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新年度というヤツ

入学式からおよそ一週間が経った。





新入生たちは徐々に学園の空気に馴染み、ぎこちなかった朝の挨拶にも少しずつ笑顔が混じるようになってきた。





新しい環境の中で、それぞれが手探りながらも「()()」を築こうとしている。




そんな中――生徒会室の奥で、ひときわ深いため息がこぼれた。






「新年度からやること多いって……」






机に肘をつき、眉間を軽く押さえながらぼやいたのは、現生徒会長・鷲宮陽翔(わしみやはると)





清潔感のある黒髪に、どこか冷静さを感じさせる落ち着いた眼差し――






普段はその姿勢や言葉遣いひとつとっても、頼れるリーダーそのものなのだが、このときばかりは違っていた。




彼の前には、処理待ちの書類の山。新歓行事の進行表、部活動の申請用紙、予算の見直し案……どれも手を抜けないものばかりが揃っていた。





「これ、全部今週中って……俺ひとりじゃ無理だろ……」





吐き出すような声に、弱音の色が混じる。




普段なら決して他人の前で見せないような表情――気の置けない仲間に囲まれていたからこそ、ようやく出せた本音だったのかもしれない。





その背中には、責任の重さと、それでも投げ出さずに踏ん張ろうとする意思が滲んでいた。








「頑張ってください。これはお兄様しか権限がないため、私たちは手伝えませんので」





そう口にしたとき、雪乃(ゆきの)はカップを持つ手を少しだけ強く握りしめた。





冷たい言い方になっていないだろうか――ほんの一瞬、そんな不安が胸をよぎる。


だが、言葉を柔らかくしすぎれば、それは彼の尊厳を傷つけてしまうかもしれない。






だからこそ、雪乃はあえて“副会長”としての距離感を守ることを選んだ。






コーヒーメーカーの前に立ちながら、彼女はちらりと兄の背中を見やった。



まるで何かを背負うように少しだけ沈んだ肩。無造作にかき上げた前髪の奥に浮かぶのは、責任感と疲労が交差する、あの独特の表情。





生徒会長としての顔を、彼はこの一週間で何度見せただろう。





雪乃にとって「はると」は、もっとくだけた存在だ。





休日に本を読みながら眠ってしまう兄。猫舌で熱いものをふうふうと冷ます仕草


その全部が、彼女にとっての「兄」であり、家族だった。






だが、今ここにいるのは“生徒会長”




