星が綺麗な夜に
すらっと背が高く、痩せた男が1人、路地裏に佇んでいる。彼は顔を上げて、ビルの隙間から見える星空を眺めていた。待ち人が女性であれば、もっとロマンチックな場所を選んだだろう。だが今回の件は仕事の依頼……それも、人に知られてはいけないような。そういう取引をするにはうってつけの場が、この薄暗い路地裏だ。法の手が及ばないほど深く、一度入れば戻ることは出来ない奈落。それでも、この男にとっては天国だった。普通に生きることを諦めた彼にとって、裏社会での生活は非常に楽だからだ。十代の頃に裏社会に入り、身元に繋がる物は全て売り、得た金を賭け事に費やした。金が無くなったら金庫破りをして、金が溜まったらまた賭け事。正攻法では屠られる、この常闇のような社会で生きていくために、どんな犯罪にも手を染めた。野良犬のようにたくましく、かつ、刺激を求めて。しかし、彼が名の知れた悪党になった頃、その生活はがらりと変わった。自身の欲の実現のため、かの男を雇いたいと言う者が大勢現れたからだ。彼は自身の才能を売りに、依頼主から大金を得る。警察に追われる生活は、刺激が強くて飽きが来ない。時折、観光がてら、海外の協力者の元に行くのも良い。ふと遠い異国の地に想いを馳せ、男は口端を上げた。
男の赤茶色の瞳に、さんざめく小さな光の粒たちが映る。こんな所でしか星が綺麗に見えないのは、この国の人間たちへの皮肉だろう。目の眩むような光で溢れる都心に行けば星空は見えない。もう少し開けた所に出れば、国家公安管理局、通称S.P.S.B.によって管理された『白い街』の明かりが、東の空をぼんやり染めているのが見えるだろう。暗がりで生きてきた自分にとっては、強過ぎて身が焦げそうな気分になる白い光が。
不意に人の気配が近づいてきたのを察知し、男は我に返った。近づいてくる足音を聞き、彼はそちらの方を向いて姿勢を正した。
「よう。待たせたな、ノラ。」
初老の男が、闇の奥から現れた。“ノラ”というのは、名前のない自分を呼ぶために、誰かが勝手に付けた名だ。
「で、今回の仕事は?」
と、単刀直入にノラが聞くと、初老の男は呆れ顔で笑った。ノラにとって、彼は“仕事をプレゼントしてくれるサンタ”以外の何者でもない。従って、無駄話をする必要はない、と、彼は判断した。だから、相手の反応すら焦れったく感じる。刺激のないやり取りが一番嫌いなのだ。
「ほらよ、今回の仕事だ。」
依頼の情報は、常に紙切れに書いた状態で手渡される。ノラはいつも、一度読んだだけで内容を記憶すると、すぐにブランド物のライターで紙を焼き捨ててしまう。今日も例外なく、彼は懐からライターを取り出した。ノラはタバコを吸わないが、このライターの蓋を開けた時の、ピーンという金属音が好きだった。紙の焦げる臭いを嗅ぎながら、初老の男は口を開いた。
「金はもう振り込んである。いつも通りに頼む。」
仕事の代金は必ず前払いと決めている。律儀にも、この男は毎回きっちり払ってくれる。お陰で、最近は食いっぱぐれるどころか、数年間豪遊しても困らないほどになった。全く、良い客だ、と、ノラは笑った。
「それから、これは軍資金だ。」
男の背後から、サングラスをかけた若い男が、大きめのキャリーケースを両手で引きながら現れた。
「一億だ。少ないかもしれんが……。」
「ありがとうございます。では。」
彼の話を断ち切り、キャリーケースを受け取ると、ノラはニコッと笑い踵を返した。背後で男が鼻で笑うのを聴きながら、彼は早足で歩く。
