交戦というヤツ
「氷羽の餓鬼は、この程度か──」
くぐもった声が、立ち込める黒煙の中から響いた。
爆風が巻き起こした粉塵の帳。
その奥から、ゆっくりと現れたのは、一人の男だった。
長く揺れる漆黒のコートは、夜の帳のように周囲の光を吸い込んでいた。
冷たい笑みを浮かべながら、彼の手には細く鋭い、一見すると針のような形状をした奇妙な剣が握られている。
その姿を目にした瞬間、姫崎アリアは戦慄したわけではない。
ただ、感情を研ぎ澄ませ、目の前の敵に意識を集中させる。
彼女は知っていた──この男こそ、半刻前からこの場所を襲撃し続けている主犯であると。
「──あのねぇ!私の相手はあんただけじゃないのよ!どんだけ下っ端引き連れてきてるのよ!」
アリアが叫んだ声は、敵意と皮肉に満ちていた。
彼女の背後、そして周囲。
見渡す限りの空間には、無数の人影が蠢いていた。
その数、おおよそ二百──すべてがこの男と同じく、反逆の意志を胸に秘めた者たち。
武装し、訓練された敵が次々と襲いかかってくるが、アリアはそれを怯むことなく、ただひたすらに斬り伏せていた。
彼女の手に握られているのは、霊刀・櫻月。
血筋と実力、その両方に選ばれた者のみが持つことを許された名刀。
刃が振るわれるたび、桜のような光が宙に舞い、見る者すら幻惑するかのように美しく、そして鋭い。
この混乱の只中に、他の武芸者もいなかったわけではない。
だが、誰もが理解していた。
この場で一番の力を持ち、指揮を執るべき存在は──姫崎アリア、彼女しかいないと。
下手に近づけば、彼女の流れるような戦術の妨げになる。だからこそ、誰もがあえて距離を取り、自らの任務を果たしていた。
アリアは独りではない。
けれど、今この瞬間は“孤高の刃”として、全ての敵意を一身に受け止めていた。
彼女の瞳は燃えていた。怒りでも、焦りでもない。
それはただ、守るべきもののために振るわれる、覚悟の焔だった。
「せいぜい頑張ってくれ──俺には、勝てるはずのないお嬢様よ。」
黒煙の中に立つ男は、傲慢な笑みを浮かべたまま、ゆっくりと針剣を構え直す。
その声音には、勝利を確信する者特有の余裕が滲んでいた。
何もかもを見下ろすようなその態度に、アリアの眉がピクリと動く。
「……っ、腹立つ態度ね……一体、何処のどいつなのよ……!」
姫崎アリアは、歯を食いしばりながら叫んだ。
刀を振るいながらも、その内心には確かな苛立ちが渦巻いている。
敵の数はあまりにも多く、片付けても片付けても湧き出るように襲いかかってくる。
異様なまでの数と統率の取れた動き──どれもが、ただの無謀なテロではないことを物語っていた。
(……おかしい。この状況で、増援が来ないわけがない)
アリアの目が鋭く細められる。
彼女は百戦錬磨ではない──だが、子供の頃から武芸者として鍛えられ、現場の実戦も数多く経験してきた。
だからこそ、今この異様な沈黙がどれほど異常なものか、はっきりと感じ取っていた。
(……この男、只者じゃない……!)
直感が告げていた。
いま自分の目の前にいるこの男──敵の首魁であるこの存在は、ただの幹部ではない。
数多の実戦で鍛えた勘が警鐘を鳴らしていた。
(互角……いや、私は押されてる……!)
