「愛が二倍になるから二人目の婚約者を迎えよう!」――そうですか!では私は婚約者を辞めますね!
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王都ルミナスの社交界には、誰もが認める「残念な美男子」がいた。王太子レオンハルト・アウグスト。容姿だけを見れば、誰もが認める美丈夫である。陽光を溶かし込んだような金髪に、澄んだ青い瞳。整った顔立ちと王族らしい堂々とした立ち姿も相まって、初めて彼を目にした令嬢が頬を染めることは珍しくなかった。
だが、その外見に惹かれて近づいた者は、ほどなくして同じところへ行き着く。遠くから眺めているうちは完璧に見えるのに、いざ言葉を交わしてみると、その印象は驚くほどの速さで崩れていくのだ。
――この方は、根本的に頭がおかしい。
その婚約者である公爵令嬢クラリッサ・エーデルシュタインは、彼の残念さを誰よりもよく知っていた。彼女とレオンハルトの婚約が決まったのは、二人がまだ幼い頃。王家と公爵家の結びつきをより強固にするために結ばれた、極めて政治的な婚約だった。
クラリッサは幼い頃から「未来の王妃」として育てられた。歴史、法律、外交、経済、語学、礼儀作法。遊びたい盛りの年頃にも机へ向かい、教師から課された勉強を疎かにしたことはない。自分が学んだことは、いずれ王妃として国を支えるために役立つのだと信じ、幼いながらも懸命に努力を重ねてきた。
一方、レオンハルトは十歳の時点ですでに周囲の期待とは違う方向へ成長し始めていた。王族として受ける授業の最中にも集中力は続かず、教師から勉強の必要性を説かれると、不思議そうな顔をして首を傾げた。
「どうして勉強しなければならないんだ?王になれば、優秀な者に任せればいいだろう」
当時のクラリッサは、子どもらしい甘えなのだと思っていた。今は勉強より遊びたいだけで、成長して自分の立場を理解すれば自然と変わるだろう。そんな期待は、彼が十五歳になった頃にはかなり怪しくなっていた。
「税というのは、足りなくなったら増やせばいい」
「民が困っているなら、努力不足では?」
彼は冗談で口にしているわけではなかった。教師たちから税制や民の暮らしについて説明されても、自分の考えのどこに問題があるのか分からないらしく、むしろ当然のことを言ったという顔をしている。そのたびにクラリッサは横から説明を加え、教師たちは疲れた顔で額を押さえていた。
幸い、その頃までは彼のこうした致命的な欠点が外部に漏れることはなかった。王家の威信に関わる以上、国王も王妃も、そして側近たちも、レオンハルトの失言が社交界へ広がらないよう必死に立ち回っていたからだ。
公式の場では、あらかじめ用意された挨拶文だけを読ませる。質疑応答のある場には極力出席させず、長時間の会談にも可能な限り同席させない。どうしても出席が必要な場合には、頃合いを見て侍従が「ご体調が優れないようです」と申し出て、余計なことを口にする前に退出させていた。
その裏では、侍従長や文官たちが冷や汗を流しながら奔走していた。次期国王となる人物が国政について何を考えているのか知られれば、王家への信頼が揺らぐのは避けられない。「この王太子に国を任せてよいのか」という疑念が貴族や民の間へ広がることを恐れ、周囲は彼の問題をひた隠しにしてきたのである。
そしてクラリッサも、その一端を担っていた。婚約者として隣に立ち、危うい発言が飛び出しそうになれば話題を変え、ときにはレオンハルトの言葉を柔らかく言い換える。幼い頃から繰り返してきたため、今では本人が意識するより先に口が動くほどだった。
もちろん、レオンハルトにも取り柄はあった。人当たりは良く、初対面の相手を惹きつける愛嬌があり、失敗しても妙に自信を失わない図太さも持っている。そして何より、自分が間違っているとは夢にも思っていなかった。その最後の一点について、クラリッサは長らく長所として数えてよいものか悩んでいた。
