暗殺剣 飛輪
俺はぎいと扉を押し開いた。
その音で向こうが察したか、重圧は消える。ミカリが「マナの気配を消せるのは相当な熟達者じゃ」とささやいた。俺は素早く視線をめぐらし接敵に備えた。
だだっ広い、館の中でもひときわ高級そうな一室。
けれど天井はここまでの廊下と同じくさほど高くない。マチェーテの宿泊していたシャンデリアのあるような部屋とはちがう。
家具はもともとないのかどかしているのか、ひどく殺風景で。申し訳程度に壁にかけられた横長の絵画と、足元に広がる複雑なパターンの絨毯だけが薄く埃をかぶって奥の方へのびている。
そこに……いた。
「おいカナン!」
両腕両脚を鎖で拘束され、横になった姿勢で壁際に転がされている。
口には猿轡が仕掛けられており、彼女は俺の視線に気づいたかはっと紫紺の瞳を見開いた。
俺たちの乱入に、なにか声をあげようとしていた。
よく見ればその横にも人影が転がっている。いかにも女の子女の子した格好で、青みがかったツインテールを振り乱し、鎖に手足を囚われてカナンと同じ状態にされていた。あー、カナンさんはこのことを言いたかったのかね。
「なんにせよ無事そうでなによりだ。遅れて悪かったな」
俺はつかつかと近づく。カナンはぶんぶんと首と身体を振っていた。元気そうだしその様子だと変なこともされてなさそうだな。幸い幸い。
「まあ待ってろ暴れんな。すぐに解いてやるからよ」
言いながら鎖を眺めて、俺はカナンの足元にたどり着く。
「あ、でもその前にだな」
言葉を切って、カナンから目を外す。
即座に。
俺はツインテールの頭を右かかとで蹴りつけた。
「――――っはははは! 容赦ないねぇきみ」
すんでのところで踏みつけをかわし、瞬時に鎖を外して身を翻したツインテールが大笑いした。
くるんと一回転して窓辺へ降りたつ動きに合わせ、二本の青髪がふわふわと揺れた。
「あの好色領主が相手だから、いい策だと思ったのにぃ。まさか当人がこっちに来ないとはね」
「しょうがねえだろ。だってお前らがさらったの、あいつが雇った娼婦じゃねぇし」
「……え? あんなに銀貨持ってて、あんなにやらしい体つきしといて?」
「そうだよなーって同意するしかないんだが、娼婦じゃなくて俺の召喚士だ」
「あらー……まちがってさらっちゃった。まいっか。領民にはちがいないし人質にはなるでしょ。実際、いま正面の方で交渉入ってるみたいだし」
切り替えの早いことで。
「で、目的はなんだ? 宿にいた連中の言葉から察するに、領主へ反旗を翻すようだが」
「うーん。悪いけど首謀者じゃなくて雇われの身なんでね。詳しいとこは教えらんなーい」
「雇われってのバラすのもあんまよくないだろうと思うがな」
「まぁまぁ、そんくらいは許してもらえる範囲なのさ。それにしてもきみ、よく偽物だって気づけたね」
言いながら、ツインテールは本性を現した。
ずんと胃の腑に響く重圧が、
小柄で華奢なひとの形をとって窓のふちに腰を下ろしていた。
月明かりを照り返す、青みがかった肩までのツインテール。
喉元を浅黄色のマフラーでくるみ、オフショルダーの白トップスを身にまとうためなんとも鎖骨から肩にかけてのラインが煽情的だ。
軽く膨らんだパフスリーヴからのぞく細腕は、肘から先を暗く黒いなめらかな手套でしっとりと包んで。
胸元から下は空色のジャンパースカートでふっくらと身体のラインを覆い、腰つきから先はパニエで大きく膨らませているらしく量感がある。
ほっそりとした、白タイツと革靴をはいた脚をすうっと組む。
ツインテールは、澄んだ青灰色の瞳を開いて、俺たちにニイと微笑みかける。
「どうも眼力はたしかなようだね。マチェーテが援軍として呼ぶだけはあるなぁ……確実な勝利の方を取ったか。ふふふ、思い切った作戦に出たね、彼」
ころころと笑って膝に頬杖つく。
身をよじり、身体を曲げたときのS字ラインが強調されるような座り方だ。
俺はため息をつきながら、笑い続けるツインテールへ返す。
「思い切った策に出たなってのは、俺も同じ感想だ」
「ん? なにがかな?」
「女装だろお前」
「おや。もうバレちゃった」
あっははは、とまた大声で笑う。
ミカリがえ、と濁った音でぼやき、俺とツインテールを交互に見ている。
「……アレが男……なのか?」
「男だろどう見ても。華奢なのとスカートの腰の高さでぱっと見の骨格ごまかしてるが、喉元隠してるのと動いたときの太腿の筋肉の張り具合とでわかるだろ」
「わからぬ……」
心底困ったような顔されましても。
一方で、ツインテールもまた困り笑顔になっていた。
「えー、それにしてもこわっ。一目でバレたのなんてボク数年ぶりかも」
「地味に歴が長いのを暴露したな。なんだ? 潜入とか暗殺用に身につけた技術か」
「実用的にはそうした用途もあるけど。基本的にはボクのシュミだよ趣味」