刀を交えるたびに生まれる圧力。
気配の濃さ。動きの無駄のなさ。
アリアは理解した。自分ひとりでは、この男には届かない。
だが、その事実に怯えることも、絶望することもなかった。
(だったら──稼ぐしかない)
勝てなくても、止めることはできる。
自分よりも強い瀬戸凛、あるいは鷲宮陽翔が来るまで。
それまでのわずかな時間を、どうにか繋げばいい。
アリアは知っている。この異常事態に、仲間たちが黙っているはずがない。
いまごろ雪乃が情報を整理し、陽翔や凛が動き出している。
きっとすぐに、あの人たちが来る。
「──あたしの目的は、あんたを倒すことじゃないわ。けど──あんたの目的、聞かせてよねッ!」
その叫びは、恐れを押し返す決意の声だった。
無数の敵を切り伏せながら、刀についた血を振り払う。
それでも追いつかない。押し寄せる殺気の波に、息が詰まりそうになる。
それでもアリアは止まらなかった。
“自分にできること”を、必死に探していた。
そんな彼女の姿に、男はふっと口元を緩める。
「そうだな──お嬢さん、頑張ってるし。これでも教えてやるよ」
男は不敵に笑いながら、羽織っていた黒いロングコートを乱雑に脱ぎ捨てた。
爆風が吹き抜け、コートは大きく宙を舞う。その背が、完全に露わになる。
「……なッ……!」
姫崎アリアの瞳が見開かれる。
男の背中に刻まれていたのは──赤黒く燃え上がる、異形の紋章だった。
それは、深紅の鎖に縁どられた歪な円環。
その円の内部には、三日月型の揺籠を模した曲線が浮かび、その中に交差する三本の黒い棘が突き立てられている。
まるで幼子の夢を刈り取るかのように──慈しみの象徴であるはずの“揺籠”に、無慈悲な鋭利さを叩き込んだ意匠。
円環の外周には、幾何学的な文字のような刻印が脈打ち、微かに赤黒く光を放っていた。
まるで生きているように、見る者の神経を直接刺激する、禍々しい“魔術構成式”が張り巡らされている。
それが──
Cradle of Vices、通称C.O.Vの紋章。
世界機密だが、世界中のどの国の関係者は、そのマークを目にした瞬間に「敵」と認識される、最大級の禁忌の証明。
「……そうか、そういうことか。……納得したわ」
アリアは静かに、だがはっきりと口にした。
眼前の男が“ただの敵”ではないこと。
今ここが、“戦場の起点”であることを理解していた。
世界を揺るがす反逆者の一撃──その幕が、今この場所から上がろうとしていた。
「……そりゃ、すぐに増援が来ないわけだわ」
息を切らしながらも、姫崎アリアは敵を睨み据えたまま、乾いた笑みをこぼした。
無数の足音と金属音、そして空気を切り裂く気配──この混沌とした戦場で、彼女の脳は冷静に、静かに動いていた。
「今頃、国家緊急レベルの対応が始まってる……いや、O・S・が動いてるはずね……」
声に出さずとも確信があった。
アリアはただの武芸者ではない。
氷羽学園の高等部に所属する生徒でありながら、最前線任務への出動数は既に二桁を超えている実戦経験者。その場の空気、政府の対応、そして自分が担わされた“配置”──それらを一瞬で読み取り、意味を理解していた。
(私がこの任務の初動に投入されたのは、偶然なんかじゃない。初期対応で敵の動きを見極め、時間を稼ぐため──私が"盾"になると判断されたのね)
納得と共に、静かに怒りが湧いた。だが、それを感情で処理しないのが彼女の強さだった。
(それでいいわ。私はこの場に立つために訓練してきた。私が踏ん張らなきゃ──“あの人たち”が来るまで、誰も生き残れない)
黒い外套の男──C.O.Vの刺客。そしてその背後に控える200人を超える反逆者たち。
アリアは一人で、彼らすべてを受け止めていた。
刀を握る手に、力がこもる。
意識の奥底に眠る“櫻月”が静かに呼応し、刃の重さがどこか温かく感じられた。
