129 生まれ変わる夜露
行ってしまった。
その背をぼんやりと見送る。
優美な後ろ姿は森の闇に飲まれて消えた。
さらばだ。
その言葉の意味が浸透した途端、また涙がこぼれ落ちた。
「カルヴィナ」
後ろから抱き込まれて、頬が傾ぐほど唇を押し当てられる。
目蓋に近い所に吐息を感じたら、足が震えて立っていられなくなった。
もう杖がなくとも、立っていられるようになったはずなのに。
私にと回された腕に震える手ですがった。
「やっとこちらを見てくれたな」
仮面越しでも、真剣な眼差しだと分かる。
「どうか我が妻になっていただきたい。返事を、カルヴィナ」
「……っ!」
「嫌か?」
今さら言葉にするのが恥ずかしい。
こうして、ここにいる事こそがその答えなのだから。
それでも余りにも切なく、すがるような声と眼差しに息を呑む。
『夜 露?』
痺れを切らしたような急いた口調だったが、どこか甘やかすものでもあった。
こんなにも大切そうに、名前を呼ばれた事があっただろうか?
思わず目蓋を閉じかける。
だがその次に発された言葉は、私の瞳を見開かせた。
『俺の 甘露』
「じ、地主様」
「……。」
ぎゅう、っと抱き込まれた。少し痛いくらいだった。
怖くなってしまうと、深いため息がおりてきた。
「いまだにその呼び名で呼ぶのか?」
「え?」
何か、いけなかっただろうか?
そう思い本気で慌てると、今度は強く睨み据えられた。
『エイメ様』
ドキリとした。
何だろう。ものすごく突き放された気分になる。
自分からそうしておいて勝手なものだ。
その名で呼ばないで。私はもう巫女王候補なんかじゃない。
それをどう伝えたらよいか解らない。
思わず視線を泳がせてしまうと、向かい合うように抱え直された。
いよいよ逃げ場が無くなって、恥ずかしさのあまり彼の胸に頭を付けた。
大きな手が頭を撫でてくれる。
すごく安心できた。
そのまま彼の鼓動を聞く。
胸が痛い。
かつてよく不思議に思って尋ねたのを思い出す。
どこか痛いのですか、地主様?
その度にどこも痛まない、と返された。
ああ、そうかと少しだけ……わかった気がした。
きっとこの方も私と同じ場所が痛んでいるのだ、と思う。
それは甘い疼きのようなものを伴って、私にどこが痛むのかを教えてくれる。
彼の胸に手を置いて、恐る恐る顔を上げた。
「あ、あの」
「うん?」
『シュディマライ・ヤ・エルマ?』
「そうだが……。違う。おまえ、わざとだな?」
珍しくすねたような調子が子供っぽくて、思わず吹き出してしまった。
「ふふ」
「笑うな……。いや、笑ってくれていいが」
そう言いながら、私の涙を指先でぬぐってくれた。
くすぐったい。
それでも涙が止まらないのはどうしてだろう?
「カルヴィナ?」
「そうですが、違います。私も」
心配そうな声に顔を上げる。
まるで理解できない。こんな生きもの見たことがない。どう扱っていいのか解らない。
彼の瞳はそう物語っていた。
それでも手を伸ばさずにはいられないのは、私だって一緒だ。
戸惑いがちだった大きな手のひらに頬を包まれた。
その手に自分の手を重ねた。
「レオナル様、どうか。私を貴方の甘露というのなら、そのっ。夜露を新たに生まれ変わらせて下さいませ。それが私の真の名」
昔、おばあちゃんから教わったことを実践する時が、今なのだと思う。
「真の名を教えて欲しい」と乞われたら。
「どうか花嫁に」と望まれたなら。
『少々もったいぶって試しておやり。ただし、相手が答えを当てられるように、真名に関わる事をほのめかしてやるといい』
どうしてそんなに回りくどい真似をしないといけないのか、と不思議がる私におばあちゃんは笑いながら、でも真剣にこう締めくくった。
『乙女が真名を明かすのは命を預けるのと同等なんだ。それくらい当然だよ。それに……これから先、一緒に添い遂げてもいいと想う相手だからこそ。当てた方も誇りに思うだろうよ』
それでも外れてしまったら、どうしたらいいのだろう?
