タイトル未定2026/03/26 07:05
博士が家政婦を雇ったことで幸せを感じる。しかしそこから地獄が始まる。
博士は長らく考えたのち、研究を続けるには家政婦が必要だと思い至った。博士は古い小さな城に住んでいた。広間は研究の機材で足の踏み場もなかったが、博士はベッドも広間に持ち込んでいたからほかの部屋はほとんど使っていなかった。始末に困るのは独り者には手に余る厨房だ。食事は一週間分、寸胴鍋で作ったものを冷えたまま少しずつ食べるという生活だった。そういう生活に別段不便は感じなかったが、溜まる汚物と埃には閉口していた。研究には埃は大敵だったからだ。とにかく部屋を掃除する者が必要だ。
街は城からクローバーの丘を越えてしばらくのところにあった。家が立て込んでいて騒がしい。家政婦斡旋屋など知らなかったから、中心部の噴水の場所に博士は黙って座っていた。街は博士にとってめまぐるしかった。ひとびとの衣服の色に目がちらちらした。博士は全く絶望した。なにをどうすればいいか全く分からなかった。ため息をつき、前屈みに体を折ったとき、目の前をひらりとスカートが舞った。目を上げるとひとりの娘が大判の本を抱えて歩み去るところだった。博士が惹かれたのはその大判の本だった。本、というものに博士は親しかった。自分に親しいものと街で初めて出会ったのだった。しかし博士はすぐ声をかけるということができなかった。彼には判断力はあっても決断力というものが欠如していた。娘はまたもひらりと身を翻して路地の角を曲がっていった。
数秒後、博士は立ち上がり娘のあとを追った。路地は狭く、ごたごたしていて売春宿の通りのようだった。彼は面食らった。しかし幸運なことにひとつのドアをくぐり抜ける寸前の少女の姿を見かけた。博士はそのドアを目指した。彼がドアをノックしようとしたとき、ドアが開きひとりの老婆が椅子を片手にぶら下げて通りに出てきた。博士を見ると「なんだい!」と怒鳴った。彼は戸惑いつつ「あの子は…」とひとことだけ言った。すると老婆はべらべらとしゃべり出した。
「あの子かい? あれは私の孫だよ。両親を亡くしてつい先だって引き取ったのさ。そのうち客も取らせなきゃならないけど、客あしらいも覚えさせなくちゃならないし、着せなきゃならん。本なんぞにかじりついて器量を悪くしてとんだお荷物だよ」
このときほど彼の頭が速く回転したことはなかった。
「あの子を家政婦として雇いたいんです。お願いできますか」
老婆はぎろりと値踏みし「支度金がいるよ」と言った。
「払います」
老婆はにやりと下卑た笑みを浮かべた。
「他にも何人か娘がいるんだけどね」
「いや、あの子がいいです」
「住み込みかね」
「出来れば」
「月払いはだめ。年俸だよ。ここで払ってもらいますよ」
「結構です」
老婆が奥に向かって声をかけると娘が出てきた。防御するように固く胸に抱え込んだ大判の本のタイトルは「オデュッセイア」だった。
つれてゆかれる間、娘は無言だった。持ってきたのは小さなボストンバッグとぎゅっと胸に抱いた本だけだった。博士も無言だった。人と話すことに慣れていなかった。
城に着いて必要なことだけ言った。
「掃除と炊事、をやってくれ。それだけでいい」
娘はそう言われただけなのに博士の生活をよく飲み込んで、働いた。どこに何があるなどといううるさいことも言わなかった。そして働いている間、とても静かだった。何年も敷きっぱなしだったシーツは洗われ干され、横たわると干し草の匂いがした。博士の慢性だと思っていた年来の頭痛が消えた。目覚めはさわやかだった。
娘は気が利いた。博士が読書しているとき、お茶を探して手を泳がすとすっとコーヒーカップを差し出した。用が済むと窓際で黙って微笑みながら本を読んでいた。博士は有能な家政婦を求めていたのだが、気が利くということは、有能とは少し違った。彼は娘にただいてくれればいいと思うようになった。
