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休息というヤツ

陽翔(はると)はカップを手に取り、冷めかけたコーヒーを一口含んだ。


苦味が舌に残ると同時に、疲労の溜まった背中を伸ばす。


肩がパキリと音を立て、わずかに心地よい痛みが走った。



「……終わらねぇな」



低く、誰に聞かせるでもなく漏らした独り言。


日曜日。本来であればゆったりとベッドの上で寝返りを打ち、目覚めの音楽でも聞いていた頃合いだった。

しかし現実は違う。


陽翔は氷羽学園の生徒会室にいた。窓から差し込む朝の光も、どこか冷たく感じる。


彼の目の前には、広げられた書類の山。


モニターは二つ同時に稼働し、映し出されたのは機密データと監視映像。

手元のタブレットには報告書の確認画面、隣には紙の資料が十数センチほど積まれていた。


まるで学園の行政と国家の安全保障を一手に担う執務官のような忙しさだった。


その理由は、昨日の――いや、昨夜の出来事にある。



世界的反逆組織《C.O.V》、その幹部の一人《Code:pride》。


本名、三上研哉(みかみけんや)


かつて国家武芸者管理研究部の主力メンバーとして名を馳せた、間違いなく「天才」と称される存在だった。


だが、その才はやがて疎まれた。


能力は高すぎるがゆえに、国家は彼の思考を恐れた。

制御不能な存在として見なされ、政治的に追放されたのだ。



──才能が、才能そのものによって否定される。



陽翔は目の前のレポートに視線を落としたまま、深く思考に沈む。


指先に残るコーヒーの温度さえ、現実味を遠ざけていく。



「……人間というのは、なんて愚かな生き物なんだろうな」



言葉に出すことはなかったが、心の奥底でふとそう呟いた。


三上の末路は、まるで未来の自分を見るようで、どこか他人事とは思えなかった。



そして、自分はあの男を倒した。

正確には、戦闘不能に追い込んだ。

それでも、完全な勝者であるという実感はない。



陽翔は静かに椅子の背にもたれ、天井を見上げる。

冷たい蛍光灯の光の下、生徒会長である彼の顔には、ただの“学生”には似つかわしくない疲労と覚悟が刻まれていた。



「俺は鷲宮(わしみや)……よかった気がするようでしないな〜。ま、そうだな〜」



ぼそりと呟いた陽翔は、手にしていたタブレットを机の上に静かに置いた。


カツン、と硬質な音が生徒会室に響いたあと、彼は背もたれに体を預け、目を閉じる。



そのまま、しばし沈黙が流れた。

無言の中に思考が蠢く。

陽翔は考えていた。言葉にはならない、けれど確かな重みをもって胸の奥にある何かを。


やがて、彼は小さく息を吐き、天井を見上げる。



「はぁ……十七歳には荷が重いっての」



重々しく、けれどもどこか投げやりな口調だった。

肩にのしかかるのは、若者が背負うにはあまりにも過酷な責務。

それでも彼は逃げずにここまで歩いてきた。


ふと、思い出したように目を細めた。



「あ、俺……明後日誕生日じゃん。十八歳じゃん……」



自分でも可笑しいのか、微かに口元が歪む。



「……大人になっちまうな〜。大人になりたくね〜」



ぽつりと、幼さすら滲む本音がこぼれ落ちる。

四月十四日──陽翔の十八歳の誕生日は、すぐそこに迫っていた。

新学期が始まってまだ数日しか経っていないというのに、彼の心に差す影は濃くなるばかりだった。



彼が「大人になりたくない」と口にするのは、ただの甘えではない。

陽翔は幼い頃からこの社会の裏側を、誰よりも早く知ってしまった。

理不尽な権力、不条理な命令、捨てられていく正義。



目の前で壊れていった“本物の人間”たちの姿が、今でも脳裏に焼き付いている。



「……でもさ、それでもこの国が嫌いになれないんだよな」



誰に語るでもなく、空間に向けて呟いた。


それはきっと、生まれ育った風景、交わした言葉、守りたかったもの──そんな小さな記憶の欠片が、彼の中に根を張っているからなのだろう。



一部の政府機関が腐っている。それは確かだ。

だがそれがすべてではない。

