鷲宮という人たち
冷たい。
焼きつくように、冷たい。
ただの冷たさじゃない。皮膚に触れるものじゃない。
もっと奥。骨の髄、いや、魂の芯にまで届くような、そんな沈黙の冷たさが、音もなく染み込んでくる。
呼吸はとっくに忘れた。空気の存在も、感覚の中から消えている。
視界は滲んだ墨を垂らしたように、ゆっくりと黒に染まり、輪郭はすべて溶け落ちた。
聞こえるのは、間延びした自分の鼓動と、耳の奥で泡が弾けるような音――それだけ。
深く、深く、俺は沈んでいた。まるで意識だけが浮かび、身体は遥か彼方へ置き去りにされたような、そんな感覚。
――ここは、どこだ?
意識はかろうじて繋がっている。けれど、指一本動かせない。温度も、重力も、痛みすらも感じない。
ただひたすら、凍てついた暗闇の中で、終わりの気配だけが確かにあった。
そしてそのとき、不意に脳裏に響いたのは――
『人生、死あり……修短は命なり』
どこか懐かしい、低く穏やかな声。兄が昔、よく呟いていた哲学めいた言葉だった。
命に長短はあるが、それさえも天命。誰にも抗えぬ定めだと、諦めるように言っていた。子供だった俺には、その言葉の重みはわからなかった。
けれど今、この沈黙の中で、それは痛いほど胸に刺さった。
けれど――
「――起きろ」
その瞬間。
脳天からつま先まで、鋭い冷水を叩きつけられたような衝撃が走った。
「ッッ、冷たッ!? な、なに!?」
身体が勝手に跳ね起きた。
息を吸い、まぶたを開いた瞬間、視界に飛び込んできたのは――艶やかな黒髪に、整った顔立ちの少女。
手には、氷水の入ったグラス。
「ようやく起きた。氷、顔にかけて正解だったみたい」
彼女は、微かに眉を上げ、涼しげに言った。
「お前かぁああああ!!!」
胸にまだ残る冷たさを振り払いながら、俺は叫ぶ。あの夢の中の感覚が、現実の水滴となって頬を伝っていた。
「朝よ、お兄様。今日が、何の日か……忘れていないでしょうね?」
「……忘れるわけ、ないだろ」
目の前の少女、鷲宮雪乃。俺の妹。けれど“妹”という言葉では括れないほど、特別で、少し遠い存在。
「今日は碧月の入学式。高校生活の門出なんだから、ちゃんと正装してね」
鏡の前でネクタイを締めかけていた俺に、雪乃がそう言った。
制服姿の彼女は、いつも通り完璧だった。
きちんと整えられた髪、皺ひとつない制服のライン、そしてどこか柔らかくも凛とした気配。
けれど、そんな彼女の言葉に頷きかけた俺は、ふとその襟元に視線を止めた。
「言われなくても……って、おい、お前、ネクタイ結べてないぞ」
ほんのわずかに斜めに歪んでいたネクタイの結び目を指摘すると、雪乃は小さく目を見開き、次にふっと微笑んだ。
「……ありがとう。さすが、兄ですわ」
その笑みは、いつもと同じ。
完璧に整えられた、“雪乃”という仮面のように。
けれど、その奥に――ほんのわずか、何かを「演じている」ような空気があった。
わかるのは、俺が昔から彼女を見てきたからだ。
雪乃とは、俺が四月十四日生まれで彼女が三月十六日生まれ。学年上は同級生だが、実質的には俺が年上。
だが“兄と妹”という関係は、俺たちの間には曖昧だった。
家族として育った、というより、“並んで”育った。ほぼ双子のように。
だからだろうか。彼女が俺を「兄」と呼ぶのは、皮肉まじりの冗談か、あるいは社交辞令のようなものにすぎない。
「……ふん、まあ、礼には及ばない」
苦笑しながらネクタイを直し、自分の制服に腕を通す。
天気はいい。晴天。
窓の外では桜が風に舞っていた。新しい季節の、まるで演出されたような空。
「いい天気なことだ」
何気なく呟いたその言葉に、雪乃は小さく頷きながら「ええ」と応じた。
俺は鞄を肩にかけ、制服の襟を整えて部屋を出る。階下へと続く階段を踏みしめながら、微かに胸の内を探っていた。
――何かが変わりつつある。
その感覚は、目に見えない形で確かにあった。
階段をゆっくりと降りると、木の香りが微かに鼻をかすめた。
磨き上げられた無垢材の廊下を抜け、リビングの扉を開く。
すると、そこにはすでに家族全員が揃っていた。
目に飛び込んできたのは、あまりにも見慣れた、けれどどこか“特別な朝”の空気だった。
