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新入生というヤツ

入学から数日。






広大な敷地を誇る氷羽学園では、新入生たちが日々、目的地を求めてさまよっていた。






立ち止まってスマートフォンを操作する姿は、もはや春の風物詩だ。








その一人──鷲宮碧月(わしみやみつき)も、今日の授業に向かう途中で完全に足を止めていた。





「……この学校、広すぎると思うんだけど」





呟く声は、小さな苛立ちと諦めの入り混じったもの。



手にしたスマホには、学園が公式に提供している高精度の校内マップアプリが表示されている。



GPSの青い現在地マーカーも、彼女が立っている場所をほぼ完璧に示していた。






──が、それがかえって混乱を招いていた。






「……この『北A棟第3教室』って、こっち? あれ、でも今いるのって南B棟の……どこ?」







指先でスクロールするたびに、マップがスルスルと動く。




目印らしきラベルは多いものの、それらの位置関係が頭に入ってこない。


フロア図と自分の向きの照合もできておらず、スマホを回してみたり、顔をしかめて地図を拡大したりしている。







「はぁ……もうわかんない……」







軽いため息と共にスマホを下ろし、廊下の壁にもたれる。ちょうどそのとき、誰かが彼女の前を通りかかった。






「全校生徒の数とは比例していないな。まぁ、そのうち慣れるよ」







聞き覚えのある低く穏やかな声に、碧月はハッとして顔を上げる。





そこに立っていたのは、鷲宮陽翔(わしみやはると)──彼女の兄であり、この学園の生徒会長だった。








「……お兄ちゃん、なんでこんなとこに?」







「生徒会室に資料を届けに行った帰り。」







言いながら陽翔は碧月のスマホを覗き込み、画面に表示された地図を一瞥する。






「GPSは完璧だな。見る方向が逆なんだ」






「方向……あっ、そっか、スマホの上が北か。わたし、こっちが前だと思ってた……」







「そりゃ迷うだろうな。ほら、教室まで案内するよ」










くるりと背を向けて歩き出す兄の背中を、碧月は追いかける。 




「ありがとう」


と短く礼を言ってから、スマホをしまい足を速めた。






並んだ兄の歩幅に合わせて歩くうち、廊下の窓から差し込む午後の陽射しが二人の影を床に伸ばしていく。








この学園の広さに慣れるのは、きっともう少し先のこと。






けれど、迷ったときに頼れる背中がすぐそばにある──それは、碧月にとって何よりも安心できることだった。







少しの沈黙のあと、陽翔がふと口を開いた。







「今度の羽冠戦(ウィグラ)で、一年首席を保てそうか?」








その問いに、碧月は表情を引き締める。






「もちろん。……自信はあるよ。でも、正直、()()()が不安かな」







短く答えた声には、強さと同時に揺らぎが混ざっていた。








鷲宮であること──それは、この学園では“誇り”と“責任”の二つを背負うことを意味していた。








兄が生徒会長であり、歴代の羽冠戦優勝者であり、“名家”と囁かれる鷲宮の次男であるということ。



それは、妹である碧月にとっても避けられない重圧だった。








彼女の言う「その先」とは、羽冠戦で一年優勝を果たした場合に待ち受ける“統一戦”のこと。


学年を越えて優勝者同士が雌雄を決する──すなわち、兄・陽翔と戦う可能性があるという現実だった。







彼女にはまだ、その兄に勝てる確信がなかった。







兄は、一見すると大雑把に見える。




細かいことは気にしなさそうな立ち居振る舞い。



少し寝癖の残る髪、ネクタイもぎりぎり整っているだけで、几帳面には見えない。



だけど──その実、彼ほど繊細で、理知的で、計算された動きをする人はいない。



冷静で、努力を怠らず、隙がない。



表面に無頓着さを滲ませているのは、計算か、それともただの“余裕”なのか。いずれにしても、兄・鷲宮陽翔は、誰よりも“強い”人だった。






子どものころから、ずっとそうだった。


気がつけば、いつだって陽翔は一歩先にいて、後ろを振り返らずに歩き続けていた。碧月は、その背中を


追いかけるのが精一杯だった。







そんな兄と、()()()で戦う可能性がある。


そう思うだけで、胸の奥がそっと軋む。





勝ちたい気持ちはある。でも──届く気がしない。







けれど、それでも前に進むのは、自分もまた“鷲宮”だから。


背中を追いかけてきたのは、負けを認めたかったからじゃない。


いつか並び立つ、その日のために。









「兄さんに勝てるビジョンなんて、まだ浮かばないよ。でも、だからって……逃げるつもりはないけどね」






碧月の声は、やがて笑みへと変わった。不安を隠すように、けれどほんの少し誇らしげに。






陽翔は横目でそれを見て、わずかに口元を緩めた。






「……なら、せめて地図くらいは正しく読めるようになっておけ。さっきみたいに迷子になったら、話にならない」







「う……それは今、関係ないでしょ!」







苦笑交じりのやり取りの中にも、どこか張り詰めた空気があった。羽冠戦──それは、ただの大会ではない。




誇りをかけ、家名をかけ、そして自分自身と向き合うための戦い。










教室の前まで送り届けると





陽翔は「気をつけてな」とひと声かけてから背を向けた。








そして陽翔が数歩進んだところで、不意に背中越しに声が飛んできた。





「よ、一緒に行こうぜ」






軽く背中を叩かれ、振り返ると、そこにいたのは刀根朝日(とねあさひ)