「さあ……時間稼ぎなら、任せてよね。誰よりも、粘ってみせるんだから」
その瞳はすでに覚悟を決めていた。
己の役割、自分の限界、そして仲間を信じる強さ──姫崎アリアは、そのすべてを武器に、戦場に立ち続ける。
無数の敵の気配が辺りを包む中、姫崎アリアは一瞬だけ、静かに目を閉じた。
──カァンッ。
刀身が微かに振動し、心臓に近い位置で共鳴音が走る。
(……来たわね)
アリアは意識を沈め、刀を握る手のひらから伝わる“気配”に耳を澄ませた。
──「また、戦うのか。お前は、本当にしぶといな」
その声は、アリアの頭の中に直接響いてきた。
低く、どこか憂いを帯びた、男のような、女のような、どちらともつかない声。
(あんたが私を選んだんでしょ。だったら、最後まで付き合ってもらうわ)
──「選んだのは私ではない。お前が“選ばせた”んだ。……だが、嫌いじゃないよ。お前のそのしつこさ」
かすかに刀身が熱を帯びる。
それは鼓舞、あるいは共鳴。櫻月の意志が、アリアの心に寄り添い始めていた。
(もう少しで、援軍が来る……それまで、もたせて)
──「ああ……見せてみろ、お前の“誇り”を。折れず、曲がらず、ただ斬り開け。お前が“姫崎アリア”であることの証を──」
目を開いたアリアの瞳は、強く、澄んでいた。
まるで自分の命よりも重いものをその身に背負ったかのように。
「──あたしはまだ倒れない。ここは、渡さない!」
叫びと共に振り抜かれた櫻月は、まるで風を断つかのように音を立て、目の前の敵を吹き飛ばした。
ただの刀ではない。共に戦う“意志”があるからこそ、アリアの一撃は鋭く、そして強い。
「付き合ってよね、櫻月。もう少しだけ、あたしに力を貸して」
──「好きにしろ。お前の敵は、もう俺の敵だ」
アリアはわずかに微笑んだ。そして、また前を向いた。
彼女と“櫻月”は、確かに今、ひとつの存在として戦場に立っていた。
「ほう、本気を出したという感じかな。少し高みの見物と行こうかな」
敵の男は口元を歪めると、足元の地を蹴った。
まるで重力など存在しないかのように軽やかに宙を舞い、近くの高層ビルの屋上へと一瞬で移動した。
その身の動きに無駄はなく、全体を見渡せるその位置に立った男の姿は、まるで舞台の支配者のように見えた。
「……余裕ぶっこぎやがって!!」
姫崎アリアの声が荒れる。
怒りと焦燥が入り混じった叫び――けれど、その中にある“芯”は、冷えていた。
そう。感情が爆発しそうなほど昂ぶっているのに、内心は驚くほど静かだった。
(冷静になれ、アリア。感情だけで突っ込んでも無駄だ……奴の力量は明らかに上だ)
幾度も戦場を経験してきたアリアの本能が、すでに告げていた。
目の前の男は“ただの敵”ではない。力も、戦略も、余裕も、全てが異質。
──このままでは斬れない。
彼女はふっと息を整えると、そっと腰の刀へと指を添えた。
銀白に光る刀身――《櫻月》。
幼い頃からその存在と共にあった、アリアの“半身”。
「……櫻月、行くわよ」
そっと呼びかけるように呟くと、刀身が微かに震えた。
風もないのに、櫻月の柄飾りがわずかに揺れ、そこに宿る意志が答えるように共鳴した。
──「ようやく、己を取り戻したか。怒りではなく、意志で振るえ。そうすれば、お前の刃はまた真を貫く」
アリアは目を細めた。
(わかってる、あたしの怒りは……あたしの意志で制御する)
怒りは必要だ。ただし、それは剣の糧にするためのもの。
彼女の中の感情は、今や研ぎ澄まされた刃となって心に宿る。
「高みから見てる暇なんてないって、教えてあげるわ。私が、櫻月の使い手だってことを──!」
その瞬間、アリアの足元を中心に風が渦を巻いた。舞い散る瓦礫が跳ね上がり、彼女の赤いリボンが風に舞う。
次の一瞬、姫崎アリアは宙を舞った。
ビルの屋上を目指し、まっすぐな軌道で飛翔する。
