嫁の来訪⑤
少女は、飛んだ。
三階建ての校舎の、屋上から。
「やった!」
少女の懸命に伸ばした手が、藍田の手を掴む。しかし、少女の身体もまた、すでに宙へと投げ出されている状態だった。あたかも、自身の餌場へと足を踏み入れた獲物を見つけた捕食者のように、重力の鎖が少女を捕らえる。必死に抗いつつ、反対側の手を、オレへと伸ばす。
「御影様!」
遠い。
「と――」
数秒、いや、一瞬でもスタートが遅れていたら、間に合わなかっただろう。
しかし。
「とどけええええええええええええええ!」
下に引っ張られるような衝撃が、指先から腕を通り、乗り出した上半身へと伝わる。だが、そこまでだった。落ちていない。屋上に這いつくばるようにした下半身が、重力に逆らい、支えていた。
間に合った。
掴んだ少女の手から伝わる暖かな体温とあわせ、安堵の念が身体へと染みていく。小さな手だった。こんなに小さな手に、どれだけの強さが秘められているのだろう。
「後先考えないやつだ」
眼下にぶらりとぶらさがる、勇敢な少女に声を掛けた。
少女はえへへと照れ臭そうに頰を染めるも、口を尖らせる。
「きちんと考えてましたよ! わたしが藍田さんを助けて、御影様がわたしを助ける! 完璧な計画です!」
「……そうかよ。荷物は大丈夫か?」
少女のさらに下を覗き込む。返事代わりに聞こえる藍田の叫びも、徐々に勢いを弱めつつあった。これくらい、お仕置きとしては安いものだろう。
「荷物って……。けど、大丈夫です」
「よし、じゃあ引き上げるぞ。キツいだろうけど、もう少しだ、我慢してくれ。おい、手伝ってくれ――」
と、顔だけ振り返るも、屋上はもぬけのから。赤澤と翠川の姿はなかった。助けを呼んできてくれていると思いたいが、期待はできないだろう。
「仕方ない」
膝立ちするかたちで、身体を起こす。そしてそのまま、一気に――。
とん、と。
背中を押すように、風が吹いた。
「え?」
「へ?」
「あ?」
めでたきかな、苦難を乗り越え、三人の心がひとつになった瞬間だった。
「「「ああああああああああああああああああああああああああああああ!?」」」
心だけでなく、命運すらもひとつになった三人の絶叫は、ジェットコースターのように尾を引きながら、空中へと発散していった。叫び声に引っ張られるかのように、思考もまた、散り散りに消えていく。あたかも、オレたちの前途を祝福する紙吹雪のように。
しかし、そんな恐怖に身を縮こませていたのは、オレと、藍田だけだった。
少女は、ぐいと歯を食いしばって――そうしなければ、流れ出る思考を留められないとでも言うように――オレと藍田を、身体に引き寄せた。俗に言う、お姫様抱っこというやつだ。
なにを――という声は、声にならなかった。
ならなかったが、わかった。
わかったけれど、それでもなお、常識という名の枷が、思考の行く末を阻む。もっとも、その常識とやらも、地上から吹き上がる風に煽られ、どこかへ飛んでいってしまう。
そうだ、こいつには、常識なんてものは当てはまらない。
ならば。
「ん〜! ん〜!?」
藍田の口に手を当て、ぐっと閉じる。同じように、オレも歯を食いしばった。着地したときの衝撃に備えるために。腹の底から湧き上がる恐怖に耐えるために。
だけど、目は閉じなかった。
少女をひとりにしてはいけない、そう思ったからだ。
導かれるように、少女と視線が重なった。あたかも、ふと置いた手が、触れあったかのように。伝わりあう体温のかわりに、もっと奥のなにかが伝わった、そんな気がした。
「んんんん〜〜〜〜〜〜〜〜!?」
藍田の声にならない決死の叫びが、一連の幕の終わりが近いことを告げる。
長かったような、短かったような。
ぐちゃぐちゃに歪められた体感時間が、徐々に本来の感覚を取り戻していく。
そして。
「――ッ!?」
身体の奥から脳天へと、それこそトラックにでもひかれたかのような衝撃が抜けた。視界が揺れ、目の裏で火花が散り、飛びそうになる意識を、しかし、放すまいとする。
腕に抱えられていてもなお、この衝撃。
であれば、もろに受けたとしたら、どれほどだろう。
「金剛!?」
しかし、オレは、知っていた。
「はい!」
彼女がきっと、いや、間違いなく、そう答えることを。
金色の髪をなびかせ、ふたりの姫君――もちろんこれは冗談だ――を抱え、背後に沈みゆく夕日を背負う少女は、まるで御伽噺の王子様だ。ここが人気のない校舎裏でさえなければ。
「……まったく、無茶しやがって」
「えへへ」
「いや、褒めてないからな?」
「そうなんですか、えへへ!」
少女は、溶けかけた太陽のように破顔していた。
どうしてそんなに嬉しそうなんだ。いや、たしかに、助かったことは嬉しいんだが。
「だって、いま――名前、呼んでくれましたね!」
「……」
数秒のあいだ、思考が停止する。
停止して、巻き戻して――うん。
「……いや、呼んでないけど」
「ええ〜〜〜!?」
少女は、大袈裟に肩を落としたかと思うと、頬を膨らませた顔を近づける。
どうやらそれは、「わたしはいま怒っています」というアピールらしい。それにしても、表情がころころと変わるやつだと思う。
「もう、御影様なんて知りません! 自分で立って下さい!」
指摘はもっともであり、素直に自分で立つ。頰に触れる髪の毛先がくすぐったかったことも原因だが、それは口には出さないでおく。
久しぶりに足をつけた地面は、どっしりとして、力強かった。これ以上落ちることはないという安心感。今後とも、地に足つけて生きていこうと肝に銘じる。
一方、意識を失ってしまった藍田を地面に下ろす少女。その様子は、年相応か、はたまた少し幼いくらいだった。
「で」
今日何度目になるかわからない疑問を、はじめて口にする。
「はい?」
「結局のところ、なんなんだよ――おまえは」
「なんといいますか」
少女はわざとらしい素振りで、人差し指をくちびるに当てる。まるで、誰にも聞かれたくない、密やかな乙女の内緒話を、口にするかのように。
「わたし――ゴールデンゴーレムなんです」
「嫁の来訪⑥」は4/8水22時更新予定です。