『我が王は、真実の愛のため名誉を捨てた』
よろしくお願い致します。
*宮宰は側近、宰相だと思って頂けたら。
「独身王にして十二名の庶子」
「好色王」
他国だけでなく国民すら揶揄した男。
だが私は生涯かけて心から敬い仕えよう。
一つの愛のために己れの名誉を捨てた男を。
ジャン・アングレーム
**********
南フランク王国、宮宰ジャン・アングレームの執務室の扉を勢いよく開けた王太子ヴィクトルは金髪の前髪を掻き上げた。
碧眼と真っ直ぐな鼻梁を持つ王太子は眉間に皺を寄せても絵になる美青年だ。
「ジャン! ふさわしい婚約破棄の筋書きを見つけよ」
「殿下、何かあったのですね。半年後にマリー様とご結婚なさるというのに……」
長髪黒髪に紫の瞳を持つジャンは、穏やかな口調で五歳年下の王太子ヴィクトルをなだめた。
王太子はノルマンディー公アンリの長女マリー・ヴァロアと婚約している。マリーは波打つ黄金色の髪に雪山のように白い肌、翠色の瞳は清流のように美しい姫だ。ノルマンディー公待望の女児は産まれる前から王太子の婚約者になることが決まっていた。
「マリーが学園で騒ぎを起こしてな……婚約破棄を望むので引き留め、表向き謹慎を命じた」
「あの聡明なマリー様が? 何があったのです?」
***
学園では貴族の子に魔法も教える。マリーはある事情で家庭教育後の編入だったが、周囲も驚くほどの秀才で、半年後に卒業して王太子と結婚する予定だ。
だが彼女は水魔法の卒業試験のさなか、得意なはずの水球で居合わせた令嬢たちのドレスのすそを濡らしてしまった。
わざとではないかと敵対派閥の令嬢たちが非難するも、彼女は無視している。騒ぎを聞きつけたヴィクトルは風魔法で令嬢の制服を乾かし、謝罪してその場をおさめた。
騒ぎのあとヴィクトルは学園付属図書室を締め切り、沈黙を続けていたマリーを椅子に座らせた。ようやく口を開いたマリーは深々と頭を下げた。
「殿下、申し訳ありません。どうかこの度の責を取り婚約破棄をさせてくださいませ」
昨日までここで政治学について親しく話をしていたヴィクトルは、驚きのあまりに一瞬言葉を失いかけた。
「……マリー………私が嫌いになったのか?」
「いいえ殿下。私に王太子妃は荷が重すぎます」
「何を言うんだ。あなたは成績優秀、たった一度の過ちではないか。心配するな」
「過ちではありません。わざとです」
「婚約破棄されたくて仕組んだのか? あなたは私の専属司書になると約束してくれたではないか」
王太子の専属司書、この事は近しい者しか知らぬ秘密事項だ。
マリーは十歳で三歳年上のヴィクトルと婚約してから二十五万冊ある宮殿図書室への入室許可も得ていた。
彼女は授業以外を学園か宮殿の図書室で過ごし、自室のように隅々にある本まで把握している。収蔵本を魔術で整理し、より閲覧しやすくしたのは彼女の功績だ。
「ですが……大人数になると相変わらず話せません。学園では沈黙でやり過ごせても、王妃となれば差し支えます」
「前に話したように必要な時はジャンに言わせる。マリーは私の隣でほほ笑むだけで良いと申したであろう?」
「それが……今は家族の前でも話せず、そればかりか片頬まで引きつるのです」
結婚の準備が本格化してから不便さがより酷くなったとマリーは実感していた。彼の足を引っ張ることが不安だった。使節や臣下の前で妃が頬を引きつらせれば、健康面に不安がある妃として国の弱みになりかねない。
「大丈夫だ。私はあなたを、その才を頼りにしている」
「ならば司書としてお雇いを。どう考えても王太子妃には相応しくありません」
「それは………」
ヴィクトルは唸った。
いくら宮宰オルレア公ジャン・アングレームが有能でも、オルレア公爵家とノルマンディー公爵家は二大公爵家。互いに従える貴族の派閥もある。オレルア公次期当主のジャンだけを取り立てる事はできない。
