嫁の来訪③
朝の念押しが効いたのか、その後、少女がオレに近づいてくることはなかった。もっとも、授業の合間の休み時間は少女のもとへクラスメイトが押し掛けていたし、昼休みははじまりと同時にオレが教室から姿をくらませたこともある。
そして迎える放課後。
六限の授業が終わりに近づくにつれ、少女はおやつをまえに待てを言いつけられた犬のように、爛々と輝いた目でオレの様子をうかがっていた。
さて、どうやって逃げ出そうか――そんなことを考えているうちに、授業の終わりをチャイムが告げる。
しかし、少女がオレのもとに駆け寄ってくることはなかった。行く手を阻むかのように、人影が割って入ったのだ。
「えーっと、金剛さん、だっけ?」
「あ、えっと、はい、金剛、レイムです、よろしくお願いします!」
少女の快活な挨拶とは対照的に、クラスに嫌な緊張が走った。まるで、楽しいイベントの最中、立ち込める暗雲を目にしたかのように。
その気持ちはわからなくもなかった。少女に声を掛けたのは、藍田、赤澤、翠川――いわゆる素行のよろしくない三人組だったからだ。
「髪ふわふわだねー、つーかなに、これ、染めてンの?」
真っ先に話を切り出したのは、ショートの茶髪にピアス、目のやり場に困るスカート丈と、いかにもギャルな藍田だった。見たところ、彼女が三人組のリーダーのようでもある。
「いえ、これは生まれたてで」
「へえ、ハーフなんだ」
次に反応したのは、赤澤。いかにもギャルな藍田に対し、赤澤の印象はヤンキーに近い。長身、ところどころが緩くはねた長い癖毛。トレードマークは派手なスカジャンだ。似合いそうな武器は間違いなく釘バットだろう。
「ハーフ……なんですかね、はい」
「はは、曖昧じゃん」
最後に翠川がケラケラと笑う。インナーカラーというのだろうか、パッツンの髪の内側を名前の通りの緑に染め、スカートから伸びる脚はこれまた緑のストライプが入ったタイツをまとっている。
「つーか」
「「「嫁ってなに?」」」
三人の声が重なる。声だけではない、その裏に潜む悪意もだ。
「嫁は……、お嫁さん、です」
「はは、お嫁さん、だって」
翠川が嘲るように笑う。
「それにしても、花岡の嫁って……、センス悪すぎない?」
「センス?」
「そうそう、だって、ほら。見なよ」
赤澤に顎の先で指されると、オレは反射的に目を逸らした。
「さっきから誰とも話してないじゃん」
「さっきからっつーか、ずっとだけどね」
見ないフリをしても、言葉はお構いなしにグサリと胸をえぐった。
――やめろ。
「お腹でも痛いんでしょうか?」
「はは、一年のころからずっと? んなわけないじゃん。いないんだよ、トモダチ」
――やめろ。
必死に歯を食いしばった。感情を押し殺すために。
「あいつさ、おカタイんだよね。真面目というか、クソ真面目というか」
「そういうの、なんていうか知ってますよ! 優等生って言うんですよね!」
「……ちげーよ。少しお勉強ができるからって、他人を見下してるんだよ」
「アタシらと馴れ合うとバカがうつるとか思ってんじゃない?」
そうだよ。
だから、これ以上、その汚い口でオレのことを話すんじゃない。
「それは、御影様が言ってたんですか?」
「んなもん見てりゃわかるっつーの」
「なら、一度きちんと御影様と話すべきです」
ぽつりと。
「御影様は、そんなこと言いません!」
「……へえ」
立ち込める暗雲は、その腹に溜め込んだものを、ゆっくりと撒き散らしはじめた。足元に広がる世界を、自身と同じ色へと、真っ黒く染めあげるかのように。
「あんた、あいつと今朝会ったんだよな?」
藍田の声色が、途端に温度を、色彩を失った。
「なのに、なんでわかるのさ」
三人の口元から、悪意のある笑みが消えていた。かわりにその目に宿るのは、敵意の光だ。
教室中の空気が張り詰めていた。まるで、教室中に張り巡らされた巨大な蜘蛛の巣に囚われてしまったかのように。指先一本動かせば、言葉ひとつ発せば、たちまち宿主の餌食になってしまうかのように。
そんななかで。
「たしかに」
厚い雲の壁を切り拓く、一筋の光のように。
どんなに荒れた海でも届く、灯台の灯火のように。
「たしかに、あたしはまだ、御影様のことよく知らないですけど」
悪意の雷雨に降られ、
敵意の暴風に煽られても、
少女はなおも毅然と言葉を返す。
「本当に悪いひとなら、自分の弱さを悔いて、あんな顔をしません」
「!」
きっぱりと。
はっきりと。
少女は、言いきった。
「なんの話してんだか知らないけどさ、ウザいね、あんた」
「はは、それ」
「ちょっと顔貸しな」
「? え、えっと、御影様……?」
しかし、少女の無垢とも言えるその言動は、不良少女たちをまえには無謀だったようだ。
少女は助けを求めるようにこちらを見る。その瞳には、明らかに怯えの色が浮かんでいた。
その様子を面白がるように、藍田はわざとらしく声をあげる。
「おーい、旦那! 悪いけど、嫁借りるよ!」
「み、御影様」
しかし。
オレは、またしても――目をそらしてしまう。
朝に、トラックにひかれそうになる子猫から目を背けたように。
目にしなければ、存在しなくなるとでもいうかのように。
なあ、教えてくれよ。
オレはいま、どんな顔をしてるっていうんだ。
「はは、ひでー旦那!」
「屋上いるからさ、暇だったら見に来な!」
三人組は高笑いしながら、教室から出て行った。
後に残ったのは、底冷えするかのような沈黙。
「おい……、大丈夫かよ、転校生」
「まさか転校早々、藍田らに目をつけられるとはな……」
「なにおまえ、気になるの? 転校生。たしかに可愛かったけどさ」
「いや、そういうんじゃねーよ。けど、委員長もいねーしさ」
クラスメイトは、遠巻きにオレへと視線を投げ掛ける。直接になにかを言うわけではなく、ただ無言の圧力を掛けるだけだ。
しかし、オレには、こいつらを傍観者だと批判することはできない。なぜならオレも、傍観者なのだから。共犯者なのだから。
「……なんだってんだ」
やめてくれ。あいつがどうなろうと、オレの知ったことじゃない。
あいつとは初対面だし。
あいつはオレの嫁じゃないし。
それにあいつ、トラックを吹っ飛ばすんだぜ? 助けなんていらないんだよ。なのに、なんであんなに不安そうな顔をしてるんだ。トラックより怖くないだろ。
わけわかんねえ。
そう、わけわかんないんだよ、あいつ。
いきなり転校してきて、自分のこと嫁だって言って。
それで、藍田たちの悪ふざけにも、真面目に答えて。
それで。
それで――怒って。
オレのために。
オレなんかのために。
なんなんだろうな。
やっぱり、わけわかんねえ。
「……帰るか」
でも。
でも、きっと、うれしかったんだ。
あいつが、よく知りもしないオレのために、怒ってくれて。
だから。
「様子を見に行くだけだ」
オレは、屋上に向かう階段をゆっくりと昇りはじめた。
本日22時の更新を予告しておりましたが、早めに準備できたので投げてしまいました。
「嫁の来訪④」は本日4/4土22時更新予定(同じく前倒す可能性あり)です。