それでも、いつか責任ある立場の重みを知れば、彼も変わってくれるのではないかと期待していた。王という地位の意味を理解し、自分一人の言葉が多くの人々の暮らしに影響を及ぼすと知れば、少しは考え方も改まるかもしれない。幼い頃から彼の隣に立つために費やしてきた年月と努力を、すべて無意味だったとは思いたくなかったのだ。
けれど、レオンハルトに足りなかったものは歴史や法律の知識だけではなかった。クラリッサが長年抱き続けてきた期待を手放すことになったのは、十七歳の誕生日を迎えた夜のことだった。
◇
クラリッサの十七歳の誕生日、王城の大広間では彼女を祝うための宴が開かれていた。招かれたのは王族とエーデルシュタイン公爵家、そして両家と特に親しい貴族たちに限られている。華やかではあるものの、王城で催される大規模な夜会と比べれば、身内の祝いに近い席だった。
天井から吊るされたシャンデリアの光が磨き上げられた床へ落ち、楽団の奏でる穏やかな旋律が広間を満たしている。白いクロスが敷かれた長卓には色鮮やかな料理が並び、給仕たちが静かに行き交う中、クラリッサのもとには祝いの言葉を伝えようと客人が次々と訪れていた。
「お誕生日おめでとうございます、クラリッサ様」
「ありがとうございます」
クラリッサは気品ある笑みを絶やさず、一人ひとりに丁寧に応じていた。十七歳になったばかりとは思えない落ち着いた振る舞いを見つめながら、上座にいた国王は満足そうに頷く。その隣に座る王妃もまた、幼い頃から見守ってきた少女の成長を嬉しそうに眺めていた。
「やはり、クラリッサ嬢は素晴らしいな」
「ええ。本当に。あの子にはいつも助けられております」
王妃の微笑みには、未来の王妃への称賛と、息子に対する複雑な思いが入り交じっていた。クラリッサが優秀であればあるほど、その隣に立つ息子との差が目につく。王妃自身、それを誰よりも理解していた。
一方、その息子であるレオンハルトは、先ほどから妙に落ち着きがなかった。何度も広間の扉へ目をやり、そのたびに口元を緩ませている。何かを待ちきれずにいるのは明らかで、料理にもほとんど手をつけず、時間ばかり気にしていた。
クラリッサもその様子には気づいていた。誕生日のために何か贈り物でも用意してくれているのだろうか。そう考えると、胸の内に小さな期待が生まれる。ここ最近のレオンハルトの言動には頭を抱えることも多かったが、こうした節目の日に自分のために何かを考えてくれたのなら、まだ彼との未来を諦める必要はないのかもしれない。
やがて食事が終わり、デザートが運ばれてきた頃だった。レオンハルトが突然椅子を引いて立ち上がり、手にしたグラスを高く掲げる。楽団の演奏が止まり、談笑していた客人たちも何事かと口を閉ざした。
「皆、聞いてくれ!」
広間中の視線が自分へ集まったことを確認したレオンハルトは、いっそう得意げな笑みを浮かべた。何を用意しているのか知る者はいないらしく、客人たちも期待するように彼の次の言葉を待っている。
「今日はクラリッサの誕生日だ。そこで私は、彼女に最高の贈り物を用意した!」
客人たちから拍手が起こった。クラリッサも席を立ち、ドレスの裾を整えながら控えめに微笑む。婚約者が自分のために何を用意したのか、少なからず楽しみにしていた。
「ありがとうございます、殿下」
レオンハルトは満足げに頷くと、広間の扉へ向かって大きく手を振った。楽団員も客人たちもそちらへ視線を向け、クラリッサもまた、期待とわずかな緊張を胸に扉が開くのを待った。
「さあ、入ってきてくれ!」
重厚な扉がゆっくりと開いた。その向こうに立っていたのは、栗色の巻き髪に愛らしい顔立ちをした一人の令嬢だった。淡い桃色のドレスを身にまとい、緊張した面持ちで広間へ足を踏み入れる。伯爵令嬢ミレーヌ・フォルティエ。その姿を認めた瞬間、クラリッサの胸に嫌な予感が広がった。
なぜ自分の誕生日を祝う席に彼女が現れたのか。クラリッサがその理由を考えるより早く、レオンハルトはミレーヌの隣へ歩み寄った。周囲から向けられる不思議そうな視線にも気づかず、彼は満面の笑みを浮かべて胸を張る。
「紹介しよう!彼女はミレーヌ。今日から私の第二の婚約者だ!」