陽翔は、それを知っている。




だからこそ、戦う。

だからこそ、苦悩する。




国を、社会を、人を愛するということの痛みを、陽翔はこの歳にしてすでに理解していた。



机の上、冷めかけたコーヒーが揺れた。

その揺れの中に、彼の複雑な青春の断片が静かに滲んでいた。



陽翔が少しばかりの休息を取っていた矢先──



生徒会室の扉が「コン、コン」と静かにノックされた。


その音に目を開けると、扉がすっと開き、ひとりの少女が現れた。



「差し入れ、持ってきたよ」



瀬戸凛(せとりん)だった。

制服の上に薄手のカーディガンを羽織り、手にはコンビニのビニール袋を提げている。

袋の中にはペットボトルの飲み物と、彩り豊かなお菓子のパッケージがちらりと覗いていた。



「わざわざ……すまんねぇ。ありがたく頂戴しようかな」



陽翔は、ゆっくりと椅子の背にもたれたまま微笑む。

時計に目をやると、まだ午前九時を少し過ぎた頃。

もう少しだけ、この穏やかな空気に身を委ねると決めた。



人気のない生徒会室。


いつもなら、それぞれの席には決まった顔ぶれが並ぶ時間帯だが──今日は静かだった。

凛は空いた席のひとつに腰を下ろすと、袋の中身を丁寧に並べ始めた。


ドリンク、スナック菓子、チョコレートバー、そして個包装の焼き菓子など。まるでちょっとした休憩所のように、小さな島が机の上にできあがっていく。



「何時から詰めてたの?」



凛の声には、ほんの少し心配の色が混じっていた。



「んー、六時ぐらいかな」



陽翔はカップのコーヒーを軽く傾けながら、思い返すように答える。



「なんか目が覚めてさ、……気づいたら来てた。今ってな」



凛はふう、と小さく息を吐く。

袋から取り出したスナックを一つ開けて、ぽいと口に入れながら、柔らかく言葉を続けた。




「昨日、補導ギリギリまで現場にいたでしょ……ちゃんと休みなよ」




言葉の奥にあるのは、ただの注意ではなかった。

それは、隣で見ていたからこそ分かる“本当の心配”だった。


昨日の戦闘は激しかった。


世界的な反逆者集団C.O.Vの幹部、Code:Pride──

三上研哉との一戦は、記録にも残るだろう苛烈な交戦だった。


今日は生徒会の全員が、その戦闘についての詳細な報告書を提出する日。

だが、報告書はどこで書いてもいい。

刀根朝日(とねあさひ)姫崎(ひめさき)アリア、白鷺琴葉(しらさぎことは)──皆、疲労を考慮して今日は自宅で作業することにしていた。


それでも、陽翔は迷わず生徒会室を選んだ。


この空間が最も落ち着くから。

誰にも邪魔されず、思考を整えることができるから。




凛は──

陽翔がここに来ると知った時、迷わず自分も同じ選択をした。




彼が無理をしてしまうことを知っていたから。

彼の強さが、時に脆さと紙一重であることを誰よりも感じていたから。




実際、凛も今朝は早く登校した。

休日としてはかなり早い九時には生徒会室に到着していた。


それでも、すでに陽翔が作業を始めていたことに、胸の奥が少しだけ痛んだ。




「少しは甘えてよね、こういうの」




ぽつりと、凛が呟いた。

まっすぐ陽翔を見てはいない。だが、その横顔には確かに――優しさがあった。



陽翔はその言葉に答えず、ただ手を伸ばして机の上のチョコレートを一つ取った。


そして、ほんのわずかに微笑んだ。



ただの少年と少女として、互いの静かな存在を分かち合っていた。



「そういえば、欲しいものとかあったりする?」



何気なく、けれどどこか期待するような声音で、凛が尋ねた。

スナック菓子の小袋を開けたまま、指先でつまんだひとつを口に咥えながらの質問だった。


陽翔はその問いに一瞬まばたきをし、それから小さく頷いた。



「欲しいものかぁ……」



そう言いながら陽翔は椅子の背にもたれ、視線を少しだけ天井に向けた。



「うーん、パッと思いつかんな……この前欲しかったゲロ高いヘッドホン買っちゃったし」



頭の後ろで腕を組み、少し悩ましげに唸る。

けれどその表情は、どこか穏やかだった。