「マリー、婚約破棄は無理だよ。二大公爵家を支持する貴族の勢力図を安定させ、政治の求心力を保つ上でもあなたを頼りたい」
「ならば当家と関わりある伯爵家より婚約者を立てて下さいませ」
「それはできない。昔に同じ事をして危うく王位を奪われそうになったと歴史書に書いてあっただろ? だから王家の妃は二大公爵家の者でなければならない。今はオルレア公が宮宰だ。だからノルマンディー公爵令嬢のあなたが妃にふさわしい」
「ですが……」
「それに私はマリー以外は考えられないよ」
マリーは兄弟しかいないノルマンディー公待望の女児だった。だが同時にマリーには知らず知らずプレッシャーになっていた。
幼い頃からの王妃教育、大人に囲まれて育ち、物心ついた時にはうまく言葉が出なくなった。
学園では体調不良で場を濁せても、王妃となれば他国の使節や大勢の前で言葉を発することが求められる。
彼女の右頬がピクピクと引きつる。うつむくマリーのうなじに真新しい縄跡が見え、ヴィクトルは思わず彼女をきつく抱き寄せた。
「生まれ持った気質を変えられぬのは私も同じだ。しばらく屋敷で待っていてくれ。マリーの憂いを解く手だてを必ず見つけるから」
マリーは両手で顔を覆った。涙声がヴィクトルの胸に突き刺さる。
「殿下は……国のため努力されて克服されつつあるのに、私が足を引っ張ってごめんなさい」
「私の一番はマリーあなただよ。それに今の私が居るのはあなたがいたからだ。早まる事は許さない……私のためにカードを読んでくれたあの日を忘れないでくれ」
「殿下……私にはもったいないお言葉です」
*
七年前、マリーが十一歳、ヴィクトルが十四歳の誕生日にメッセージカードを手渡した。彼女は毎週手紙を書くほど筆まめで、ヴィクトルもそんな彼女にすぐに返事を書いてくれる。
マリーはその手紙の中で複数の人がいると話せないこと、言葉が出せないことを素直に告白した。
一人ずつなら流暢に話せたが、複数人の前では途端に言葉が出ない。父アンリはマリーに魔術結界を施したり、治癒者に診せたりと様々な手を尽くしたが治らなかった。家族の前で話せても召使いが近寄ると途端に言葉を失う。
「娘は呪いを受けたのではないか、と思うのです」
アンリより報告を受けたヴィクトルは呪いなどではなく、生まれもつ気質だと直感で理解した。彼自身も気質に悩んでいたからだ。
それから二人の会話は主に手紙でのやりとりとなった。二人の面会は護衛や侍女が同行し、マリーは声を出せなかった。
誕生日の今日はジャンが召使いを引き連れ離れてくれた。宮殿の庭園が見えるテラスで二人きり。図書室以外では初めての数少ないチャンスだ。
だがカードを両手で受け取ったヴィクトルは封筒を手にしたまま項垂れた。
「ごめんなさい、ご迷惑でしたか?」
「いや違う……宮殿に帰ってから読むよ。……マリー、私も告白する。手紙は全てオルレア公子息ジャンも読んでいて、返事は彼に書かせている」
「オルレア公爵さまが、私たちの事をよく思わないからですか?」
「そうじゃない。私だってあいつに読ませたくはない……だが…私は文章になると全く読めないんだ。単語は書けても長くなると難しい。だから文面は私が考えるが、返事はジャンに書かせている」
マリーはヴィクトルを見上げ、手を差し出した。
「ならばそのメッセージカードをお返し下さいませ」
ヴィクトルは己に向けて顔をしかめた。彼女からの恋文すら勝手に見せたのだ。罵られる覚悟で頭を下げる。
「マリー勝手な事をした。本当にすまなかった」
カードがマリーの手の内に戻っても王太子は申し訳なくて深々と頭を下げ続けた。
しかし奏でるようなマリーの声は優しくヴィクトルの頭上から響いた。
「親愛なる殿下