だから雪乃は、家で呼ぶように「はると」とは決して呼ばない。




この場では「お兄様」と、あくまで一人の職務者として、敬意を持って接する。それが彼女なりのけじめであり、誇りだった。







香ばしく湯気の立つカップを彼の机に置いたとき、ふと陽翔が顔を上げた。




その瞳に、雪乃はほんの少しだけ、子どものような脆さを見た気がした。




けれど、それを口には出さない。ただ静かに礼をして、そっとその場を離れる。




「……ありがとな、雪乃」




後ろから聞こえた兄の低い声に、雪乃はほんの少しだけ足を止め、背を向けたまま目を伏せる。


何も言わなかった。




けれど、その胸の奥では、微かな温かさが灯るようだった。





――ほんの少しでも、力になれたのなら。


それで十分だと、雪乃は思った。





「陽翔、忙しいと思うけど、そろそろ()()について準備しておかないといけないんじゃないか?」







軽く笑みを浮かべながらそう口にしたのは、生徒会庶務のひとり 刀根朝日(とねあさひ) だった。





生徒会室の扉が開いたかと思えば、まるで何事もなかったかのようにするりと入ってくる。相変わらずの調子だ。







だが、陽翔の視線はその肩越しに一瞬、つい先日までの空白を思い起こしていた。






「お前、先週インフルで倒れてただろうが」






陽翔が目を細めて突っ込むと、朝日は照れたように後頭部をかきながら肩をすくめて笑った。





「ま、もう熱は下がったし? 今さら何日も寝てたとか言われたくないんだけど?」






軽口とともに部屋に満ちた空気はどこか和らぐ。それは陽翔にとってもありがたかった。





確かに、先日の入学式――新年度の始まりを告げる重要な式典に、朝日は病欠という「らしからぬ失態」を見せたばかりだった。





だが、それでも彼が生徒会に所属しているという事実は、その「実力」と「信頼」を物語っていた。





朝日は、陽翔と凛の幼なじみであり、幼い頃から共に過ごしてきた戦友のような存在だ。




高校三年という同じ学年ながら、これまでの実戦経験は頭ひとつ抜けている。





何より、戦術・実技の両面で生徒会長である陽翔を常に支えてきた、いわば「右腕」のような存在だった。





「……あれってのは、羽冠戦(ウィグラ)のことか」





陽翔が重たげに言い返すと、朝日は頷いた。





その表情からは、冗談めいた軽さがすっと消えていた。




それだけ、朝日の言う「あれ」が重要であることを物語っている。





氷羽(ひばね)学園――この学び舎において、最も注目され、最も緊張を孕む行事のひとつ。



それが、新年度に行われる『羽冠戦(ウィグラ)』だった。





この戦いは、6つの学科



武芸科



支援技術科



防衛警戒科



通常教養科



戦略政務科



そして外交科



それぞれの内部で、学年をまたいだ序列を決定するトーナメント形式の公式戦である。




1系あたり約100名、6系で計600名前後が参加するこの戦いは、年に2度開催される。



その目的は単純明快。



――実力で、席次を決めること。




一度定められた序列は、次の序列戦まで原則固定される。





だが、もし誰かが自らの順位を上げたければ、その上位者に挑戦状を叩きつけ、勝利することでその座を奪うことも可能だ。





ただし、それには教師、もしくは生徒会などの許可が必要であり、無秩序な挑戦を防ぐ制度もまた整備されている。





「やる気ある下級生も多いだろうし、各系の調整もそろそろ始めないとな」





朝日が窓の外をちらと見ながらつぶやく。春の日差しが傾き始めた時刻だった。





陽翔は黙って頷いた。





生徒会長として、この巨大な行事を円滑に進めなければならない責任。





そして一選手としても、挑戦者たちの目に晒される覚悟。




――これは「()()」だ。ただのイベントではない。



それは年中行事などという軽い言葉では片づけられない。




誇りを懸け、未来を賭ける、文字通りの序列争い。




陽翔も、朝日も、その意味を誰より深く理解していた。





だからこそ、軽々しく口に出せないほどの重みがある。





そんな張り詰めた空気の中、陽翔がふっと隣に目をやった。






「そうだな……雪乃。この件は、お前に任せていいか?」






静かに、しかし確かな信頼を込めた声音だった。





言われた瞬間、雪乃の瞳がふっと輝きを増す。





まるでその一言をずっと待っていたかのように、彼女はすっと立ち上がった。





「もちろんです、お兄様」






迷いのない声。




その顔には、どこか誇らしげな自信と、兄への敬意が混ざり合っていた。





端末を操作しながら、流れるように次の段取りを口にする。





「早速、日程調整と申請書類、各系への通達。そして審判団の編成を行います。……刀根くん、お手伝いお願いしますね」






流れるような口調だが、明らかに“やる気に満ちていた”