今回の仕事は、ある邸宅に忍び込み金庫から“紙”を盗って来ること。なんの紙かは詳しく見なかったが、依頼主にとっては、大金を払ってでも手に入れたい大事な物だ。簡単な金庫破りの仕事。軍資金など必要ないレベルだ、つまらない。実に不愉快。正直、ノラは誰かのために働くのが嫌いだ。常に自分の人生のことだけを考え、刺激的な出来事で日々を潤したい。それでも、何もしないよりはマシ、と、有償で仕事を請け負う事にしたが、最近では簡単な仕事でも大金が舞い込むようになった。割に合わない。どこかでこの嫌な気分を直したい……などと考えながら歩いていると、急に背後に殺気を感じて、ノラは立ち止まった。
「勘の良い奴だ、そのまま動くな。」
背中に突き付けられた刃物の位置と、少し高めの声色から、おそらく十歳前後の少年だろう、と、ノラは予想した。この体格差なら、まず負けることはない。彼は体の緊張を少し緩め、少年の次の言葉を待った。
「……お前がノラだな?」
先程の会話を聞いていたのだろう。まあ、知られて困ることではないか、と、ノラは頷いてから、
「ええ、よくそう呼ばれます。」
と、答えた。一息置いて、少年は再び彼に問いかける。
「お前、“トゥエルヴ”を知らないか?」
「……さあ、どうでしょう。」
ノラはどっちつかずの返事をした。そうすると、急を要する相手は少々必死になる。可能性を少しでも見せれば、食いつきが変わってくるのだ。思った通り、少年は声を荒げた。
「はっきり答えろ!知ってるのか、知らねえのか!」
なるほど、余程切羽詰まっていると見た。ここで少し、この少年で遊ぶのも悪くない。
「では、私からその答えを買いませんか?値段は少し安めに……一億円でいかがでしょう。」
金を持った大人なら、この台詞を聞けばほぼ確実に乗ってくる。提示した額より上を出す者、値切る者……、色々居たが、それでは面白くない。では、子どもならば、これにどう答えるか?ノラは笑いながら、返答を待った。
「…………一億……。」
少年にとっては途方も無い額なのだろう。絶望を音にしたような声で、少年は呟いた。さあ、どうする。ノラはニヤニヤと笑ったまま、星空を見上げた。
「……じゃあ、あんたが持ってる一億で俺を買え。そうしたら、お前に一億払ってやる。」
少年が絞り出した答えは、なるほど、少し意表を突かれたが、所詮子どものその場凌ぎだ。
「ほう、では、君にはそれだけの価値があると?」
「いや……一億じゃ足りねえな。もう十倍貰っても良いくらいだぜ。」
急に、少年の声色が強くなる。自信がある証拠だ。単なるその場凌ぎでないことを悟ると、ノラは声を上げて笑い出した。ビルの隙間の星空が一気に広がったような、不思議な感覚。面白いことが起きる、と、全感覚が叫んでいた。
「っははは!たったの十億とは、欲が足りませんねぇ!良いでしょう、百億であなたを買いますよ。」
驚きのあまり、少年は刃物を降ろした。背後から少年が遠ざかったのを感じ、ノラはゆっくりと彼の方を振り向く。少年はノラを見つめながら、小さく首を振って後ずさった。
「ま、すぐには用意できませんが。子どもとはいえ、あなたも裏の人間だ。自分の身を切らずして欲望が叶うなどと、そんな甘い考えをお持ちになっているわけではありませんよね。あなたには、私の仕事に協力してもらいます。その成功報酬として、百億をあなたに差し上げる……という意味で“買う”と言ったのです。さあ、どうしますか?」
少年は刃物をポケットに仕舞い、ノラを見つめ直した。冷たい笑みの奥に、得体の知れない恐怖を感じる。それでも、彼に縋るより他にない。少年にはどうしてもそうしなければならない理由がある。幼くも鋭い眼光を携えた目がそう語っている。
「……仕事の内容は?」
「契約成立、ということでよろしいですね。」
間髪入れずにノラが聞く。少年は一瞬戸惑ったが、やがてゆっくりと頷いた。それを確認し、ノラはニコッと笑った。
