努力を奪った人間は
私はお姉さまが大好きだ。
私にとってお姉さまは尊敬できる人で、世界で一番大切な人だ。
私の名前はクリスティーナ゠サンチェス。
私はある一冊の本を手に取った。
お姉さまが書いた本だ。
最近になって女性作家として注目を集めるようになった。
この小説の作家がお姉さまということを知り私は買うことにした。お姉さまの一端に触れることができるかもしれない。
◆
お姉さまとの一番古い記憶は私が3歳くらいのころだ。
お姉さまといつも一緒にいた。お姉さまがしていることを真似ばかりしていた。優しいお姉さまは私にとっての憧れだった。
「お姉さまと一緒がいい。一緒じゃないと嫌っ!!」そんな駄々ばかりをこねていた記憶がある。
ある日、お姉さまが絵を描いていると思ったら初等学院に入るための勉強をしていた。その隣で私は絵を描いていた。やがて絵を描いているのではないと気が付き、なにやら指を使いながら数を数えていた姉を横で見ていると私はなんとなく姉のしていることが分かった。
姉が使っているノートに書かれている問題を自分が使っていた紙に写す。最初はそのことを微笑ましく見ていた教育係が突然目を剥いて驚く。
「お嬢様。何が書いてあるかわかるのですか?」
「文字ももうお書きになって」
「これは何と読みますか?」
「ではこれとこれを合わせると……」
教育係が私に尋ね私はそれに答えた。凄いことだったらしくすぐさま両親に報告された。両親や使用人たちが私を「すごい、すごい」とほめてくれた。お姉さまもぱちぱちと手を叩いて喜んでくれた。
その日からお姉さまが受けていた習い事を私も受けることになった。
大きくなるにつれて教育の科目も増えていく。礼儀作法、ダンス、音楽、語学、刺繍、乗馬など。最初はお姉さまを真似るだけや見せてもらうだけだが、私はすぐにその物事の要領をすぐにつかめた。
どんな習い事でもみんなが私を天才だと褒めそやす。私も自分に与えられた才能に誇りを持った。
この時お姉さまが周囲から何を言われ、その度にどんな顔をしていたかは私は知らなかった。
お姉さまが大きくなると私と一緒にいることは少なくなった。
お姉さまの侍女から話を聞くと、学生会に所属するようになったらしい。学院に残って学生会の仕事や勉強を頑張っているようだった。
そして、中等学院に入学してからお姉さまに婚約者ができた。
お相手の家と一緒に行う大きな事業を目的とした政略結婚だという。
お父様が決めてきた結婚にお姉さまは——
「はい。わかりました」
と粛々と受け入れていた。貴族の間で政略結婚なんて珍しくもない。
お相手の人はザイアンという男性だった。お姉さまとは同い年で同じ学院に通っているという。お互い顔見知りということもあり、この婚約が結ばれたようだ。
私はそのことにほっとした。政略結婚というのは下手をすれば顔も知らない自分の親と同じ年齢の人と結婚しなければならないこともある。そうならなくて本当によかった。
だが、お姉さまが高等学院に入学した時期に共同事業にやや翳りが差す。その状況改善のためにお姉さまはさらに忙しくなった。
将来のためということで事業にも携わることになったお姉さまは毎日頑張っていた。お姉さまの時間が家族とずれていくことは寂しかった。
「ねえ。お姉さまは今日もまだ起きていらっしゃるの? ここ数日ずっと徹夜をされているわ」
私の部屋はお姉さまの真向かいにある。ちょうど部屋から出てきたお姉さまの侍女に声をかけた。
その部屋からまだ明かりが漏れ出ていた。今朝の朝食時も欠伸をしてお母様に窘められていた。
「はい。明日は重要な会議があるのでもう少し頑張られるのだそうです」
「……そう。心配だわ」
「クリスティーナ様……」
「私にも何か手伝えることはないかしら。あっ!」
すぐさまお姉さまの部屋に入り、会議に同行させてもらうことを頼んだ。
「えっと……嬉しいけれど、今までの会議の内容を聞いていないと難しいと思うわ」
「大丈夫です。読めばわかりますから」
私はお姉さまが持っていたこれまでの会議議事録を隣で読みその日の夜は一緒に過ごした。侍女が持ってきてくれた温かいココアを飲みながらお姉さまと夜を明かす。徹夜なんて初めてだったから楽しかった。私は途中で眠ってしまったけれど、お姉さまはずっと起きていたようだった。