博士は娘と城の周囲を散歩するようにもなった。
「オデュッセイアは面白いかい」
「ええ、何度読んでも面白いです」
当初の硬さがすっかりとれた娘が言った。博士は娘の話を聞くのが好きだった。クローバーを摘みながら、娘は今まで読んだ本の話をした。
「アリストテレスの〈詩学〉は評論というより文学ですね。素敵です」
博士は笑みを浮かべながら聞いていた。理系の人間らしく彼はアリストテレスを読んでいなかった。オデュッセイアも正確には幼いころ、子供向けに翻案されたものを読んだだけだった。それでも会話を共有するのは楽しかった。しかし娘はいつのころからか彼が文学に疎いということに気づき、文学の話はしなくなった。代わりに彼の持つ科学の書籍を借りて読むようになった。娘は理解力がよく、基本的なことなら彼と議論を交わすようにもなった。
そんなあるとき、娘が珍しく青ざめていた。博士は不安に襲われ、落ち着きをなくした。それが数日にわたったとき、彼はとうとう耐えきれず今までの人生で他人に向けて言ったことのない言葉を娘にかけた。
「調子が悪いのかい。顔が青いよ」
娘は躊躇っていたが、ついと強い意志を感じさせる口調で言った。「あの部屋を見ました」
あの、と言われただけで彼にはすぐに分かった。
「気味悪かったろうね…ごめんよ、鍵をかけておくべきだった」
その部屋は種々の動物の標本や切り取られた人体の臓器などがホルマリン漬けになって納められていた。博士は医師でもあったのだ。一般の人間があれを見てどう思うかは分かっていた。彼は娘に厭わしい人物と思われるのではないかという予感から娘に増して青くなった。自分のしくじりに胸を噛まれ続けている博士に対して娘は小さいがはっきりした言葉遣いで言った。
「そうではなく…あれが現実なのだと分かりました」
彼には正確に意味のとれない言葉だった。多少不安を感じたがその話はそれきりになった。少なくとも博士は終わったと思っていた。 数日たって博士が人体解剖の書籍を読んでいるとき、娘が机の端に立って話しかけてきた。「それは困難なことですか」博士は臓器摘出手術について読んでいた。子宮病巣の稿だ。博士は読書に没入したまま、顔も上げず軽く「ああ、技術的には簡単だよ。生命維持機能に関係しないものを切除するだけだからね。ただ放っとくと危ない。全身に転移する」博士は読書を続けたが娘がずっとそばに立っているのに気づいた。何か用事だろう、博士は娘の言葉を待った。
「私にそれをしてください」
「何を?」
「手術を」
博士は本を閉じた。読書などしている場合ではないことが分かった。そうして頭を回転させた。
「体に違和感があるのかい? 月経不順かい?」
娘はパッと顔を赤くして彼の机のそばを離れた。そして隣室に消えた。
博士には何が何やら分からなかった。数時間机に座ったまま今の会話を反芻していた。そして「月経」という医学用語が若い娘にあからさまな言葉過ぎたのだと結論した。またも彼はしくじったのだ。彼は自分は終生しくじり続けるのだと悟った。
たまたま彼が夜中に便所を使いに起きたとき、細い唸り声を耳にした。娘の部屋からだった。一度気づくと唸り声は床の中でも聞こえた。それは数日続き、止んだ。日常の娘に変わりはなかった。しかしそれからのちも、ひと月に数日間娘は唸り声を発した。数ヶ月間、娘の唸り声に憔悴した博士は娘に理由を尋ねた。
娘は博士の目をまっすぐ瞳で貫いてきっぱり言った。
「私は女であることに我慢がならないのです。月経が来るたびに(彼女は月経という言葉を使った)乳房が疼き、下腹部が痛みます。流れる血がお前は女であると念を押すのです。先生の力で私の女である部分を切除して頂きたいのです。外科的手術で」
博士は憔悴しきりながら諭した。