それもそのはずだ。



誰より尊敬する兄――鷲宮陽翔から、正式に「任された」のだ。





それが雪乃にとってどれほどの意味を持つかは、朝日にも陽翔にもよく分かっていた。




朝日は小さく肩をすくめながらも、どこか楽しげに応じる。




「はいはい、しっかり働きますよ()()()()。これも陽翔の頼みだしな」





雪乃の横顔に、一瞬だけ柔らかな笑みが宿る。




その視線の先には、兄の姿があった――




信頼と期待、それに応える誇り。




羽冠戦(ウィグラ)――その準備が、静かに、そして確かに始まりつつあった。







また、声をかけられた。




でも、誰が入ってきたのか、気づかなかった。




あまりに忙しすぎて、もう「気配」すら認識できなくなっている。




「頑張ってるね〜」




不意に聞こえた軽やかな声に、陽翔はペンを持つ手を止めそうになった。




だが、彼は顔を上げることなく、目の前の書類に視線を落としたまま小さく返す。




「……ゆーちゃん、手伝いに来たのか〜?」




どこか冗談めかした口調だったが、忙しさに追われているその背中には疲労の色が濃い。




それでも、陽翔はその軽口を飛ばせる程度には気を張っていた。





「いや、手伝いではないが。差し入れと、白鷺(しらさぎ)を返しにきた」





そんな返答とともに、ようやく陽翔は顔を少しだけ上げた。




目に入ったのは、相変わらずの飄々とした笑みを浮かべる橋本悠奈(はしもとゆうな)、氷羽学園・生徒会顧問。




どんなに忙しく、会議と書類に追われるこの時期でさえ、彼女の纏う空気にはどこか“余裕”が漂っていた。



まるで他人事のようでいて、しかし本当に大事な場面では一番冷静に動く——そんな人物だ。




よく働くなぁ、まったく。


教員室で他の教師がコーヒー片手に世間話してる中、こっちはこっちで地獄の生産ライン。


だが、こいつらは違う。こいつらは本気だ。と心の中でこの顧問は思っていた




その手にはコンビニのビニール袋。中には栄養ドリンクや缶コーヒー、おにぎりにプロテインバーと、まるで徹夜明けの戦場を見越したようなラインナップが詰め込まれていた。




そして、そのすぐ後ろには。




「……ただいま戻りました、会長」





白鷺琴葉(しらさぎことは)が静かに頭を下げた。




制服の上に軽く羽織ったジャージの裾がふわりと揺れる。





凛としたその表情には、出動要請から帰還したばかりの緊張感と、ほんのわずかな疲労が見え隠れしていた。






「おかえり、白鷺。報告は後でいい、まずは休みな」






陽翔のその言葉には、労いと信頼が込められていた。




白鷺はわずかに目を見開いたが、すぐに静かに頷いた。





「……了解です」






彼女が部屋の隅へと下がった後、橋本はビニール袋を机に置きながら、相変わらずの口調で続けた。





「ま、無理せず。とはいえ、君たちの動きが早いと私の仕事も減るから、ありがたいけどね〜」





「だったらもっと本気で手伝ってくれてもいいんだが」






陽翔の皮肉めいた一言に、橋本は肩をすくめて見せた。





「私は裏方。目立つのは若い君たちの役目でしょ?」







その言葉に、陽翔も、朝日も、そして部屋の隅で静かに控えていた白鷺も、どこか苦笑を浮かべるしかなかった。








「ところで、瀬戸(せと)姫崎(ひめさき)はまだ帰ってきてないの?」





背後から、緩やかな声が投げかけられた。




ソファの上、背もたれに身体を預けてタブレットを操作する顧問――橋本悠奈の声だ。




一見すると仕事をしているようには見えない。



だが、彼女の視線は常に“必要な情報”に向いている。



スラックな態度の裏に、緻密な判断と即応の能力を隠しているのが、この人だ






「あの二人は……どうやら少し長引いてるみたいですね。今回は姉さんが現場に出てるらしいですし、大丈夫です」





陽翔はペンを止めずに答えた。




書類の山はまだまだ尽きる気配がないが、頭の中は常に全方位をカバーしている。






瀬戸凛(せとりん)と姫崎アリア――ふたりとも朝から緊急出動だった。




連絡が入ったのは、まさに始業のチャイムが鳴る直前。





着替える間も惜しんで現場へ駆けつけていった姿が、まだ脳裏に残っている。