「では、行きましょうか。」
ノラはそう言うと、少年の手首を掴み、片手にはスーツケースを持ち、再び狭い路地裏を歩き始めた。
「えっ、お、おい!内容は……!?」
現場に着いてから、と、ノラは振り返らずに言った。半ば引きずられるようにして、少年は彼に着いて行く。
「あ、言い忘れていましたが、失敗は許さないので、命を捨てる覚悟でお願いしますね。」
「はぁ!?おい、ちょっと……!!」
何をさせる気なのか、と、不安になった少年は手を振りほどこうと暴れ出した。しかし、ノラは全く動じず、手を引き歩き続ける。
「もう遅いですよ。大丈夫です、失敗しなければ良い。」
「いや、そんなこと言われても……!」
ノラは急に立ち止まり、振り返って少年を睨んだ。刺すような鋭い眼光に、少年は驚いて口を閉ざした。
「騒ぐな、自分の選択に責任を持て。」
先程より数段低い声で、ノラは静かに言った。少年は俯きながら、
「だ、だって……。何をするかくらい、教えてくれたって良いじゃんか……。」
と、小さな声で言った。それを聞いて、ノラはより一層声を低くする。
「こんな場所で仕事内容を口に出すほど、私は馬鹿ではない。誰がどこで、何を聞いているかわからない世界では、特に裏社会では、そういう行動は命取りになるぞ。」
少年の怯えた表情を、彼はしばらく無言で見つめていたが、やがてにわかに笑い出した。
「……なーんて、怖かったですか?いや、子どもは表情豊かで面白い。」
「か……からかうな!それに、子ども扱いするなよ。」
まだ少し緊張を残しながら、少年は弱々しい声で怒った。それを見て、ノラはニヤニヤと笑っている。彼は少年の手を引き、再び歩き出した。
「まぁ、本当に命が惜しければ、黙って私に従う事ですね。悪いようにはしませんから。さて、とりあえずこの一億円をどこかに捨てないと……。」
「は!?捨てるって……!?」
重いですから、と、ノラは淡々と言った。約十㎏のキャリーケースを左手で引きながら、右には少年を手首を掴み引き連れている。両手がふさがるのはあまり好まないから、と、彼は言うが、そんなことで大金を捨てようとする彼の考えを、少年は全く理解できなかった。
「そんな……もったいないじゃん。邪魔ならどっかに置いてくるとかさ、もっと他にあるだろ。」
「つまらない考え方ですねぇ。…………いや、確かに、ただ捨てるより、もっと有意義な方法がありますか。なるほど、ふむ……。」
いや、そういうことでは……と、少年は口を開いた。だが、ノラは既に自分の世界に行ってしまったらしく、全く聞く耳を持っていない。しばらく沈黙が続いた後、急にノラは立ち止まった。
「少年、あなた、私に買われましたよね?」
「えっ?あ、ああ……。」
そうですよね、と呟き、ノラはまた歩き出す。それ以上は何も言わなかったので、急に気持ちが悪くなり、少年は何度か彼を追及したが、ノラは全く答えてくれない。少年は諦め、彼に連れられるまま黙って歩いた。身長の高い彼の歩幅に合わせるため、大股になりながら、少年は彼の顔を見上げる。口端が上がっているが、何を考えているかわからない不気味な笑顔だ。
やがて狭い路地を抜け、二人は大通りに出た。夜なのに人通りが多く、古びたネオンの明かりが行き交う人々をぼんやり照らしている。
ノラは止まっている車の鍵を開け、後ろのドアを開けた。車体が低く、大きな黒い車だ。
「どうぞ、助手席へ。」