先ほどまで自然に起こっていた拍手は、今度はどこからも聞こえてこなかった。給仕が足を止め、貴族たちは互いの顔を見合わせる。聞き間違いではないかと確かめるような視線があちらこちらで交わされていたが、レオンハルトは確かに「第二の婚約者候補」と口にした。
この国の婚姻制度を知る者ならば、冗談として聞き流すことさえ難しい言葉だった。婚約者本人の誕生日を祝う席へ別の令嬢を連れてきたことも、その令嬢を第二の婚約者候補と称したことも、客人たちの理解できる範囲を軽々と飛び越えている。
「私は最近気づいたのだ」
周囲の沈黙を好意的に受け取ったらしいレオンハルトは、得意げに胸を張った。クラリッサは何も言えないまま彼を見つめていたが、その表情から異変を読み取る様子もない。
「愛というものは、大きければ大きいほど良いと。一人だけを愛するより、二人を愛する方が素晴らしいに決まっているだろう。愛の総量は二倍になるのだからな。つまり私は、クラリッサもミレーヌも等しく愛することができる。これほど器の大きな男はそういない」
レオンハルトは自らの名案を確かめるように頷いた。そこまで聞けば何かの冗談だと笑う者が現れてもよさそうなものだが、広間には乾いた咳払い一つさえ響かない。
「君にとっても悪い話ではない。君は未来の王妃として政治を支え、ミレーヌは私の心を癒す。役割を分担すれば、誰も損をしない。むしろ全員が幸せになれる、実に合理的な考えだ」
銀盆を手にしていた給仕は、動くことさえ忘れていた。招待客の一人は開きかけた口を慌てて閉じ、別の貴族は何かを堪えるように眉間を押さえている。誰もが何か言いたそうにしているのに、あまりの出来事を前に最初の一言が見つからないらしい。
国王と王妃からは、先ほどまで浮かんでいた穏やかな表情が消えていた。エーデルシュタイン公爵に至っては、卓上で組んだ両手に力を込め、娘の婚約者を射抜くように睨んでいる。その顔を一目見れば、今すぐ席を立たないのは王族への敬意が辛うじて理性を繋ぎ止めているからだと分かった。
クラリッサは怒ることすら忘れていた。十年以上、この人の婚約者を務めてきた。数え切れないほどの失言を取り繕い、いつかは変わってくれると信じ、そのたびに自分へ言い聞かせてきた。それでも、自分の誕生日に別の令嬢を連れてきて、第二の婚約者候補として紹介される未来までは想像したことがなかった。
「どうした? まさか反対する者はいないだろう。こんなに皆が幸せになれる案はそうそうないぞ」
レオンハルトは静まり返った広間を見回し、不思議そうに首を傾げている。どうやら、この沈黙を自分の斬新な発想に感心しているためだと受け取っているらしい。自信に満ちた笑みには、自分が婚約者をどれほど侮辱したのかという自覚が欠片も見当たらなかった。
クラリッサはゆっくりと息を吸った。頭の中が真っ白になっているのに、長年染みついた習慣だけは恐ろしいほど正確に働く。王家の威信を守り、この場にいる貴族たちへ余計な言葉を口にさせず、これ以上の醜態を晒させない。そのために今できることを考えれば、選択肢はほとんど残されていなかった。
「あの……殿下は少し熱を出されていて、私を彼女と勘違いされているのだと思います」
自分でも苦しい言い訳だと思った。けれど、誰も笑わなかった。クラリッサが何をしようとしているのか、その場にいた者たちは理解している。真実を追及するより、この無理のある説明に乗った方が王家にとっても、エーデルシュタイン公爵家にとっても傷は浅く済む。
「申し訳ありませんが、殿下の療養を優先したく存じます。本日の祝宴は、これにてお開きとさせていただければと」
数秒の沈黙を挟み、国王が重々しく頷いた。息子へ向けられた視線は厳しいものだったが、今は叱責するより客人たちを帰すことが先だと判断したらしい。
「……そうだな。レオンハルトも少々疲れているようだ。本日はこれまでとしよう」
「皆さま、本日はお集まりいただき、ありがとうございました」
王妃もすぐに席を立った。その一言を合図にしたように、貴族たちは次々と立ち上がる。普段なら別れの挨拶にも時間をかける者たちが、今日ばかりは余計なことを口にするまいと、揃って簡潔な言葉だけを残していった。
