休日といヤツ 中編
バイクを走らせておよそ三十分。
春の風がヘルメット越しに心地よく抜けていく。
街から郊外へ、少し開けた空が広がる頃――集合場所のカフェが視界に入った。
まだ約束の時間まで十分ほどあるはずなのに、すでに駐車場には二つの人影があった。
陽翔はスピードを落とし、バイクを滑らかに停車させる。
「よっと」雪乃の足元を確認しながら、彼女を先に降ろす。
「よ、相変わらず早いな」
軽く手を上げて挨拶すると、先に待っていたのは凛と琴葉だった。
「おはよう。私たちも、ついさっき来たばかりよ」
凛の口調はいつもより少し柔らかい。
学校での鋭い副部長の姿とは違う、休日ならではのリラックスした雰囲気があった。
「15分前には着いてました〜。凛先輩、迎えに来るの早すぎますよ……」
琴葉は少し頬を膨らませながらも、その表情は元気そのものだった。
結局、文句を言いながらも楽しそうなのが、彼女らしい。
「瀬戸さんの三十分前行動、ほんと尊敬しますよ」
雪乃もヘルメットを外して笑みを浮かべながら言葉を返す。
四人で軽く挨拶を交わしたあと、陽翔はカフェの駐車スペースへバイクを停めた。
既に停まっていたもう一台――凛のバイクに目をやる。
「……何回見てもかっけぇな」
黒と赤の塗装が美しく映えるスーパースポーツバイク。
精悍でいて艶やか、どこか凛の性格そのものを映し出しているようだった。
滑らかに削られたボディライン、しっかりとした車高、無駄のないカスタム。
「あれ、これは、お姉さん〜マフラーまた変えました?」
陽翔が少し近づいて尋ねると、凛は得意げに頷く。
「音がね、少し気になってたから。今回はバランス重視」
凛のそういうこだわりが、陽翔には嫌いじゃなかった。
機能性と美学を両立させたこの一台に、彼女の生き方がにじんでいる。
そんなふうに、日常の一瞬にさりげなく込められた「らしさ」があるこの時間が――陽翔にとっては、何より心地よかった。
駐車場にバイクを止め、ヘルメットを外していると、陽翔のスマホが震えた。
画面には「朝日」からのメッセージ。
「あ〜、まぁ、そうだよな」
陽翔はスマホの画面を見つめたまま、思わず苦笑した。
予想通りすぎて、突っ込みたくなる気持ちを抑えきれなかった。
「どうしました?」
隣で雪乃が、首を傾げながら訊ねる。
「朝日が、遅れるから先に入ってて、だってさ」
陽翔は画面を見せながら、簡潔に伝えた。
すると凛が小さくため息をつき、腕を組んだ。
「……あいつ、また遅刻か。今度はどっちだ?朝日が寝坊か、それともアリアに引き留められたか」
呆れたように言いながらも、どこか慣れた様子だ。
だが、誰も不機嫌になる様子はなかった。
むしろ自然な流れで受け止めている。集合時間はあくまで“目安”。
全員がそれぞれ多忙な日々を送っているため、多少の前後は当たり前だった。
「じゃあ今日は朝日の奢りだな」
陽翔がにやりと笑いながら、すぐにスマホで一言メッセージを送る。
送信音が鳴るのと同時に、琴葉がくすくすと笑った。
「ほんと、いつも通りですね」
「この“いつも通り”が一番平和ってことよ」
凛の返しに、みんなが静かに頷いた。
駐車場から店の入口へと歩き出す四人。
ガラス扉を押し開けると、木の温もりが心地よい喫茶店の空間が迎えてくれる。
柔らかな陽射しが差し込む。
窓際の席に向かいながら、陽翔たちは自然と笑みを交わし、テーブルに着いた。
朝日達はまだ来ない――けれど、それすらも、特別な一日の一部だった。
この店は、白鷺琴葉の実姉が夫婦で営んでいる。
学園の近くということもあり、生徒会メンバーにとっては馴染みの場所だ。
静かで居心地がよく、休日に集まるにはちょうどいい隠れ家のような空間だった。
入ってすぐ、レジ奥に立っていた姉夫婦に四人でぺこりと頭を下げる。
「こんにちは〜、今日もお願いします!」
「いつもありがとうございます」
それぞれに挨拶を交わす中、琴葉だけが少し立ち止まり、カウンター越しに姉と話し始めた。
顔を見合わせると、姉妹の間に流れる空気がどこかやわらかく、親しみと信頼に満ちているのがわかる。
しばらくして琴葉が笑顔で席に戻ってきた。手には小ぶりなプレートに乗ったプリンがいくつか。