キャリーケースを後部座席に乗せながら、彼は言った。少年は車のことはあまり知らないが、それでも何となく高級車だと分かり、慎重にドアを開け、助手席に座った。傷を付けようものなら、何百万も請求されそう……などと考えながら、シートベルトを締め、車内を見渡す。買ったばかりと言うわけでもなさそうだが、綺麗に整理され、無駄なものが一切無い。そして何より驚いたのは、自分の臭いが浮いて感じられる程徹底された消臭ぶり。どうやっているのかは知らないが、全くもって無臭。無機質に澄んだ空気が車内を満たしている。
「さて、行きますか。」
ノラは運転席に乗り込み、シートベルトを締め、エンジンをかけた。そして、慣れた手つきでハンドルを握り、ギアを変え、アクセルを踏む。少年が思っていたよりも優しい走り出しで、車は大通りを優雅に進んだ。
徐々に建物が少なくなっていくのを、少年は窓越しに見つめていた。車体の低い高級車で、田舎道を進んでいく。昼間なら、おそらく目立っただろう。しかし、今は夜。黒い車は闇に溶け込み走る。
「……今回の仕事は、悪く言えば強盗です。」
急に、ノラが口を開いた。あまりに唐突に、“強盗”という言葉を出してきたので、少年は息をのんだ。
「適当に忍び込んで、金庫から紙を取ってくるだけです。簡単すぎてつまらないので、お宅の住所以外の情報は見る前に燃やしてしまいましたが、まあ何とかなるでしょう。プランは現地で考えます。」
「そ、そんな……行き当たりばったりで大丈夫なのか?」
少年が不安そうに聞くと、ノラは「さあ?」と笑った。
「スリルがあって楽しいでしょう。せっかくの人生、楽しまなければ損ですよ。」
いかれてる、と、少年は呆れて言葉を失った。しばらく沈黙が続いた後、ノラが車を止めたので、少年は何事か、と身構えた。
『FREEDOM、起動します。』
カーナビがひとりでに起動したので、少年は驚いて画面を見た。機械っぽいエフェクトがかかっている、しかしどこか艶っぽい、女性の声色だった。水色の画面に、一本の赤い線が水平に描かれている。
「周辺情報は?」
と、ノラが聞くと、画面の赤線が波打ちだし、しばらくして再び直線に戻った。
『機器の検出ゼロ、脅威レベル低。』
「了解しました。FREEDOM、そのまま起動していてください。」
そう言うと、彼は車を進めた。
「これ、何……?」
少年が訝しげに尋ねると、ノラではなく、カーナビがそれに答えた。
『HELLO、BOY。私はFREEDOM、端的に言うと、彼の専属ハッカーです。』
「ハッカー……?じゃあ、人なの?」
FREEDOMは、“YES”と返した。
「国外にいる、私の協力者ですよ。」
と、ノラが付け加えたので、少年は納得した。彼女の話し方に、外国訛りがあるというか、なんとなく日本人らしさを感じなかったからだ。
「雑談は後で。目的地が見えてきましたよ。」
遠目に見えたのは、大きな邸宅だった。雑木林に囲まれ、噴水のある広い庭がある。庭には外灯がいくつもあり、その邸宅の敷地内だけ異様に明るい。そのため、街の明かりから離れた郊外で、一際目立っている。対照的に、雑木林の中は暗く、黒い車が闇によく馴染む。ノラは林の中に車を停め、腕時計を見た。
「……っと、あなたにも渡しておきましょう。最新式の腕時計型端末と、ワイヤレスイヤホンです。」
彼はそう言うと、グローブボックスから端末とイヤホンを出し、少年に渡した。ノラは、少年がそれらを装着するのを確認してから、
「FREEDOM、彼の方も繋げてください。」
と、言った。数秒間があって、少年の端末が起動し、カーナビと同じ画面がついた。
「さて、状況は?」
車から降り、助手席側に歩きながら、ノラは端末に向かって言った。少年も車から降り、ノラの横に立った。二人のイヤホンから、FREEDOMの声が聞こえてくる。
