僕の遺体を踏み越えて
その日は雨が降っていた。
でももう空には全く雲なんて無くて。
僕は上を見た。
真上。
僕の真上には穴があった。
黒い、暗い、ブラックホールの様に吸い込まれてしまいそうな大きな穴が、僕の真上にあった。
その穴から降ってくる雨は、よく見ると黒い色をしていて、まるで石油や墨汁の様で
するり、と僕の身体をすり抜けていく。
僕は何故かとても恐ろしくなって、傘を投げ捨てて走った。
あの雨が、僕の心までも吸い取って、流れ落ちてしまう様な気がしたんだ。
僕も自分で何を言っているのかわからないけど、あれは、僕にとっては良いものじゃない。
そうやってとても長い時間走って逃げた。
喉が痛くなるくらい走って、気づいたら僕は知らない場所にいた。
市営の屋内プールの様な場所。
懐かしい様で、それでいて何か不気味な空間。
「これは...夢なのかな?」
流石の僕でもここまで非現実的で、無茶苦茶な場面転換をされたなら夢だって分かる。
そう、これは夢だ。
夢でないと困る。この場所こわいし。
「明晰夢ってやつなのかなぁ?これ。」
これが夢だと認識はしたが、念じたりしてもお菓子は出ないし、空を飛べたりもしない。
もう出来る事はこの場所の探検くらいだ。
「この夢が悪夢でない事を祈ろう」
さっきの悪夢を無かった事にして、僕は歩き出した。
室内プールその1
そういえば、僕は昔スイミングスクールに通っていた事があった。
その時のプールがそのまま再現されていると思った瞬間まるで覚えの無い不自然な空間が出てきた。
壁も天井もよく見るタイル張りで構成された空間。
なんの為にあるのかわからないドアもライトもすらない不気味な空間が幾つもあったり。
何も無い空中から水が流れ出たりしている。
まぁ夢ってそう言うものだよね。
色んな記憶を整理するためにあるとかなんとか聞いた事がある様な気がする。
「うおすっげ。」
流れるプールだ。
でも波が直角のL字に曲がっている。
そして波が直角に曲がっている。
『カクッ』っと動く波は質の悪い個人制作ゲームの様で不気味だ。
そうして不気味な波を眺めていると
するり。と
黒い雨が右手を掠めとる。
突然の出来事に尻餅をついて倒れてしまった。
そして見る、あの黒い穴。
僕はようやく目が覚めて、ちゃんと理解した。
「僕は追われている...。」
そう口にしたら、見えた。
表情どころか顔すらない丸い穴の奥に、
ドス黒い悪意の混ざった歪んだ笑顔が見えた。
悪意。殺意とはまた違う
相手を『陥れる』と言う意思。
あの雨に全てを洗い流された時に、
僕は死より恐ろしい目に遭う。
これは夢じゃない。
かと言って現実でも無い。
地獄なんだ。
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市民プールその2
立って、立たなきゃ。
逃げなきゃいけない。
『あれ』はやばい...!あの黒い雨!
僕の知らない僕を暴くあの雨!
