入学式というヤツ 前編
あれから——
雪乃と二人、並んでいつもの通学路を歩いていた。
特別な話題があるわけでもない、他愛のない会話。けれど、それが妙に心地いい。
「まだ……少し肌寒いですね」
ふと、雪乃がそう呟く。淡い吐息が冷たい空気に溶けていった。
微かに吹いた風が、彼女の柔らかな髪を揺らす。朝の光を受けて銀糸のようにきらめくその髪に、思わず見惚れてしまう。
……何度見ても、綺麗な人だと思う。
「上着、持ってきたらよかったな……」
そう口にしながら、俺は雪乃の制服姿をふと見やる。
タイツを履いてはいるが、冬の名残を含んだ風が、きっと肌にじかに触れているのだろう。
見ているこっちが寒くなる。
「……スカート、寒そうだな」
言葉にした瞬間、雪乃が小さく肩をすくめた。
「女の子が可愛くいるには、我慢が必要なんですよ。……まあ、はるとには分からないでしょうけど」
苦笑い混じりに、少しだけ意地の悪い口調で返される。だけどその目は、どこか照れているようにも見えた。
「俺は、そのままでも可愛いと思うけどな〜」
冗談半分にそう言うと、雪乃は一瞬黙り込んだ。
「……そうですか」
ああ、やっちまったか? ちょっと言いすぎたかもな。
だけど、ちらりと横目で見ると、彼女の口元がほんのわずかに上がっている気がする。
怒っているというより……むしろ、照れている?
雪乃のこの喋り方にも、俺はもう慣れた。
家の中では妹らしい口調で話すけれど、外に出ると一転、他人行儀ともいえる敬語と距離感。
お嬢様然としたその態度は、育ちを考えれば自然なことだろう。
雪乃は実際、由緒ある家の娘だ。振る舞いに不自然なところはない。
……けど、少しだけ寂しいんだよな。
どうしてそうなったのか、その理由については——まあ、また今度、機会があれば。
そして、今この瞬間——無表情を崩さない彼女の内心では。
『うわぁ……思わず声に出しちゃうところだった……うへへ……かわいいですって』
心の中で全力のガッツポーズを決めていた。
雪乃は、実は兄である俺のことが大好きだ。
けれど、その事実は誰にも話していない。表情に出さないようにしているし、完璧に隠せているつもり……
だったが、夜に独り言がうるさすぎて、隣の部屋の碧月には完全にバレている。
『そろそろ……はるとの写真集、作ろうかな……』
この女、実は兄の写真を撮り続けて二年。
その数なんと――12,780枚。
もちろん、すべて盗撮である。
そんな真顔のまま妄想している間に、俺たちは校門に辿り着いた。
氷羽学園。
何度見ても圧倒される厳重なセキュリティ。
学生証がなければ在校生ですら入れない。部外者や保護者、親族に至っては事前の登録か、特別な入館証が必要になる。
異能者育成という特異な環境ゆえの厳しさだった。
――と、そんな堅い空気を打ち破るように、元気な声が響く。
「鷲宮せんぱ〜い〜、おっはようございます〜」
校門をくぐってすぐ、声をかけてきたのは後輩の白鷺琴葉だった。
「おはよう、白鷺」
「おはようございます、白鷺さん」
どちらに声をかけたのか分からなかったので、とりあえず二人とも返す。
まあ、こういうのは挨拶が大事だ。
白鷺の心の中は、穏やかな朝の風のように流れていた。
二人の姿が見えた瞬間、無意識に笑みがこぼれる。
『よかった……今日もちゃんと来てくれた』
その笑顔は、誰にも不自然に映らない。
けれど心の奥では、ほんの少しだけ胸を撫で下ろしていた。
琴葉にとって鷲宮陽翔は、最も信頼できる生徒会長であり、目で追いたくなる人でもある。
雪乃の隣に並ぶ姿を見るたび、少しだけ胸がきゅっとなる。
『……でも、これでいいの。私は、支える側。風のように、さりげなく』
「二人とも待ってましたよ〜。入学式の最終確認、お願いします〜」
「遅れてはないはずなんだけどな……」
腕時計を見ると、生徒会の集合時間まであと10分。
彼女、白鷺琴葉は俺たちの一つ下の後輩で、生徒会では会計を務めている。
腰まで届く銀髪は、光を受けるたびに淡く揺らぎ、まるで月光が舞い降りたかのよう。
廊下でも教室でも自然と注目を集めてしまうのに、本人はまったく気にする様子もなく、どこか夢見心地に空を仰いでいる。