その手に握るは、“意志を宿した刀”──櫻月。
彼女は恐れず、迷わず、ただその男に届かせるために、刃を振るおうとしていた。
広い空に、姫崎アリアの姿が弧を描いて舞った。
脚力と気流操作による跳躍――その全ては完璧だった。
その眼差しは一直線に、屋上に立つ男を捉えていた。
「さあ、狙いを定めたわよ……!」
彼女の手の中で《櫻月》が光を帯びる。刀身が微かに震え、その意志が持ち主と共鳴する。
──「見極めろ。お前の斬撃が届く“間合い”と、“刻”を」
「《一閃花影》!」
一拍置かぬ間に、アリアは突進した。
風の軌跡に桜の花びらを模した斬撃の残像が生まれ、幾重もの斬閃が男を襲った。
しかし。
「遅いな」
男はあくまで余裕のままだった。微動だにしない体躯が、斬撃が迫る瞬間にふっと霞のように消える。
──《瞬移》。
目を見張るより早く、男の姿はアリアの頭上へと現れた。
「ッ!」
次の瞬間、彼の細剣が空を裂き、真下のアリアを正確に叩きつけるように斬り下ろす。
避ける間もなく、アリアの身体が重力に引かれて落下していく。
「ぐっ……!」
地上までおよそ三十メートル。
アリアはなんとか体勢を整え、着地の衝撃を受け流す。
だが、膝をついたその瞬間――周囲を取り囲んでいた無数の下っ端たちが一斉に襲いかかってきた。
「やっぱり……余裕綽々だったのね……!」
息を整える間もなく、アリアは再び刀を構えた。
「……なら、まとめていくわよ。私を誰だと思ってるの?」
《櫻月》の刃が煌く。
「《千閃桜鳴》!」
刀を一閃。空気そのものが震えた。
彼女を囲んでいた十人ほどの敵が一瞬にして倒れる。
刃が触れてすらいないように見えるが、薄い風圧と共に刀気が飛翔していたのだ。
さらに追撃を仕掛けた。
「《落花連月》!」
刀を旋回させるように振り抜くと、アリアの周囲に半月形の刃が幾重にも生まれる。
そこに飛び込んだ敵が、次々と叩き落とされるように地面に沈んでいった。
桜の花が咲き、舞い、そして散るように。
彼女の斬撃は美しく、しかし容赦がなかった。
しかし、圧倒的な技量を持ちながらも、アリアの表情は険しい。
「……おかしい。いくら倒しても、数が減らない」
男が地上を見下ろして笑っていた。片手を広げ、指を鳴らす。
すると、敵たちの背中から同じ「C.O.Vの紋章」が浮かび上がり、瞬間、彼らの動きが一段と鋭くなる。
まるで「揺籠」が敵兵たちの能力を底上げしているかのようだった。
「面白い踊りだな。けど、お前の踊り場はそこまでだ」
男の声が、上空から雷鳴のように響いた。
アリアは《櫻月》を握りしめ、唇を噛んだ。
(まだ倒れるわけにはいかない。凛先輩が来るまで──会長が来るまで、耐えなきゃ)
再び構え直す。背筋を伸ばし、瞳はまだ燃えていた。
──彼女は、武芸者《姫崎アリア》。
《櫻月》と共に、戦場に咲く桜の化身。
幾度目かの斬撃が空を裂いた。
数秒前までアリアの目前にいた敵兵が、血を吐いて地に沈む。
──それでも、まだ数が減らない。
「はぁ……っ、はぁ……っ……!」
肩で息をするたび、肺に入ってくる空気が焼けるように痛む。
鼓動が荒く、全身の筋肉が悲鳴を上げていた。
(おかしい……身体が重い……!)
思考の速度が遅れてくる。
動きの先を読むどころか、目の前の動きにさえ、反応が鈍っていた。
──《櫻月》が震えている。
「……わかってるわよ、まだ倒れない。まだ……あたしは……!」
踏み込んだ瞬間、左足に鋭い痛みが走った。
その場に踏ん張ろうとしても、膝がわずかに崩れる。
(……傷……? いつの間に)
振り返れば、太腿の外側から滲む血。
集中しすぎて、被弾にすら気づかなかった。
アリアの目がかすかに揺れる。
(違う……こんなときに、集中を切らして……。あたしがやられたら、誰がこの場を──)
──バシュッ!
