106 巫女王候補と副団長
私は身構えてデュリナーダに抱きついた。
デュリナーダも緊張しているのが伝わってくる。
静かに唸り、口の端が持ち上がった。真っ白い牙がのぞく。
そんな獣をなだめるように、そっと首筋に指を絡ませた。
『いい子ね、デュリナーダ。大丈夫よ』
そっとその耳元に言って聞かせると、唸り声が少しだけ和らいだ。
ほっとする。真っ黒い瞳が私を見つめてくる。
それに強くひとつ頷いて応えると、デュリナーダを背に庇うようにした。
シオン様は明らかに不機嫌だった。
二度も出くわしたのだ。
私にとっては見知らぬ場所でも、彼らにしてみたらいわば自分の領域だろう。
もしかしたらここも、立ち入ってはならない場所なのかもしれない。
私のような新参者は特に。
ここもまた神聖な場所なのだろう。
デュリナーダの様子を注意深く観察した。
どうやら、そんなに心乱してはいないようだ。
ひとまず安心する。
獣というものは人の抱くものを、ひどく敏感に察知する生き物だ。
こちらの心が乱れると、獣たちの心も乱れる。
能力と力に恵まれた存在を、そのような心持ちにさせるのは、あまり得策とは言えない。
その辺は「一角の君」との出来事で学習済みだ。
でも今、シオン様は確かに獣の名を呼んだ。
例えそれが真名では無いにしても、この個体に与えられたものだ。
デュリナーダに対して、良くも悪くも影響がある。
『デュリナーダ、その、シオン様とはお友達……?』
そう尋ねると、獣は耳を後ろに思い切り倒した。
『違う! コヤツは術者だ!!』
鼻息も荒く、牙を剥き出しにして否定された。
興奮し出したデュリナーダの背を撫でさすってやる。
『じゅつしゃ?』
『我を従える者。否――従えていた者』
聞き慣れない言葉に尋ね返すと、驚くような答えが返ってきた。
術者。おばあちゃんから聞いたことがある。
何でも「力」で獣を使役する者達がいる、と。
力で獣の自由意思を奪うという。
私には信じられない、いや、信じたくない話しだった。
一気に警戒する心が高まった。
デュリナーダを隠し込むように、いっそう前に出た。
もちろん、気持ちの上でだけだが。
デュリナーダの方が丈がある。
シオン様の眼差しと真向かう。
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彼は頭を二、三振るとこちらを真っ直ぐに見据えた。
澄み切った瞳の青はまるで氷のよう。
透明感はあっても、水のように指先を浸すことが出来ない。
術者。
その言葉に身体が強ばる。
怖い。ぶたれるかもしれない。
それくらいの怒気を感じ取れる。
思わずすくみそうになりながらも、心を構えた。
奥歯を噛み締め、決意を眼差しに込める。
術者。力で獣の意思を奪う者。
デュリナーダを渡してなるものか。
シオン様は慎重に近づいて来る。
「……デュリナーダ」
静かに彼は呼ばわった。
獣は唸り声で返しただけだった。
シオン様は唇を引き結ぶと、腰元の剣をスラリと抜いた。
その輝きに来るべき一瞬を思って、固く目をつぶった。デュリナーダにしがみつく。
だが、次の瞬間耳に届いたのは、とても鈍くこもったものだった。
ザクリといくらか鋭いが、人の靴音とそう変わらない。
ぱっとそちらを振り返ると、剣はシオン様の足元の地面へと、真っ直ぐに突き立てられていた。
その剣の柄に両手を重ね置くと、シオン様が瞳を伏せた。
風が巻き起こる。まるで、地面から湧き上がったようだった。
空気が変わる。
何かを含んだ空気をはらんで、シオン様の髪が、マントが、舞い上がった。
「我――シオン・シャグランスが眼前の獣よりも高みに立つ」
その途端、デュリナーダは腰を上げた。
四肢を突っ張らせて、身構える。
シオン様の集中は続く。
「その獣の名はデュリナーダ。
冷気を含ませた風をまとい 従え歩く者。
この者を魅了し 縛るは永遠の疾風。
吹きすさべ 全てをなぎ払う風よ。
さらうは彼の者の魂。