綾音(あやね)が一緒なら、そろそろ片付く頃だろうな」





橋本が視線を画面から外し、天井を仰ぐようにしてぼそりとつぶやいた。




まるで“あの子たちなら、心配いらない”と言外に語っているようだった。





綾音――陽翔の実姉であり、国家戦略級異能保持者。


彼女が前線に出ているという時点で、任務の重大性がわかる。だが同時に、それだけ安心感もある。







橋本が軽く肩をすくめた。




彼は午前中、別の現場に単独で出ていた。



白鷺琴葉もまた、異なるルートで任務に就いていたらしく、帰還のタイミングが偶然重なっただけだ。








「それにしても、姫崎も瀬戸も……時間かかってるな」







橋本が言うと、ふと手を止めていた朝日が顔を上げる。






刀根朝日――生徒会の庶務であり、陽翔の右腕。そして、姫崎アリアの恋人だ。




「……あいつらのことだ。大丈夫だとは思うが、念のために連絡入れておくよ」






「頼む。綾音のことも把握しておきたいしな」





アリアは白鷺と同じ二年生だが、立場はまったく異なる。


彼女は第二学年の武芸科主席にして、現在の校内序列第六位。まさに氷羽学園が誇る精鋭の一人だ。







そして――その実力者に対して、朝日は常に対等な視線を向けている。




それは恋人だから、というよりも、互いに“戦場で認め合った”者同士だからこそ、成立する関係だ。




「……最近は、物騒なことが増えているな」





誰に聞かせるでもない、呟きだった。




書類をめくる指を一瞬止めて、陽翔は視線を窓の外へ向ける。




まだ日は沈みきってはいない。だが、その夕暮れの朱が滲む空に、不穏な影が差しているように思えた。







敵――






それは、単純な()()のように語れる存在ではない。



人類がいつから“あれら”と対峙してきたのか、今や誰も正確には知らない。





記録は残されていない。


いや、記録される以前の時代から、すでにあの「確認不能生物」は存在していたというべきか。





災害か、呪いか、進化の果てか。それとも、何かの罰なのか。




呼び名さえも統一されていないそれらは、地域によって異なる名で語られる。



影喰い(マンイーター)”、“影禍(シャトーブレイカー)”、“黒の徒(ヘイカ)”……。だが共通しているのは、人類とは根本的に異なる理を持ち、そして人間にとって脅威であること。




個体差がある――それもまた厄介だった。



ただ破壊衝動だけで動く本能的なものもいれば、極めて高い知性を有し、人間の言葉すら操る存在もいる。


中には、人間に偽装して長年社会に潜伏していた“奴ら”がいたという報告さえある。




そして、この国、この世界が対峙している“敵”は、それだけではない。




陽翔は目を伏せ、書類のページを静かに捲る。




かつて“人間”だった者たち。かつて“この世界”を守る側にいた者たち。




つまり――




武芸者たち。異能を持ち、戦いの術を磨き、国家を、世界を守るために育てられた存在たち。




彼らの中には、己の力に溺れ、あるいは失望し、この世界そのものを裏切った者たちがいた。






力を持つ者の堕落。それは、ただの裏切りではない。



“戦う術”を知り、“破壊する力”を有し、そして“理念”を捨てた者たち――



そういった元・武芸者たちが敵に回ったとき、彼らは最も厄介で、最も危険な存在となる。




彼らは、異形の存在よりも遥かに人間的な思考を持ち、組織し、策略し、裏で動く。



しかも、敵の中には確認不能生物と共謀し、利用し、あるいは支配している者もいるという。







陽翔は深く、無意識のうちに息を吐いた。





「……ほんと、厄介だな」





だからこそ、氷羽学園がある。


異能を持つ者たちを育て、磨き、制御し、次の“戦場”に送り出すための、学園という名の要塞。







そしてその中でも――生徒会は、特異な立場にある。



戦略と調停、実戦と命令、情報と判断。すべてを俯瞰し、対処する役割。



戦うだけでなく、導くことを課せられた者たち。






窓の外の朱が、静かに群青へと変わっていく。




その空の色が、陽翔の目に映る()()の色と、重なっていった。

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