「君はまだ若い。子を欲しくなることもあろう、いずれ年相応の相手と結婚したくなる。後悔するよ…」
話しながら博士は自分が空々しい常識を話しているだけだと気づき口を噤んだ。博士の様子に娘はなおも言った。
「私は産む性を嫌悪します」
麻痺したような頭で博士は娘が悪所の出なのだと思い返した。女であることの嫌らしさに触れた経験を持っているのかもしれない。家に戻れば彼女もそうした仕事に就かされるだろう。博士は本当に疲れ切っていた。あの唸り声は二度と聞きたくなかった。彼は人間の心理的側面には通じていなかった。自分の出来ることは物理的、物質的な側面のみだった。とうとう博士は言った。
「分かったよ…」
手術の手順は指が覚えていた。麻酔をかける前、娘は「乳房も取ってくださいますよね」と念を押した。
「そうしてあげる…」
娘は安らかな顔をしていた。
それからの娘はいつも晴れやかな顔をしていた。手術痕はひと月で治った。ほぼひと月に一度やってくる出入り業者とも快活に接していた。ただ娘に以前あったあるニュアンスが消えた。博士にはそれが何かは分からなかったから問題にしなかった。だいだい彼は性別などというものを重要視していなかった。生殖にも重きを置いていなかった。今はただひたすら娘が回復していくことがうれしかった。彼は手術をするとき、覚悟を決めた。娘をこの先も引き受けようと考えたのだ。彼女はもう通常の生活を送れないだろう。彼女を養子にし自分が死んだときは城を譲ろう。財産も。街から離れたこの場所なら一人静かに生活できるだろう。胸のふくらみが消えて少年らしい伸びやかな体つきになった娘はそれが本来の姿だったと言ってもおかしくない。そうだ、彼女をパーンだと思えばいい。ギリシャ神話中の野原を自由に駆け回るパーンに。ヘルマプロディートスなどと病的なイメージは抱きたくなかった。それに彼女は両性ではない。クローバーの茂みに体を横たえ、そぞろ歩く娘を眺め博士は思った。
娘はなおいっそう博士所有の書籍を読みあさるようになった。話題が合うということがこれほどの快楽をもたらすものだと博士は初めて知った。彼には思いもつかない視点で問題を提起することさえあり、うれしい驚きだった。彼はこの平穏な生活がいつまでも続くものだと思っていた。しかしそれは思い返してみればほんの短い期間にすぎなかった。
娘が窓辺で本を読みながら頭を押さえていることが多くなった。顔をしかめ、陰惨な目つきをして沈んでいた。博士はとたんに落ち着きをなくした。
「どうしたんだい?」
「頭痛がするのです」
娘は沈鬱な顔で言った。博士はほっとした。
「いい薬がある。飲みなさい」
娘はおとなしく服用した。しかしいつまでたっても娘の様子は変わらなかった。博士は胸に焦燥を感じながら言った。「薬が体に合わないのかもしれない。処方を変えてみよう」
娘は苦悶の表情を浮かべてぽつりと言った。
「悪いのは私の心です。どうか取り除いてください。切除してください」
「なんだって!」
心を切除! そんなことが出来ようか! 娘は堰を切ったようにしゃべった。「本を読んでいるといろいろな想念が胸の中にわき起こって張り裂けそうになるのです。頭がガンガン鳴って四肢が引きちぎれそうになるのです。私はおかしいのです。もしかしたらあの標本にあるように脳の腫瘍かもしれません。そうです、きっとそうなんです! それなら、先生になら、切除できるでしょう、お願いです。私を救ってください!」
娘の勝手な言い分に博士は言い様のないほどの憤りを感じた。先の手術も忌まわしいものに思えてきた。
「なら、本など読まなければいい! 君は腫瘍など出来てはいない! そんな症状は出ていないからだ、医師の私には分かる! それはわがままだ! みなそれなりにわき起こる想念と戦い、吐き出し生きてゆくものなのだ!」
娘は跪いて下を向き、「私には吐き出すすべがありません…」と呟いた。