十四歳のお祝いを心から感謝いたします。一年前、初めてお会いした日を昨日のように覚えています。一言も話せない私の両手をやさしく握って下さいましたね。
そして「よく頑張ったね」と褒めて下さいました。
ずっと人前で話せなくてお父さま、お母さまの心配させていた私にとって、とてもとても嬉しい言葉でした。
ヴィクトル様、本当に生まれてきて下さってありがとうございます。
あなたの婚約者マリー」
ヴィクトルは顔を上げられなかった。不意打ちの涙が彼の鼻すじを通り床に落ちた。
簡単な挿絵の本すら読めない事を宮殿の教育係に責められ、国王から叱責され、正直に説明しても相手にされなかった過去を走馬灯のように思い出した。
王子はその晩、懸命に書いた手紙をマリーに届けさせた。
いつものお手本のような筆跡とは違う、とぎれとぎれの読みにくい文字。だがマリーにはちゃんと分かっていた。
「あ り が と う」
そしてマリーはヴィクトルに返事をしたためた。
「わたしが あなたの ししょに なります」
彼が読めなくとも、二人は今までで一番短い手紙を贈りあった。
それからマリーはヴィクトルに本を読み聞かせ、彼は彼女に調べたいことを伝え、調べてもらうため宮殿図書室の鍵を持たせた。
彼女はこうして王太子の専属司書となった。
***
詳細を聞いた宮宰ジャンは沈痛な面持ちのヴィクトルの心中を察した。ジャンはずっとむつまじく図書室に出入りしていた二人を見てきたのだ。
「未婚の男女を二人きりにさせるな」との王の命令でしぶしぶ魔法で姿を消し図書室での逢瀬を見守っていたが、二人にやましい所は一つもなかった。
ある日マリーは歴史書や政治学の本を王太子の求めに応じて読み聞かせた。また別の日にはマリーの求めに応じて王太子が土魔法で作った人形の前で、社交の挨拶を練習した。
男女らしい事といえば、紙製の補助具で王太子が一行ずつ文章が読める方法をマリーが見つけ出し、喜びのあまり抱き合った事ぐらいだ。
「……それでマリー様は今はどうされているのです?」
「表向きは謹慎の見張りとして、近衛にマリーを守らせている」
「マリー様もご心労をお抱えなのですね……」
「お前が頼りだ。マリーの名誉を傷つけなくて済む筋書きを考えてくれ」
「ならば殿下が愛人をつくり、マリー様がその愛人となる方に嫌がらせをしたことにされては?」
「駄目だ駄目だ! 私はマリー以外に嘘でも愛人を持つつもりはない。それにマリーを悪役にはできん。悪役……そうか私がなろう」
優秀なヴィクトルの提案にジャンは顔をしかめた。二大公爵家が目を光らせてはいるが、貴族たちは王家の隙をねらう。細切れの領地を先代の王が統一、ようやく国がまとまってきたところなのだ。
貴族に弱みを見せてはならないと、王太子の思いつきにに水を差す。
「ご自身への評判を落とすつもりですか? それでは王家の求心力を失いかねません。私は反対です!」
「案ずるな『男ならば、男を見せよ』だ。それにこの策で国のあり様を隅々まで知る事もできよう」
不敵な笑みのヴィクトルから策を聞き、ジャンはついに反対できなくなった。
*
婚約破棄は筋書き通りに翌週の、貴族諸侯が集まる夜会で行われた。初めて夜会に現れた将来の王太子妃を一目見ようと、宮殿の大広間は貴族諸侯で埋め尽くされた。
夜会が始まりを告げたとき、王太子は高らかに貴族たちの前で声を張り上げた。
「私はマリーと婚約破棄する。そして独身を貫く。たくさん女を抱きたいからだ。だから庭園の離宮を王立公娼館『薔薇の園』とする」
マリーは声も出せずに驚いた顔を装い、宣言する王太子を見つめた。居合わせた貴族は王太子の身勝手さにマリーは声を失ったと思い込み、王太子の発言に気を取られた。
「毎日、お二人きりで図書室にお篭りになられただけの事はある」