『屋敷周辺に機器が5つ、屋敷内に3つ。警備員の無線機と思われる。監視カメラは内外合わせて20台。データはそちらに送ります。』
ノラは端末の使い方を軽く説明しながら、少年の端末を操作して見せた。データを車のボディに投影させ、二人は監視カメラの位置を確認した。
「手分けして金庫を探しましょう。FREEDOMに引っかからないということは、金庫はアナログ。見たところ、中々古い家のようです。由緒ある家ならば、壁に埋め込まれている大きな金庫が相場ですかね。二重鍵か、それ以上の上物が期待できそうだ。壁を中心に調べましょう。」
「あえて小さい金庫に入れてるかもしれないじゃんか。壁って決めつけるのは……」
これだから素人は、と、ノラは彼の言葉を遮った。
「金持ちほど、盗まれることに対して不安になるものです。奪われないように、と、警備と金庫には気を使います。警備員とカメラの数を考慮すると、家の主は相当心配性なのでしょう。この程度の邸宅には、釣り合わない量ですから。金庫も大きく、物々しくて然るべき……。これは私の経験則ですが、外れたことはあまり無い。相手が“本物”なら、話は別ですがね。」
「本物って?」
その問いには答えず、ノラはキャリーケースを車から降ろし、何やら細工し始めた。作業しながら、彼は再び話し出す。
「私が先に行って警備を緩めるので、合図するまであなたはここで待機です。私は一階を調べるので、あなたは二階をお願いします。もしも待機中に見つかってしまったら、この車で逃げてください。」
ノラは車のキーを投げ渡した。少年は受け取ったが、慌てて、
「え!?いや、俺、免許ないし、運転できないよ。」
と、声を潜めながら言った。見ればわかるが、少年は明らかに十歳前後だ。無茶振りもいい所、と、彼はキーを突っ返そうとした。
「私も免許は持ってないです。大丈夫ですよ、この車オートマチックですから簡単です。」
「いや、簡単とか、そういうことじゃ……って、えぇ!?」
ノラは素早く少年の口を手で塞いだ。少年は驚いて目を見開いたまま、彼を見つめている。
「あんなもの、無くたって大丈夫ですよ。法は犯してなんぼです。この程度の犯罪でいちいち驚かない。これから私たちは、たくさん違法なことをするんですから。」
少年が落ち着きを取り戻すのを待ってから、ノラは手を離した。今更後戻りはできないことくらい、少年は分かっていた。しかし、こうも軽々と、しかも当たり前のように堂々と犯罪を犯す彼を見て、少年は胸をじわじわ刺されるような感覚に襲われていた。何も恐れていない、飄々とした彼の背に、頼もしさや不信感など、様々なものを感じながら、少年は黙って指示を待つ。
邸宅とこの車の距離は約百メートル程、見つからないか少し不安になる。少年はふと、自分の上着が、背景に溶け込む色ではないことに気付いた。彼はすぐに明るいベージュ色の上着を脱ぎ、車の中に放り投げた。半袖の黒いTシャツだけでは、春先の夜には少し寒い恰好だが、目立つよりはマシ。
「どうぞ、これを。」
ノラは自分のスーツジャケットを、少年の肩にかけた。まだ若干温かい袖に腕を通し、少年は礼を言った。紺色の、いかにも上質そうな、ブランド物っぽいジャケットだ。ノラの服装は、暗い赤のシャツに紺のベスト、青いネクタイ、ジャケットとそろいのスラックス、そして、これまた上質そうな、先のとがった革靴。端正な顔立ちや整った髪型も相まって、犯罪者とは思えない、高級かつ上品な雰囲気を醸している。
準備を終えると、ノラは爽やかに「行ってきます」と言い、キャリーケースを持って邸宅の方に歩いて行った。取り残された少年は、急に不安になって、車の陰にしゃがみこんだ。そして、落ち着こうと、大きく息を吸った瞬間……
ドオォォオン!!!
