休日といヤツ 前編
「素晴らしき才能の持ち主が、こんなところで失われるわけにはいかぬなぁ──」
耳の奥で、まるで深く沈んだ鐘の音のように重く響くその声。
まただ。陽翔はすぐに悟った。これはあの日の夢だ。
冷たく湿った空気が肌をなぞる。
視界は霞んでいて、色彩はどこかセピアがかっていた。
自分の手を見下ろすと、泥と血に塗れている。
足元には崩れ落ちた瓦礫と、かすかに揺れる煙。
そして──自分を抱きかかえるようにして覆いかぶさる、大人の腕。
三年前。まだ、何も知らなかった頃。
「……お前には、生きて証明してもらわねばならぬ」
男の声は穏やかで、どこか皮肉げでもあった。
けれど確かに、あの瞬間、自分は救われたのだ。
夢だとわかっている。けれど、夢の中の身体は言うことを聞かない。
あの時の恐怖も、混乱も、無力さも、焼きつくように記憶の底から蘇る。
──苦しい。なのに、逃げられない。
再びあの記憶に囚われるたび、陽翔は思う。
(なぜ、自分だけが生き残ったのか)
けれどその問いに答える者は夢には現れない。
ただ、あの声だけが、残響のように脳裏にこびりついて離れない。
「……結局、まだ終わってないんだな」
静かに目を伏せ、夢の中の陽翔はその運命を黙って受け入れていた。
過去も、使命も、血に染まった道の上にいる自分自身も。
やがて夢は、夜の底に溶けるように静かに色を失っていった──。
「……ると、はると、また水かけるよ?」
どこか甘く、けれど芯のある声が、現実と夢の境界を優しく突き破った。
低く重たい暗闇の中に、ぽつりと差し込む光のように。
まるで冷えた掌にふれた、春の陽だまりのように。
「……雪乃、か……んん……」
ぼそりと漏れた言葉は、まだ夢の底に引きずられたままだった。
頭の奥が重く、視界がぼやける。けれど、確かに聞き覚えのある声と気配が、今の自分を引き戻そうとしていた。
「んもぅ、いつまで寝てるの……?」
すぐそばで、誰かがしゃがみ込んでいる。
柔らかく揺れる髪の影、微かに香る石鹸の匂い。そして、そっと布団をめくる冷たい指先。
「ほんとに水かけるよ……」
少しだけ拗ねたような、でもどこか安心しているような声音。
陽翔はようやく目をうっすらと開ける。
見慣れた天井、薄暗い室内、そして――頬に光を集めた、妹・雪乃の姿。
夢の余韻はまだ脳裏に残っていて、心の奥に鈍い痛みを引きずっていた。だが、その痛みすら、今はどこか遠く感じられた。
「……お前さ、水かけるって……毎回本当にやるからな……」
寝起きの低い声でそう呟くと、雪乃は「ふふ」と声を立てて笑った。
「だって、はると、なかなか起きないんだもん」
夜明け前の淡い光が、彼女の横顔をやさしく照らしていた。
夢では聞こえなかった、確かな現実の温もりがそこにあった。
夢の影を引きずりながらも、陽翔は静かに目を閉じ、もう一度だけ深く息をついた。
陽翔はベッドに身を預けたまま、ぼんやりと天井を見つめる。
いつもと変わらない朝。変わらない、自分の部屋。
変わらない――雪乃の声。
「毎日、ありがとな」
ぽつりと漏らした言葉に、返事は返ってこなかった。
雪乃はもうキッチンへ向かっている。
だが、彼の言葉に答えるならば、それは「習慣だから」などという単純な理由ではない。
――陽翔は、知らない。
いや、気づこうとしていないだけかもしれない。
なぜ雪乃が毎朝欠かさず、自分の部屋に来てくれるのか。
それが単なる兄妹の仲の良さや、家のルールから来ているわけではないことを。
三年前。
あの出来事のあと、陽翔は二ヶ月間、目を覚まさなかった。
意識のないまま、ただ病院の白い天井を見上げる姿で、静かに時が流れていた。
――あの間、雪乃はずっとそばにいた。
学校が終われば病室に通い、授業中ですら落ち着かないこともあった。