そこも訊いたら『それまでの男だったという事だろう』と、あっさり言われたのも思い出す。
私の真名をこの方なら伝えずとも、伝わるに違いない。
そんな賭けに出てみる。
きっと。
それが答えだ。
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闇の中、わずかな灯りを頼りに進んだ。
ほのかな灯火が室内を照らす。
蝋燭の炎が小さく揺らめくのと一緒に、二人分の影も揺れる。
その様が、見知ったはずの部屋の表情を変えて見せている気がしてならない。
手探りで探り当てた鍵も閉めた。
私の震える指先を、レオナル様が包み込むように支えて、手伝ってくれた。
内側から掛けた鍵は、私たち以外が開けることは出来やしない。
落ち着かない気持ちのまま寝台へと腰下ろすと、彼も一緒に腰下ろした。
直ぐさま腰を引き寄せられ、そっと前髪に触れられたかと思うと、髪飾りで留めたベールを外された。
編み上げられた髪の一部も、彼の手が解して行く。
――目を閉じる。
腰帯が解かれ、衣の前合わせもはだけられる。
帯を取り去られてしまえば、この衣装はただの一枚の布でしかなかった。
肌を掠める冷たい夜の空気に、彼の息使いも混じる。
気が付けば、自ずと両手を伸ばしていた。
シュディマライ・ヤ・エルマの仮面に指を這わせると、レオナル様は近付いてくれた。
そのまま耳元を伝い、後ろ頭を引き寄せるようにしてから、仮面の紐を引く。
嫌に呆気なく仮面は外れてしまった。
あのお祭りの日が嘘みたいだ。
改めて不思議に思っていると、仮面を取り上げられてしまった。
「あ……?」
鋭く見下ろされている。
その眼差しがあまりにも強くて、本当にもうシュディマライ・ヤ・エルマで無くなったのかと疑った程だ。
射抜かれた瞳が「俺を見ろ」と訴えている。
俺を見ろ。俺を見ろ。俺だけを見ていてくれ。
そんな眼差しが私だけを見つめてくれている。
この眼差しには覚えがある。
あの日。
剣術大会で彼が優勝して、任命式に臨んだ時と同じだ。
ぞくりと背筋が震え上がった。
この眼差しにだったら捕らえられてもいい。
そんな風に思った自分を何様かと思った。
私も同じように彼を見つめていられるだろうか。
熱に浮かされたようになった眼差しで、どこまで語れるか自信が無かったが、とにかく見つめ続ける。
見つめるだけでは足りなくなって、腕を伸ばしてレオナル様に触れた。
彼も同じように私に触れてくれた。
お互いの心臓の上に手を置く。
同じ。
痛みを覚えるのも、鼓動が早まって行くのも、きっと一緒だ。
その事が私を後押ししてくれる。
大きな身体が覆いかぶさってきた。
押しつぶされてしまいそう、と思いながらも彼の重みを受け止める。
からめて握り締められた手が熱い。
それとは対照的な、背に受けた敷き布の冷たさが心地よい。
とろりとした微かな眠気を覚えると、まぶたがを重く感じる。
「んっ!」
その瞬間、思い切り口付けられていた。
貪るような刺激に、眠気から引き上げられてしまう。
噛み付かれたにも等しいと思ったのは、最初のうちだけだった。
歯列を割り入ってきた彼は、怯えて縮こまった舌をゆっくりと誘い出してしまった。
絡み合わされ、舌先でつつかれると逃げ出したくなる。
もちろん逃げ場なんて無い。私の無駄な足掻きは彼に応えるはめになっていた。
「ん、ん……っぁ、んん……。やぁ……ぁっ」
私の抵抗を、レオナル様は嗤った気がした。子供だと、拙いと思われたのかもしれない。
必死で彼にすがってでも応えたいのに、息が苦しくてたまらない。
侵入され、遠慮なく隅々まで探られては、おかしくなってしまいそうだと思った。
時折、甘く柔らかく下唇を食まれては、何とか息継ぎを許される。
繰り返し、繰り返し、狂おしいほど繰り返されてから、やっと解放された。
自分のもののはずなのに、息使いが遠くに聞こえる。
もう引き返せない。
いうなれば逃げ場がない所にまで、自分を追い込んだ気がした。
その勇気に自分を少しだけ見直す。
そうだ、このままでいい。この先をも見据えて私たちが選んだ事だ。
それでも……。
この身がうち震えるのはどうしたことなのだろう?
