表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

第三話

私物は少なかった。

衣類と、最低限の端末。

思い出の品、と呼べるものはない。


部屋を出る直前、窓から街を見下ろす。

効率よく区画整理された都市。

自分が関わった場所が、いくつもある。


「……悪くない仕事だった」


誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。


==


退職したトモカズは、翌日、目的地を決めずに移動を始めた。

新幹線に乗り、降りたい駅で降りる。

予約はしない。

予定も立てない。


これまでなら、考えられない行動だった。


地方の小さな町で降り、歩く。

地図も見ない。

昼時を過ぎ、腹が減ったことに気づいて、初めて店に入る。


「いらっしゃい」


年配の店主が、少し驚いた顔で迎えた。


「おすすめは?」


そう聞くと、店主は笑った。


「時間かかるけど、それでいい?」


「構わない」


トモカズは即答する。

店主は、さらに驚いたように目を丸くした。


料理を待つ間、何もせずに座っている。

これまでなら、端末を開き、情報を処理していただろう。


だが今は、ただ湯気を眺めていた。


(……待つ、か)


それは、切り捨ててきた行為だった。

だが、不快ではない。


料理は素朴だった。

特別美味しいわけでも、感動するほどでもない。


それでも、食べ終えたあと、店主が言った。


「ありがとう。ゆっくり食べてくれて」


トモカズは、少し戸惑う。


「……それが、礼になるのか」


「なるよ」


店主は、当然のように答えた。


宿も、当日決めた。

古い建物で、風呂の温度調整が難しい。

不便だが、不満はなかった。


夜、部屋の灯りを落とし、窓を開ける。

虫の音が聞こえる。


(情報が、少ない)


そう思って、気づく。


(……静かだ)


翌日も、特に何かをするわけではなかった。

散歩をし、道に迷い、引き返す。

無駄な移動。

無駄な時間。


それでも、胸の奥で、摩耗音は鳴らなかった。


数日後、海沿いの町に出た。

夕方、堤防に人がまばらに立っている。


トモカズは、立ち止まった。


空が、ゆっくりと色を変えていく。

赤と橙が混じり合い、水平線に沈んでいく。


――夕焼けが好きだった。


ミナの声が、よみがえる。


理由は分からない。

意味も測れない。


それでも、視線を逸らさず、立ち尽くす。


時間が、過ぎていく。


(……これが)


胸の奥で、言葉にならない感覚が生まれる。


(これが、無駄な時間、か)


トモカズは、初めてそれを否定しなかった。


日が沈みきるまで、トモカズはその場を動かなかった。


潮の匂いと、冷え始めた空気。

周囲にいた人々は、ひとり、またひとりと帰っていく。

最後には、自分だけが残った。


(……長いな)


そう思いながら、嫌ではなかった。

時間を長いと感じること自体が、久しぶりだった。


かつてなら、この数分を無駄だと切り捨てていた。

何かを処理し、次へ進むべき時間だと。


だが今は、進まなくていい。


――なあ、トモカズ。


ふと、記憶の中の声が響く。

思い出そうとしていなかったのに、自然と浮かんできた。


――お前、ずっと先のこと考えてるよな。


「……そうかもしれない」


誰もいない堤防で、トモカズは小さく答えた。


――悪いことじゃないけどさ。

――たまには、今を見てもいいと思うぞ。


夕焼けを見上げながら、笑っていた顔。

あのとき、自分はどう答えただろう。


確か、こう言った。


「今は、通過点だ」


効率のための現在。

未来のための今。


間違ってはいなかった。

少なくとも、あのときの自分にとっては。


(だが)


今は違う。


通過点に、立ち止まっている。

意味を測れない時間を、そのまま受け取っている。


それでも、何かを失った気はしなかった。


――後悔、しないのか。


その問いには、すぐに答えが出た。


「するだろうな」


不老のまま生き続けること。

仲間を見送り、時代を越え、名前だけが残ること。


孤独は避けられない。

それを、美談にするつもりもない。


――それでも?


「それでも」


トモカズは、空が暗くなった先を見つめた。


「俺は、俺の選択を引き受ける」


やめることもできた。

ミナのように、時間を動かすこともできた。


だが、今の自分は、続けると決めた。

逃げでも、意地でもなく。


「……ここからは」


言葉にして、確かめる。


「無駄な時間を、ちゃんと生きる」


効率を捨てるわけではない。

成果を否定するわけでもない。


ただ、それだけでは足りないと知った。


誰かが愛した夕焼けを、

理由もなく眺める時間。


それを、価値として認める。


風が吹き、波が静かに音を立てる。

トモカズは、ゆっくりと息を吐いた。


胸の奥で、あの摩耗音は鳴っていなかった。

代わりに、かすかな温度が残っている。


「……悪くないな」


誰に聞かせるでもなく、そう呟く。


一生若いままでも。

孤独が待っていたとしても。


「悪くない」


その言葉は、諦めではなかった。

未来から目を逸らした言葉でもない。


ただの、納得だった。


トモカズは、踵を返す。

暗くなった道を、ゆっくりと歩き出す。


立ち止まることも、進むことも、

今は自分で選べる。


それを知っただけで、

世界は、少しだけ広くなった。




最後までお読みいただき、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