「婚約者に飽きたのでは?」
王太子を揶揄する声をヴィクトルは無視せずに拾った。
「そうだ。私も男だからな。生涯独身を貫き、国中の貧しい者であろうとも乙女を知り尽くすのだ。わははははっ」
一同が呆気に取られる中、国王ルイの低い声が響く。
「愚かな息子よ、ノルマンディー公と、マリー公爵令嬢には何と申し開きするつもりだ?」
「陛下、マリーには『薔薇の園』にて私を楽しませれるよう教育係を任じます。私の好みは彼女が一番よく知っていますから」
「この場で宣言したのは余の反対を恐れてか? 結婚を挙げずに世継ぎはどうする?」
「結婚式の費用で娼館を作るのです。ですから世継ぎは『薔薇の園』がある。大丈夫ですよ」
得意げに開き直る王太子に国王は押し黙り、マリーの父ノルマンディー公は王太子の宣言が決定事項となった瞬間、唇を噛みしめた。
*
実は婚約破棄の一週間前、ヴィクトルはノルマンディー公の屋敷、マリーの家を訪ねていた。
「ノルマンディー公。マリーは必ず幸せにすると誓う。だから今度の夜会で行う婚約破棄をお許し願いたい」
王族がお忍びとはいえ公爵邸にわざわざ出向き、頭を深々と下げたのでマリーの父アンリは慌てた。
「殿下、おやめください。もともと我が娘が……」
「マリーは何も悪くない!」
ヴィクトルの鋭い一声。公爵はもちろん、父の隣に座していたマリーまでもが驚いていた。
「ノルマンディー公、それにマリー。私は一生独身を貫く。そして『愛妾だけを持った』事にする」
ヴィクトルが考えた策は王立公娼館『薔薇の園』に貧しい村の女性を雇い、結婚相手を探す貴族令息から入園料を徴収、意気投合すれば結婚を許すと言う仕組みだった。
「もちろん女性たちの安全は保障する。信頼できる近衛に見張らせ、同意ない事がされぬよう魔術師にも見張らせる」
「ですが殿下、お世継ぎはどうなさるのです? あそこは元々先代が愛人のために建てた離宮……同じ事をお考えですか?」
王太子はゆるやかに首を横に振り否定した。
「独身だと言ったであろう? 貴公の娘は聡明で優秀だから『薔薇の園』の個人教育係として住み込みにさせる。そして私は『薔薇の園』に通う。マリー、君の元に」
マリーはますます目を見開いた。否定しようとしたが声が出ない。
『ど う し て?』
口の形からヴィクトルは読み取り、ほほ笑んだ。
「必ずあなたを妃にすると、十四の誕生日に決めたからだよ」
******
南フランク王国の村々まで「想い人不在の娘を奉公に出せ。さすれば奨励金を出す」とお触れが出された。
だが厳しく領主が税を取り立てる村では奨励金目当てに恋仲を無理やり引き裂かれる者もいた。
宮宰ジャンの魔法で真実を確かめ、無理に連れてこられた者には謝罪料を渡した。さらに村長と領主には勝手な振る舞いを王太子名で牽制する手紙を書き、共に送り返した。
こうして王都に集まった娘たちはマリーが面談した。娘らは高い身分の貴族が黙って、涙を目に浮かべて耳を傾ける姿に心をゆるし、細やかに村の様子を明かした。
マリーはのちに証言を記録としてまとめ、宮宰ジャンに差し出す。
こうして普段宮殿には聞こえてない生々しい貴族達の村での不正が明らかとなり、好き勝手に振る舞う者たちの裏付けも取れ、国王の協力でことごとく不正は処罰されていった。
最終的に『薔薇の園』には十人の娘が残った。マリーの教育によって半年で立派なレディ『薔薇の乙女』となり、お忍びでやってくる貴族令息の話相手をするようになった。
最初は下心丸出しだった令息達も乙女達の生の声を聞くにつれ、心を改めていった。
だが中には『薔薇の園』を下に見る者達もいた。
「殿下……元平民を相手にせずとも、私達がおりますのに」
「金目当ての卑しい者達ですわよ」
