第三話
私物は少なかった。
衣類と、最低限の端末。
思い出の品、と呼べるものはない。
部屋を出る直前、窓から街を見下ろす。
効率よく区画整理された都市。
自分が関わった場所が、いくつもある。
「……悪くない仕事だった」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
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退職したトモカズは、翌日、目的地を決めずに移動を始めた。
新幹線に乗り、降りたい駅で降りる。
予約はしない。
予定も立てない。
これまでなら、考えられない行動だった。
地方の小さな町で降り、歩く。
地図も見ない。
昼時を過ぎ、腹が減ったことに気づいて、初めて店に入る。
「いらっしゃい」
年配の店主が、少し驚いた顔で迎えた。
「おすすめは?」
そう聞くと、店主は笑った。
「時間かかるけど、それでいい?」
「構わない」
トモカズは即答する。
店主は、さらに驚いたように目を丸くした。
料理を待つ間、何もせずに座っている。
これまでなら、端末を開き、情報を処理していただろう。
だが今は、ただ湯気を眺めていた。
(……待つ、か)
それは、切り捨ててきた行為だった。
だが、不快ではない。
料理は素朴だった。
特別美味しいわけでも、感動するほどでもない。
それでも、食べ終えたあと、店主が言った。
「ありがとう。ゆっくり食べてくれて」
トモカズは、少し戸惑う。
「……それが、礼になるのか」
「なるよ」
店主は、当然のように答えた。
宿も、当日決めた。
古い建物で、風呂の温度調整が難しい。
不便だが、不満はなかった。
夜、部屋の灯りを落とし、窓を開ける。
虫の音が聞こえる。
(情報が、少ない)
そう思って、気づく。
(……静かだ)
翌日も、特に何かをするわけではなかった。
散歩をし、道に迷い、引き返す。
無駄な移動。
無駄な時間。
それでも、胸の奥で、摩耗音は鳴らなかった。
数日後、海沿いの町に出た。
夕方、堤防に人がまばらに立っている。
トモカズは、立ち止まった。
空が、ゆっくりと色を変えていく。
赤と橙が混じり合い、水平線に沈んでいく。
――夕焼けが好きだった。
ミナの声が、よみがえる。
理由は分からない。
意味も測れない。
それでも、視線を逸らさず、立ち尽くす。
時間が、過ぎていく。
(……これが)
胸の奥で、言葉にならない感覚が生まれる。
(これが、無駄な時間、か)
トモカズは、初めてそれを否定しなかった。
日が沈みきるまで、トモカズはその場を動かなかった。
潮の匂いと、冷え始めた空気。
周囲にいた人々は、ひとり、またひとりと帰っていく。
最後には、自分だけが残った。
(……長いな)
そう思いながら、嫌ではなかった。
時間を長いと感じること自体が、久しぶりだった。
かつてなら、この数分を無駄だと切り捨てていた。
何かを処理し、次へ進むべき時間だと。
だが今は、進まなくていい。
――なあ、トモカズ。
ふと、記憶の中の声が響く。
思い出そうとしていなかったのに、自然と浮かんできた。
――お前、ずっと先のこと考えてるよな。
「……そうかもしれない」
誰もいない堤防で、トモカズは小さく答えた。
――悪いことじゃないけどさ。
――たまには、今を見てもいいと思うぞ。
夕焼けを見上げながら、笑っていた顔。
あのとき、自分はどう答えただろう。
確か、こう言った。
「今は、通過点だ」
効率のための現在。
未来のための今。
間違ってはいなかった。
少なくとも、あのときの自分にとっては。
(だが)
今は違う。
通過点に、立ち止まっている。
意味を測れない時間を、そのまま受け取っている。
それでも、何かを失った気はしなかった。
――後悔、しないのか。
その問いには、すぐに答えが出た。
「するだろうな」
不老のまま生き続けること。
仲間を見送り、時代を越え、名前だけが残ること。
孤独は避けられない。
それを、美談にするつもりもない。
――それでも?
「それでも」
トモカズは、空が暗くなった先を見つめた。
「俺は、俺の選択を引き受ける」
やめることもできた。
ミナのように、時間を動かすこともできた。
だが、今の自分は、続けると決めた。
逃げでも、意地でもなく。
「……ここからは」
言葉にして、確かめる。
「無駄な時間を、ちゃんと生きる」
効率を捨てるわけではない。
成果を否定するわけでもない。
ただ、それだけでは足りないと知った。
誰かが愛した夕焼けを、
理由もなく眺める時間。
それを、価値として認める。
風が吹き、波が静かに音を立てる。
トモカズは、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥で、あの摩耗音は鳴っていなかった。
代わりに、かすかな温度が残っている。
「……悪くないな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
一生若いままでも。
孤独が待っていたとしても。
「悪くない」
その言葉は、諦めではなかった。
未来から目を逸らした言葉でもない。
ただの、納得だった。
トモカズは、踵を返す。
暗くなった道を、ゆっくりと歩き出す。
立ち止まることも、進むことも、
今は自分で選べる。
それを知っただけで、
世界は、少しだけ広くなった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




