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【小説】眠っていたらしい

掲載日:2025/12/16

 いつから眠っていたのか憶えていないんだ。

 目を開くとそこには世界が広がっていて、それが今日と言う世界なのはどうにかこの頭でも理解できている。

 もつひとつ、わかっているのはこれが昨日と言う世界の続きだということ。

 たとえば視界の半分を覆いつくすシーツとか、震え続けるスマートフォンの目覚まし時計とか。

 シーツはいつから洗っていないのか憶えていないけど、目覚ましは昨夜にセットしたのを覚えている。

 だからこれは昨日の続きだ。


 結局のところぼくは眠っていたんだ。

 鳴っては止まるスマートフォンの5回目のスヌーズでようやく起き上がって、どうにか我慢していたトイレに入る。

 トイレの窓から遠くに見える富士山が恥ずかしくなって欠伸で誤魔化したら涙が流れた。

 でもぼくはぼくでしかない。

 つまり作家じゃない。入水もしなければ切腹もしない。

 その証拠に、便器の中で昨日が黄色い泡になって渦を巻きながら流れていくのが見える。

 トイレを出てシャワーを浴びると昨日の汗が泡になって流れていく。

 そうやって昨日の睡魔が熱湯に溶けていく。

 そうやって睡魔が排水管を通って下水道に流れ込む。

 ぼくが住んでいる集合住宅の下に流れ込む各家庭の睡魔や昨日は、排水管の中で断末魔の唸りを上げて下水道に落ちていく。

 なんとも厭な声だ。

 明日になったらきょうの声も同じように厭な気持ちで聞くことになる。

 排水口の奥には下水道が広がっている。

 薄暗い下水道に集められた仄暗い眠りや昨日が、鼠とかゴキブリとか白いワニなんかを撫でながら処理場に向かってのたりくたりと這っていく。

 そうやって処理場で漂白された昨日と眠りが海に流れていったあとは海で集められて、雲になって、雨として降るだけだ。

 だから陰鬱な雨が降る。

 それは雨が本質的に昨日であり眠りだからだと思う。

 そしてまた、いつから眠っていたのかを忘れるんだ。


 

 思い出してみると、ぼくはあの時もパイプ椅子に座っていた。

 正確にはパイプ椅子に座らされている。

 コンビニエンスストアの事務所の真ん中。 

 エプロンをつけた店員がぼくを詰めている。

「万引きしたよね」

 ぼくは答える。

「えぇ」

 学生鞄から成人誌を取り出す。

 表紙で金髪の外人が微笑む。ぼくも微笑む。さようならだね。

 目の前の男は不機嫌そうにしている。

 そこで途切れている。

 正確には続きがあるけれど、別に愉快な話は何ひとつない。人生と同じだ。


 ぼくは眠っていた。

 涎が垂れて白いボタンシャツに透明なシミを作っていた。

 エアコンの風で、刺す様に冷たくなったシミがぼくを揺り起こす。

 ぼくが乗っていた小田急線は下北沢の駅にいた。

 地下に潜る前の下北沢駅は昼下がりの光に照らされていて、それはひとつの豊かさだったと今でも思う。

 寝過ごした電子を降りて、ぼくは階段を上がって逆側のホームに向かった。まだ重たい眠りが尾を引きずる様にして離れなかった。

 この話もここまでだ。

 あとは家に帰っただけだから。



 ぼくは眠っていた。

 電話が鳴っている。それはスマートフォンの目覚ましなんかじゃない。電話だった。

 舞台の初顔合わせ、練習初日。起きた瞬間、台本読み合わせに遅刻しているのを知った時にする顔で煙草を咥える。

 集合時間に目が覚めたんだから、もう遅刻は決まっているし煙草を一本吸ったところで到着時間に大きな変わりはない。

 そうやって細かく人生をダメにしてきた気もするけれど、眠いからどうでもよくなった。

 その後のことは、覚えていない。

 たぶん稽古には行ったと思う。



 ぼくほ眠っていたらしい。

 電話が鳴っている。それはスマートフォンの目覚ましなんかじゃない。電話だった。

 時計を見る。良くしてくれている上司との飲み会に遅刻していた。

 集合時間に目を覚ました。覚ましたと言うより電話に起こされた。

 今日はフェリーに乗って浴衣ダンサーを見るのだとはしゃいでいた上司を思い出す。

 体調を崩したと言って電話を切った。

 

 


 ぼくは眠っていたらしい。

 ぼくは眠っていたらしい。

 ぼくは眠っていたらしい。

 ぼくは寝がえりを打つ。何度でも。

 かき寄せようとした手が空振りしてベッドを叩く。薄目を開くと部屋の反対側にある椅子に女が座っているのが見えた。

 ぼくは起き上がる事をやめて再び眠りにつく。すると女が立ち上がってぼくに駆け寄る。

 どちらかと言うと詰め寄ると言った方が正しい。

「起きていたのでしょう」

「いいや」

「嘘つき」

「眠っていたよ」

「嘘つき」


 嘘じゃない。

 ぼくは眠りの境界線を越えていないんだよ。いつもギリギリで引き返したはずだ。

 そしていまも眠りのこちら側にいるはずなんだ。

 でもぼくは眠っていたらしい。

 教師がぼくの机を蹴り上げる。授業料だとかの説教をしている。私学の教師なのに熱心な事だと思う。

 あんたが授業をしている間にぼく眠っていようがいまいがあんたの給料には何ら影響ないはずだ。

 それともプライドに関係しているのだろうか。ぼくには何もわからない。




 そうか、それはぼくが眠っていたからだ。

 アフリカ系アメリカ人の心理学科教授が真剣な表情でぼくを見ている。

 それは心配か憐れみか判断がつかない。

 過眠症かナルコレプシーか知らないがあなたの授業で眠っているのは申し訳ないと思うよ。



 ぼく眠っていた。

 客室乗務員がぼくを揺り動かす。

 飛行機はとっくに乗り継ぎの空港に着いていた。ぼくが最後に見たのは、隣の席に座る女が足元の荷物を動かすのに屈んだ拍子に見えた黒いTバックだった。

 ぼくは眠っていた。

 深夜バスがフリーウェイの真ん中で停まっている。カーテンの隙間からパトカーが周りを囲んでいるのが見えた。ヒゲを生やした大男が警察官たちに連れて行かれている。

 ぼくは眠っていたんだ。


 だから目を開ける。起きなきゃならないみたいだね。目を開けたまま夢を見る器用さはぼくにそなわっていないし。

 目を開ける。

 世界が広がっている。

 今と言う世界が広がっていて、それはさっきと言う世界の続きだ。ぼくが眠る前の世界、そしてまだぼくの脳みその半分を埋め尽くしている眠り。

 ぼくは眠っていたんだ。

 境界線の上で意識が踊っている。ぼくはそこで踊って、足を踏み外して眠りに落ちる。

 わざとじゃないよ。


 腕の中で女が不満げに動く。

 ぼくが眠っていたからだ。それでもぼくは眠ってしまう。

 それは続かないことが怖いからだよ。

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