淡い茶色の髪を無造作に撫でつけた少年で、陽翔と同じく三年生。そして同じクラスの仲間だった。




どこか抜けたような気さくさと、時折見せる鋭さのギャップが印象的な人物だ。






「……ああ、いいぞ」







肩を並べて歩き出す。二人は中庭を通る裏道を選んだ。



舗装された石畳を踏みしめるたび、靴音がわずかに響く。








「朝日の妹って、何科だっけ?」





ふと思い出したように陽翔が尋ねる。





「ん? ああ。確か()()()だったはず」






「なるほど」






外交科──他国との交渉や情報戦、駆け引きを専門とする。




陽翔は一瞬だけ足を止め、立ち並ぶ中庭の木々を見上げた。新芽がほころび、陽に透けている。

その様子を視界の端に収めながら、また歩き出す。






「意外と似てないんだよな、俺と」






朝日はそう言って笑う。自嘲でも、誇りでもない。どこかくすぐったそうな声音だった。







「似てるようで、違うってやつか」







「そう。あいつはあいつで、もう俺の知らないとこで走ってる感じ。……ま、俺の方が兄貴だけどな」






そう言って苦笑する朝日の横顔に、陽翔はなにも言わなかった。ただ、ほんの少しだけ視線を落とす。

言葉にしないものを、言葉にしないまま、歩調だけを合わせていく。






その静けさの中で、朝日がふと話題を変える。








「そういや、碧月ちゃん、生徒会入るの?」








興味深そうに問いかけるその声に、陽翔はわずかに目を細めた。



妹の名前が出た瞬間、どこか無意識に背筋が伸びるのは、彼の癖のようなものだった。







「どうだろうな。拒否権はあるけど……まぁ、来るんじゃないか」







そう言いながら、陽翔は口元をわずかに緩めた。







「まあ、来るんじゃないか。碧月、生徒会長の素質あると思うんだよな」







陽翔がそう言うと、隣を歩く朝日は笑みを浮かべてうなずいた。






「まぁ、生徒会入ったら確実に会長なるだろうな。あの子、放っといても引っ張られるタイプだし」






それに、と朝日はぽつりと付け加える。






「お姉さんやお兄さんも生徒会だったしな。陽翔も雪乃もだし。もう血筋というか……“看板”ってやつ?」






陽翔の足が、ふと一瞬止まりかけた。だがそのまま歩を進める。


春の風が、制服の裾をやわらかく揺らした。







「……ああ、そうだな」







そう短く返した陽翔の声には、いつになく重みがあった。







鷲宮(わしみや)家──()()()一族としても名を知られ、代々この学園でも際立った実績を残してきた。


姉・鷲宮綾音(あやね)は、かつて生徒会長を務めた。


そして兄・鷲宮朔真(さくま)も会長として辣腕を振るった。






その跡を継いで陽翔(はると)が会長となり雪乃(ゆきの)が副会長、今、末妹の碧月(みつき)もまた、同じ舞台へと近づいている。








「鷲宮ってだけで、勝手に“上”を期待される。本人が何を思ってるかなんて、誰も聞こうとしない」







陽翔の口調には、珍しく皮肉めいた響きがあった。






けれど、それは他人に向けたものではない。自分にも、きっと向いている。







「それでも碧月は……ちゃんと、自分で前を向いてるよ。偉いよ、あの子は」






朝日は目を細めてそう言った。



ただの友人としての言葉だったが、それが陽翔の胸に、少しだけ優しい重みをもたらす。







「……ああ、そうだな」







陽翔は小さくうなずいた。







「けどな、どんなに立派でも、碧月は“俺の妹”である前に、ひとりの生徒なんだ。