『薔薇の園』に令息達が足しげく通うので、彼らとの結婚をねらっていた令嬢達は大胆なドレスを競い合うように身につけ、今度は王太子を誘ったが、ヴィクトルは鼻で笑い飛ばした。
「あなた方に『薔薇の乙女』ほどの気品や教養があると?『薔薇の乙女』ほど魅力的な女性はいないよ」
王太子は令嬢達には見向きもせず、立ち去っていた。煽られた形になった令嬢達は週に一度、昼間の『薔薇の園』開放日に押し寄せた。もちろん令嬢たちは罵るつもりで乗り込んだのだ。
しかしいざその園に立ち入ると、公爵令嬢マリーのセンスが光る、流行の最先端が集結した場だった。
中でも際立ったのは乙女達の立ち振る舞いだ。王妃にふさわしいマナーを仕込まれた公爵令嬢が指導した振る舞いは、誰より気品さと優雅さを兼ね備えていた。
さらに噂話に花を咲かせる令嬢たちと違い、政治、経済、歴史、魔術……ありとあらゆる分野に平民出身のはずの乙女達が精通している。
これには令嬢達も舌を巻くほどだった。
乙女たちは文字を覚え、マリーが王宮図書館から持ち出した本を読み、真綿が水を吸い込むよう知識を吸収した。
マリーは彼女たちの学びにふさわしい本を紹介すること、礼儀作法を手解きするのにも長けていた。それに話せなくても、元公爵令嬢の洗練された仕草が乙女たちにとって最高の教本だった。
悔しがる令嬢たちにマリーは『薔薇の乙女』たちの半生を綴った記録を黙って見せた。
娼館の主人とはいえ元は公爵令嬢。断れずに記録を読み出した令嬢たちは顔を青ざめさせた。
同じ年頃の乙女たちの悲惨で壮絶な過去、マリーがじっと静かに耳を傾けて聞き取れた真実が乙女たちの言葉で綴られていた。
……税の代わりと村長が私の髪を切って持って行った。男の子に男みたいだから何をしてもいいと言われた。大好きだった彼も笑ってた。押し倒してきたから、けりとばしてにげた。牛小屋の泥にとびこんだ。臭い匂いならも誰も近づかないから。
装飾のない平易な言葉だった。普段から美しい長髪を自慢しあう令嬢たちにとって、同年代の乙女たちの言葉は衝撃的だった。
「こんな事が許されるの……」
「マリー様、わたくし達もお手伝いさせて下さいませんか?」
『薔薇の乙女』はやがて昼間は教育、夜は社交の場となり、通う貴族たちは領地の現実を我が事として知る場所となった。
村の様子を知った王太子も税の改革に乗り出したが、酷税を強いて富を欲しいままにしていた貴族からは「ついに王太子は下級貴族の令嬢にも手を出した」と揶揄された。
だが下級貴族の次男三男には『薔薇の園』の妻を娶る事を許した王太子は「男の中の男」と称賛されていた。王太子は結婚時に祝い金を包ませたので、それを元手に下級貴族は村々を豊かにする事業を起こした。
しかしそれでも「新しい女が欲しくてやっている」と噂するものが絶えなかった。
「……………!」
叫び声すら上げられない。産婆だけでなくマリーの侍女となった元『薔薇の乙女』がいる。
でも彼女たちは心得たように彼女の両手をしっかりと握った。
「おぎゃおぎゃおぎゃああああ」
元気な男の子の声にマリーは安堵する。程なく二人きりになった部屋にヴィクトルが尋ねてきた。
「マリーよく頑張ったな」
「ヴィクトルのおかげよ。本当にこの子を私の側においても良いの?」
「あなたは王妃ではない。私は独身王だからな。表向き母にはできぬが、乳母としてこの子が歩き出すまでこの『薔薇の園』で育ててくれぬか」
王妃なら赤ん坊を乳母に取り上げられしまう。だがマリーは王妃ではないから認めさせられる、と王太子は微笑んだ。マリーは息子を幸せそうに胸に抱きしめた。
マリーはそれから毎年王子や王女を産み、青か翠の瞳の子供たちは十二人になった。
だが表向きは『薔薇の園』から生まれた子供だったので「卑しい血だ」と王家の政治改革を不快に思う貴族たちが陰で噂している。
