何が見えているのだろう。
恐ろしくなって、その背に身を寄せた。
それから彼は鋭く嘶くと、身を沈めてしまった。
『おのれ。裏切ったのか、森の娘!』
何の事かと尋ねる暇も、違うと弁解する余地も無かった。
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行ってしまった。
もう少し一緒に遊びたかったのに。
そんな哀しみがじわじわと胸を占拠し始める。
彼の消えた湖面を眺めていると、大声で名を呼ばれて我に返った。
「カルヴィナ!」
夢かと思った。
何故、彼がここに?
驚いて固まっていると、地主様は水の中に入ってきてしまった。
それにも驚き、慌てた。
「あの冷たいですから、早く上がって下さい」
「嫌だ」
「え?」
「オマエも早く上がれ。冷やして身体を壊したらどうする!」
あ、そうか。
この方は本気で心配してくださっているんだな。
子供のような私に、同情を寄せてもそれ以外の事は起こらないだろう。
そこでやっと、自分が何も身に着けていない事を思い出しておおいに慌てた。
「上がります、上がりますから。向こうへ行って……!」
それでも地主様は許しちゃくれなかった。
どんどん近付いて来て、がっちりと腕を捕らえられてしまう。
こんなにも熱く何かを訴えるかのような、眼差しに晒された事なんてなかった。
どうにか片腕だけで、身体を隠そうと身を捩る。
それも掴まれた右腕を引かれるようにされるから、上手く行かない。
嫌だ。
恥ずかしい。
見ないで欲しい。
かつてこの人に言われた言葉が脳裏を掠める。
みっともない――。
みっとも……。
見たくも無いはずでは?
常々、娘らしくなれとため息を誘うこの体の貧弱さを、この人に見られたくない!
「いや、いや! 放して! 嫌ぁ!」
「カルヴィナ。冷えるから、早く」
どこか泣き出しそうな声に驚いて、思わず顔を上げてしまった。
満月を背に受け、淡い陰りがより一層、彼の表情を頼りなくしていた。
それでいて熱帯びた視線は、まっすぐに私を貫いている。
満月――。
そこでやっと自分の思いがけない失態に気が付く。
おばあちゃんが笑いながら教えてくれた魔法。
眠る女性せいを最大限に引き出して、男性の目を眩ませてしまうというお呪い。
呪いというには、あまりにも踏み込んだ方法だと思ったものだった。
生まれたままの姿で、満月の光を一身に浴びるというそれ。
教わった時は「私には関係ないな」と、ぼんやり思ったのを覚えている。
大体、どうやって男性を誘い出し、目の前で裸になれというのだ。
しかも誘い出すにしても「さも気が付いていない風を装って」と来た。
女の性というのはつくづく推し量れないなと、感心したのは確かだけれど。
何がどう働いてこうなったのか――。
静かに力を放つ満月に尋ねたい気がした。
『おいおい、ここにも。』
えらっそうなお方の登場です。
なまえは----。
『人の子ごときが我の名を呼べると思うな。
ましてや我に触れようと思うなど!
それなりの覚悟はあるのだろうな?』
だ、そうです。
魔女っこ……。
マズイのに目を付けられております。