テーブルの上には朝食の湯気が立ちのぼり、光沢のある食器が規則正しく並べられている。
窓際には陽光がやわらかく差し込み、部屋全体が金色に包まれていた。
家族は、それぞれが気品と個性を宿した“鷲宮”の血族。
その姿には、どこか舞台のような完璧さがあった。けれど――
誰もが心の奥底で、“あの三年前”に今なお囚われているのが分かった。
そんな沈黙を破るように、優しい声がかかった。
「お前、寝癖ついてるぞ。ネクタイも歪んでる」
見上げれば、そこには兄さんがいた。
鷲宮家の長男――鷲宮朔真
今年で二十四になる兄は、まさに“理想の大人”そのものだった。
「……ありがと、兄さん」
思わず笑ってしまう。何歳になっても、こうして自然に気をかけてくれる。
そのさりげなさが、どれだけ俺にとって大きな支えだったか。
兄さんは頭がいい、という言葉では足りない。
問題の本質を一瞬で見抜く鋭さ。机上の空論にとどまらず、現場で自ら身体を動かす実行力。
冷静な判断と抜群の身体能力を兼ね備え、人の上に立つ者としての器がある。
考えて、行動して、導く。その姿勢が、ただ眩しくて、憧れずにはいられなかった。
「ありがと兄さん!」
声が自然と弾んだ。兄に褒められると、ちょっとだけ誇らしい気持ちになる。
リビングでは、それぞれがいつも通りに動いていた。
父さんと母さんは、まだ食卓に座って食事をしていたので、俺も自分の朝食を運び、一緒に並んで座る。
「てか、父さんと母さん、今日来るの?」
何となく気になって口にした。
二人とも普段は多忙を極めていて、家に顔を見せないことも多い。
けれど、こと“子供たちの節目”となると、何よりも優先して駆けつけてくれる人たちだ。
今日も、きっと来てくれる。
それは分かっている――でも、確認せずにはいられなかった。
「もちろん、行くに決まってるでしょ〜」
母の言葉は、いつも通りの柔らかな声で返ってきた。
その瞬間、胸の中にふわりとあたたかい何かが広がって、思わず「大好き!」と叫びそうになった。
「もう高校の入学式はこれで最後だからな、目に焼き付けなければ」
父の言葉に、思わず笑ってしまう。
親バカ、という言葉がこれほど似合う人もいない。けれど、それが鷲宮家なのだ。
ソファーの方から、明るい声が響いた。
「私も兄さんも行くわよ〜」
顔を出したのは、姉――鷲宮綾音
今年で二十二歳になる彼女は、弟の俺から見ても文句なしに綺麗な人だった。
雪乃ももちろん美人だけれど、綾音はどこか違う雰囲気を纏っている。
姐さんは、明るくて、ほんの少しギャルっぽい空気を持っている。
けれどその実、誰よりも気配りができて、芯の通った“強さ”を持っている人だ。
困っている人を見つけたら、すぐに手を差し伸べ、場の空気が緩みすぎれば、さりげなく引き締めてくれる。
だから、気づけばみんなが彼女を頼りにしている。
それが姐さん――鷲宮綾音の持つ“あたたかさ”だ。
「俺も綾音も陽翔と雪乃の時はいけなかったから、せめて碧月の高校の入学式は見ておきたい」
姐さんの言葉に、兄さんが頷く。
「……あの時は入学式どころじゃなかったからな。まあ、俺、入学式出てないけど」
冗談めかして笑ったけれど、笑いきれなかった。
「仕方ないでしょ、昏睡状態だったし。私一人で楽しんだわ、はるとがいないお陰様で私は主席入学できたし」
綾音の冗談に笑いが起こる。けれど、ほんの一瞬、空気が沈んだ。
――三年前の“事件”。
俺は昏睡状態に陥り、入学式どころではなかった。
結果として今、生きている。後悔はない。
けれど、あの時の家族の空気は、今も胸に引っかかっている。
姐さんも兄さんも、あの時ずっと泣いていたと聞いた。
「俺は大丈夫」って言葉を、ちゃんと伝えたかった。
でも、それができなかった。
だからこそ、今を楽しく生きなきゃいけない――
それが、俺なりのけじめだった。
「お兄ちゃんたち、時間大丈夫? 今日早めに行かないといけないんじゃないの?」
その声に、全員が顔を向ける。
制服に身を包んだ少女が、腕時計を見ながら小首を傾げている。
その姿に、心の底から「ああ、可愛いな」と思った。
鷲宮家の末っ子――鷲宮碧月