そうした者達によって噂は広められ、「独身王にして十二名の庶子」「好色王」と他国だけでなく国民すら揶揄するようになった。
だが、私は生涯かけて心から敬い仕えよう。
一つの愛のために己れの名誉を捨てた男を。
ジャン・アングレーム
追伸
だからお前の主が立ち止まられた時、この記録を私の代わりに読み聞かせて欲しい。
親愛なる我が息子 ジュールへ
*******
父の書斎から持ち出した日記には、「追伸」と書かれた栞代わりの紙が挟まれていた。
僕は長く分厚い日記、いや、父の長い手紙から視線を上げた。馬車の外、ちょうど「好色王」の宮殿が見えてきたところだ。
僕はヴィクトル陛下に命じられ『薔薇の園』へ向かっている。五歳で父から爵位を継いで七年。十二歳になったので宮宰見習いの職がようやく許された。
だから今日から僕も僕の王太子のために、新しい日記を書き始めよう。でもその前に一言だけ父の日記に書き足そうと思う。……僕はペンを取り出す。そして……
*******
「独身王にして十二名の庶子」
「好色王ヴィクトル」
その噂は第一王太子シャルルの多感な心をえぐるのに十分だった。
十三歳になったというのに文字が読めない。学園にすら通えず、個人教師を当てがわれる日々。
祖父から王位を継いだ父は「外野の言葉など気にするな」と言うが、王のように紙を本に当てても読むこともままならない。一文字ならともかく、単語はインク染みのように見えて理解できなかった。
悔しさと苛立ちで重たい大剣を素振りする日々。しかし魔術師がいる南フランク王国で剣に秀でたところでさして意味はない。
王のように一度聞けば全て完璧に覚えて言えるほど優れているわけでもなく、その事実すら腹が立って空中に飛ばしたクッションに今も拳を打ち込んでいる。
『第一王子はやはり卑しい血では? 立派な宮殿の書物も次代の王には無駄ですな』
宮殿の図書室を燃やしてしまいたい。本は憎き存在だった。シャルルが部屋にクッション相手に羽毛をまき散らしていると、従者が訪ねてきた。
「殿下、国王陛下がお呼びです。『薔薇の園へ同行せよ』との、ご命令です」
シャルルは苛立たしさを回し蹴りに変え、クッションを一番遠い壁に打ちつけた。
なぜならシャルルにとって『薔薇の園』を尋ねることは乳母に会えること以外は苦痛だった。噂話の元凶であり絶対に本当の母に会えぬ場所だ。
*
物心ついた時には王城で過ごし、乳母との記憶はごくわずかだ。長じてから何度か乳母に会いに来たが、必ず護衛が付き従い乳母マリーは笑顔は見せるが言葉は発しない。
なぜ話せないのか誰に尋ねても答えはなかった。きっと不都合な事実があるに違いないとシャルルは思っている。
二人きりになるチャンスが無いので、こっそり本人に聞くことができなかった。
「話したいだけだ!僕とマリーと二人だけにしろ!」
「だめです。殿下は庶子ですから悪者に命を狙われます」
護衛の宮宰ジャンはそう言って否定した。
だがジャンの言う事は正しかった。シャルルが六歳になったとき、王家に反発する貴族の手下、暗殺者に襲われたのだ。
突き出された短剣に防御魔法が間に合わず、ジャンは王太子を抱きしめて深傷を負い、そのまま刃物の毒で病に倒れた。
暗殺者を生け取りにした後、自ら治癒魔法で傷口を塞いだジャンは息も絶え絶えに言い残した。
「殿下……どうかお強くおなりください。文字が読めなくとも……強くなる方法ならいくらでもある」
シャルルに残った生々しい記憶。シャルルはそれから魔術を捨て、剣と武術に生きる事を決めた。
己れに仕える臣下の命を自分の手で守れるように。
*
控えの間で一人で待てるほど強くなった今、シャルルを悩ませるのは声だ。
隣の広間から聞こえてくる女たちの楽しそうな談笑に両耳を塞ぐ。同時に聞き取れるからこそ疲れる。