ただ、目を覚ましてほしかった。ただ、声を聞かせたかった。
ようやく目覚めたとき、安堵で泣き崩れたのは母ではなく、雪乃だった。
それからだ。
彼が眠る間、時々、呻き声を漏らすようになったのは。
静かに名を呼ぶ声、何かにうなされるような低いうなり。
そして、時にはどれだけ呼んでも起きてこない、そんな朝もあった。
――だから、雪乃は来る。
毎朝、必ず。
起きてこない日は、そっと揺らす。
揺すってもだめなら、声をかける。
それでもだめなら、最終手段――「水をかける」。
それは、ただのいたずらなんかじゃない。
彼の無事を、その朝の呼吸とぬくもりを、雪乃なりに確認しているのだ。
だが陽翔は、そのことを知らない。
いや、たぶん――雪乃は、知られなくていいと思っている。
あの出来事は、雪乃の中で今も終わっていない。
昏睡状態に陥った兄が、ただ静かに呼吸しているだけの姿を、毎日見続けた。
最初の一週間は夢の中にいるようだった。
二週間目には、体重が落ち始めた。
一ヶ月経った頃には、ただ「何もできない」自分への怒りに変わっていた。
だから――。
兄が戻ってきたその日から、雪乃は決めていた。
「もう、二度と離さない」
彼が目覚めてからも、夜中に呻くたび、朝に起きられない日があるたび、不安が胸を締めつけた。
陽翔にとっての「いつも通りの朝」。
それが何よりの幸せであることを、誰よりも理解しているから。
ただ一つ。
この何気ない日常が、彼女にとってどれほど大切で、どれほど壊れやすいものだと思っているか――
今の陽翔には、まだ気づけない。
「……さて、準備するか」
今日もまた、何気ない一日が始まる。
けれどそれは、静かに支えられた奇跡の積み重ねだった。
リビングのドアを開けると、静まり返った部屋にほんのりと温かな匂いが満ちていた。
テーブルの上にはきれいに並べられた朝食、そしてその向かい側に座っていたのは、雪乃ただ一人だった。
彼女は兄の気配に気づいて、ふと顔を上げ、柔らかく微笑む。
「紅茶でいい?」
「うん、ありがとう。あれ、母さんたちは?」
椅子に腰を下ろしながら、陽翔は用意されていたトーストとスクランブルエッグを見て、少し眉を上げた。
どこか懐かしい味の予感がした。彼女が作ってくれたものだとすぐにわかった。
「お母さんたちは、今日はお姉ちゃんのところに教授しに行ってるよ。碧月は神奈川、出動免許の昇格試験だって」
雪乃は手元のカップを手に取りながら、穏やかに答える。
紅茶の湯気がふわりと立ち昇り、リビングの朝に小さな静けさを与えていた。
「……ああ、姉ちゃんのとこってことは、大学の方か」
「うん。今週は二年生向けの特殊戦術の講義らしいよ。お父さんが実技、母さんが理論の方を担当するって」
そう言いながら、雪乃はフォークを軽く動かす。
兄妹で囲む朝の食卓は、他愛のない会話が心地よく、どこか懐かしさすら感じさせた。
陽翔は、ふと目線を落としながら呟いた。
「……前線を離れたって言っても、あの二人、相変わらず現場感覚抜けてねぇよな」
「そうだね。でも、今は育てる側として全力を尽くしてる。姉さんも、すごく感謝してたよ」
雪乃の言葉には、誇らしさと敬意がにじんでいた。
かつて最前線で名を馳せた両親は、今では氷羽学園の大学部門や外部機関で、若き才能を育てる役目を担っている。
「碧月は……あれか、本局?」
「うん。今日は神奈川県の本局。朔真くんが担当試験官なんだって。昨日、こっそり応援のメッセージ送ってた」
陽翔は苦笑する。
「そりゃ、試験としては一番厳しいパターンだな……兄さん厳しいし」
「……でも、それだけの価値がある試験。ランクA以上の武芸者は、あの場でしか昇格できないから」
雪乃はどこか遠くを見るように言った。