「...僕は違う!僕はあんなのじゃないっ!!」
走って逃げる必死で逃げる
雨がプールの水と混ざり合って赤黒く変色する
血の様に、変わっていく。
それを横目にシャワー室を走り抜けて更衣室に入る。
「出口は...こっちだ!!」
不自然な箇所は沢山あっても、大部分が現実と同じならば、出口も同じはず...と、思ったが。
男子更衣室の筈であるこの場所にはロッカーが一つもない、蛍光灯の照明が不気味で薄暗い。
床はさっきまで人が居たみたいに湿っている。
そして最初出口だと思って近づいたドア。
そのドアに付いた窓からの光は何か不自然で、
向こうの景色は見えない。
明確な根拠がある訳じゃないけど、このドアを開けたら戻って来れない。
それだけ分かった。
「...やばくね?」
やばい。
退路が無い。逃げられない。
僕が入ってきたドアからは既に赤黒い液体が溢れ出て来ている。
「賭け事はもうしないって決めてたんだけど...」
『死以上の最悪』か『二度と帰れない何処か』
どっちがマシかと言うのなら、断然後者だ。
「あれが本当に正しい事では無いのは分かってる、だけど必要な事だと覚悟していた筈だろう?」
確かにそれはひどい事だった。
あの穴が僕の思っている人物なら正当な行為だ
でもそれは今ここにいる僕の意思じゃない。
「...あれ?」
身体が震える、なんでだろう。
「...なるほどそうか。」
僕は死にたくないんだ。
それでも君は
「『僕』が終わるまで、付き合ってくれる?」
僕の言葉に答える様に真っ黒な波が向こうのドアを欠壊させて押し寄せる。
「怒らせちゃったかな?あはは!」
僕はゆったりとドアを開けて、散歩に出かけるかの様に歩き出した。
終点はきっと、このドアの先にある。
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校舎 その1
「...懐かしいな。」
廊下。
僕はこの学校に通っていた。
多分、この世界は僕の原罪を振り返るための場所なんだ。
ドアを開けたら、非常出口からこの校舎の廊下に出てきた。
少し埃っぽくて、数ヶ月は掃除をしていない様な空気感だ。
「綺麗だ。」
近くの教室に入ると、窓から見える夕焼けが
泣いてしまいそうになる程、綺麗だった。
実際に泣いた訳じゃ無いが、それほどまでに綺麗で暖かかった。
「今、夕日に浸ってるとこなんだけど。」
頭上に穴。
こまめに真上を見る様にしていたのが功を奏して少しも濡れず逃走。
「ここが2年生の教室だから、一つ上の階か」
僕は3年1組だった。
思えば、僕の生涯では親友と呼べる物はできなかった。
いや、親友ではあった、だけど僕は自分を信じられず、それ以上に他人を信じられなかった。
人見知りで人間不信だったのだ。
それなりに人と付き合い、やりたかった仕事をして、『規制済み』してこの世を去った。
結局最後まで他人を信じなかったせいで、半端な覚悟で自分をも犠牲にして、こんな事になっている。
「我ながら愚か...」
まぁもう終わった事だ。
今を生きなければいけない。
3年1組の教室。
この教室も昔のままで何も変わっていない、
僕の机の中身もそのままだ。
ノートパソコンを学校の机の中に放置とは、防犯意識がなってないよな。ほんとに。
「しかもパスワード誕生日なのかよ...」
確かこのパソコンには記憶などで空間が構築されていく現象に似た異常現象の報告書がいくつかあった筈。
かなり古い情報だろうが、使える物は全て使おう。
あの穴は大体僕の徒歩と同じくらいの速さだけど、明らかに瞬間移動をしている時がある。
でもそれは定期的に真上を見ていれば簡単に対処できる。つまり
「当たらなければどうと言う事はない。」
...言ってみたかったんだよ。
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校舎 その2
「...なんだこりゃ」
パソコンは問題なく使用できた。
だけど僕の知らない報告書があったり、内容の一部が書き換えられたりしている。
特に目を引いたのがこの『裏路地』と言う物。
それは東京都のとある小さな裏路地で発生した暴行事件がきっかけだったらしい。
当時、男性が女性に暴行を加えている。と言う通報を受けた一人の警察がその裏路地に向かい、行方不明になった。
その2日後、警官は自宅に乾涸びた死体で発見された。
不可思議だったのは死体のそばに置かれていた手記。
それは確かに警官の筆記体だったが不可思議なのはその内容。
8年。
彼は8年、異常空間に囚われていた。
手記によると、彼は確かに裏路地で男性が女性に暴行を加えている光景を目撃して、男性を止める為、裏路地に入った。
そして、一歩足を踏み入れた瞬間。
全く別の世界にいた、との事。
その世界では空腹感や眠気などが無くて、何か懐かしい夢の中の様な空間だった。
昔に家族と行った遊園地や、友達と遊んだ公園
病院や学校などが、ぐちゃぐちゃに入り混じった空間に閉じ込められてしまったのだ。
そしてその空間には彼以外の存在もいた様で、報告書によると、彼はその存在に身体中の体液を全て抜き取られて殺されてしまったらしい。
手記を読んでいると、時間が経つたびに綺麗だった彼の文字は歪んで崩れていった。
多分、あの男性と女性は獲物を誘き出す為の餌なのだと思う。
あの裏路地の周辺では、毎年30人以上の行方不明者が出ていたらしい。
政府が送り出した部隊員も全員消えてしまって、裏路地周辺を封鎖する方法でしか対処出来なかったらしい。
僕はその区域の関係者では無かったから、この報告書を見るのは初めてだ。
なのに、このパソコンには僕の知らない情報が保存されている。
嬉しい誤算だ、僕にはまだやれる事があるのかもしれない。
この異常現象も、今の僕の状況とかなり酷似している。
現に今僕は空腹感を感じていない。
この世界に死亡の概念があるのかも疑わしい。
この『裏路地』の研究報告書があれば、状況はかなり良くなるんだけどな...