だが耳を塞いでも、先週末に行われた夜会の声を思い出す。
『薔薇の園で陛下は毎夜毎夜淫らなことだ。まさに好色王ですな』
『本当にお盛んね。女にだらしないなんて不潔だわ』
『それに王太子の母は行方知れず、田舎の貴族に嫁いだとの噂だ』
『下賤の娘でしょ。殿下が魔術書を読まないのはそのせいでは?』
『ですが、剣技や体術は優れ、殿下の右に出る者はいないと……』
『武が優れようとも魔術で射撃されたら終わりだろ?』
耳だけは昔からよく、同時に話しても内容を聞き取れた。だから自分にまつわる全ての噂が一言一句よみがえり、シャルルの心をえぐる。
『薔薇の園』乳母マリーが父と共に部屋に入ってきた。乳母はソファーの上で耳を塞いでいたシャルルを見ると、黙ったまま優しく抱きしめた。
「シャルル、お前に引き合わせたい者がもう一人いる。私たちは席を外すから後は彼から聞きなさい」
「会わせる? 父上のように女にだらしなく不潔になれとでも?」
ヴィクトルは息子の言葉に目を丸め、豪快に笑い飛ばした。
「はははっ。先週の夜会でそんな事を言う者がいたのか。お前は本当に耳が良いな。マリーにはゆっくりさせたいが中々難しいんだよ」
「彼女は俺の乳母……いや、母のような人だ。その汚れた手でベタベタ触るな!」
シャルルが息巻く。
マリーは瞳を潤ませ黙って彼を抱き寄せた。懐かしい香りがして、シャルルは思わず突き放した。
「俺はこの男みたいに好色王じゃないよ、マリー。絶対にコイツより優れた王になって見返してやる!」
乳母のマリーすら吹き出して声なく笑っているので、シャルルはますます悔しい。
「そうか、それならばお前は優れた名を残せるよう、彼から学んで励め。彼はお前の力となる者だ。入れ」
シャルル王太子の前に一人の少年が歩み出た。父譲りの波打つ黒髪と紫色の瞳をもつ彼はジュール・アレグレームと自ら名乗った。
少年の手には一冊の本が握られている。
シャルルは苦々しく眉間を寄せ、鍛えたたくましい腕を組むと立ち上がった。
「俺は、本は、嫌いだ!」
「殿下、存じております。ですがこれは手紙、本ではありません。私が代読いたします」
「無駄だよ。読まれても俺は好色王より物覚えが悪い……」
「ですが剣術と体術はこの国一番と近衛長も騎士団長も申しておりました。ついでに言えば耳が聡く同時に幾人もの声を聞き分けられるとか……」
「お前だったのか……夜会で俺を褒めたのは……」
シャルルは組んでいた腕を解いてソファーに座り直した。ジュールは意外に素直なシャルルにほほ笑み、亡き父の日記を開く。
「ではお聞きください。『我が王は、真実の愛のため名誉を捨てた。だが真相を知らぬ者たちはこういうだろう。「独身王にして十二名の庶子」「好色王」と。だが私は……』
******
全てを聞き終えたあと、シャルルはマリーの元へ駆け寄り、気を利かせた王がその場を離れると二人は初めて言葉を交わしたという。
それから彼は貴族達の噂話から不穏な動きを察知し、父王のためよく働いた。
後にシャルルは「遠耳王」とも「武勇王」とも人々に呼ばれ讃えられたと彼の宮宰ジュール・アングレームは書き残している。
完
お読み頂きありがとうございました。
感想、誤字報告、評価、いいねも頂き、ありがとうございます!
とても励みになり、「視点を変えて読みやすく加筆修正した中編」を書こうかなと考えております。
間もなく10万PVを迎える代表作もよろしくお願いします!
魔法はなくとも愛はあるお話、1話4000文字20話完結済みです♪
『悪女』と呼ばれた私が幸せをつかむまで
〜兄の皇太子から婚約破棄され下賜される私は黒騎士と呼ばれる弟の公爵と幸せをつかむ〜
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