行き着くは デュリナーダの魂の在処。」
朗々と彼は声を張り上げて、唱え続ける。
そこに「力」が存在して作用しようとしているらしい、という事が朧気ながらも伝わってきた。
残念ながらというべきなのか、詠唱の内容通りにはいっていないようだが。
それでもハラハラしながら、様子を見守る。
デュリナーダはくわぁああと、大きく口を開けた。
どうやらあくびをしたらしい。
ずいぶんと余裕の態度だ。
『効かぬよ』
デュリナーダは宣言した。
『もう効かぬ!』
獣は勝ち誇ったように、後ろ足で立ち上がってみせた。
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詠唱を諦めたシオン様が、地面から剣を引き抜いた。
切っ先に付いた土を拭うと素早く鞘に収める。
「エイメ様。あなたは何をなされたのですか?」
「何? 何も」
獣と顔を見合わせる。
デュリナーダは再び大きく口を開けると、私の髪をくわえてしまった。
完全にシオン様をバカにしているようだ。
「デュリナーダ、イタズラっ子ね」
髪をまとめるリボンは、あむあむと噛まれて引っ張られてしまった。
ほつれた一すじが、はらりと頬に落ちる。
『美ひぃ』
あむあむとリボンの端を口に含んだままで、デュリナーダが褒め言葉を寄こす。
『ありがとう』
「あなたの色が獣を魅了するのですか?」
「え?」
何を言われているのか解らなかった。
思わず振り返る。
勢いがあったせいで、するりと完全にリボンが引き抜かれてしまった。
髪がほどけ落ちる。
シオン様は、軽く目をみはったようだった。
だがすぐに眇められたから、日差しのせいだろう。
私の色のせいかもしれない、などという不安は無理やり封じ込めるに限る。
「あなたの、色が……。獣の心を惹き付けるのですか?」
やっぱり意味がよくわからなくて、シオン様を見上げるだけだった。
そんなシオン様にデュリナーダが答えた。
リボンの歯ごたえが気に入ったのか、相変わらずくわえたままで。
『ふぉれだけであるか、バかァめ』
『デュリナーダったら』
そっと、デュリナーダの口からリボンを引き抜くことに成功した。
首に結びつけてやる。
獣は首をそらせて、胸を張ってみせた。
お気に召したようだ。
「エイメ様?」
「それだけでは無いそうです」
「今、デュリナーダがそう答えたのですか?」
「はい」
『エイメよ。このバカ者に、ひとつ伝え忘れておるぞ』
「それはできないわ、デュリナーダ」
「この獣をエイメ様の助けに御用だて下さい。それでいいのだろう、デュリナーダ?」
『貴様に言われるまでもない』
そんな事できる訳がない。ぶんと、首を横に振った。
白い獣は身体を押し付けてくる。
「この獣はもう俺の言うことに耳を貸しません。ただ、あなたに関すること以外」
「そんな事って……。」
どうして言うことを聞かせるなどと言うのだろう。
ひどく不快だった。
ああ、そうだと思い当たった。
キーラやフィオナに言われて、何となく違和感を覚えた理由。
――従えてやりたい?
従えるってどういう事だろう。
そんな関係はあんまりいい感じがしない。
でもそれが神殿の流儀なんだろうか。
そう思ったから疑問は口にしなかった。
どう答えたものかと考えこんでしまう。
言葉が見つからない。
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パァン! パチパチパチパチ……。
急におくられた拍手に、驚いて振り返った。
「やあ! すごいな! 我らが巫女王候補サマは」
そこで飛び込んできた人影に、私は思考ごと凍りついてしまう。
「レメアーノ。……団長」
シオン様が苦々しく呟いた。
デュリナーダが私の頭のてっぺんを甘噛みしてくる。
『シオン・シャグランス』
はいでましたー家名。
術者輩出の家柄、どこかで聞いたことがあるかもしれません。
(どうでもいい裏設定。は いつか小話で!)