127 二人の巫女王候補
床に耳をつけていなければ聞き逃したかもしれない。
だが、確実なものだった。
『そこまでで、です』
コツ、コツ、と慎重な足運びが近づいてくる。
床に伏しているせいで思うように見ることは出来ない。
それでも奴が怯んだのは伝わってくる。
『ロゼリット。神官長まで……何のつもり?』
忌々しい。そう舌打ちしそうな響きには、たじろきも含まれている。
その証拠に、渾身の力を込めても動かなかった指先が、ほんの少しだけ持ち上げる事が出来た。
目に見えない圧迫の大元が絶たれたと知る。
それはカルヴィナも一緒なのだろう。
スレンの腕から飛び出すと、俺に駆け寄って来てくれた。
その腕を掴むために必死で腕を持ち上げる。驚いた事に直ぐ様、すくい上げられた。
傍らにうずくまるようにして、俺の腕にすがる身体が震えている。
よほど恐ろしい思いをしたに違いない。
もう大丈夫だと言ってやりたいが、思うように言葉が出てこなかった。
『カ、ル……ぐっ、ゲホ……っ!』
声をふりしぼるが出てきたのは咳きと、血反吐だった。
『レオナル様! レオナル様!』
慌てたように首を横に振るカルヴィナの手が、俺を労わるように背をさすり、腕を抱える。
何てザマだ。
奴は俺にかすりもしなかったというのに、いとも容易く俺を痛めつけた。
それでも立ち上がるべく全身に力を込めた。
俺は今、シュディマライ・ヤ・エルマの化身だ。
半身なくしてはただのケダモノ。
だが――。
真白き光が傍らにあるなら、我は森の真の神。
うかがいしれぬ者に打ち負かされる事は無い。
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『スレン。わたくしは、わたくしたちは、この者を真の巫女王候補として推薦します』
凛と響いた声は、剣術大会の時に見た幼女のものだった。
足音はない。
そっと闇を滑るように進む。
その手に引かれて一緒に歩み出るのは、か細い少女の姿だった。
小さな靴音に続く、それよりも少しばかり重い足音は神官長のものだ。
じいさんもまた、少女の手を引いている。
彼女も美しい装束に身を包み、髪には花を差し、ベールのかずきを被っている。
ゆっくりと進む新たな巫女王候補――花嫁にスレンは明らかにひるんでいた。
『ロゼリット! 神官長!』
たまらず怒鳴ったスレンに、ロゼリットと呼ばれた幼女は微笑み掛ける。
そしてそのまま背を向けると、自身だけ闇に戻っていった。
何も語らず、静かな淡い微笑みだけを残して。
代わりに一歩踏み出したのは、ベールの少女だ。
その歩みに迷いは一切感じられない。
一歩、踏み込まれる毎にスレンは、祭壇へと後退した。
だが気を取り直したのか、三歩下がった後で立ち止まると声を張り上げた。
努めて優しくあやすような声音へと切り替えて呼ぶ。
『おいで、フルル。今なら許してあげるから』
だが、怒りと焦りのためなのか語尾が震えている。
『おいで。戻っておいでよ、フルル。僕の花嫁――さあ!!』
俺に抱きついたまま、カルヴィナが首を横に振る。
スレンから顔を背けると、俺の血で濡れた唇に唇を押し当てた。
『!?』
唇の端が切れているせいで少々しみたが、甘美なしびれへとすり変わる。
俺の血がうつったのだろう。見下ろすとカルヴィナの唇が赤く染まっていた。
『フルル。それが君の答えだっていうの?』
すかさず神官長は手にしたランプを掲げ、聖典の一節を口にした。
『集え光よ。かの者の魂の在処を知らしめるために』
ひときわ大きく炎の勢いが増し、スレンを照らし出す。
スレン自身は微動だにしなかったが、奴の影が怯んだ。
スレンの後ろに大きな、闇の塊。
影よりも濃い、闇。
凝った闇から枯れ枝のような腕をさし伸ばしている。
それは無数にあり、闇の中で蠢いていた。
枯れ枝のようでありながら、腕のようなその有り様に、敵わなかったはずだと妙に感心する。
自分はこの無数の闇の触手に押さえつけられたのだ。
それらが言葉ないままにざわめき合い、カルヴィナを引き寄せようと手招きしている。
自分は許せても、カルヴィナを囚われるわけにはいかない。
覚悟を決めてカルヴィナを背に庇い、立ち塞がった。
睨み合う。だがやはり、奴の視線は虚ろなままだ。
『へぇ? 僕から花嫁を取り上げようって言うんだ?』
『スレン殿。あなた様の花嫁ならば、こちらにおります!』
『はい。今、参ります』
挑発的な言葉に答えたのは、神官長だった。
それに続いた少女の声にまた、スレンの動きが止まる。
自らベールをはね上げながら答えた少女は……リディアンナだ。
傍らには神官長が付き添っている。
それでも心配のあまり、苦しいほど鼓動が高鳴る。
『わたくしこそが新たな巫女王としてふさわしいわ。スレン様?』
『リディ……。君は何を言っているんだい? 君みたいな子供が。こんな時間に、こんな所に来ちゃいけない。そうだろう?』
首を横にうち振りながら、スレンは否定した。
否定と言っても弱々しい。
対してリディアンナの眼差しは強く、引くことはない。
『いいえ間違いありません。わたくしはね、スレン様。貴方が触れた時から目覚めているの』
『リディ?』
『貴方が幼いわたくしを抱き上げてくれた時に、全てとはいかなくても――流れ込んできたわ。貴方が過ごしてきた時が』
リディアンナが歩み寄ると、スレンは身を引いていく。
まるで触れられるのを恐れているかのように。その背後の影たちも一緒だった。
そんなスレンに追いすがるように、リディは手を差し伸べながら近づいて行く。
『そこにはわたくしが、かつてのわたくしの姿もあったの。本当はスレン様も気がついているのでしょう? かつてのわたくしを、その女の生まれ変わりがわたくしであると。ねえ?』
大きく息を吸い込んで瞬き、リディアンナは歌うように口にした。
『朽ちかけた神木』
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『……リルディ・アン!!』
ついに祭壇まで追い詰められたスレンが、歯を食いしばりながら唸った。
『ええ、そうよスレン。お久しぶりね。わたくしを憎んでいて?』
『リルディ・アン。人の身でありながら最強の呪術者であった者』
『聞くまでもないわね』
スレンの抑揚のない言葉に、リディアンナは小さく笑った。
『ふふ。そうよ、わたくしよ。あなたをここに縛り付けた女の魂が、今再びあなたの元へと舞い戻ったの』
『違う! 違う! 違う!!』
ガシャン!!