「もういい! もう私の本など読ませない! 自分の部屋に籠もっておれ! 何もしなくていい! 自分の考えがいかに愚かか分かるまで頭を冷やせ!」
言い終わったとき娘は彼の膝に取り縋り、床に顔を伏せ、横座りに崩れ落ちていた。それを見下ろした瞬間、遠い記憶が彼を貫いた。子供の頃、父親がちょうど今の自分のように母親を打ちのめしている記憶。母親の愁訴に納得を与えることなくただ暴言を持って圧殺している父親の光景を。今自分はあれほど嫌悪した男の論理を振りかざして娘を虐げている! そう思い至ったとき彼は手が震え、足も萎える思いだった。彼は娘に取り縋られるまま、ずるずるとその場に倒れた。娘を抱きしめ、両手で顔を包んで娘の顔を凝視した。娘は滂沱の涙を流し幼女のような表情で彼を見つめ返した。唇が僅かに動いた。
「つらいのです…救ってください。でなければ私は…」
死という言葉の一歩手前だった。彼は何も言えなかった。私は娘のこの状態を救うすべを持たない…。そのとき彼は曲がった。男の論理で圧殺することを厭う彼は娘を死から救うのだという思いに逃げたのだった。
「頭痛を生む部分を取り除けばいいのだね。それ以外はそのままでいいんだね…」
涙にまみれた娘の顔が輝いた。
手術に臨んだ博士は技術的緊張のためとは別の脂汗が全身に滲んだ。彼も研究を重ねるうちに狂気に近づいた経験を持っていた。そのとき、彼は自分自身を分析、研究することで自分を保ったのだった。
なぜ女は、と彼は思った。不幸のもとを切り離しさえすれば幸福になれると思えるのだろう?
娘の髪はなくなり、頭はいびつになった。娘は自分でニット帽を編み上げそれを包んだ。頭痛はもはや訪れなかった。しかし博士と共通の話題も持たなくなった。娘は家事をこなす以外、クローバーの野に遊び歌っていた。
博士の生涯は幸も不幸もなかった。幸せがないのだからそれは不幸寄りの人生だったと言える。それでも平穏ではあった。娘がやってきたことで彼は幸福を感じた。しかしそれは地獄をも呼び込んだ。彼はこの一年研究をしていなかった。彼は窶れきっていた。一時も心の休む時がなかった。
クローバーの茂みに娘とともに座って夕日を眺めていたとき娘が言った。
「世界は美しいですわね」
彼は手術の失敗を悟った。感受性が残っていたのだ。しかしそれは彼が意図したことでもあった。娘に娘らしくいつづけていて欲しかった。彼は手術をごく控えめに行ったのだった。
「こんなに世界が美しいと胸がぎゅうっと苦しくなります」
彼は何も言わなかった。娘は涙を流し始めた。
「あんまり美しすぎて苦しい」
彼は黙っていた。
「私の目を取り除いてください。もう何も見ず、感じないように」
次の言葉を言わないでくれ、頼むから。言ってしまったら私はもう…。
「とても、とても、つらいです」
博士の中のたがが外れた。娘に逆らうことが彼にはもう出来なかった。
城に警官が踏み込んだ。
「開けろ! 年季が明けても帰ってこない娘がいる、監禁ではないかとの訴えがあった! そのほかにも不審な点がある! 立ち入り調査する!」
もとより鍵など掛けていなかった。広間に警官が入り込んだとき、博士は肘掛け椅子に横たわった以前は娘であったものに手ずからスプーンでジャムを与えようとしていたところだった。それを目にした警官が言った。
「なんだそれは! もとは人間か! こんちきしょう、なんてことをした! このマッドサイエンティストが! お前など縛り首だ!」
ああ、そうか、私は縛り首になるのだな。スプーンを持つ手がだらりと下がった。博士は警官に引き立てられていった。娘のなれの果ても消防署員に丁重に運び出された。
主のいなくなった城の一室に、ホルマリン漬け白濁した、もとは菫色の瞳の眼球がふたつ残されていた。 【了】
男と女の思考の違いがすべてを崩してしまう。