不意に飛んできた飛び道具が頬をかすめた。
鮮血が頬をつたう。鋭い痛み。だがそれすらも、感覚が薄れつつある。
「ッ……!」
ふらついた身体を《櫻月》で支える。
その重みすら、腕に鋭く響いた。
──それでも、踏みとどまる。
(まだ……来ないの……? 凛先輩……陽翔会長……)
心の中で呼びかけるように、仲間の名前を呟いた。
だがその目は決して、地に伏すことを許していなかった。
「まだ……終わってない……!」
そう叫んだ声は、震えていた。
声が裏返るのを必死に堪えながら、血に染まった手で再び《櫻月》を握る。
彼女は自分に言い聞かせるように、自らを叱咤するように、再び敵陣へと踏み込んでいった。
──桜の花は、まだ散っていない。
アリアの視界が揺れた。
焼け焦げた瓦礫の隙間から立ち昇る黒煙が、刺すように彼女の目を襲い、世界を灰色に塗りつぶしていく。焦土と化した地面には破壊された建物の残骸が広がり、空には戦火の赤が滲んでいた。
脚がもつれ、焦げた鉄骨に足を取られながらも、アリアは必死に後退する。
呼吸は荒く、肺を焼くような煙が容赦なく体内に入り込む。
血に濡れた身体を引きずるようにして体勢を立て直そうとするが、その動きにはもはや精密さも力強さも残っていなかった。
彼女の体力も、気力も、限界を遥かに超えている。
《櫻月》の白銀の刃にこびりついた鮮血は、敵兵のものだけではない。
アリア自身の腕や脇腹から流れ落ちた赤も混ざり、刀身は鈍い赤に濁っていた。
洋服は焼け焦げて裂け、肌に深い傷が刻まれている。痛覚すら、もはやどこかへ消えかけていた。
(ごめんなさい……陽翔会長、凛先輩、朝日……。もう少し、持たせたかったけど──)
不意に、耳が敵兵の足音を拾った。
金属の足音が瓦礫の上を踏みしめながら、着実にこちらへと迫ってくる。
その瞬間、アリアは悟った。
──間に合わない。
だが次の瞬間、世界が変わった。
「そこまでよ」
風が音を置き去りにして戦場を駆け抜けた。
目に見えない一閃が、敵兵の胸を貫き、吹き飛ばす。
空気を裂く鋭い圧が残響のように周囲に広がる。
爆煙と絶叫が混じる地獄のような廃墟に、突然、静謐な緊張が走った。まるで時間が一瞬止まったかのように。
その風を纏って現れたのは──瀬戸凛。
彼女は瓦礫の上に無音で着地した。
肩に掛けた弓が微かに揺れ、淡い青のリボンが風に踊る。
夜のように深い黒髪は高く束ねられ、背中で凛と揺れていた。
氷のように澄んだ瞳は、戦場を一瞬で把握する冷静さを湛えている。
彼女の周囲には、ただの武技では説明のつかない気配が漂っていた。
静かにして、絶対の領域に達した者──弓道の“極”を体現する少女。
「──貫け。」
凛が弦に指を掛けた瞬間、空気の密度が変わる。
まるで世界が彼女の矢を中心に再構築されるかのようだった。
矢は音もなく放たれ、一直線に飛び、敵兵の喉元を寸分の狂いもなく貫く。
それは射撃ではない、“静かなる断罪”だった。
だが敵は、なおも数で迫ってくる。
凛は弓を背に納め、腰に差した二振りの刀、二本で完全体である──「朧月」と「蒼嵐」へと手を伸ばす。
最初に抜かれた「朧月」は、月光のような淡い光を帯びていた。
霧に溶けるような刃は、しかし一撃のごとく鋭く、敵の急所を寸分の狂いなく穿つ。
刃が走るたびに血が舞い、それはまるで静寂の中の月下舞踏のよう。
「ここからは──私の使命だ」
続いて抜かれた「蒼嵐」は、嵐の名を冠するにふさわしく、風を巻き上げるような威風を放つ。
彼女が一振りするたびに空気が震え、斬撃が周囲の敵を一掃していく。
その舞は、まさしく芸術。
無駄を削ぎ落とした動きに宿る美しさは、見る者の心すら凍らせる。敵兵たちは次々と倒れていき、凛の周囲には一陣の嵐が吹き荒れていた。
アリアの胸に、かすかな光が灯る。
「……アリア遅くなってごめん。私たちが来るまでの時間をありがとう」
その言葉には、静かな誇りと、確かな信頼があった。
「凛先輩……!」
凛の矢が再び放たれる。
矢は敵陣中央を貫き、その周囲の敵兵たちは一瞬で凍りつくように動きを止め、そのまま氷像のように崩れ落ちた。
「……ここから先は、私がやる。アリアは下がって、後衛に琴葉がいるから回復に専念して」
「でも──!」
「私が来たってことは、陽翔も来る。だから安心して」
その言葉が終わるか否かの瞬間──
──ズドォンッ!!!