そして会議の時間となった。
相手の商会は自分たちの利益を追求し、こちらは妥協できる点を互いに模索しこの議題の会議はもう長い間行われているにも拘らず進まなかった。お姉さまの資料を読んでさらに私がちょっとしたアレンジを加えて伝えた。
「……ですので、こちらの案でいかれるのであれば更なる利益が得られると」
お姉さまは「聞いていない」と最初は慌てていた。相手も最初は話半分に聞いていた様子だっただが、私の話を聞くうちに徐々に前のめりになる。
「なるほど! 確かに」
「素晴らしい発想でした。とても学生とは思えない!」
誰もが納得したがお姉さまは声を挙げた。
「ですが、そうなりますと河川の流量が大きく減ることも懸念されます。水質や地質の変化も……作物に影響が出てしまう可能性も、一度学者の方や地元の方々の話を伺った方が……」
資料を読んで思ったことだったが、お姉さまも最初は私と同じ結論にたどり着いたようだった。だが、お姉さまは保守的な道を選んだ。それでは何も変わらない。お姉さまが言えないのであれば私が伝えた。
この会議はすんなりと終了した。
いつも夜遅くまで仕事をしていらしたお姉さまの努力が報われた。
帰りの馬車の中で私はお姉さまも喜んでくれると思ってお姉さまを見た。
「お姉さま。やりましたね!」
「……そうね」
この時は疲れているのだと思った。
家に帰るとお姉さまはすぐに部屋に戻った。夕飯はいらないということでそのまま眠るという。
次の日の夕食はちょっとしたお祝いだった。
両親も私が手伝ったことを同席していたものから伝え聞きほめられた。「これからもお姉さまの助けになるのよ」とお母様に言われた。もちろん言われなくてもそのつもりだった。「お前も負けてはいけないよ」とお父様はお姉さまを励ます。
私もお姉さまの負担を背負えばお姉さまも楽になれる。
お姉さまの助けになれる。何か足りないところがあれば私が補える。今思えばそんな烏滸がましいことを考えていた。
◆
お姉さまは高等学院を卒業した。
本格的に事業も始まり、お姉さまの仕事もさらに増える。
学院の勉強とは比べ物にならないほどの責任を伴う。お姉さまにはそのプレッシャーが重荷のようだった。
お姉さまは毎日遅くまで仕事をしていた。
侍女が毎日のように眠気覚ましのコーヒーを部屋に運ぶ。その時に少しお姉さまの話を聞いた。侍女の話では「今が一番忙しい時だから」や「今の問題が解決すれば」となかなか休むことはできないらしい。
部屋から出てきたお姉さまはいつも眠そうだった。
目には隈を作ってそれを化粧で隠しているのは同じ女性である私にはすぐに分かった。私たちと話をしてもどこか上の空で、婚約者のザイアン様ともほとんど交流ができていないようだ。お姉さまは仕事で忙しいので私が代わりにザイアン様のお相手をすることが増えてきた。
「お姉さまはいつも夜遅くまで仕事をほとんど眠れていないようです」
「……そうか。色々大変らしいからね。僕にも何か手伝えることがあるといいんだが」
「そのお気持ちは伝わっていると思いますわ」
優しい方だと思った。
「……あーごほんっ! またこうして話してくれると嬉しいよ。彼女のことを教えてくれ未来の妹殿」
「はいっ!」
お母様に頼んでお姉さま付きの侍女にお姉さまのスケジュールを調整させることにした。もちろん責任感の強いお姉さまには内緒にした。余計な気を遣わせないためだった。
2人をつなぎとめるためにお姉さまの代わりに私がザイアン様と交流する時間を増やした。
そして、ある日ついにお姉さまは倒れた。
すぐにお医者様をお呼びして診ていただくと過労ということだった。
しばらく休ませてあげれば問題ないということで家族一同はほっとした。
だが、お医者様の話では過去に過労で亡くなった人がいることを聞いた。そんなことが今度はお姉さまの身に降りかかってきたらと思うと私は怖かった。
「……お母様、お父様。もうボロボロになったお姉さまを見ていられません」
「……そうね。あの子には無理をさせすぎたみたい。貴方とは違うのに……」
「期待してのことだったのだが……追い詰めすぎてしまった」
お姉さまが倒れたのは初めてだった。
そのことに私たちは動揺した。
いつも頑張っているけれど、やはり限界だった。
