春の嵐②
目が離せなかった。
惹きつけられる。
夜空に浮かぶ星のように――それはさながら黄金の太陽のように。
時速四キロメートルを刻む、いや、刻んでいたはずの足取りは、いつのまにかその動きを止めていた。ルールから外れていることを示す警告の赤いサイレンが、頭のなかでグルグルと鳴り響いていた。
「あっ!」
少女の短い叫びに、現実へと引き戻される。
彼女の視線は、オレを捉えてはいなかった。視線の行方を追うと、その先には、先程のオレと同じように、春の陽気にあてられ、軽快なエンジン音を響かせ走るトラックと、嘘みたいに小さな猫がいた。
数秒後に訪れるであろう結果は、誰の目にも明白だった。
この世のルールに基づき、その未来は予見できるものだった。
子猫がトラックに轢かれる。
どんな音かはわからないが、小石を蹴飛ばすよりも嫌な音がするだろう。
どんな色かはわからないが、少女の頬よりも嫌な赤色が道路に飛び散るだろう。
どうする――どうしようもない。
疑問と回答が、一瞬で頭のなかを交錯する。
どうでもよくはないが、どうしようもない。
ルールというものの重要性がわかるのは、こういうときだ。
安全第一。
死んだら終わり。
他人の命より自分の命。
だからオレは、子猫を助けにはいかない。
残酷だと言われるだろうか。
薄情だと罵られるだろうか。
けど、ルールに従っているだけなのだから――どうしようもない。
そこにオレの意思は介在しない。
しかし。
「危ない!」
彼女は、わからなかったらしい。
道路標識の読めない猫の未来と。
運転手の調子の外れた口笛の意味と。
そこに自ら身体を投げ出すことの結末が。
けど。
少女の瞳は。
食いしばった歯は。
力を込めた細い脚は。
そうは言っていなくて。
そんな彼女を見ながら、オレは。
オレは。
「〜〜〜ッ!」
動けなかった。
情けないなんて言ってくれるな。
いや、いっそのこと、後ろ指を指された方が、まだ反論できるというものだ。
だってそうだろう? 漫画の主人公じゃあるまいし、ここで動けるやつなんて、どれくらいいるんだ。だいたい、間に合わない。なにより、意味もない。オレがいったところで、なにになる? 死体がひとつ増えるだけだ。
そして鳴り響くクラクションが、平穏な日常のカーテンをびりびりと引き裂く。
甲高いブレーキ音は、あたかも人間の叫び声のように、非日常の到来を告げる。
誰しもが予測し得た結末をまえに、キツく目を閉じた。
まるで、目にしなければそんなものはないのだと、信じているかのように。
腹の奥にまで響く重低音は、まるで世界に穴が空いたかのようだった。
そして、ニャーという呑気な鳴き声は――。
「……ニャー?」
聞き間違いだろうか。
一体全体、オレは、いや、世界は、どこでルールの適用を誤ったのだろう。
恐る恐る目を開けると、そこには。
「危なかったですね、猫ちゃん。ちゃんと周りを見ないとダメですよ?」
黄金の髪をはためかせ、少女が立っていた。
柔らかな朝の日差しをうけ、一本いっぽんが光の筋そのものであるかのようだった。それはまるで、映画の一コマのように、慈愛に満ちた微笑ましいシーンであった。
その背後で、トラックがゆっくりと宙を舞っていること以外は。
「どうなってんだ」
そんなこんなで、冒頭に戻ってきたわけである。
振り返ってみたところで、オレ自身に非はないように思う。
たしかに、小石を蹴飛ばしたことは、ルールにない行動だ。しかし、だからと言って、いまの状況には結びつかないはずだ。サッカーでハンドをしたことと、隕石が落ちてくることが、無関係であるように。
であれば。
オレ自身はルールを守ったというのに、こうなっているというのであれば。
それはきっと、どうしようもない不条理というやつなのだろうと、嘆息する。
たしかに、目の前の出来事は、ギャグマンガの一コマのようであり、シュールでレアリズムな現代アートのようでもあった。笑うやつもいれば、考え込むやつもいる。
「どうなってんだ」
もう一度口先をついたつぶやきは、もしかすると、他ならぬトラック自身の気持ちを代弁したものだったかもしれない。現にトラックは、わけがわからないと言った表情で、ゆっくりと落下していた。そのフロントは、硬球が直撃した看板のように、べこりと陥没していた。
「ひ、ひとが」
道端で一部始終を目撃していたおばちゃんが、声をあげる。あたかも、理解が悪い観客に向けられた、状況説明の台詞のように。
「トラックを、はねたああああああ!?」
やっぱりか。
やっぱり、金髪の少女が、トラックをはねたのか。
「夢じゃないみたいだな」
けど。
舞い散る桜が反射し作り出す光の洪水は、やはり、現実ではないみたいに綺麗で。その渦の中心でたたずむ少女もまた、夢の住人のように儚くて。ひとたび瞬きをすれば、次の瞬間には煙のように消え失せてしまいそうで。
そんな、夢と現の狭間の世界。
「ひょっとして」
小鳥のさえずりのような声につられ、ふと、目があった。
「御影様、ですか」
「なんで」
その先は、言葉にならなかった。
なんで名前を知ってるんだ。
なんで敬称がついているんだ。
なんでトラックが宙を舞っているんだ。
なんでひとがトラックをはねているんだ。
疑問に疑問が重なり、頭のなかは大渋滞を引き起こしていた。
しかし、そんなことお構いなしに、少女は言葉を続ける。
「それはそうですよ――だってわたし、御影様の、お嫁さんですから」
「……だから、なんで」
なんで、オレの嫁なんだ。
やっぱり、その先は、言葉にならないまま。
オレ――花岡御影は、彼女と出会った。
桜吹雪と疑問符と不条理が吹き荒れる、春の嵐のなかで。
「第1章 嫁の来訪①」は本日22時更新予定です。
全体として200ページ超、8万字程度の予定です。
よろしければ引き続きお付き合い下さい。