「お姉ちゃんがこのプリン、サービスしてくれました!」
ぱっと嬉しそうに声を弾ませながら、みんなの前に一皿ずつ配っていく。
ガラスの器には手作りのカスタードプリンが揺れており、上には香ばしいカラメルソースが美しくかかっている。ふんわりと漂う甘い香りに、思わず雪乃が小さく歓声を上げた。
「うわぁ〜、美味しそうですね!」
「やっぱ、ここのプリンは別格だな」
陽翔も思わず笑みをこぼし
凛は「甘いの苦手なんだけど、ここのだけは食べられるのよね」
と、照れ隠しのように呟いた。
琴葉は微笑みながら席に腰を下ろし
「お姉ちゃん、今は厨房に戻っちゃったけど、また顔出すって言ってたよ」と静かに付け加えた。
その言葉に皆が軽く頷き、テーブルにはふわりと穏やかな空気が広がっていた。
甘くて優しいプリンの味わいが、その空間にいっそうのぬくもりを添えていた。
「このプリンが食えない朝日達は、残念だな〜」
陽翔がフォークを手に、カラメルの染みた表面をそっとすくいながら言った。
言葉は軽く、けれどどこか悪戯っぽく笑みを浮かべている。
目の前には、滑らかでとろけるような食感の自家製プリン。
香ばしいカラメルの香りと優しい甘さが、口の中いっぱいに広がる。
「ほんと、こんな日に遅れてくるなんて勿体無いですね」
雪乃も楽しそうに同意しながら、スプーンを口元に運んだ。
小さな幸福を味わうたび、表情がふわりとほころぶ。
すると凛が、ふと思いついたように顔を上げた。
「これ、写真撮って送ろうよ。遅れてくる罰として」
ぱしゃっと指でスマホのカメラを構える仕草。
表情には明らかに愉快そうな色が浮かんでいる。
陽翔と雪乃が顔を見合わせ、思わず笑った。
「いいね、それ。あいつらの反応が目に浮かぶ」
琴葉も小さく吹き出しながら
「どうせアリアちゃんと一緒にいちゃいちゃしてるんでしょし」
と呆れたように呟いた。
「で、どのアングルが映えるかな」
凛がプレートを少し動かし、窓から差し込む柔らかな光を活かして何枚かシャッターを切った。
背景には温かみのある木目と、みんなの笑顔が自然に入り込む。
「いいの撮れた。『あ〜、美味しかった!朝日たち早くきなよ〜』って送っておくね〜」
凛がにやりと笑いながら、スマホを操作する。
その様子はまるで、昔からのいたずら好きな幼馴染のままだ。
「仲いいですね」
琴葉がそんなことをぼそっと言うと、凛は一瞬だけ視線を逸らしてから肩をすくめた。
「昔っから一緒だからね、今更仲悪くなる方が無理ってだけ」
その言葉に誰も何も言わなかった。
ただ、四人の間に穏やかな静寂と、同じ時間を過ごす心地よさが流れていた。
木漏れ日のような笑い声と、カラメルの甘さが、春の午後に溶け込んでいく。
四人はそれぞれの飲み物を片手に、時折笑い声を漏らしながら、久しぶりの休日の静けさに身を任せていた。
そんな中、ふと凛がカップを置き、少しトーンを落とした声で口を開いた。
「そういえば――今朝、警備科のシステムが誰かに侵入されたらしいよ。風紀の子が言ってた」
その言葉に、場の空気が一瞬だけ張り詰めた。
陽翔はプリンをすくっていたフォークを止め、片方の眉をわずかに持ち上げた。
「……警備科のシステムが?あの厳重なやつが、侵入されたって?」
表情は柔らかなままだったが、目の奥には鋭い光が宿っていた。
生徒会長として、氷羽学園全体の動きやトラブルは常に掌握しているはずだ。
しかし警備や風紀に関する案件は、まず最初に風紀委員の手に渡り、その後報告として陽翔に届く形式になっている。
「どのシステムだ?」と、彼は落ち着いた声で問いかける。
凛は頷きながら、スマホを軽く操作して確認し、続けた。
「どうやら、南棟の地下にある研究室エリア。そこのAI管理システムが破壊されたみたい。今は完全にオフライン状態で、人力で管理してるって。朝から先生たちがバタバタしてたの、あれが理由だったみたい」
その声には、ただの噂話ではない確かな緊張があった。
彼女自身が警備科に所属しているため、送られてきた公式の連絡を簡潔に、しかし正確に伝えていた。
「南棟の地下……あそこ、そんなに簡単に入れる場所じゃないだろ」