「……私がお姉さまの代わりになります」
「クリスティーナ……けれど、妹のあなたは家を背負う必要は」
「大丈夫です。お姉さまにはこれ以上背負わせません」
両親からの期待、責任感にプレッシャー、婚約者との関係お姉さまには背負うものがたくさんあった。体力的に精神的にもつらかっただろう。
こんなことになるのならもうお姉さまに背負わせたくない。願わくばこれからは自分の道を歩んでほしい。今までお姉さまが耐えてきてくれた。これからは私が背負う番だ。
決まってから私はすぐに動き出した。
約束していたオペラの席でザイアン様にお姉さまが倒れたことを説明した。婚約を白紙に戻すことを伝える。最初は両家の事業があることを理由に断られたが、私が代わりに結婚することを伝える。
「……そうか。分かった僕の両親の説得は任せてくれ。きっと問題ない……これからよろしくクリスティーナ」
「はい」
ザイアン様のご両親にはザイアン様が自ら説得してくれるということだ。拒否はされないだろうという見立てに安堵した。
◆
「……今、なんとおっしゃいましたか?」
そして、婚約者の変更を伝えた時お姉さまはとても驚いた顔をしていた。
「……キミとの婚約を解消したい……」
「なぜ?」
「この婚約がどれほど大切なものか分かっているでしょう? 急にそんな解消なんて」
やや感情的になりそうなっているお姉さまを私が止める。落ち着いて話を聞いてもらうためだ。
「……婚約者には妹——クリスティーナがなる。だから心配はいらない」
お姉さまが倒れた時はお父様が本当に心配そうにしていた。あのような思いをしたくないのだろう。お姉さまに安心するようにと告げる。
「……妹に惹かれましたか? 1か月前のオペラもクリスティーナと観に行きましたものね。半年ほど前からお茶もしなくなりましたね」
お姉さまは少し見当違いな結論を導き出した。恋愛ではない。ザイアン様も苦しい思いをしている。それでもお姉さまのため、私も同じ思いだ。
「……違う、惹かれたとかじゃない。それにオペラやお茶会はキミは忙しいと思ったから」
「私があなたの誘いを断ったことがありましたか? 毎回きちんとスケジュールを空けるようにしていました」
そう。それがさらにお姉さまを追い込んでいた。ザイアン様もお茶の席で疲れている様子があったり、仕事の話ばかりをしていたと言っていた。侍女にスケジュールを調整させて正解だった。
「その時間は君に休んでほしいと思ったんだ……クリスティーナからキミはもう限界だと言われて……」
「……どういうこと?」
「だって、いつもお姉さまは夜遅くまでお仕事をされていて、いつか壊れてしまうのではないかと思いました。現につい最近もお倒れになったことがあるではありませんか」
「それでも私には相談もなしに決めたの? 私から婚約者を奪うという発想には至らなかったの?」
「……申し訳ございません」
奪ったのではないとは言えなかった。お姉さまから見ればその通りだった。自分の罪だと受け止める。
「………お父様たちもそうお思いですか?」
「……ああ。お前には無理をさせた」
「『努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない』そうおっしゃったのはお父様ではないですか」
「……すまない……私がお前を追い込んだ……お前には無理なことをさせた」
「お母様は『貴方だってあの子と同じ血が流れているのだからきっとできるわ』でしたよね? 私は出来が悪かったようですね」
その励ましもお姉さまを追い詰めていた一端だったんだろう。
お姉さまはザイアン様を見る。
「……私は最初から妹の方がふさわしいのではと言いましたよね? それでもあなたは私がいいと言った。私は期待外れでしたか?」
政略結婚だがザイアン様はお姉さまとの関係を必死に保とうとしていたのがうかがえる。このままいけばお互いを思いやれるいい夫になっただろう。
「私が何かミスでも致しましたか? 成果はしっかりとあげられていますが。貴方たちには物足りませんでしたか?」
お姉さまの仕事にミスなんてない。けれど、私からすればもどかしさもあったのは否めない。
「お前にはうちの所領に行ってもらう。そこでゆっくりと休みなさい」
「……なるほど、私はもう用なしですか」