ガシャン、ガシャン!!
怒りに任せて、スレンは祭壇の器を床へと叩きつけ出した。
次々と叩きつけ、最後に祭壇自体を蹴り倒す。
『違う。僕のリルはとっくにお墓の中だ。その時だって僕は弔いの式に参列したんだから、間違いないよ』
『スイレイン、』
『その名で呼ぶな! 呼んでもいいのは僕の花嫁だけだ!』
大きく肩を震わせてから、スレンはリディアンナへと向かい合う。
壊れた破片が踏みつけられて、ガシャガシャと耳障りな音を立てた。
『君はリディアンナだ。人はやり直すことが出来る生き物だ。その転生の輪を外れない限り、幾度も機会が与えられている。神に祝福された生き物たちよ』
『あなたもよ、スレン』
『何だって?』
『あなたもやり直すことが出来る』
静かにリディアンナは告げた。
『わたくしはやり直すためにここに来たの』
『やり直す? やり直すだって? 一体、何を言っているんだい!』
『スレン様。わたくし、十四歳になったわ。昨日まで十三歳だったのに』
『……。』
『お祝いはしてくださらないの?』
『そうやってまた僕を追い越して、置いていくんだ。祝える訳がない』
『わたくしは時を味方にして貴方に追いつき……追い越すでしょう。でも貴方の側にいる事を望むから、貴方をわたくしのかけた術から解放して差し上げたいから、生まれてきたの』
リディアンナは影の中を恐れずに突き進み、手を差し出した。
『さあ、もう一度、あの時の続きを』
『嫌だ! 君もまた僕を置いて行ってしまうんだ』
『いいえ。置いてなど行きません。もしそうなったとしても、こ度は必ずや貴方を解放してみせます』
スレンは往生際悪く、首を横に振り続けて抵抗していた。
口ではそう言ってこそいるが、どうだろう。
何よりの証拠に奴の本体らしい枝の影が、リディアンナへといっせいに伸びてきている。
本当の願いが目の前にあるというに、奴はためらっているのだ。
そうもどかしく思いながら見守っていると、ふいに声を掛けられた。
『ねえ、レオナル。君だってそうだよ。フルルを置いて逝く事になるんだよ、時に連れ去られゆく肉体の持ち主。大魔女と森の存在との奇跡の子に、それはひどく残酷な事をしでかすんだって解っているのかい?』
腕の中に大事に抱えたカルヴィナが、小さく身じろいで俺を見上げてきた。
その不安そうな瞳にしっかりと頷いて見せる。
『そんな事はない。どうにかしてみせる』
『何それ!?』
ハッタリではなく、本気だった。
『本気だ。きっと、どうにかしてみせる』
言い切り、涙を溢れさせ始めたカルヴィナの頬に唇を寄せた。
『そうよ。だから、貴方もいい加減に諦めて覚悟して下さい。この手をとって?』
『……嫌だ』
強情なスレンに、リディアンナは痺れを切らしたように叫んだ。
『もう、ここは任せて叔父……シュディマライ・ヤ・エルマ様。後は、打ち合わせ通りに!』
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そうだ。
我はシュディマライ・ヤ・エルマ。
疾風まとって動く暗闇。
出来ることは、それだけであろうとも構わない。
『レオナルさま』
寄り添い、支えてくれる小さな身体に感謝する。
幼いながらも、自分よりも遥かに大きな存在に向かい合おうとする後ろ姿にもだ。
それと同時に驚きを隠せない。
彼女たちの華奢な身体にひそむ力を敬う。
だから祈る。
どこに何かにかは分からない。
それでも力を貸してくれと痛切なまでに願った。
咳き込みながらも息を吸い込み、叫ぶ。
『シュディマライ・ヤ・エルマが命じる。来れ、水底の鏡!!』
『最終決戦です。』
レオナルは最初から敵わない相手でした。
それでも立ち向かう。
頑張れ!