そう――ランクB以下の試験であれば、各都道府県の支部局や、氷羽学園内の施設で受験可能だ。
だが、ランクA以上――それは国家が直接関与する、危険と責任の重みを持った資格。
陽翔自身も数年前にその場で試験を受け、ランクAを勝ち取った。
その厳しさも、空気の張り詰め方も、未だに体が覚えている。
朝食を終えたあとも、二人の時間は静かに流れていった。
皿を片付け、洗い物を分担しながら、ほんの少しの雑談を交わす。
洗い終わった食器を雪乃が布巾で丁寧に拭き取り、陽翔は棚に戻す。
一段落すると、二人はリビングのソファーへと移動した。
並んで腰を下ろし、深く息を吐くように背もたれに体を預ける。
テレビをつけると、朝の情報番組が軽快な音楽とともに流れ出した。
天気予報に切り替わるタイミングで、雪乃が手にしたティーカップを口元に運ぶ。
「今日、何時に出るの?」
ふわりとした紅茶の香りに包まれながら、陽翔が問いかける。
雪乃はスマホを手に取り、通知を指先で滑らせて確認した。
「さっき、凛からメッセージが来てた、
『12時にいつものところ集合。琴葉は私が拾っていく』ってさ。だから……11時15分に家を出れば、10分前には着けるかな」
「おっけー。うん、いつも通りって感じだね」
雪乃が軽くうなずき、紅茶をもう一口。
陽翔も小さく笑みをこぼす。
「この前、バイク洗っといてよかったわ」
その一言に、雪乃は目を細めた。
陽翔の数少ない趣味のひとつ、それがバイクに乗ることだった。
彼にとっては日常の延長でもあり、非日常への入り口でもある。
休日になれば、天気の良い日を見計らってはバイク仲間である凛や朝日と連れ立って、遠くまで風を切って走りに行く。
もちろんそれは、生徒会の仲間内での“決まりごと”のようなものになっていた。
集合の時は必ず、陽翔は雪乃を、凛は琴葉を、そして朝日は姫崎アリアをそれぞれ後ろに乗せて現れるのだ。
雪乃にとってそのひとときは、兄の背中に触れながら揺れる景色と風を感じる、特別な時間。
陽翔は多くを語らないが、バイクを手入れするときだけは、無意識に表情が緩んでいた。
チェーンの磨きやミラーの角度、細かいところまで手を抜かない。
彼の無骨な手が、どこか愛おしげに機械を扱うのを、雪乃は何度も見てきた。
「今日は琴葉ちゃんも来るし、朝日くんは……きっとまた、ちょっと遅れてくるんだろうね」
「まあ、アリアの髪型待ちだろ、あいつは。前もそれで遅れてきてたし」
二人は顔を見合わせて、ふっと笑った。
テレビの音はもう耳に入っていない。
今ここにあるのは、何気ない休日の時間と、かけがえのない兄妹の空気だった。
ふと、テレビから聞き慣れた声がした。
ニュース番組の特集映像に切り替わるタイミングだった。
ハイライトのように差し込まれた短い映像の中で、鋭く叫ぶような声が響く。
「周囲の排除は完了、あとは――全てあたしがやってやる!」
その瞬間、陽翔と雪乃の表情が同時に引きつった。
「……げっ、姉ちゃんじゃん」
陽翔が思わずソファーの背もたれにのけぞり、苦い顔をした。
映っていたのは、姉・鷲宮綾音の姿だった。制服の上から装備を着込み、長い明るい茶髪を束ねて、眼光鋭く敵性体に斬り込んでいく。
「これ……この前の出動要請の時の映像じゃん。あの時姉ちゃん、相当イライラしてて、一人で全部片付けたって……」
画面の中では、他の部隊員が呆然と見守る中、綾音が圧倒的な手際と力で任務を終えていく。
その姿はまさに"完璧"で、"苛烈"で、"姉らしさ全開"だった。
「……あぁ……これは……」
雪乃がティーカップをそっとソーサーに戻し、小さく息を吐く。
「この後、また……たくさん荷物が届くね」
二人とも、一斉に遠くを見つめるような目になった。