凛はというと、陽翔の言葉に反応するように、口元に手を添えながら笑みを漏らした。



(はる)くん、お金は有り余ってるもんね。あ──」



言い終えてから、自分の口からこぼれた名前に気づいた。



(はる)くん」と。



いつも「陽翔」か「会長」と呼んでいたその名前の呼び方に、本人が気づかないほど自然に口にしていた。



「お、ひさびさに“(はる)くん”って聞いたかも」



陽翔は、少しばかり目を丸くしてから、柔らかな笑みを浮かべた。



「そうだな。いつぶりだろ」



その笑みにはどこか懐かしさと、心の奥をくすぐるような照れがあった。


凛はというと、言ってしまった自分の言葉に、徐々に表情を赤らめていった。

耳の先がほんのりと紅を差したように染まり、手にしていたスナック菓子の袋を小さく握る。



「なんか、めっちゃ違和感なく……口に出しちゃった……」



彼女の声は徐々に小さくなっていく。

けれどその言葉には、照れと、どこか心地よさのような気持ちが滲んでいた。


陽翔は机の上のコーヒーを手に取り、一口すすってから――ふっと視線を逸らしつつ、ひとつだけ小さく呟いた。



「……たまには、それも悪くない」



凛は、その言葉に返す代わりに、小さな声で「うん」と頷いた。


二人の間に、静かで、ぬるく心地よい時間が流れていた。

まるで戦いも任務も、どこか遠くにある出来事のように感じる。



「まあ、欲しいものが決まれば言うよ」



陽翔はコーヒーカップを軽く傾け、残っていたわずかな液体を飲み干し、新しくもう一杯入れた。


その動きはあくまで自然で、いつも通りのはずだった。けれど――心の奥には、かすかなざわめきが芽生えていた。


その瞬間だった。



「決まってないなら……来週の日曜日、二人で出かけない?」



凛の声は、静かだった。


けれど、その語尾には微細な揺らぎがあった。


普段よりも、ほんの少しだけ抑えたような、けれど思い切って口に出したような響き。


陽翔は一拍、間を置いて凛の顔を見た。


彼女の視線は、テーブルの上に置いたペットボトルのラベルを無言で指先でなぞっていた。

視線は陽翔と交わらず、けれどその耳の先は、また赤くなっていた。



「……いいよ」



言葉はすんなりと出た。けれど、自分でもわかるくらい、声のトーンがわずかに硬かった。



――なんでこんなに緊張してるんだ、俺。



凛とは何度も二人で外に出かけたことがある。



祭り、買い物、映画。家族ぐるみの付き合いもあり、生まれてからずっと隣にいる存在だ。

なのに、今、突然――なぜだか、心臓が音を立てていた。



理由は、わかっている。

だけど、それを口に出すにはまだ、勇気が足りなかった。



ふと、凛の方を見た。


彼女もまた、どこかぎこちない動きでスナックの袋を閉じ、手元の資料に視線を移した。

だが、目はまるで文字を追っていない。頬の赤みは、隠しきれていなかった。



――凛も……同じ、か?



陽翔は思わず口元を手で覆い、息を整えた。


呼吸が浅くなるのを感じる。

これは戦場の緊張ではない、けれど、ある意味ではそれよりも厄介なものかもしれなかった。




「楽しみにしてる」



凛が、少しだけ顔を上げて言った。今度は、ちゃんと陽翔の目を見て。


陽翔は、目をそらさなかった。

頷きながら、心の奥に熱を感じた。



その熱は、かつて戦場で流した怒りや悲しみとも、違うものだった。




穏やかで、だけど確かな――“変化”の予感だった。



「なら、出動要請が来ないように申請しないとな。ま、あれ、ほぼ100%で通るけどな」




陽翔はそう言いながら、ジャケットの内ポケットから黒い薄型のスマートフォンを取り出した。


カスタムされた国家武芸員専用モデル。


表面には彼の識別コードがうっすらとホログラム表示され、画面を点けると生体認証により即座にロックが解除される。


数タップで専用の申請アプリを開き、「別件活動申請」の項目を選ぶ。


表示されるフォームは極めて簡潔だ。






【別件活動申請】


申請者:鷲宮 陽翔(ID:JPN-O・S・001)