「お大事になさってくださいませ、殿下」
「どうかご無理をなさらず」
「十分にご静養ください」
誰一人としてレオンハルトと目を合わせようとしなかった。足早に扉へ向かう者もいれば、俯いたまま肩を震わせている者もいる。笑っているのか、怒りを堪えているのか、クラリッサには確認する気力も残っていなかった。
華やかに始まった十七歳の誕生日祝宴は、予定よりずっと早く終わった。卓上には手をつけられていないデザートが残り、先ほどまで音楽を奏でていた楽団員たちも、楽器を抱えたまま困惑した顔を見合わせている。祝宴の名残だけが広間のあちらこちらに残り、その光景がクラリッサにはひどく虚しく映った。
「なぜだ? せっかく皆に良い知らせをしたのに」
レオンハルトだけが、不満そうに首を傾げていた。自分の発言によって祝宴が終わったことさえ理解していないらしく、去っていく客人たちの背中を眺めながら納得できないという顔をしている。
クラリッサはそんな婚約者の横顔を静かに見つめた。腹立たしさよりも先に、奇妙なほど冷静な感情が胸の中へ広がっていく。幼い頃から抱いてきた期待も、いつか変わってくれるという願いも、もう持ち続ける必要はないのだと思えた。
――これはもう無理だ。
◇
最後の客人が退出し、大広間の重厚な扉が閉ざされた。先ほどまでの華やかな空気は跡形もなく消え、残っているのは王と王妃、エーデルシュタイン公爵とクラリッサ、そして事情を知る側近や近衛騎士たちだけである。誰も口を開かない中、レオンハルトだけが状況を理解できずに周囲を見回していた。
「レオンハルト!」
広間を震わせるような国王の怒声が響いた。温厚で知られる国王がここまで激昂する姿を、クラリッサも初めて目にした。普段なら多少の失言や不祥事にも表情を崩さず、冷静に対処する人物である。臣下の間では、国王を本気で怒らせることなど不可能ではないかと冗談めかして語られるほどだった。
その国王が椅子を蹴る勢いで立ち上がり、息子へ詰め寄った。近衛騎士と側近たちが慌てて間へ入り、腕を広げて止める。彼らがいなければ、王太子の頬へ拳の一つくらい飛んでいたかもしれないと思わせるほど、国王の顔には激しい怒りが浮かんでいた。
「自分が何をしたのか分かっているのか! クラリッサ嬢の誕生日だぞ! その席に別の令嬢を連れてきて、第二の婚約者だと? お前は何を考えている!」
「だから説明したではありませんか。二人を愛せば、愛は二倍になるのです」
「そういう話をしているのではない!」
国王の怒声が再び広間へ響き渡った。近衛騎士たちは父子の間に立ったまま動けず、側近たちも顔を引きつらせている。国王の怒りを前にしてなお自説を曲げようとしない王太子の姿には、長年彼を知る者たちでさえ言葉を失っていた。
その傍らでは、王妃が真っ青な顔で額を押さえていた。侍女が駆け寄った直後、足元がふらつき、そのまま椅子へ崩れるように腰を下ろす。これまで幾度となく息子の問題行動に頭を抱えてきた王妃でさえ、今日の一件には耐えきれなかったらしい。
「王妃陛下、お水を」
「ええ……お願い……」
侍女から差し出された水を受け取る王妃の手は、わずかに震えていた。クラリッサはそんな彼女の姿を見つめながら、これまで王妃もまた息子をどうにかしようと苦労してきたのだろうと思う。それでも、今日起きたことをなかったことにはできない。
エーデルシュタイン公爵も黙ってはいなかった。娘が未来の王妃となるために、幼い頃からどれほど努力してきたのかを知っている。その娘の十七歳の誕生日に、婚約者が別の令嬢を連れてきた。それを笑顔で「贈り物」と称したのである。
「陛下」
公爵の低い声に、国王が振り返った。怒鳴ってはいなかった。それでも、長年王家を支えてきた公爵が何を告げようとしているのか、国王には分かったのだろう。先ほどまで燃えるようだった怒りがわずかに薄れ、代わりに苦い表情が浮かんだ。
「我が娘は、幼少より王太子殿下の婚約者として務めてまいりました。未来の王妃となるために学び、殿下を支え、ときには殿下の過ちを表沙汰にしないために奔走してきた。それが王家と我が家との約束であり、娘自身が選んだ務めでもございました」