「違う……そうじゃない……違うんだ……ただ身体を休めてほしくて」
そう。私たちは何よりもお姉さまの身体を労わりたかった。
「キミはもう限界だ。もうこれ以上は無理をさせるわけには……」
「ボロボロのお姉さまは見ていられないの」
もう休んでください。あとは私たちがお姉さまの分も頑張りますので——
「……なら、私の気持ちはどうなるのですか」
その切実な声に私はお姉さまの顔が見られなかった。
「私の今までの努力は? すべてなかったことにしろということですか? 今までの成果もすべて妹に渡せと? 私の身体が心配? 今更、私の身体のことを考えられるのであればなぜ私の心のことを考えてくださらなかったのですか!? すべてを奪われて終わってもなにも思うことはないのですね!?」
顔を上げようとしたらお姉さまに顔を叩かれた。
その時一瞬だけ見えたお姉さまが泣いていたのは気のせいではないはずだ。
お姉さまが所領に向かわれる最後の日までお姉さまと会うことはできなかった。幼いころから一緒にいた侍女すらも部屋には入れなかった。
所領に向かうお姉さまを見送る。
本来なら、結婚式でお姉さまを見送るはずだった。こんな別れになってしまうのは私たちも辛かった。
「手紙を書きますね」
「……」
私の言葉をお姉さまは無視した。
まだ私たちは許されていないのだろう。けれど、きっとわかってくれる。体を休めれば幼いころのような優しいお姉さまに戻ってくれるはずだ。
その日を私はずっと待っています。
◆
お姉さまが領地に行かれてから私も卒業や婚約、仕事のことで忙しくなった。
なかなかこちらの思い通りに他人は動いてくれないけれども、仕事が滞ることはなかった。
両親がお姉さまの様子を見に行くけれどその結果はあまり芳しくなかったようだった。
「……私もお姉さまにお会いしてもよろしいでしょうか?」
お姉さまの婚約者だった人——今は私の婚約者であるザイアン様に尋ねるが首を横に振る。
「やめておいた方がいい。今、僕たちが行っても火に油を注ぐ様なものだよ」
「……そうですね」
分かりきったことを聞いてしまった。
けれども少しでもお姉さまのことを知りたくて遠縁で人を雇いお姉さまのいる屋敷へメイドとして働いてもらい近況を教えてもらう。それが私の楽しみだった。
「……そっか。お姉さまはガーデニングをされているのね」
庭いじりは本来であれば庭師の仕事だ。けれども、優しいお姉さまが花をめでる姿が想像できる。きっと楽しいのだろう。
「……私もお花を贈れば喜んでくれるかしら」
私もガーデニングを勉強する。
どうやら、バラ同士をかけ合わせて新しい品種を作ることもできるみたいだ。
その間に私はザイアン様と結婚した。
両親たちが私たちを祝福してくれる。
けれども家族の中にお姉さまはいなかった。お母様が式に来てくれるように頼んだけれど断られたという。
そして、結婚してからすぐに私は子供を授かった。
事業が忙しい中、途中で抜けてしまうことを申し訳なく思う。そのことを謝罪に伺った。
「ああ、大丈夫ですよ。大切なところはお姉さまがいた時にすべて終わっていますからごゆっくりなさってください」
「一番大変な時にいつも一緒にいてくださったよな。とても助かった」
「頑張ろうって思えたものな。ご不在の時もしっかりとやることをまとめてくださったし」
「なんていうか、みんなで仕事してるって気になれたよな。自分たちにもしっかりと役割を与えてくれてここに居ていいんだっていう安心感もあった」
「お嬢様はお身体を大切にされてください。それと、ご領主様には貴方様のおかげで頑張れましたとお伝えください」
お姉さまのおかげで私が抜けても問題ないようだった。
子供も無事に生まれ、私はお姉さまに手紙を送ったが一度も返信はなかった。子供が生まれたことはお母さまが伝えていると聞いたけれど祝福はしてくれると思いたい。
バラの研究を続ける。
これが私たちの仲を取り持ってくれることを願って私は今日もバラの研究を進めていた。植物というのは自分の思い通りには育ってくれない。なかなか難しくもどかしさを覚える。成長を待つというのは私にはどうもじれったい。