ないものねだりをしてもしょうがない。
一旦パソコンを閉じて校舎の探索を進めよう。
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部室その1
「...ここはたしか」
校舎を探索しようと教室から一歩踏み出した瞬間。
廊下には出ず、別の部屋に移動した。
「ここも懐かしいなぁ...」
ここはオカルト部の部室だ。
ここの部長は、未成年の癖に仕事に熱中して登校なんてまるでしてなかった僕をいつの間にか部員にしてたかなりハジけた人だった。
部長はかなり頭が回る人で、僕がどんな仕事をしているのかも気付いていた。
正直、かなり心を許していたと思う。
僕の周りにいる人で僕と並ぶくらいの知恵と知能を持っていた人は部長くらいだったから。
そしてそれは部長も同じだったのだろう。
僕は彼女を仕事場にスカウトした。
僕の仕事は異常存在・異常現象の研究と対処。
危険な仕事だが、彼女なら容易にこなすだろうと確信していた。
そして彼女も快く承諾してくれて、僕と同じ部署に入った。
予想通り、彼女は優秀だった。
彼女は僕と共にたったの1年で13種の異常存在の完全な対処と収容を可能にさせた。
殆どワンマンで行っていた業務が円滑に進み、仕事に就いてから一度も無かった休日という物が取れたりもした。
その休日を僕はオカルト部に使った。
やってる事はほぼ部署での仕事と変わらなかったが、目的が違った。
「僕たちは根本的な対処をしたかった。」
そう、どれだけ異常存在やら異常現象を看破して対処したところでまた新しい異常が出てくるだけ。
「...いつまで経っても世界は平和にならない。」
年間の行方不明者や死亡者は減るどころか数万単位で増えていく。
異常存在を一般人に隠蔽することすらままならなくなって、滅亡シナリオすら見えてきている現状。
焦っていた。
それは僕だけじゃ無くて、彼女も、部署の同僚達も皆んながそうだった。
根本から対処しなければならない。
それをするには
「異常存在を作るしかない。」
それしか無かった。
人類だけで作れる技術には限界がある。
僕はそう考えていたが、彼女は言った。
『異常存在は人間から発生している。』
「有り得ない!」
と、僕は言った。
そう思いたかったんだ。
自分達が守っていた物が全ての元凶だなんて信じられない!信じたく無い!
『だけど事実だ。』
そう、それが現実だった。
例えば殺人事件が起きて、そこで死んだ女性が記憶を形にする空間を作って、自分を殺した男を探し続けたり。
ある男は愛犬の死を受け入れられず、近所の人を犬の様な何かに作り変えたり。
僕は彼女を認められず、夢の様な世界に逃げた
全ての現象には人が関わっている。
『だから』
彼女は異常になった。
空を覆う黒い穴。
そこから降る黒い雨に打たれれば。
人の原罪は洗い流される。
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部室その2
「そうか、そうだった。」
僕は上を見る。
「もう僕と君だけなのか。」
そう、もう異常なのは二人だけ。
星を覆う程の黒い雨雲はあの世界の全てを洗い流して。
雨雲が小さな黒雲になる頃に
人類は異常と言う不治の病から抜け出した。
僕達二人を除いて。
力には責任が伴うと、よく何処かで聞く。
それは知識でも同じなのだ。
誰にもなし得なかった事が僕達には出来た。
たとえそれが不本意な物であったとしても、やらなければならない。
それが責任なのだ。
自己を犠牲にしてでも、世界をより良くする。
そう言う理念が知識を持つ物の義務なのだ。
「そうだ、そうだったね。」
『でも』
溢れるほど在るのなら考えものだけど、たったの二つの異常なら、どうって事ないだろう?
「僕はまだまだ此処に居るよ。君はどうする?」
...雨はもうやんでいた。