中央線
中央線
落ちていく夕陽、遠ざかる雑踏、伸びゆく影。快速電車を乗り過ごしたホームに落ちたその影がどうしてか僕には二つに見えていた。それに瞳が吸い込まれていきながら。
東京都新宿区新宿駅。世界一の乗降者数を誇るその駅で僕らは最終列車を待っていた。
「千冬。」
あてもなく隣に立つ彼女の名を呟いてみたもの師走の寒風のせいか、はたまた列車を待つ人々の喧騒に僕の頼りない声が遮られてしまったのか、彼女の耳には届くことはなかったらしく数秒の沈黙が僕らを支配した。
「いい日だったね。」
風に晒されたのか多少のアルコールのせいなのか彼女はマフラーから少しだけ出た?を赤らめながら細い声で呟いた。
「ずっと幸せでいようね。」
続けざまのその言葉に僕は「うん。」と頼りない声で返すことしかできなかった。右手に持った紙袋がなんだか重く感じられた。轟音が響き夜の帳が下りた。
東京都三鷹市三鷹駅
隣に横たわる彼女の寝息で眼を覚ます。イヤホンからは「きのこ帝国」が流れたままになっていた。午前4時。もう夢を見ることのできない僕はそっと毛布から抜け出し冷たくなったコーヒーを口に含み煙草を燻らせた。
「こんな風に毎日が過ぎるならそれはそれでいい。」
無邪気に眠る猫のような彼女の顔を見るたび僕はそう思うのであった。夜が明ける。
「おはよう」
午前11時、彼女の声で目を覚ます。夢は結局見なかった。「猫のポーズ」をしながら
「今日はどこに行こっか」
と僕に問いかけたのか独り言を呟いたのか判別できない声のトーンで呟いた。
「千冬が、行ったことがないところがいいな。」
そう言って僕はまた優しいふりをするのだった。
東京都中野区中野駅
聳え立つ白璧。
「これ、なんて言うんだっけ。」
「サンプラザ中野。」
寒空の下、とりとめもない会話で暖をとる。最高気温4度、テレビのアナウンサーが顔の見えない視聴者にそう伝えていたことを思い出した。たった数時間前のそれは随分昔のことに思えた。千冬と過ごす日々に時間など無かった。日々を磨耗して生きていくことに比べたら何十倍もこの生活が幸せだった。「インスタ」でウケの良さそうなカフェ・レストランで食事をとった後ふともう日が暮れかけていることに気付く。師走の日没。その黄昏れと郷愁は僕らを心地の良い晩酌へと誘った。
東京都三鷹市三鷹駅
「・・・」
誰かに手を引かれ意識が蘇る。その手の冷たさと微弱に残った温もりから僕はその手の持ち主が千冬だと気づくのにさして時間は必要としなかった。
「たくみ、降りるよ。」
誰だろうその人は。ああ。自分の名前か。どうやら深酒をしてしまったらしい。
「ごめん。」
今日は何を千冬に話したんだろう。意識の深淵に語りかけるも何も応答はなかった。
「ありがとう。」
不意に口をついたその言葉に隣の彼女は少し驚いた顔をしながら「いいよ。」とでも言いたげにその手を強く握った。満たされてしまったような気がした。外灯の光に照らされる帰り道は僕たちだけのもののような気がした。夜が深まっていく。
東京都杉並区高円寺駅
千冬の2時間にも及ぶ遅刻を許した優しいふりをした僕と彼女は酒を片手に煙草をくゆらせていた。今日は千冬の日らしく彼女の口から言葉が止まらない。僕は薄っぺらな笑顔を顔に貼り付けて自分が相槌を打っている気がしてならなかったが千冬の顔を見るとそんなことは心底どうでも良くなっていた。何よりそんな自分が大嫌いだった。彼女の過去を知れば知るほど彼女のことを愛おしく感じていった。それがどんな過去だったとしても。
「これが幸せなのかもね。」
千冬のその言葉に強く頷くことができた。ふとした沈黙。その瞬間僕の携帯が鳴った。
「久しぶり、今千冬と飲んでるだろ?よかったら2人でうち来いよ。」
電話の主が溌剌とまくし立てた。「誰?」と千冬が問いかけるような雰囲気で僕を猫のような目で見つめた。
「光だよ。家にこないかって。」
「久しぶりに会いたいし行こうよ。」
彼女の返答はすでにわかっていた。僕らは聖域を出て紺色の空のもと彼の家へ急いだ。
東京都杉並区荻窪駅
「乾杯」
何に乾杯したのかはわからなかった。ただこの3人でいることが幸せに近いものだと感じることは無理なことではなかった。アルコールで頭が霞む。2人にはどこまで出会ってから半年にも満たない2人は僕の何をどこまで知っているのだろう。不安が僕を押し潰す。
「ごめん。寝る。」
そう2人に告げ僕は薄い布団にくるまった。
東京都新宿区高田馬場駅
僕は饐えた匂いの立ち込める裏路地に1人でいた。些細なことで千冬は僕の前から姿を消した。僕の紡いだ言葉で彼女を困らせ傷つけ悲しませてしまった。「千冬に飽きる」「幸せに生きる」「愛してる」虚空に消えていった言葉が蘇り僕の頭の中に反芻する。僕のことなたちは彼女の重い鎖になっていたのかもしれない。ふと思いつき光に電話をかけるも彼とも千冬はあっていないらしい。それから何日経っても彼女と会うことはなかった。大学構内、2人で行った古着屋、美味しい酒を飲んだ居酒屋。どこへいっても彼女の姿はなく僕の瞼に彼女の影が映るだけであった。ふと心に浮かぶ日々。本当に僕は千冬のことをしれていたのだろうか。千冬は僕をどこまで知っていてくれたのだろうか。幸せな日々。もう戻らない。暗闇と静寂が僕を包んだ。
再び東京都新宿区新宿駅
春の夕暮れ。自分の影を眺めていたら、千冬のことを思い出してしまっていた。幸せだったあの日々。千冬への愛情。それを思い出すたびにあの日の写真を見てしまう。しかし春。僕には新しい友達も彼女もできた。その日々が僕の中へと浸透するたびに彼女は霞んでいく。「いつかこんな思いもいつか消えてしまうんだろう」
きのこ帝国のボーカルがそう歌っていた。僕は変われるのだろうか。人を傷つけずに済むにだろうか。自分のことを知ってもらえるのだろうか。僕は・・・。僕は・・・。僕は。
意識の波に揉まれていると財布から保険証が落ちた。永井樹。名前の欄にそう書かれたそれを見て僕は
「あぁ、本当の名前さえ千冬は知らなかったんだ。」
と一人でに呟いてしまっていた。
今日も僕は優しいふりをして息をしていた。