だが、4年以上の月日をかけてついに念願のバラが完成した。思っていたより時間がかかった。その流れに乗ったのか事業も軌道に乗り始めた。その成果もあって来期には陞爵が約束されることになった。私たちはみな喜びに手を取り合った。
このバラを持ってお姉さまに会いにいこう。
◆
家族みんなで領地にある館に着いた。
お姉さまはお出迎えには来てくださらなかった。
屋敷の者たちは両親を知っているのでにこやかに会話をする。
「お姉さまは?」
「……私たちが来ても出てこないのよ。いつものことだから安心して」
「そうですか」
私は家の使用人たちにお姉さまがお世話になっているというお礼を込めて王都のお土産ということでそれぞれに手渡す。この年若いメイドは私が雇った人間だ。お姉さまの近況を報告してくれる。
「わあ、ありがとうございます。とてもうれしいですわ。なかなかこちらでは王都の流行は伝わってこないもので」
王都土産は使用人たちは喜んでくれた。
あとは私がお姉さまにバラを渡すことを考える。
「……どうせなら、屋敷に飾った方が喜んでくれるわよね」
屋敷には多くの花が植えてある。だが、地味な花が多い。これでは屋敷の雰囲気も暗くなってしまう。
私は使用人たちに指示を出して屋敷中の花をすべて活け替えた。どうせなら私の努力の結晶を見てほしい。
私には都合のいい未来しか思い浮かんでいなかった。昔のように「すごい」とほめてくれるだろうか。
それがどんな結果をもたらすかも分かっていなかった。
お姉さまに館を追い出された私たち。まだ許されてなどはいなかった。握り、踏み躙られたバラがその証拠だった。
馬車に荷物を積み込む。
こちらにはしばらくいるつもりでいたから荷物は多い。
まだ幼い息子には私たちの事情などさっぱり分からない。私たちが屋敷から追い出されたことにも気が付かずにはしゃいでいる。荷物を持っている使用人たちの間をくぐって遊び、楽しそうにケラケラと笑う。
はしゃいで周囲を見ていなかったのか石に躓き転んでしまう。膝や手から血も出てしまい大きな泣き声が庭に響く。
両親は慌てふためき、ザイアン様は息子を宥める。それでも泣き止まない。
ゾクリ——
何か今、うすら寒いものを感じた。
◆
陞爵の一件で王城に招かれた私たち。
事業は国をまたいで広がりを見せ始めていた。事業に関わった人たちが王城に招かれ一堂に会し、事業に新たに加わる人たちもいるようだった。
事業主である私たちも多くの人とあいさつを交わす。それに少し疲れてしまった。
「クリス。大丈夫かい?」
「ええ。ちょっと疲れただけよ」
「子供は見ているから休憩していいよ」
ザイアン様に休憩室で休む旨を伝えこの場から離れる。
休憩室にはソファがあり、仕切りのようにカーテンが引かれている。室内には王城の衛兵もいるので不埒は事はできない。
私はソファに座り1人になるとほっと息を吐いた。
お姉さまを最後に怒らせてから1年が経過した。その間に手紙を送り、時には訪れたこともあったがお姉さまとは一切の連絡が取れないでいた。
『いやぁ。はは、さすがに王城というのは緊張して少々気疲れします』
『今まで私たちにはほとんど縁のない場所でしたからな』
『そうなのですか、陛下の前では皆さまは堂々としてらっしゃいましたよ』
休憩室に入ってきたのは多分、今回の事業に携わった下位の貴族や商会長たちだ。もう何度も声を聴いていたので誰かは分かった。内の一人は知らない男性の声が重なる。言葉のイントネーションが少し違ったおそらく隣国の人だろう。
『さすがはあのクリスティーナ様が進められた事業です。あの方の名声は私たちの国にも届いていますよ』
男の人が私を褒めそやす。ここに本人がいたらどんな反応を見せるでしょうか。
『……もともとはクリスティーナ様の姉君が進められていた事業ですよ。叶うならあの方にこそ、この場に来ていただきたかった』
『そうですね。今の事業の形もほとんどあの方が作ったようなものです』
『忙しい時も現地に自ら足を運ばれることもありましたな。商人の我らにも気を配っていただけて』
『ご自身もお忙しいというのに私たちのために駆け回ってくださった。あの姿が忘れられません。うちの息子にも見習ってほしいものだったな』
『他人のために動ける方でしたな』
『……正直、私はこの成功はあの方の上澄みを掬っているようにしか思えんのですよ』
——え……?