陽翔の言葉には、明確な疑念がにじんでいた。
あのエリアは学園でも高度な機密情報を扱う一帯であり、生徒であっても自由に立ち入ることはできない。
しかもAIによるセキュリティが施されているはずの場所だ。
琴葉が眉をひそめる。
「外部からの侵入者……じゃないですよね?」
雪乃も静かにカップをテーブルに置き、少し考えるような目で兄を見た。
「お兄様、これ……学校側の報告が来るのは、明日になりますよね?」
「そうだな。報告書が正式に上がるまであと一日かかる。こっちから動くのは、それを確認してからだ」
陽翔の声には、冷静ながらも内に炎を孕んだ決意があった。
何かが、動いている――彼の中で、その確信がゆっくりと形を成し始めていた。
そして誰もが、目の前のプリンの甘さとは裏腹に、近づきつつある不穏な気配を感じ取っていた。
空気に少しだけ緊張が走った。
先ほどまで甘く穏やかだった喫茶店のテーブルに、異能学園ならではの現実が、静かに差し込んでくる。
陽翔は背もたれから身を起こし、両肘をテーブルに置いたまま腕を組み、思考に没入するように目を細めた。
「どちらにしろ、外部からの侵入だとしたら……それはもう、国家案件だ」
低く抑えた声が、周囲の雑音に消されることなくテーブルに落ちた。
「もし在校生が関与していたなら、即座に見つけ出さないといけない。が、一番厄介で……一番あり得るのは、“外部の協力者”が、校内に存在するってパターンだな」
その言葉に、凛が小さく息を呑んだ。
確かにそれは最も現実味があり、かつ危険なシナリオだった。
「協力者……」
琴葉が眉を寄せ、視線を窓の外に投げる。
その瞳には、ただの警備違反では済まされない事態を予感する鋭さがあった。
すると、その静寂を切り裂くように、雪乃がカップを静かに置き、わずかに瞳を細めた。
「目的は、おそらく……氷羽の研究データ、およびサンプル、ですね」
その言葉には確信と警戒が混じっていた。冷静だが、どこかひんやりとした鋭さを帯びた声。
「学園が保持している研究データ……特に南棟地下研究区画には、異能に関する機密情報が数多く保管されています。人工異能因子、過去の被験体記録、他国から提供された参考資料、そして――“純血異能者”に関するサンプルも」
その最後の一言に、全員が一瞬だけ言葉を失った。
“純血異能者”――それはこの世界において希少で、国家戦力にも匹敵する存在。
そのサンプルが存在するということは、氷羽学園がいかに国家的にも重要な施設であるかを物語っていた。
陽翔は深く息を吐いた。
「……それが狙いなら、単なるハッキングじゃ済まされない。現実に、動き出してるやつがいるってことか」
彼の視線はどこか遠く、思索の先を見つめていた。その瞳には、生徒会長としての責任と、一人の鷲宮としての覚悟が静かに宿っていた。
「俺たちも……そろそろ、本格的に動く時かもしれないな」
そう呟いた陽翔の言葉に、誰もが無言で頷いた。
次に起こるのは、ただの「事件」ではない。
氷羽学園を巡る、深く、そして危険な陰謀の幕開けだった。
陽翔は再び背もたれに寄りかかるでもなく、視線を宙に投げるでもなく、まっすぐ前を見据えていた。瞳の奥が静かに、しかし確かに冷たく光る。
「……何も起きないのが一番だが、起きてしまったことは――解決する。それが俺たち生徒会の役目だ」
その言葉には、揺るがぬ意志と責任が込められていた。
誰に言うでもなく、自分に言い聞かせるように。
その声に、凛も琴葉も、そして雪乃も言葉を挟むことはなかった。
静寂が少し流れたあと、陽翔はふっと鼻で笑った。
「羽冠戦前に、仕事増やしやがってよ……」
低く吐き捨てるようなその声は、苛立ちよりも覚悟の濃さを含んでいた。
普段の柔和で穏やかな雰囲気とは打って変わって、今の陽翔の顔には鋭利な気配が漂っている。
その瞳はまるで氷の刃のように冷たく、的確に核心を射抜く眼差し――
生徒会長ではなく、“鷲宮陽翔”という存在の根底にある冷酷な側面が、ひとときだけ顔を覗かせていた。
彼はただの調整役でも、守りの人間でもない。
必要ならば、敵を見極め、排除する覚悟を持った者。
生徒会長として――
そして、“鷲宮”の名を背負う者として。
