4. 無色の瞳
白に塗り潰された視界の先で、世界が深く、軋みを上げている。
互いの姿すらもその白に溶けてしまいそうだった。
だが、あの底知れぬ濡羽色だけは、いまだそこに在る。
「……笑わせるな」
闇の中から漏れ出た声は、地底から響く呪詛のように重い。
彼の周囲の空間がガラスのようにひび割れ、そこから零れ出した真の虚無が、英雄の剣を腐食させ、魔女見習いの描いた理を端から喰らい尽くしていく。
「ぐっ、あああああ!」
不壊を誇る光の剣をどす黒い闇が這い上がり、その禍々しい波動が、柄を握る青年の拳へと容赦なく叩きつけられた。
甲冑は紙細工のように弾け飛び、肉が焦げるような異臭と共に、青年の腕を底なしの虚無が侵食していく。
「理が……概念ごと消されていく……!?」
魔女見習いの秘色の瞳に、初めて戦慄が走った。
彼女が編み上げた幾何学模様は、怪物に触れることすら叶わず、存在そのものを否定されるように虚空へと霧散していく。
怪物の濡羽色の瞳は、今や輪郭すらも曖昧に溶け崩れ、ただの虚ろな空洞へと変じている。
光を拒絶していたその双眸からは、もはや闇ですらなく、万物を「無」へと塗り潰す灰白の澱みが溢れ出していた。彼は眼前の二人を塵芥と切り捨て、未だ折れぬ意志を湛える巫女へと狙いを定める。
(――ああ。やはり、私なのです。私でなければ、いけないのです)
巫女は、震える指先で龍を象った錫杖を握り直した。
目の前で膝をつく英雄。霧散していく緻密な理。
二人が命懸けで繋いだ、この僅かな猶予。
これまで必死に繕ってきた虚勢の奥底で、龍の血が激しく脈動し、彼女に現実を突きつけていた。
どれほど強力な加勢があろうとも、この街を護り、龍の加護を繋ぐ、最後の灯火になれるのは世界でただ一人、自分だけなのだと。
(怖い。……けれど、守ると決めたのです。全てを)
恐怖を押し殺し、彼女は一歩前へ踏み出す。
助けが来た。希望は見えた。けれど、誰かの力を借りるだけでは、この街に執着する怪物を完全に退けることはできない。この土地に深く根を張り、龍の血をその身に宿しているのは、世界で自分一人だけなのだから。
「……もう、大丈夫です。これ以上は、……何一つ、奪わせません」
その声は、驚くほど静かだった。
巫女の蜜色の瞳から、一切の揺らぎが消える。
崩れそうな膝を支えていたのは、もはや虚勢ではなく、この街の礎として生きる者だけの、静かな、けれど絶対的な自負だった。
彼女は自ら、その身を護る境界を解き、剥き出しの身を灰白の奔流へと晒す。
「狂ったか、巫女!」
怪物の嘲笑を余所に、彼女は錫杖を自身の胸元へと引き寄せる。
龍の巫女として受け継いできた血が、魂が、内側から燃え上がる。
それは、彼女自身の剥き出しの意志に呼応し、今、混じり気のない純粋な力となって溢れ出した。誰に頼るでもなく、彼女という存在そのものが、街を護る巨大な加護へと成り代わっていく。
「――ここで、終わらせます」
蜜色の瞳が、極限の熱量を持って白熱する。
その輝きはもはや、何かを打ち倒すための「力」ですらなかった。
ただ純粋な「存在の肯定」として、目前の闇を端から融かしていった。
襲い来る虚無を真っ向から抱きしめるように、巫女の小さな体から解き放たれた熱が、一切の余白を残さず辺りを満たしていく。
「な……何……を……っ!?」
その、逃れようのない絶対的な確信が、虚ろな空洞と化した怪物の眼を内側から灼き砕いた。
灰白の澱みごと、その存在の根源を跡形もなく溶かし、絶叫すらも熱の向こう側へと飲み込んでいく。
空間の歪みは、彼女が放つ烈しい慈しみに焼き付けられるようにして、無理やり縫い合わされていった。
全てが、止まる。
焼け付くような熱気は引いていき、代わりに奇跡のような白雪が、舞い落ちる。
それは、巫女が放った力の残滓。
「……はぁ、……はぁ……」
膝をつき、肩で息をする少女の姿があった。
錫杖は半ばから折れ、かつての神秘的な光は失われている。
透き通る青髪は、力の代償か、毛先から淡い白へと色を変えていた。
「……っ、……無事、か……」
英雄が重い体を引きずり、巫女へと手を伸ばす。
魔女見習いは、乱れた呼吸のままに穏やかな旋律を刻む文字の列を幾重にも紡ぎ出した。解き放たれた理は、崩れ落ちる巫女の背を支え、英雄の蝕まれた腕を優しく包み込む。傷ついた者たちを等しく労わるように、温かな安らぎがその場を浸していった。
巫女は弱々しく首を振る。
その瞳からは、もはや蜜色の面影すらも消え失せていた。
巫女としての全霊を、龍の血のすべてをこの瞬間に捧げ尽くしたのだ。
力を出し切り、ただの空っぽな硝子となった瞳は、もはや光を捉えることすら叶わず、ただ虚空を彷徨っている。
それでも、その口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「……街は、無事……ですか……?」
「ああ。君が……君が守り抜いたんだ」
英雄の掠れた声が、彼女に告げる。
英雄は震える腕で巫女の細い肩を引き寄せ、魔女見習いもまた、静かに二人の背へと寄り添った。三人はただ、雪の降る静寂の中で互いの存在を確かめるように、肩を寄せ合っていた。
瞳の光は失われた。けれど彼女はもう、何者にも怯えてはいなかった。
遥か上空では、龍の形をした雲がゆっくりと流れていく。