『それは……』
『最もお忙しい時だけ働かせ、成果を横から奪い取った……他にどう言いましょうや』
『あの方はお身体を壊されたと聞きましたが?』
『ええ確かに。だからこそ口惜しいでしょうな。そこまでしてご自身が手掛けた仕事の結果を最後まで見届けたかったでしょうに』
『皆様方それ以上は……』
お酒が入っていたせいもあってかやや言葉が過ぎることを衛兵に注意される。
けれども、言葉は事実だった。
私が思い出したのはお姉さまに踏み躙られた私が育てたバラだった。
◆
休憩室から戻るとパーティ会場からは人が消えていた。がらんとした会場はなんだか嵐の前の静けさのようだった。
「皆さん、どこに……」
「皆様は二次会場へ向かわれました。エスコートさせていただきます」
城の従者に連れだされ案内されたのは王城の地下にある空間だった。
地下に広がる水路。王城にはいざというときの避難経路があるとは聞いていたがここなのだろか。
なぜか、そんな空間に連れてこられた私。
急に場面が切り替わったように気が付いたらここにいた。
真っ暗な空間の中に響くのは水の音と自分の呼吸の音。
不思議とこの空間で声を発することができない私は水音の中から紛れて聞こえてくる足音に気が付いた。
暗闇の中で姿が見える。
目元だけの半面型の仮面だ。華やかで装飾性の高い仮面をつけているのは女性だった。女性だと分かるのは黒いドレスからうっすらと体のラインが女性だったからだ。
白い仮面の縁をなぞるように金の模様が浮かび、真っ赤なルージュの引かれた唇が三日月を作る。だが、笑っているはずの口元だけがなぜか冷たく見えた。奥に隠れた瞳は表情を読ませず、近くにいるのにひどく遠い人のようだった。赤い羽飾りと宝石で飾られた仮面は息を飲むほど美しいのに、その美しさがかえって触れてはいけない秘密を思わせた。
「………お姉さま?」
なぜかその人が姉だと思った。
そして、その姉が何をしようとしているのかも。
お姉さまが芝居がかった仕草で指を鳴らす。
「待って!!」
それが合図のように周囲が爆発した。
耳をつんざく爆発音に驚く間もなく私の周囲に水が迫ってくる。瓦礫で出入口は完全にふさがれる。
私はドレスを着ているので泳ぐこともままならない。ドレスが水を吸い、浮くこともできない。徐々に徐々に水が私の身体を沈める。
お姉さまは水が届かない高みから私を見下ろす。
「違うのですお姉さま!! 奪ったのではありません!! 申し訳ございません! お姉さま! お姉さま! ごめんなさいっ!! 助けてっ!!」
そんな私を見てお姉さまは心からの笑顔を見せるのだった。
◆
「——はっ……! ……あ、ふう……」
嫌な夢を見た。
大量の汗をかいているにもかかわらず、寒気を感じるかのように身体は震えていた。
どうやら本を読んでいる間に眠ってしまったようだ。
そして、夢の中で死んだのと同時に目を覚ました。
枕元にある本のタイトルは『サン゠ジュスト家の怪死事件』。
ここに出てくる登場人物の、とある家族は一人の女性によって殺される。
私が夢で見ていたのは妹の死の場面だった。
嫌なくらいに現実の空間と私と姿が重なる。言葉遣いも呼び方も仕草も好みのドレスも私そのものだった。
妹の死因は溺死ではなかった。
迫ってきた水は腰のあたりまでで止まった。
それ以上は水は溜まらず溺れることがないことが分かりほっとしたが、そこからが地獄だった。
腰まである水の所為で座ったり横になって休むことができず眠ることもできない状態に置かれ、冷たい水が徐々に体力を奪う。食べ物もない。だが、水だけはあるので渇きからつい口にしてしまうので余計に長く生きてしまう。
睡眠不足、飢えから暗闇の中で錯乱し発狂までする。
妹の死因は衰弱死だった。
川で腐乱した死体となって発見されるまでが書かれている。彼女のことは事故に巻き込まれた哀れな事故死者として新聞に載った。
殺された妹の名前はチーナ・サン゠ジュストだった。
◆
主人公の名はミズ・フューリー。
黒いドレスにマスカレードマスクがトレードマークの美しい女性だった。
作者名はエリス=サンチェス。
彼女がパーティーに現れるときには小説と同じように黒いドレスを纏って現れたという。彼女の小説のファンは小説そのままの主人公の姿に歓喜し声を挙げた。
初めてその姿を見たとある女性は大きな悲鳴を挙げ、ある男性はその姿を見て滑稽な姿をさらした。




