嫁の来訪④
見に行くだけ――そう決めていたにも関わらず、気付けば、屋上への扉を開け放っていた。
「お、旦那登場〜」
「はは、遅かったね、嫁がピンチなのに。なに、不倫してたの?」
ここ、桃李高校の屋上は広い。五クラスが横に並ぶ校舎の屋上が丸々解放されており、障害物も一帯をグルリと囲む手すりがありだけで、休み時間には人気のスポットだ。しかし、なぜかいま、利用しているのは一グループのみ――言うまでもなく、藍田たちだ。
「……なんでだよ」
屋上の一角で、少女は、ただでさえ小さい身体を、さらに小さくしてうずくまっていた。その周囲を、藍田、赤澤、翠川たちが取り囲んでいる。
「御影様……?」
「おまえら、まさか」
「おっと、勘違いするなよな。手は出してないさ、ちょっとビビらせただけだっつの」
そう言って藍田は、少女のすぐ近くの手すりを足蹴にする。緊迫した金属音が響く。
「泣かせるね、花岡。この嫁さんたらさ、ずっと御影様、御影様、って言ってたんだぜ?」
「……け」
「は?」
「どけよ」
「おーこわ。いやウソ。あんたみたいなのがキレたところで全然怖くないから」
「はは、わかんないよ〜? こういう真面目クンに限ってキレるとすごいかも」
冗談を交わす三バカを無理やり押し退け、少女のもとで膝をつく。藍田の言う通り怪我はないようだが、その目には怯えの色が浮かんでいた。
「来て……くれたんですね」
遅れを責めるわけでも、恨み辛みをこぼすわけでもなく、少女は謝意を示す。
「なんで……、おまえ、強いんじゃないのかよ!? 今朝だって――」
「しーっ」
オレの言葉を止めた人差し指は、生まれたての赤子のように、柔らかくて。
今朝目にした光景は、嘘なんじゃないかって思ってしまうくらい、細くて。
「それは、内緒です」
ふわりと、彼女は笑う。その笑顔は、朝に咲いたばかりの花びらのように繊細だった。触れることすらも、躊躇ってしまうほどに。
「おーおー、見せつけてくれるね」
「なに、マジで嫁なの? やるじゃん」
「! ……おまえら」
「はは、だから、おまえがすごんだって怖くないっつーの。なに、やる気?」
「ダメですよ、御影様」
たしなめるように、少女は言う。その声色は、寝ている幼子に掛ける言葉のように優しい。
「……行くぞ」
少女の腕を掴み、立たせると、そのまま屋上の出口に向かう。
「はは、せいぜい夫婦で傷でも舐めあうんだね」
悔しかった。
言い返すことすらできないことが。
助けに来たはずなのに、助けられていることが。
「……悪い」
「謝らないで下さい、御影様。むしろ、わたしこそ、謝るべきなんです」
だって、と少女は言葉を続ける。
「少しだけ、ほんの少しだけ、疑っちゃったんです。ひょっとして御影様は、本当に助けに来てくれないんじゃないかって。だから、わたしこそ、ごめんなさい」
どうして。
どうして、この少女は、あんなに強いのに、こんなに優しいのだろう。こんなに弱いのだろう。目のふちに溜まった涙。それに宿る光が、答えを知っているのだろうか。
追い討ちを掛けるように、背後から藍田の声が飛んでくる。
「そうそう、安心しろよ、嫁さんを傷モノにはしてないからよ!」
「いい加減に――」
振り返るも、それ以上、開いた口から言葉は出てこなかった。
ガシャリと、なにかが壊れる音がした。
なにかではない。
「え?」
先程まで、藍田が蹴りを入れていた手すりが、だ。
そしていま、藍田が寄り掛かっている手すりが、だ。
時間が緩やかに流れていた。
空気が液体のりにかわったかのようにゆっくりと、手すりが元あった場所から離れていく。ひとを支える力を失い、落ちていく。手すりに支えられていた藍田もまた、見えない糸で繋がっているかのように、後を追う。
「――立入禁止だ。朝礼は以上」
そういえば。
「屋上は手すりの老朽化に伴い工事が入るから、立入禁止だ。朝礼は以上」
いまになって、朝礼での烏丸の言葉を思い出す。藍田たちは知っていたのだろうか。知っていたからこそ、格好の場所だと判断し、ここに連れ込んだのかもしれない。
そんな一連の思考を、藍田の絶叫が裂く。
「きゃあああああああああああああ!?」
似合わない、可愛らしい悲鳴だと思ったのも一瞬だった。
「え、ちょ……、あ、アタシ、知らねーからな!」
「は、花岡のせいだぞ!?」
最も近くにいたふたりも、動揺するばかりで、助けにはならない。
どうする。
混乱する思考のなかで、あいもかわらず道を示すのは、ルールだ。
安全第一。
死んだら終わり。
他人の命より自分の命。
けど。
――けど?
なにを考えてるんだ。
けどもクソもない、これはルールなんだ。決め事であり、決まってるんだ。
けど、それ以上に、決まっていた。
でも、それ以上に、わかっていた。
「どうせ!」
オレは、走り出していた。
このとき、オレは、どんな顔をしていただろう。
情けない顔をしているだろうか。
弱々しい顔をしているだろうか。
けど。
「どうせおまえは――」
けど。
笑っていたような気がした。
もっともそれは、背中を押すように吹く風のせいかもしれなかった。
「どうせおまえは――助けようとするんだろ!?」
「はい!」
わかっていた。
いや、わかっていた以上に――力強い返事だった。
すぐとなりを、ふわふわの金髪が追い抜いていく。
「だって」
迷いもなく。
憂いもなく。
頭の先から爪先まで、その小さな身体を余すことなく、全身全霊でオレを信じて。
「だって、御影様が、助けてくれますから」
少女は、飛んだ。
「嫁の来訪⑤」は明日4/5日22時更新予定です。
ちなみに、最初の話(「春の嵐①」)に金剛のイメージイラストを追加しましたので、よろしければご覧下さい。