俺たち兄姉にとっては、文字通り“宝物”のような存在だ。
その仕草、表情、声――すべてが愛しくて、見ているだけで癒される。
「目に入れても痛くない」なんて、冗談でも何でもなく、真実だと思う。
でも、碧月の魅力はそれだけじゃない。
彼女はこの家で一番の頭脳派。
観察力も判断力も鋭くて、時折、驚くような核心を突いた言葉をさらりと口にする。
賢さと愛嬌、その両方を兼ね備えた、まさに“天才肌”だ。
そして、今日――その碧月が、高等部へと進学する。
「じゃ、俺たち先に行ってくる! 碧月、またあとでな!」
「姐さん、碧月の晴れ舞台の映像は任せましたわ」
「はいよ〜、バッチリ撮るから安心しなさいな」
碧月に手を振って、玄関へと向かう。
ドアを開ければ、春の香りが風に乗って頬を撫でた。
ふと振り返ると、玄関先に立つ碧月が、こちらを見て小さく手を振っていた。
その笑顔が、春の陽射しよりも眩しかった。
(……行ってきます)
心の中でそう呟いて、俺は雪乃と共に家を出た。
二人で歩き慣れた、あの通学路。
春の風が頬を撫でるたび、積み重ねてきた日々が少しずつ後ろに遠ざかっていくのを感じる。
「この通学路も、今年で最後か――」
俺は空を見上げながら、ぽつりと呟いた。
穏やかに広がる青。雲ひとつない空が、やけに眩しく見える。
卒業後は付属の大学に進むが、キャンパスの場所はここから遠く離れている。
だから、この道を歩くのも、今日を含めて、ほんのわずかだ。
隣を歩く雪乃は、そんな俺をちらりと横目で見たあと、ほんのわずかに表情を曇らせた。
彼女が立ち止まるのと、俺がその違和感に気づくのは、ほぼ同時だった。
「ねえ、陽翔。あなたは……今、幸せ?」
立ち止まったまま、まっすぐ俺の目を見つめてそう言った。
「――ん?」
一瞬、何を聞かれたのか理解できずに、問い返してしまう。
けれど、雪乃は小さくかぶりを振り、すぐに視線を逸らした。
「いえ、なんでもないわ」
その目は、何かを探すようでもあり、何かを諦めたようでもあった。
どういう意味だったのか。
なぜそんなことを訊いたのか。
気になったけれど、それ以上は聞かなかった。
いや――聞けなかった。
彼女が語らないことには、きっと理由がある。
だから、俺はいつも通り、黙って隣を歩き出した。
⸻
……あ、そうだ。はるとは自己紹介しないから、私が代わりにしてあげますわ。
まったく、相変わらず自分のことになると照れるというか、無頓着なんですから。
鷲宮 陽翔、17歳。高校三年生。
氷羽学園・武芸科所属。現・生徒会長にして弓道部主将。
身長は177cm、体重は67kg。
好きな食べ物はオムライス、嫌いな食べ物は……パイナップル(理由は本人にもよくわかっていない)。
でも、彼の本質はそんなプロフィールじゃ到底語り尽くせませんわ。
とにかく、自分の信じたことは何があっても貫く。
どんなに反対されても、絶対にぶれない。
一度「やる」と決めたら、倒れてでもやり遂げようとする――そんな強さを持った人。
不器用だけれど、人一倍優しくて、誰よりも家族を、仲間を、この国を大切にしているのが、行動の節々から伝わってきますの。
本人は口下手だから多くを語らないけれど、私にはわかります。
……え? どうしてそこまでわかるのかって?
そりゃあ、ずっと隣で見てきたからですわ。
小さな頃から、ずっと、ずっと。
だから私は――
「……私は、ずっと憧れているんですの。お兄ちゃんに。……内緒ですよ?」
⸻
「はると、校章のバッジが歪んでいますわ」
「お、ありがと」
彼は少し照れたように笑って、それを直す。
その笑みは、どこかぎこちなくて――やっぱり、あの日の影を引きずっているように思えた。
(あの日から、俺も、彼女も、完全には戻れていない)
失ったものもあった。得たものもある。
それでも時間は止まってくれなかった。
だから、今を生きるしかない。
今を、大切に。
けれど、今朝の家族の温かさ。
雪乃の微笑みの奥に隠された言葉。
この春の空気のどこかに混じる、確かな違和感と静かな決意――
(……きっと、“何か”が動き出す)
物語はまだ序章。
だが確実に、世界はゆっくりと、静かに――変わり始めていた。