驚いて、少年は咳き込んだ。車の陰から顔を出し、音がした方向を見ると、黒い破片と焦げた紙切れが、邸宅の庭先で舞っていた。火の粉と煙を見て、少年はやっと、爆発が起きたことを認識した。車から離れ、茂みに隠れながら邸宅に近づいてみると、舞っている紙切れが紙幣であることが分かった。そうか、ノラはあの一億円を爆破したんだ。あの細工は、爆弾を取り付けるための……。ぐるぐると、勝手に思考が巡る。その間に、騒ぎを聞きつけた警備員が集まってくる。全部で7人。たしか、警備員の数は……
『HEY、BOY。裏口から中へ。』
イヤホン越しに、FREEDOMの声が聞こえる。考えるより先に、自然と少年の体が動く。無意識に監視カメラの死角を通り抜け、彼は裏口にたどり着いた。ノラは強行突破したらしく、警備員が一人、気絶して横たわっている。無線機と帽子を奪われた彼を横目に、少年は邸宅内に侵入した。入ってすぐに警備員の帽子を被ったノラと合流し、目配せしてから、少年は階段を駆け上がった。
「裏口、異常ありません。」
トランシーバーを片手に喋りながら、ノラも小走りで階段を上ってくる。彼はあの短時間に、一階の部屋全てを調べたらしく、二階を二人で手分けして探し始めた。
『似合ってなかったですか?この帽子。』
無線で、ノラが話しかけてくる。彼の緊張感のなさに、少年は呆れた。
「今はそれどころじゃ……ていうか、被りたかっただけなのかよ。」
『ええ、かっこいいなと思って。特に意味はありませんよ。で、どうでした?』
執拗に聞いてくるので、面倒くさそうに適当な返事をしながら、少年は一番奥の部屋から順に入った。部屋はたくさんあるのに、人の気配が全くない。家の人間が留守だから警備が多かったんだ、と、少年は納得した。
奥から三番目の部屋をくまなく探していると、大きなベッドと壁の隙間に、ダイヤルらしきものを見つけ、胸がグンと高鳴った。端末でそれを照らすと、壁に大きな金庫がはめ込まれていると分かった。
「ノラ!あった!一番奥の部屋!!すごいや、言った通りだ。」
大きくなりそうな声量を抑えながら、少年はノラに連絡した。彼が来る間、騒ぐ心を原動力に、少年はベッドをどかそうとした。自分の力ではどうにもならない事は分かっている。しかし、動かなければ気が済まなかった。
ノラは部屋に入るなり、大きなベッドを押す少年を見て、
「どかします。下がっていてください。」
と、ベッドに片足をかけ、ぐっと蹴った。手伝う間もなく、ベッドは重い音を立てて動いた。あまりに軽々と動いたので、少年は驚いた。びくともしなかったのに、と、呟くと、ノラは笑った。
「力には自信があるので。……さて、あなたにはもう一仕事していただきましょうか。」
ノラは被っていた帽子を少年の頭の上に乗せ、白紙の紙の束を渡した。
「私が盗み出している間、あなたには囮になってもらいます。これを持って、出来るだけ遠くまで逃げてください。車を置いた林とは反対方向に行くのですよ。終わったら必ず迎えに行きますから。くれぐれもつかまらないように。」
「……。」
紙を抱きしめ、少年は俯いた。不安なんてものじゃない、強い恐怖が、全身を駆け巡っていた。それを察し、ノラは少年が着ているジャケットのポケットから、金の包み紙のチョコレートを出し、少年に食べさせた。
「安心しなさい。先程ちらっと走っている姿を見たのですが、陸上選手顔負けの速さでしたよ?あなたなら大丈夫です。」
舌の上でチョコレートをゆっくり溶かしながら、少年はノラを見つめた。チョコレートの甘さと、彼の優しい声色が、徐々に緊張をほぐしていく。やがて決心し、少年は紙をぎゅっと抱きしめ、部屋を出た。すぐに、外が騒がしくなったので、ノラは廊下に出て、窓の外を見た。少年はもう、林に飛び込んだ後だった。警備員が次々に、彼を追っていくのを見てから、ノラは自分の仕事に取り掛かった。
「さて、あの少年は、どこまで頑張ってくれますかねぇ。」
ニヤリと笑いながら、彼はダイヤルに手をかけた。
一方、少年は、無我夢中で木々の間を走っていた。風で帽子が飛んだのにも気づかないまま、警備員の怒号を背中で聞きながら。紙を見るなり、彼らは慌てて追いかけてきた。適度な距離を保つため、少年はあまり本気で走っていない。振り切ってしまうと意味がない、と、無意識のうちに思っていたからだ。
道なき道を、少年は走り続ける。ほとんど無心で、紙をしっかり抱えたまま、草木の間をすり抜けていく。しかし、急に木々が減り、気が付くと、彼は林を抜けていた。それが何を意味するか、少年は一瞬わからなかったが、たくさんの懐中電灯の明かりと銃口を向けられて、やっと悟った。
「動くな、紙を下に置け。」
これ以上逃げようがない。周りには建物も木もない。後ろには地下トンネルの入り口があるが、郊外の人気のない道には、車は全く通っていない。高さを見た所、飛び降りたらただでは済まないだろう。少年は紙をゆっくり足元に置き、言われた通り手を挙げようとした。が、急にイヤホンから、聞き覚えのある声がして、少年は一瞬動きを止めた。
『私が「いち」と言ったら、そこから飛び降りなさい。』
ノラの声だ。死ねとでもいうのか。だがもう、藁にも縋る思いだった。銃を構えた警備員たちが、ゆっくりと近づいてくる。ここで捕まったら、トゥエルヴは……!