その表情は、言葉にできない“絶望”を静かに物語っていた。
というのも――
綾音は現在、氷羽学園の大学に進学しており、千葉の学生寮で暮らしている。
だが、ファンや関係者から送られてくる数々の贈り物、応援の手紙、差し入れの食品、記念の花束――
そのすべてが、今も実家であるこの家に届くのだ。
彼女が住んでいないにも関わらず、である。
そして問題はそれだけではない。
兄・朔真の分まで、同様にここに届く。
陽翔は頭を抱えるようにして呻いた。
「また……宅配ボックスが埋まって、玄関前にまで積まれるやつだ……」
二人にとっては、これが“特別ではない日常”。
優秀すぎる家族を持つというのは、誇らしい半面、どこか切ない現実でもある。
テレビの中で綾音が最後に映った瞬間、画面の下に大きく名前と肩書きが表示された。
『氷羽学園大学 武芸科首席・国家特級武芸者 鷲宮綾音』
「現場に現れた最速の剣――圧倒的な一刀で任務完了」
それを見て、陽翔と雪乃は同時にうなだれた。
「……お姉ちゃん、かっこよすぎるのも罪だと思うんだよな……」
「……うん、兄さんにも言えるけどね」
二人の溜息が、リビングに静かに落ちた。
紅茶の香りだけが、わずかにその空気を和らげていた。
「とりあえず、準備しようか。」
陽翔のその一言に、雪乃は微笑みながら頷いた。
「そうだね。」
時計を見ると、まだ集合時間には余裕がある。
けれど陽翔は、妹に焦らず、好きなだけ時間をかけて支度してほしかった。
彼女の性格を誰よりもよく知っているからこそ、そうしてあげたかった。
「じゃ、俺ちょっとバイク前に持ってくるよ。」
立ち上がりながら声をかける陽翔に、雪乃は少しだけ首を傾げたが、すぐに何かを思い出したように小さく笑う。
「あ、雪乃のヘルメット持ってるからな。」
言い添えて、陽翔は手に持っていたスマホをポケットにしまい、玄関へと向かった。
雪乃と一緒に出かけることは多く、そのために彼女専用のヘルメットも用意している。
サイズも、デザインも、雪乃の雰囲気に合うように選んだ、陽翔なりの配慮だった。
家のガレージに出ると、澄んだ春の空気が顔を撫でた。
陽翔はゆっくりとガレージのシャッターを開ける。
そこには艶やかな黒とメタリックグレーのボディが光を反射する、陽翔愛用のバイクが鎮座していた。
その佇まいは、まるで獣が静かに眠っているような、精悍な美しさがあった。
陽翔は慣れた手つきでバイクのカバーを外し、エンジンの状態を軽く確認してから、ハンドルを握って静かに押し出す。
ガレージの傍らにあるゆるやかなスロープを使い、道路へ出やすい位置までバイクを移動させた。
エンジンをかけるのはまだ先だ。
彼の動きは静かで、しかしどこか整然としていた。日々の訓練と経験が、細部の所作にまで染みついている。
そして、バイクのサイドバッグから雪乃のヘルメットを取り出した。
白地に淡いブルーのラインが入ったヘルメットは、彼女の髪色や雰囲気に合わせて選ばれたものだった。
どこか柔らかくて、品のあるそのデザインは、まさに雪乃専用と呼ぶにふさわしい。
それを片手に持ち上げ、陽翔はふと自宅の方へ目をやった。
「……さて、今日も安全運転でいくか。」
独りごちるように呟きながら、陽翔は再び家へと戻っていった。
彼の背中には、穏やかで、しかしどこか守るべきものへの強い責任感がにじんでいた。
雪乃の支度が終わるまで、陽翔はソファーに深く腰掛け、テレビをなんとなく眺めながら時間を潰していた。
番組の内容はほとんど頭に入ってこない。ただ画面の光と音が部屋の静けさを埋めていた。
時計の針が予定していた時間に近づいていくのを確認すると、陽翔はゆっくりと腰を上げた。
「そろそろ声かけるか……」
そう呟きながら立ち上がった、その瞬間――