公爵はそこでクラリッサへ目を向けた。父と娘の視線が重なり、クラリッサは小さく頷く。父がこれから何を口にするのか分かっていたが、それを止めようという気持ちは生まれなかった。
「ですが、その務めにも限度がございます」
国王は何も言わず、公爵の言葉を受け止めていた。王妃も俯いたまま目を閉じており、ここで婚約の継続を願うことがどれほど身勝手な要求になるのか、王家の二人には十分に分かっているようだった。
「本日の一件を受けてもなお、娘にこれまでと同じ役目を求めることはできません。父としても、エーデルシュタイン公爵家の当主としても、この婚約を継続することには同意いたしかねます」
広間に重い沈黙が落ちた。クラリッサは父の横顔を見つめながら、胸の奥に長く居座っていた重いものが少しずつほどけていくように感じていた。驚きも、婚約を失うことへの恐怖も、不思議なほど湧いてこなかった。
十年以上続いた婚約である。未来の王妃になるのだと教えられ、そのために勉強し、そのために振る舞い、そのためにレオンハルトを支えてきた。自分の人生の先には、いつも王妃という立場が置かれていた。その道から外れることを考えた経験など、これまで一度もない。
それなのに、今クラリッサの胸に最も強く浮かんでいるのは安堵だった。もう彼の失言を先回りして止めなくてもいい。何か問題を起こすたびに周囲へ頭を下げる必要も、いつか変わってくれると自分へ言い聞かせ続ける必要もない。そのことを考えると、肩へ乗っていた重荷がようやく下ろされたような気がした。
「……公爵の言う通りだ」
長い沈黙の末、国王が答えた。疲れ切った表情で息子を一度見た後、クラリッサへ視線を移す。その顔には、王としてだけではなく、一人の父親としての後悔も滲んでいた。
「今回ばかりは、こちらから婚約の継続を願える立場ではない。クラリッサ嬢には、これまであまりにも多くの負担をかけた」
国王はクラリッサへ向き直ると、静かに頭を下げた。王が臣下の娘へ謝罪する光景に、周囲の側近たちが息を呑む。クラリッサ自身も予想していなかったらしく、わずかに目を見開いた。
「すまなかった」
「陛下……」
国王はすぐには頭を上げなかった。幼いクラリッサへ未来の王妃という役目を背負わせ、息子が変わることを期待して長年支えさせてきた。その責任を、今になってようやく真正面から認めようとしているのだろう。
「本来ならば、我々がもっと早く判断すべきだったのだ。レオンハルトがいつか変わると期待し、そのために君へ負担をかけ続けてしまった」
クラリッサは返す言葉を探したものの、すぐには見つからなかった。国王や王妃を恨んでいるわけではない。二人もまたレオンハルトをどうにかしようと長年苦労してきたことは知っている。それでも、自分が背負ってきたものが軽かったとは思えなかった。
そんな中でも、レオンハルトだけは話についていけていないらしい。父親と公爵を交互に見比べ、困惑した顔をしている。婚約を解消するという話が、自分の行動とどう繋がっているのか理解できないようだった。
「待ってください。なぜ婚約を解消する話になるのです?」
国王の眉間に深い皺が刻まれた。公爵は何も答えず、王妃は額を押さえたまま顔を上げようとしない。周囲の側近たちも互いに目を合わせ、この期に及んで何を言っているのかと呆れを隠せずにいた。
「私はクラリッサとの婚約をやめたいなどとは一言も言っていません。むしろ二人とも大切にすると言っているのですよ?」
国王が再び拳を握った。それを見た近衛騎士たちは、今度は命じられる前から一歩前へ出る。先ほどの剣幕を思えば、念のため父子の間へ立っておいた方がよいと判断したらしい。
「お前は……まだ分からんのか……」
「何がです?」
レオンハルトの表情に、冗談を言っている様子はなかった。本当に何が問題なのか分かっていないのだ。その顔を見たクラリッサは、怒りよりも深い疲労を覚えた。これまで何度も説明し、諭し、ときには代わりに謝ってきた。それでも彼は、自分の考えのどこがおかしいのか理解しようとはしなかった。