『……さん……にぃ……』
少しずつ、少年は後ずさる。踵がギリギリのところまで来たとき、
『いち。』
と、ノラが言った。その瞬間、少年は後ろ向きに段差から落ちた。空中で回転し、黒い車の屋根に着地した。高速で動き、かつ衝撃で揺れる車体に必死でしがみつき、生きた心地がしないまま、走行し続ける車の上で、少年はうずくまっていた。
やっと車が止まったので、少年は顔を上げた。車は、街の明かりが星のように見える丘の上にいた。
「少年、生きていますか?」
運転席から、全く平常心、という表情で、ノラが出てきた。安心した少年は、長く息を吐いた。安堵した瞬間、右足首に激痛が走り、彼は顔をゆがめた。ノラは少年を抱き上げ、助手席に座らせると、靴を脱がせ、足首を診た。
「捻挫……?折れてはいない、か。まぁ、その程度の怪我で済んだのなら、良しとしましょう。」
後で医者を呼ばなくては、と呟きながら、ノラは腕の端末で誰かにメッセージを送り始めた。
「車、傷つけたかな……。」
「今は自分のことを心配しなさい。それに、車はたくさん持っているので、壊したって怒りませんよ。傷くらい、どうってことない。」
そう言うと、ノラは助手席のドアを閉めた。車の屋根には、多少の傷もなく、へこんですらいなかった。しばらくそれが引っかかっていたが、やがて、彼は首を振った。まさかな、と、呟き、ノラは窓越しに少年を見た。よほど疲れたのか、あるいは安心したせいか、少年は眠ってしまったようだ。
彼を車に残し、ノラは先に来て待っていた初老の男に、盗んできた書類を渡した。
「確かに受け取った。……あのガキは、お前の子か?」
「まさか。その辺で買ったんですよ。百億でね。」
男は静かに驚いた。それを見てノラは鼻で笑い、では、と手を振り、踵を返した。
少年を起こさないよう、そっと車に乗り、ゆっくりと発進させる。しばらく車を進め、やがてネオン街の裏のさびれたビル群の一角に着き、拠点にしている廃ビルの車庫に車を停めた。少年は全く目を覚ます気配がない。仕方なく、ノラは彼を抱き上げ、二階の事務所のソファまで運び、寝かせてやった。少年から端末とイヤホンを外し、ベージュ色の上着を毛布代わりに掛け、ノラは反対側のソファに寝転がった。
目を覚ますと、そこは薄暗い屋内だった。少年は、部屋を見渡した。知らない場所だ。急に、心臓がぎゅうっと潰されるような感覚がして、彼は上着を抱きしめた。が、すぐに、少年は安堵のため息をついた。窓の傍らに、缶コーヒーを飲んでいるノラがいたからである。彼はブラインドの隙間から漏れる朝日に目を細めている。
「やっとお目覚めですか。テーブルの上にパンがあるので、食べながら聞いてください。」
ソファの前の低いテーブルの上に、コンビニ袋があった。袋の中には、ノラの好みなのか、あんパンとジャムパンが入っている。少年は迷わずあんパンを手に取った。
「あ、食べる前に、私の上着を返してください。」
ノラは向かいのソファに腰掛けながら言った。少年がジャケットを返すと、ノラはすぐにそれを羽織った。
「さて、話をはじめましょう。」
少年がパンを食べ始めると同時に、ノラは口を開いた。
「いや、あなたは実に運がいい。あなたを囮に使った後、本当は見捨てるつもりでした。」
パンが喉につかえそうになり、少年は慌てて胸を叩いた。缶ジュースを開けて渡しながら、ノラは笑って話し続けた。
「丁度、あの道を通ったので。だから運がいいと言ったのです。もとより、仕事が終わったら、あなたを殺すつもりでした。色々知られてしまいましたからねぇ。でも、それじゃあ面白味に欠ける。だから、賭けをしてみたのです。私が好きな味のパンを食べたら殺す。嫌いな味のパンなら、生かして共犯者として働かせる。私は前者に十億賭けました。」