「お待たせ、はると。」
声とともに、部屋のドアが静かに開いた。
思わず、陽翔は息を飲んだ。
雪乃がそこに立っていた。
優しくも清潔感のある春らしいコーディネート。
淡いグレーに白を合わせたシャツとジャケット、そしてアースカラーのパンツスタイル。
動きやすさと可憐さのバランスを見事に取った装いは、まさに“彼女らしさ”が表れていた。
髪はすっきりと一つに束ねられ、バイクに乗る準備は万端だ。
ほんのりとした血色感を足す程度のナチュラルメイクが、雪乃の涼やかな美しさを一層引き立てていた。
綺麗だった。
まるで一枚の絵のようだった。
「新しい服、似合ってるね。……かわいいよ。」
自然と、言葉がこぼれた。
心の中から湧き上がった素直な本音だった。
雪乃は一瞬目を見開き、それから照れくさそうに口元を緩める。
「……ありがと。嬉しいよ。」
控えめに、けれど確かにその声は弾んでいた。
頬に浮かんだ微かな紅潮が、気持ちを雄弁に語っていた。
陽翔はバイクの傍らに置いてあったプロテクターを手に取り、無言でそれを雪乃の肩にそっとかけた。
雪乃も心得たように、黙って身を任せていた。
胸元、背中と一つ一つ丁寧に装着していく。装備というより、包むような動作だった。
異能のあるこの世界――
そして、最強と呼ばれるこの鷲宮家の人間たちにとって、たかが事故で怪我をすることなど、ほとんどありえない。
それでも。
それでも、陽翔は、雪乃を守りたかった。
例え確率が限りなくゼロに近くても――
「よし。これで完璧。」
静かにそう呟いて、陽翔はヘルメットを彼女に手渡す。
雪乃はそれを受け取ると、ほんの少し、嬉しそうに微笑んだ。
兄妹として、仲間として――
いや、それ以上の特別な何かが、そこには確かに流れていた。
「時間ぴったり、行こうか。」
陽翔が軽く腕時計を見て、穏やかな声で告げる。
玄関の扉を開けると、外の空気がふわりと入り込んできた。
春の日差しは柔らかく、まだ少し肌寒い空気に光の温もりが心地よく重なる。
雪乃が軽やかな足取りで並んでくる。
家を一歩出た瞬間、彼女の雰囲気はわずかに変わった。
まるでスイッチが入るように、その立ち居振る舞いに“凛とした気品”が加わる。
「お兄様、楽しみですね。」
ぴたりとした丁寧な敬語。
背筋を伸ばして陽翔を見上げるその姿は、学内で見せる“外の顔”の雪乃だった。
しかし陽翔はその変化すら、もう慣れたものだった。
ふ、と小さく笑みを浮かべる。
「だな。」
たった二文字。
けれどその中に、全ての信頼と優しさが込められていた。
ガレージに向かうと、すでに準備されたバイクが陽翔の到着を待っていたかのように静かに佇んでいた。
漆黒の車体に光が反射し、鋭い曲線が存在感を放つ。
雪乃がヘルメットを被り、慣れた動作で陽翔の背後に跨る。
その手がそっと陽翔の腰に回された瞬間――
陽翔の瞳が、ほんのわずかに柔らかくなる。
「行くぞ。」
低く、静かに呟いた声が合図となり、エンジンが目を覚ました。
――ヴォン、と低く震えるような音。
バイクがゆっくりと動き出し、門を抜けて道路へと滑るように走り出す。
風が髪を撫で、景色が流れる。
エンジンの振動と雪乃の体温を背に感じながら、陽翔はアクセルを調整する。
彼にとってこの時間は、ほんの少しだけ世界が静かになる貴重なひとときだった。
そして何より、背中に確かに感じる“雪乃”という存在が、心を安らげる。
雪乃もまた、何も言わなかった。
ただ黙って、少しだけ強く陽翔にしがみついていた。
その姿から、どこか安心しているような、嬉しそうな気配が伝わってくる。
二人の間には、言葉以上に通じ合うものがあった。
今日もきっと、特別な一日になる――
そんな予感を乗せて、バイクは春の街を駆け抜けていった。