春の嵐①★
「どうなってんだ」
季節は、春。
澄み渡る青空を、細雲が気持ちよさそうに横切っていく。
桜の花びらが踊る風は軽やかで、少女の金色の髪を揺らし、抜けていく。
細腕に抱かれた猫が、欠伸まじりの鳴き声を漏らす。騒然とした周囲などお構いなしに。
その背後には、トラックが宙を舞っている。
……なに、もう一度描写した方がいいか?
その背後には、トラックが宙を舞っている。
残念ながら、何度繰り返しても同じことだ。
オレだって、さっきから何度も目を擦り、まばたきし、頬をつねっている。
しかし、目に映るのはどう見ても宙を舞うトラックであって、モンシロチョウではない。二トントラックは、朝の日差しを一身に浴びながら、ええと、ゆっくりと落ちている。
おかしい。
いったいオレは、どこでルールを踏み外したのだろうか。
ルールに則っていれば、こんなことにはならないはずなのに。
そして、記憶を遡る――と言っても、小一時間程まえのことだが。
いつもとかわらない朝だった。
起床はいつも通り七時四〇分。
眠気覚ましのシャワーも、いつも通り一〇分だ。
朝食も、トーストとコーヒーというシンプルなもの。トーストにはバターを一欠片、火曜日だからジャムはアプリコットを小さじ二杯。コーヒーは毎朝かわらずブラックがルールだ。
着替えだって、制服と校則で決まっているから悩む必要はない。もっとも、仮に私服だとしても、週五日分のルールを設けただろうし、さらに言えば、そんなルールを放棄し自由という名の不自由を課す高校に通うことはないだろう。
話を八時三〇分に戻そう。
「あと一分……三〇秒……一〇、九、八……よし」
八時三〇分になると同時に、玄関の扉を開ける。
そう、八時三〇分だ。少し遅くも、少し早くもなく、八時三〇分と言ったら八時三〇分に家を出ることがルールだ。ちなみに、靴を履くときは右足から。靴ベラは使う。
「いい天気だ」
天気は晴れ。予報通りの晴天だ。
今日もルール通りのスタートを切ることができたことに安堵の念を噛み締めつつ、いつもの通学路をいつものペースで――時速四キロメートルが目安だ――歩みを進める。
いつもと同じであるという安心。
いつもとかわらないという平穏。
その普遍性を担保するために重要なことが、ルールだ。
どんなに世界が加速し、変貌しようが、世界を定めるルールはかわらない。日本の裏側で起こったニュースが数分後にスマホに届く時代になったとしても、リンゴが落ちるスピードはかわらないし、自宅から学校までの距離だって同じだ。
だから、オレの生活はありとあらゆるルールに基づいている。
かわらないルールによる、かわらない生活を送る――それが、齢一五にしてオレが辿り着いたモットーだ。
時速四キロメートルを刻む足が、道端の小石を蹴った。
コン、コンと。
凹凸のある小石は、アスファルトのうえを不規則に転がる。しかし、不規則に見える軌道すらも、実はなにかしらのルールによって決定づけられているのだから、規則的だと言えよう。
小石はそのまま転がり――そして、止まった。「すいませんが、ぼくに行けるのはここまでです」なんて声が聞こえてきそうなくらい、申し訳なさそうに。
小石は止められたのだ。
障害物、もとい、ひとの足にぶつかって。
「……しまった」
小さく舌を打つ。
規則的な小石の運動とは異なり、こればかりは完璧にルール外、イレギュラーだ。
生き物だけだ。
生き物だけが、ルールを無視する。
それだけではない。ときには自分自身がルールなのだという我が物顔で、本来は規則的な世界の秩序を乱し、混沌をもたらす。その混沌の余波に揉まれ、苦しむのもまた、やはり自分自身であるにもかかわらず。例えるならば、それは、穏やかな水面に投じた石によって、水飛沫が自分の靴にはねるかのように。
しかし、その訓戒は、オレ自身についても言えることだった。
通学の途中で小石を蹴るというルールはないにもかかわらず、偶然とは言え、小石を蹴ってしまった。そして、その行為が、平穏な生活に水を差そうとしている、かもしれない。
オレもまた、傲慢な生き物のひとつに過ぎないのだと、ため息を漏らす。
どうやら、新たなルールを制定しなければならないようだ。「通学途中に小石を蹴ってはならない」だろうか。あるいは、「朝の気持ち良い日差しに浮かれてはならない」だろうか。
そんなことを思案しているあいだにも、時速四キロメートルの歩調は、オレと足の主の距離を着々と縮めていく。
足の主は動いていなかった。直立不動だ。怒っているのだろうか。顔を見ることはできなかったが、その視線がオレに向けられていることは察することができた。
もしかすると、いわゆる、ルール無用の輩――俗に言う、不良なのかもしれない。
このまま黙って横を通り過ぎようとすれば、野太い声とともに無骨な手で肩を掴まれるかもしれない。その先は、考えるまでもないだろう。
仕方ない。
たしかに、悪いのはオレなのだ。
であれば、素直に謝ることがルールなのかもしれない。
そろりそろりと、足元から、視線をあげていく。
不良にしては、細く華奢な脚だった。
不良にしては、可愛らしいフリルのついたスカートだった。
不良にしては、慎ましやかな胸部だった。
そして。
「え――」
足元からのぼっていった視線が最終到達点へ達したとき、思わず、声を漏らしていた。
それは、驚愕であり、感嘆。
中学生くらいだろうか。小柄な少女だった。
彼女はまるで――そう、月並みな表現ではあるが、人形のようだった。
収穫を待つ果実のような赤みが差す、白く柔らかそうな頬。今日の晴天よりも澄んだ水色の双眸がくるりと光を放っている。なによりも、その金糸のような髪は、ふわふわと雲のようで、優しい春風に祝福されるかのように、踊っていた。