クラリッサは静かにレオンハルトを見つめた。今までなら、この状況でも彼の言葉をどう取り繕えばよいか考えていたはずだ。婚約者として彼を守り、王家への悪評が広がらないよう動くことが自分の務めだと信じていたからである。
「殿下」
「なんだ、クラリッサ。君からも父上たちに説明してくれ。君なら私の考えが合理的だと分かるだろう?」
レオンハルトは助けを求めるように彼女を見た。これまで何度も、自分が失言するたびにクラリッサが横から取り繕ってくれた。その記憶があるからこそ、今回も最後には彼女が味方になってくれると信じているらしい。
「もう、知りません」
「……え?」
レオンハルトの青い瞳が大きく見開かれた。クラリッサが真正面から彼を否定したのは、これが初めてだったのかもしれない。いつも隣に立ち、失敗すれば助けてくれる存在が自分から離れようとしている。そのことだけは、ようやく理解できたようだった。
クラリッサはその顔を見ても、言葉を取り消したいとは思わなかった。十年以上もの間、自分が彼の失敗を覆い隠し続けてきたからこそ、本人が何も学ばなかった部分もあるのかもしれない。ならば、ここから先はレオンハルト自身が自分の行動の結果を引き受ければいい。
「これまでお世話になりました、レオンハルト殿下」
クラリッサは未来の王妃としてではなく、一人の令嬢として最後の礼をした。頭を上げたときには、もう彼の隣へ戻ろうという迷いは残っていなかった。父が差し出した手に自分の手を重ね、クラリッサはレオンハルトを残して大広間を後にした。
◇
王太子とクラリッサの婚約解消は、両家の協議を経て正式に認められた。王家から発表された理由は「双方の価値観の相違による合意の上での解消」。詳しい事情については伏せられ、王家もエーデルシュタイン公爵家も、それ以上の説明を行わなかった。
もちろん、社交界でその言葉を額面通りに受け取る者はいなかった。クラリッサの誕生日祝宴に招かれていた貴族たちは揃って口を閉ざしていたものの、人の口に戸は立てられない。王太子が何やら途方もないことをしでかしたらしいという話は、少しずつ王都へ広がっていった。
レオンハルトは王城から離れた離宮へ移されることになった。国王が用意したのは、政治、法律、歴史、外交といった王族に必要な学問だけではない。他者への敬意、責任の重み、婚約という約束の意味に至るまで、幼い頃に教えるはずだった内容から徹底的に学び直させるため、複数の教育係が集められた。
「なぜ私がこんなことをしなければならないんだ?」
離宮へ移される日になっても、レオンハルトは納得していなかった。自分は二人の女性を平等に愛そうとしただけなのに、なぜ婚約者を失い、父から叱責され、王城まで追い出されるのか。その疑問に明確な答えを見つけられないまま、彼は大量の教本が待つ馬車へ乗せられていった。
その一方で、長年レオンハルトの後始末に追われてきた侍従長や文官たちは、国王から離宮への同行を命じられなかったと知った瞬間、揃って胸を撫で下ろした。誰も露骨に喜びはしなかったものの、その日の王城では彼らの表情が普段より少しだけ明るかったという。
そして王都では、婚約解消を知った者たちの間で、ある言葉がひそかに交わされていた。事情のすべてを知らない者でさえ、長年王太子の隣に立ち続けてきた彼女が自ら婚約解消を受け入れたことから、相応の事情があったのだろうと察していた。
クラリッサ・エーデルシュタインは、よくここまで耐えたものだ、と。
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婚約も爵位も失った元伯爵令嬢が、変わりゆく故郷で新たな出会いを重ね、自分だけの幸せを見つけていく物語です。
失ったものの先に、どんな未来が待っているのか。
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『婚約を失った元伯爵令嬢の、幸せな暮らしのすゝめ』
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