轟音が空気を切り裂き、地面が大きく揺れる。
戦場中央の建造物が爆音とともに崩れ落ち、瓦礫と煙が舞い上がる。
その中心に、雷鳴の如き衝撃とともに現れた影があった。
「──悪い、待たせたな」
黒の外套を翻しながら静かに現れたのは、鷲宮陽翔。
その手に握られているのは、白銀の神威を宿す神剣──《アヴァロン=セラフィム》。
彼が現れた瞬間、戦場の空気が変わる。
沈黙のような重圧が敵を飲み込み、ただその存在だけで敵の足をすくませる。
「……陽翔会長……」
アリアの唇が微かに震える。
彼の姿は、絶望の中に射し込む唯一の希望そのものだった。
陽翔は戦場を冷静に見渡し、アリアと凛へと視線を向ける。
「……よく持ちこたえてくれたな、アリア。凛、相変わらず素晴らしい的中だ」
その声は静かだが、そこに込められた信念と圧倒的な自信は、確かに“王の風格”を纏っていた。
敵は多い。だが、今この場の主導権は彼らが握っていた。
「さあ……C.O.V。この戦場の主役は、ここから俺たちだ」
陽翔の鋭い視線が、遠くビルの屋上で戦況を見下ろす一人の男──因縁の敵を捉える。
《アヴァロン=セラフィム》が静かに神威を解き放ち、その力が夜空を割り、戦場全体を包み込んでいく──
陽翔が降り立った瞬間、戦場の空気が変わったのは明らかだった。
まるで世界そのものが一瞬、彼の存在に膝を折ったかのように。
風が止まり、煙が凪ぎ、あれほど喧噪に包まれていた戦場が沈黙した。
そこに立つ彼──鷲宮 陽翔という存在が、それだけで“戦場の理”を塗り替えてしまうのだ。
黒の外套は月光を受けて揺れ、《アヴァロン=セラフィム》は彼の背後に王冠のように光を宿していた。
ただ立っているだけで、誰もが本能的に悟る。
この男に、刃を向けることは許されない
「……ようやく来たか、この世界の“王”というやら」
ビルの上で見下ろしていた男──C.O.Vの尖兵も、思わずわずかに口角を上げて言った。
その声には焦燥も侮蔑もなかった。
代わりにあったのは、理解だった。
これは、軽んじてはならない敵。
陽翔は、アリアと凛を確認すると、ゆっくりとその剣を掲げた。
《アヴァロン=セラフィム》──選ばれし者にしか応じぬ聖剣は、静かに輝きを増す。
「ここから、この男は俺が引き受ける。姫崎、凛。二人とも下がってくれ」
静かな声だった。だが、命令だった。
その言葉に誰も逆らえない。逆らう余地すら与えない。
絶対の自信と責任を背負った者だけが持つ、揺るぎない力。
凛が一歩引き、アリアも重傷の身体を支えながらうなずいた。
「周りは任せたよ」
「ええ、一人も近づかせないわ」
陽翔は小さく頷くと、真っ直ぐにビルの上の男を見上げた。
「C.O.Vの尖兵。貴様が、ここの“元凶”か」
「ああ、そうだ。“氷羽の王”……いや、“O.S.の第一席”、レガリアか。貴様に会うために、わざわざ手間をかけたんだ」
男が薄笑いを浮かべる。
陽翔の瞳は一切揺れなかった。
その一歩。
ただの一歩を踏み出しただけで、地面がきしむ。
周囲の空気が振動し、重圧が波のように周囲に広がる。
「その“覚悟”、今ここで量らせてもらおう。……王としての“裁き”を下す時だ」
次の瞬間。
陽翔の姿が、消えた。
「──ッ!? 早──」
男の言葉が終わる前に、《アヴァロン=セラフィム》の一閃が空を切った。
斬撃は物理の限界を超えて届き、ビルの屋上にいた男の防御を瞬時に破砕する。
炸裂する光。
それはまるで、神話に記された“聖域の裁き”──。
「……これが、王の剣だ」
陽翔の声は冷酷だった。
だがその背には、誰かを守り抜くという決意の炎が静かに灯っていた。
戦場に再び熱と動きが戻る。
だがその中心にいる陽翔は、まるで一柱の神のように、孤高にして絶対の存在だった。