105 娘と雪原の風
ふと、頬を撫でる風に誘われて、そちらに顔を向ける。
気持ちの良さそうな庭だ。
少し風に吹かれたら、気持ちも落ち着くかもしれない。
「スレン様」
「ん?」
「お庭、見てきてもいいですか。少し一人になりたい」
そう告げて、返事をもらう前にすでに立ち上がっていた。
ふらふらと風に誘われるままに進むから、足元はよく見ていなかった。
つまづきながらも、こりもせず庭だけを見ていた。
「いいよ。でも、この庭から出ないようにね」
スレン様はそう言って送り出してくれた。
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何となく、惹かれるままに散策した。
今日はこの時期にしては、暖かい方だと思う。
ショールを羽織らずに来てしまったけど、風が心地よく感じられる。
背を日差しで温められて気持ちよかった。
小さな花壇には薬草が花を付けていた。
それを見て、地主様の屋敷に作ったままの自分の畑を思い出した。
誰かちゃんと面倒を見てくれるといいのだけれど。
そしてたまには、地主様の食卓にのぼるといいのだけれど。
あれは健胃に役立つ。噛むと口中がさっぱりするし。
そんな風に心を残してきた自分がどうにもならなくて、ため息が漏れる。
小さくも頼もしい存在に指先を這わせてから、その場を離れた。
微かに水音がする。
それは空気を震わせる。
微かな波紋が空気を介して伝わってくる。
先程から、どうにもそちら側が気になって仕方がない。
視線で探るが、木立が見えるばかりだ。
惹かれる先に、何があるのか見当も付かない。
でも気になる。向こうに行ってみたいという気持ちは、抑えられなかった。
庭からは出ないようにとは言われたが、どこまでが庭なのか何て解らない。
振り返って見ると、自分が後にした部屋がずい分と小さく見えた。
まあ、あまり遅くならなければいいだろう。
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水音の源にたどり着く。
そこは綺麗に形作られた空間と呼ぶに相応しい。
杯を逆さまに置いたように象られた彫刻が飾られ、その四方から水が流れ落ちていた。
彫刻の周りを石が囲い、水が溜まる仕掛けになっているようだ。
光る水しぶきと、先客に目を奪われる。
真っ白い生き物が頭を垂れていた。
いや、顎を引いて上目使いでこちらの様子を窺っている、といった方が正しいのかもしれない。
清浄な気配に納得する。ここに心惹かれたのだ。
獣もまた同じなのだろう。
喉を潤し、水音を楽しんでいたに違いない。
何て、綺麗。
胸が痛んだ。
私がまとうのは闇色。
美しいものを見ると胸が痛むのはどうしてなのだろう――?
私の姿を認めても、獣は逃げなかった。
ただ耳を後ろに倒しただけだ。耳の先についた飾り毛が風になびく。
静かな水音だけがこの場を支配している。
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どれくらいの時間を掛けて歩み寄っただろう。
とにかくゆっくりとだった。
一歩進んでは獣の様子を見ながら、はやる気持ちを落ち着かせた。
獣は私が側に寄っても逃げなかった。
『触れてもいい?』
おずおずと手を伸ばすと、獣は自ら頭を擦り付けてくれた。
巻毛に覆われた尾が左右に振れる。
その事に安堵する。
『お利口さん。お名前はなんですか?』
名を尋ねると獣は答えてくれた。
『デュリナーダ』
驚きと嬉しさで何とか頷くのがやっとだった。
『デュリナーダ、いいこね』
綺麗な獣の毛並みは白銀に輝いている。
陽の光を浴びると、真っ白に見えるのだ。
デュリナーダは月の光の方が、その毛並みが映えるかもしれない。
そっと指先を絡め続けると、獣は寄り添ってきた。
少し、重たい。
寄りかかられて、自分を支えるので精一杯の私はよろめいてしまった。
思わず、獣の首筋に両手ですがる。
その拍子に手にしていた杖が転がって行った。
『あっ……。』
デュリナーダはゆっくりと膝を折った。
向かって右前、左前。
そして後ろ足も同じく。
おかげで無事に腰下ろすことが出来た。
そうやって私を気遣ってくれたのだと知る。
嬉しくなって微笑みかけた。
『ありがとう』
長くすんなりとした首を屈めて、耳の後ろを押し付けてくる。
掻けということだろうか。
何て可愛い。
デュリナーダと名乗った獣を言い表すのならば、角を持たない山羊と例えたらいいだろうか?
しかし山羊にしては大きすぎるし、毛並みも豊かすぎる。
それに蹄も無い。足は強く駆け抜ける獣のそれで、肉球があった。
こんな生き物、生まれて初めて見た。
何て不思議な存在なのだろう。
しげしげと、その賢そうな瞳をのぞき込んだ。
それは真っ黒で長いまつ毛の下、くりくりとよく動いた。
そこだけは私と同じ色合いだ。
私はすっかり気を良くして、この獣が好きにならずにはいられなかった。
耳の後ろから、胸元をくすぐってやると、獣は目を細めてくれる。
ますます嬉しくなって、知らず笑い声を上げていた。
『そなた、名は?』
『エイメです』
『娘? 真の名にあらずな?』
『ええ、もちろんよ。雪原の風こそ』
デュリナーダの体中の毛が、一気に空気をはらんで逆立つ。
一瞬、真名に触れようとしたせいで、怒らせてしまったのかと思った。
思わず身体を離したのだが、デュリナーダの眼差しは私を通り越していた。
「デュリナーダ!!」
息を切らした声が獣の名を呼んだ。
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振り返ると、驚きに目をみはるシオン様がいた。
「また、あなたか」
そう小さく呟いた声を私は聞き逃さなかった。
『もふもふ・だーい好き!』
デュリナーダ登場です。
どこかで聞いた名前かもしれません。
もふもふ獣様。詳しくはまた後ほど……。