マイペースで、気まぐれで、ふっとどこかに消えることもあるのに——
いざという時の判断力と行動力は驚くほど確かだ。
見えない風の流れを読むように、「今やるべきこと」を察知して淡々とこなす。
……放っておけない存在だ。彼女の姿を、俺たちはつい目で追ってしまう。
「まあ〜せっかちさんがいますから〜、早く行きましょう〜」
教室に寄って荷物を置くつもりだったけれど、その余裕はなさそうだ。
「せっかちさんも待ってることだし、そのまま向かおうか」
「私は後ほど向かいますわ」
雪乃はそう告げ、静かに校舎へと入っていった。
「……じゃあ、行くか」
生徒会室に着くと、すでに誰かがいた。
「遅い!会長が遅れてどうするのよ!」
「いや、遅れてねーから!」
怒鳴り声とともに飛んできたのは、瀬戸 凛。
彼女こそ、白鷺が言っていた“せっかちさん”その人である。
凛は、腕を組んだままじっと睨む。
時計を見れば確かに時間通り――でも、それでも言いたくなる。
『……もっと早く来てもいいでしょうが、会長なんだから』
それは理屈じゃない。感情の問題だ。
陽翔が遅れてくると、理由もなく胸がざわつく。
それは怒りでも不満でもなくて、たぶん、心配――
『ああもう、めんどくさい。なんで私がこんな……』
声を荒げた自分に、ちょっと自己嫌悪。
けど、陽翔が気にせず返してくるそのやり取りが、どこか心地よくもあった。
「凛、お前はせっかちすぎんだよ!」
「アンタこそ呑気すぎなのよ!」
言いながら、どこか懐かしい感覚を覚える。
この口喧嘩も、もう何度目だろう。
『でも、こうして張り合える相手って、そういないんだから……』
弓道でも、生徒会でも、互いを高め合う存在。
そして、時々、無性に目が離せなくなる人。
瀬戸 凛
同じ三年生で、弓道部の副部長。そして、生徒会では書記を務めている。
冷静で知的な性格だが、せっかちで厳しめな一面も隠せない。
弓道は俺の方が先に始めた。凛は俺の妹弟子として、彼女の父から直接指導を受けてきた。
その真面目さと努力で、部活でも学業でも常に高い評価を受けている。
黒髪は肩にかかるくらいの長さ。
きっちりとまとめたお団子やポニーテールは彼女の代名詞で、制服姿もどこか凛々しく、誰もが憧れる存在だ。
家同士が古くからの付き合いということもあり、俺とは腐れ縁のような関係。
弓道でも、常に互いを意識して高め合ってきた。
厳しい言葉の中にも、確かな信頼と優しさがある——そんな先輩だ。
二人のやり取りを見て、琴葉はふんわりと笑った。
『……やっぱり、いいな。この空気』
一見喧嘩のようでいて、呼吸は合っている。
きっと誰よりも、お互いを信頼しているんだろうなと思う。
『私はまだ……その輪には入れていないのかも』
ふと、少しだけ寂しさが胸をよぎる。
けれど、それを顔には出さず、彼女は優しく微笑みながら割って入る。
「はいはい〜、痴話喧嘩はそこまでですよ〜」
見かねた白鷺が、間に入って話題を変えようとした。
校舎内を一人で雪乃は歩きながら、ぽつり
『……やっぱり、凛さんがいると、すこしだけ……』
言葉にするのは難しい。
胸の奥がもやもやする。でも、それは嫉妬なのか、寂しさなのか、自分でもよくわからない。
『でも、いいんです。だって……私は“妹”なんですから』
その言葉に、ほんの少しだけ影が落ちる。
『今のままでいい。だけど、ほんの少しだけ……』
ほんの少しだけ、勇気があれば――と思う。
この二人のやり取りは、校内でも有名だ。
「喧嘩するほど仲がいい」とは、まさにこのこと。
「ったく……入学式の準備はどう?」
「予行通りに進めば、問題ないわ」
「なら、問題なし。ありがとう」
「これくらい、当然よ」
息の合ったやり取りに、誰もが思った。
——やっぱり、この二人は相性抜群だ、と。
白鷺琴葉は、微笑みながら一歩引いてその光景を見守る。
雪乃は、廊下の窓辺で一瞬だけ立ち止まり、そっと扉の先を見つめる。
そして凛は、誰にも見せない安堵の吐息を小さく漏らす。
――誰もが思った。
この三人は、互いに何かを持っていて、何かが足りない。
だからこそ、補い合える。そうして在れるのだ。