テーブルの上にはまだ温かい紅茶と空になったプリンの皿。
しかしその空気はすでに、ただの休日の雰囲気ではなかった。
静かに、確かに。
陽翔たちの戦いの幕が、再び上がろうとしていた。
その瞬間だった。
カラン――。
柔らかく鳴る店のドアの鈴が、静まりかけた空気を切り裂いた。
振り返ると、そこには少し息を切らせた朝日がいた。
額にわずかに汗を浮かべながら、襟元を軽く引っ張っている。
普段の余裕ある笑みは控えめで、どこか焦りの色が滲んでいた。
「すまん、遅れた……アリアに、緊急要請が入った」
言葉と同時に扉の近くで立ち止まり、肩で息をしながら周囲を見渡す。
その声には軽さがなく、どこか張り詰めたものが混じっていた。
店内に漂っていた和やかな空気が、ほんの一瞬で変わる。
誰も声を出さないまま、自然と視線が陽翔へと集まった。
陽翔はただ黙って、目を細めて朝日を見た。
凛が口を開くより早く、雪乃の手がテーブルの下で膝の上に置かれた。
指先にわずかな緊張が走っているのがわかる。
「アリアが、今?」
凛が低く問いかけた。
朝日はこくりと頷いた。
「偶然とは思えない。おそらく狙っているな」
その一言に、場の空気がぴたりと凍りついた。
ついさっきまで、冗談交じりにプリンを褒め合っていた時間は、まるで幻のようだった。
陽翔はゆっくりと背もたれから身体を起こし、テーブルに肘をついて指を組む。
「不穏な気配は……やはり、偶然じゃなかったか」
冷静に、しかしその目には鋭さが宿っていた。
鷲宮陽翔――“次期当主候補”としての顔が、またひとつ深く影を落とす。
戦いは、既に始まっていた。
それぞれの場所で、それぞれの形で。
そして、彼らがそれに気づくのは――まだ、この始まりにすぎなかった。
陽翔の目が静かに鋭く光った。
状況が動いた。
今ここで判断を誤れば、取り返しのつかない事態になる。
そんな緊張が、彼の言葉の端々から滲み出ていた。
「白鷺、ここ。今だけ貸切にできないか聞いてもらえないかな」
穏やかさを保ちながらも、どこか重みのある声で琴葉に告げる。
白鷺琴葉はその一言に反応し、すぐに席を立って店の奥へと小走りで消えていった。
彼女の表情には、覚悟と責任の色が宿っていた。
これは、ただの友人同士の集まりではない――そう理解している目だった。
陽翔はすぐさま、朝日に視線を移す。
「朝日、出番だ。氷羽学園のメインシステムに繋げろ。状況の全容を把握する」
「了解」
朝日は無駄な動きも言い訳もせず、鞄から薄型の端末を取り出し、素早く操作を開始する。
その目はいつもの軽薄さを脱ぎ捨て、専門家としての鋭さを纏っていた。
「凛は警備科の管轄。そして氷羽の風紀委員長に報告書と現場状況を、直ちに連絡を取ってもらいたい」
「任せて」
凛はすでにスマホを手に取り、連絡を始めていた。
その動作に一切の無駄はない。
警備科、そして風紀の誇りを背負う彼女にとって、こうした事態は想定の範囲内だ。顔を上げたその表情は、誰よりも冷静だった。
「雪乃は日本支部本局に連絡を。姫崎に緊急要請を出したということは、何かを知っているはずだ」
「はい、すぐに確認します」
雪乃もまた即座に反応し、静かに端末を開く。
落ち着いた所作の中に、彼女特有の精密さが光る。
鷲宮の血筋として、そして氷羽学園の生徒会副会長として鍛えられた思考と判断が、無駄なく次の行動へと繋がっていく。
それはまるで、完璧な歯車が嚙み合うような連携だった。
一切の混乱も、無駄な動揺もなく。
誰一人、陽翔の言葉に疑問を差し挟むことはなかった。
むしろ、その指示を受けることで自分たちの立ち位置と使命を明確に理解し、動き出していた。
その様子はまるで――若き王の言葉に従い、静かに剣を抜く騎士たちのようだった。
鷲宮陽翔。
氷羽学園生徒会長、次期当主候補。
その存在の重みが、まさに今、空間そのものに圧をかけていた。
これは“命令”ではない。
“導き”だ。
彼が一言を発すれば、仲間たちは迷うことなく動く。
この信頼と統率力こそが、鷲宮家が「最強」と呼ばれる所以の一つなのかもしれない。
――そして、戦いの火蓋は今、静かに落とされた。
「まりな......」