活動予定:私的外出


活動期間:4月23日 06:00 ~ 4月23日 22:00


目的:個人の休息および私的交流のため


備考:緊急連絡以外は連絡しないでください。






「……よし」




内容を確認した陽翔は、送信ボタンを押した。



画面には即座に「申請完了」「審査中」と表示されたが、その横に「担当者評価:特別優先許可枠・承認見込み(98.7%)」とあるのが見えた。



「これで当日は動員はまず来ないな。緊急時以外は」



ぽつりとそう呟きながらスマホを机に戻す。

申請の仕組みを、陽翔は既に熟知していた。


というより、戦い続けてきた彼らにとって、それは時に“人間らしさ”を守るための数少ない手段だった。


“別件活動申請”――これは国家武芸員制度の中でも、比較的自由を保証する特例の一つだった。



形式上は任務とは異なる「私的行動」を申請することで、その期間中は“緊急任務を除いて”出動義務が猶予される。

もちろん、国家存亡レベルの非常事態が起これば取り消されるが、それでも基本的には申請者の時間を尊重する設計になっている。


高校生武芸員の場合、制度上は特に緩く、休暇取得を推奨する文書が政府からも発行されているほどだった。



――「青春の時間は、武器を置いて、人として生きてほしい」



そう記された一文は、陽翔の心にほんの少しだけ静かな波を立てる。



「ったく……言うは易しってやつだよな」



そう呟いて小さく肩をすくめる。


彼らのような“前線に立つ者”にとって、戦いから解放される日はほとんどない。

それでも、この一日だけは違う――そう信じたくて、申請を出した。


ふと横を見れば、凛がスナック菓子の袋を握りしめたまま、スマホ画面を覗いていた。



「……ほんとに出してる」



「当たり前だろ。ドタキャンしたらお前に刺されそうだしな」



「刺しはしないけど……二度と一緒に出かけてくれなさそう、とは思うかも」



「それはそれで怖いな」



小さな笑いが、生徒会室にほんのわずかに弾けた。


誰もいない室内で、カタカタと風に揺れるカーテンの音だけが背景に流れていた。


戦場の記憶も、使命の重圧も、今はひとまず置いておく。


陽翔はもう一度スマホに視線を落とし



「これでよしっと」


画面に表示された「申請承認済み」の通知を確認する



「凛は?出せねぇーの?」



陽翔はスマートフォンを机に置いたまま、隣に立っている凛に視線を向けた。



問いかけにはどこか気楽さが混じっていたが、その内側にはどこかくすぐったいような感情もあった。


凛は目線だけで陽翔を見て、スナック菓子を口に運びながらさらりと言った。



「いや、私……一ヶ月前に出したよ?」



それはまるで、当然のように備えられていた答えだった。

凛の言葉に、陽翔は一瞬だけ時が止まったかのようにまばたきをする。



「……え?」



コーヒーのカップを持った手が宙で止まり、次の瞬間、彼は苦笑いを浮かべて首をすくめた。



「いやいや、まさかの最初から俺に選択肢なかったくね?」



陽翔の声には呆れの色が混じっていた。

けれどその頬には、わずかな笑みが滲んでいた。


戸惑いと照れが入り混じったその表情は、戦場で見せるものとはまるで別人のようで、どこか年相応の少年に見えた。


対する凛はというと、堂々と胸を張って、やや得意げな表情を見せた。



「だって……断らない自信があったもん」



その言葉は真っ直ぐだった。

意識して飾るでも、謙遜するでもなく、ただ純粋に、そう信じていたという顔。


陽翔は鼻を鳴らしながら、半ば呆れたようにため息をつく。



「……自信満々だな、まったく」



けれど、彼の声にはどこか柔らかさがあった。

凛の言葉が嬉しくないわけではなかった。むしろ、そんなふうに想われていたのかと思うと、少しだけ心が温かくなる。


静かな生徒会室に、陽翔がコーヒーを飲み干す音と、凛が菓子袋をくしゃっと握る音だけが、微かなBGMのように響いていた。



風が窓の外を撫で、陽射しがカーテン越しに柔らかく二人を照らす。



「……まあ、なら俺は“連れていかれる側”ってことで納得しとくか」



「うん、それでいいと思う」



凛はいたずらっぽく微笑んだ。

その笑顔は、どこか嬉しそうで、ほんの少し照れているようにも見えた。


陽翔もまた、口元に笑みを浮かべたまま、視線を落とし、静かに呟いた。



「……変わらねぇな、ほんと」



それが、凛と過ごす時間の心地よさだった。

遠い過去から繋がり続けてきた絆が、今もこうして穏やかな日常を与えてくれる――そのことが、何よりも嬉しかった。

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