「怖いか?」
「……。」
いいえ。
労わるように細められた眼差しに、そう答えたかった。
でも出来なかった。
何がどうとか。
理由も明確に出来ないまま、ただ肩で息をする。涙が溢れ出す。
それを振り払うように、頭を左右に振るしかなかった。
「俺も……怖い。おまえを壊してしまいそうで。嫌われてしまいそうで。でも気持ちを止めようもない」
壊れ物に触れるとき、きっとこうするだろう。
触れるか、触れまいかの境目をさ迷うように。
そんな優しさを伴った手が、私という輪郭をなぞる。
「そんな目で見ないでくれ」
まただ。
ふりだしに戻った気がして固く目をつむる。
でも違うと、すぐに自分に言い聞かせた。
真っ直ぐに見つめ返した。
「止めな、ぃで、い……です」
「カルヴィナ?」
「気持ち、止めなぃ、でください。私も止まりませ、から」
舌足らずな調子で格好がつかなかったが、一生懸命言った。
触れて欲しい。触れたい。触れていたい。ずっと、触れてみたかった。
私よりもずっと逞しくて厚い胸に、腕に、首筋に、思いの外やわらかな髪に、全てに。
この繊細で優しい人の、もっとずっと深い深い心の奥底まで触れてみたいと望むんだ。
自分から腕を伸ばして、彼を引き寄せた。
「んん……っ」
「カルヴィナ、カルヴィナ……。俺の夜露。俺の、俺だけの」
うわ言のように繰り返される度、私は夜露を散らす。
後はお互いの息使いと、言葉にならない言葉だけが闇の中に溶けて行った。
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ピィッチチチチチ――――!
シュリトゥーゼル達が私に朝だと告げてくれる。
どれくらい眠っていたのだろう?
目を閉じているのに、陽の光を眩しく感じる。
起きなくちゃ、と思うのだが、まだ目蓋が重くて持ち上がらない。
どうしたのだろう、私の身体は?
目蓋どころか、指先にすら力が入らない。
重くて怠いだけじゃない。あちこち痛い。
痛みはそこかしこに散らばっていて、特にどこが痛いとは言えない。
言えないけれど……主張されてしまうような。
痛みというよりも疼きのような、熱帯びた感覚を拾い上げる。
何だろう。
身体の奥深い場所が一番……?
「ん……?」
「起きたのか?」
すぐ間近で聞こえた声に、意識は一気に覚醒した。
昨晩の記憶も一緒に飛び起きる。
うあ、と思わず悲鳴が上がってしまった。みるみる顔に熱が集中する。
朝日に照らされたせいばかりではない。
とにかく恥ずかしくてたまらない。
熱を分けあった身体は、忍び寄る冷気の中でも失われてはいなかった。
むしろ、くすぶり続けたままの気がする。
彼の腕の中で目を覚ました自分に驚いて身動ぎ、逃れようとした身体を捕らえられた。
耳たぶを食まれ、囁かれる。
「逃がさない」
「あ、レ……ォナ……っま」
発した声がひどく掠れていて、ますます赤面してしまう。
待って、もう許して、レオナル様。そう伝えたいのに、声すら出すのが恥ずかしい何て。
「俺のものだ。俺の……花嫁だ。カルヴィナ」
「……。」
「カルヴィナ?」
急に大人しくなった私に、彼は思い当たったのか黙り込んだ。
「カ……ル……。」
言いかけて考え込む。
レオナル様を見つめながら、私は答えを待った。
それから軽く咳払いしてから、どうにか掠れる声を搾り出した。
『夜露は……。朝日と共に消え去るのが定め。そうして夜露は生まれ変わるのです』
そう。
夜のうちに迷いや不安という名の夜露は枯れ果てた。
残るわずかな雫も、やがて朝日に晒されるのが運命だ。
夜露は朝日によって生まれ変わる事が出来るのだ。
静かにレオナル様の瞳を見つめる。
濃い青さをたたえた瞳に、なんとも言えない光が映り込む。
それも私を照らしてくれる。
『朝 露!』
彼は迷いなく、強く言い切ってくれた。
私はひとつ頷いた。
心の底からわきあがる喜びのまま、微笑みかける。
『夜露はあなた様の腕の中で生まれ変わりました。これからもどうぞ末永くお願い致します……私の……だんな様』
『朝 露』
――その時の彼の見せた誇らしげな笑顔は、私の一生の宝物だ。
『腕の中で迎える朝日。』
ついに。
最後の最後に、もったいぶる辺り。
とにかく頑張ったようです、二人とも。
――次回で最終話です。
もうひと頑張り!