「……それで、あんたはどっちが好きなんだ?」
恐る恐る少年が問うと、ノラは口端を上げた。
「残念、どちらも大好きです。」
ジャケットの内ポケットから拳銃を素早く取り出し、ノラは銃口を少年の額に向けた。少年は反射的に、ぐっと目をつぶる。
……ポンッ。
間の抜けた音にゆっくりと目を開くと、目の前の銃口から、真紅の造花が飛び出していた。
「賭けはどうあがいても私の勝ち。あなたはすでに私に購入されていますから、生かすも殺すも私の気分次第。久々に楽しかったので、今回は生かして差し上げましょう。報酬は口座を作って、そこに入れておきました。表社会では使えませんし、他人名義ですが。」
ノラは拳銃をしまい、通帳を彼に手渡した。
「どの道、私に協力した時点でとっくに共犯者ですから、今後も働いていただきます。その方が、追われているあなたにとって、都合が良いでしょう。ああ、先程の賭けは半分ジョークですよ。」
逆らう余地もなく、トントンと話を進められていく。というか、追われていることなど、彼に話した覚えはない。どうして、と、聞く前に、ノラは口を開いた。
「最初に出会った時に、あなたの背後に白衣の二人組が見えたので。今朝も、同じ格好の方々に出会いまして、あなたを探しているようでした。面白そうだったので、少しからかってみたのですが……。あんまり楽しくなかったので、つい撃ち殺してしまいました。」
「あ、ああ……そう。良かった。そいつらは、ここには来ないんだな。」
ありがとう、と言うと、ノラは微笑んだ。なぜ追われているのか等、特にこちらの詮索はしないらしく、彼はコーヒーを一口飲み、以降白衣の二人に関することは言わなかった。そういう性格なのか、それとも、なにか企んでいるのか、彼の表情からは分からなかった。
「……ああ、そういえば、名前、まだ聞いていませんでした。名前くらい知っておかないと、やりづらいですからね。」
「え、あ、名前……ないんだ。“ファイヴ”って、番号で呼ばれてたから。」
ノラは、そうですか、と笑った。嘲笑ではなく、同情するような、複雑な笑みだった。
「別に、ファイヴで良いよ。気にしてないから。」
ファイヴはそう言うと、再びあんパンにかじりついた。ノラはすぐに表情を切り替え、優しい笑顔を浮かべた。
「食べ終わったら、シャワーを浴びなさい。あなたが寝ている間に、服など色々買って来たので、好きなのを着て良いですよ。」
「……初めから、生かすつもりだったんじゃん。」
と、ファイヴが言うと、ノラはええ、と返事した。
「子どもはからかい甲斐があって面白い。生きた心地がしなかったでしょう?その感覚こそ、生きているという証拠なのです。それを味わってほしくて。」
「ああ、ものすっごく味わった。もう十分だからな。」
ノラの顔が、意地悪そうな笑みに変わった。色々な笑顔を持っているな、と、ファイブは呆れながら、彼をにらんだ。
「……ああ、わかりました。今後は控えますから、そんなに怖い顔しないでください。」
控える、か。ため息をつきながら、ファイブは目の前の変人を見つめた。話せば話すほど、この男はよくわからない。
「私はこれから、少し出かけてきます。このビルは地下一階から五階まで、私のものですので、自由にしていて構いません。ただし、外には出ないこと。この辺は、明るい内のほうが物騒なので。どうしても昼間に外出したい時は私に言ってください。」
「うん、わかった。」
彼の返事を聞きながら、ノラは腰を上げ、足早に部屋を出ていった。