進むかどうかは、本人が決めればいい」






それが、兄としての願いだった。



“鷲宮”としての義務ではなく、“碧月”としての意志で──彼女が歩くならば、それでいい。







陽翔は静かに空を仰いだ。  







「つーか、お前、課題やったか? 次、提出だぞ」






中庭の門を抜ける手前で、陽翔がふと思い出したように口を開いた。






「え? 課題?」






朝日がぽかんとした顔で振り向く。






「次の時間、武道応用技術だよな? 課題なんてあったっけ……」






言いながら、眉をひそめて記憶の海に潜るような顔になる。



陽翔はそんな朝日の表情を見ながら、片手でスマホを操作し、該当のメモを開いて見せた。







「ほら。これ。『戦術的選択と個体技の相性についての考察』。レポート形式で提出」







「んあぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!」








次の瞬間、朝日の悲鳴が校舎中に響き渡った。



まるで鳴き声のような叫び声に、近くを歩いていた一年生がびくりと肩をすくめて足を止める。







「嘘だろ!? 完全に忘れてた!! 今朝、ちょっと余裕こいて寝坊したのが悪かったのか!? いや違う、記憶からすっぽり抜けてたんだ! これ陰謀だろ!」








目を見開いて取り乱す朝日に、陽翔は一歩下がりながら無言のまま溜息をついた。







「……おいおい、生徒会がこれでいいのかよ」






陽翔はそう心の中で嘆きながら、騒ぎ立てる朝日を横目に見ていた。

けれど──






(……まぁ、人のこと言えないんだけどな)






実のところ、陽翔自身もこの課題の存在を完璧に忘れていた。




前夜、何気なくリビングでくつろいでいたときのことだ。





「はると、あのレポートってもう出した?」





と、ソファに腰かけていた雪乃が、ふいに聞いてきた。





「レポート? どの……あっ」






その瞬間、陽翔の脳裏に電撃のように蘇った“課題”という二文字。






そうだった。武道応用技術の授業で出された、戦術選択に関する考察レポート。






「うわ……ありがと。完全に飛んでた」





「ふふっ、やっぱり。今の顔で気づいてないってわかったよ」





雪乃はにこっと笑って、ソファの肘掛けに肘を乗せたまま、得意げに言った。






「さすが雪乃、助かった」






「じゃあ報酬はプリンね」






そんなやり取りを経て、陽翔は夜更けまでかかってなんとかレポートを完成させた。








優秀すぎる妹に救われることもしばしばだった。





今、目の前で慌てふためいている朝日の姿に、陽翔はほんの少しだけ罪悪感を抱きながらも、それでも涼しい顔を装っていた。







「ほら、騒いでないで書け。ぎりぎりまでに送ればセーフだから」






「お前……なんでそんな余裕なんだよ……っ、やっぱ天性か!? 努力か!? 生まれつき脳の構造が違──」






「雪乃に言われて思い出した」





「!?」






朝日が驚愕の顔で陽翔を見た。






「……やっぱ妹最強だな」






「否定はしない」








二人の足音が、中庭を抜けて教室棟へと向かっていく。





校舎の上では、雲ひとつない空に春の陽射しが降り注いでいた。





日常の小さな失敗も、笑えるうちはまだ大丈夫だ。






そんな空気が、二人の間には確かにあった。

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