ふふふ……と笑みを弱めていき、
はー、と一息。
真顔になって、ツインテールは手套に包まれた両掌を胸の前で合わせた。
「というわけで暗殺者、でーす。名前はルゥシィとでも名乗っとこうかな。それじゃ、まだこれからマチェーテを脅さなきゃだし……とりあえずお二人さん、死んどこっか?」
言って、手のひらを離す。
隙間に光が差し、銀色がのぞいた。
左右の手の間を離せば離すほど、銀色は増えていく。
そこにあったのは――重ねて運ぶときのお皿のようにじゃらんじゃらんとうごめき揺れる、薄い銀の円盤の重なり。
いや円盤じゃないか。輪だ。
縁が鋭く研ぎ澄まされた、俺の世界で言うところの『チャクラム』。
それがツインテールあらためルゥシィの両手の内に、ぞくぞくと現れていた。
「召喚か」手套の掌に書き込まれていた陣に気づいて俺が言う。
「せぇーかーい。無機物召喚はあんまり強いと思われてないけど、獣の召喚に比べてマナ消費は格段に少ないし。どこにでも持ち込めて暗殺には持ってこいだし。それにぃ――」
バッ、と両手を掲げる。
空中に数十のチャクラムが放たれる。
それらの動きが、
「パチーン」
口で言いつつ行ったルゥシィの指パッチンで、びたりと止まった。
おいこれ。
ひょっとして酒場の主人がやってたのと同じやつか。
思う俺の前で、またルゥシィは笑みを浮かべた。
「――攻撃手段なら、ほかの術に頼ればいいじゃない」
「二重術師……! 逃げよジュン殿!」
しゃりぃぃぃぃぃぃ、と嫌な高音が響き渡る。
丸鋸が回転してるときの音だ。つまりあとは……わかるわな。
「がんばって避けてね。ボクの風魔術《飛輪剣》!!」
「うおっとぉぉ!」
風によるものだろう超回転をかけられたチャクラムが雨あられと叩き込まれる。
ずるんと足裏を絨毯に滑らせるように後退した俺は、すぐにかかとに当たるものを感じた。カナンだ。目を白黒させて俺を見上げている。
「あははは! ほらほら守らないと!」
「ったくよぉ。人質傷つけようとするかフツー」
「胴体残って生きてればまあ大丈夫でしょ?」
ずどどどど、と床に中ほどまで埋まったチャクラムの群れは、ぎゃりぎりぎりと木材を軋ませて回転を増していく。
その回転力で、床をすっ飛んできた。
俺は慌ててカナンの手を引き抱えあげ、飛来する剣を横っ飛びに回避する。しかし数が多くてかなわん。抱えたままで素早く移動なんざ到底無理だ。
「ミカリ、パース!」
「言葉の意味はわからぬが承った」
俺たちの方へ近づいていたミカリに向かって、全力でカナンをパスする。手袋が脱げて手元に残った。
「あは、狙わないと思う?」
ルゥシィのねちっこい声が聞こえ、指パッチンと同時にチャクラムのいくつかが軌道を曲げた。
だが狙われるのも狙い通りだ。
俺はその瞬間に身体をルゥシィの方へ向け、膝を抜いて《天歩》による急接近に切り替えた。
「うそ、人質おとり?!」
驚いた顔で俺の攻めにたじろぐ奴。まあ囮っちゃ囮だな。でも操ってるのがお前である以上こういう唐突な切り替えの早さは操作性を損なわせるだろうと判断してのことだ。
加えて後ろに控えるのはミカリ。
飛び道具のひとつやふたつ、あいつならなんとかするだろう。
「買い被られたものよ」
と背後で俺の心中を読んだようなため息が聞こえて、
次のまたたきを挟む間もなくジゃリンと剣がチャクラムを斬り砕く音がした。ますますルゥシィは顔を引きつらせ「一発の突きで全輪の穴を同時に通すなぁ!」と叫んだ。ミカリ、お前のことは極芸師と呼ばせてもらおう。
さてこれで後顧の憂いは文字通りなくなった。
あとはてめえをぶちのめすだけだぜ。
「覚悟はできてるか?」
「うわわわ、ちょーちょ、待っまってまっ――――」
目算の身長は一六〇。俺より一〇センチ以上低い。
故に素手の間合いは、俺の方が先に到達できる。
両手を前に突き出して待ったをかけるルゥシィ。
肉薄する俺が踏み込みと共に繰り出す左掌が奴の腕の間合いに入る。
両手で隠れたルゥシィの顔が視界に入る。
手の隙間からのぞいた顔が、
「――なんてね♪」
やっぱ演技かー。って思わせる絶妙のタイミングで慌て顔から笑みへと変わった。
奴の両腕が光を放つ。
じゃり、と軽く内股の姿勢を取りつつ、左右に開いた両脚のスタンスが肩幅程度にまで広がる。
人差し指と小指を除いた三指が、軽く曲げられて前腕に力がこもった。
「っっッせいッ!!」
喝と共に膝を入れ、突き出される双掌。
スムーズな重心移動が腹の底から腕の先端までよどみなく流れを完成させ、俺に重打として叩き込まれようとする。
左掌での打撃をキャンセル。俺はまっすぐ踏み込もうとしていた右足もひっこめ、後ろの左足を軸にぐるんと身を右に旋回し真半身に替えた。
俺の真横を打ち抜く双掌。
その進路上で――空気の層が揺らいだ。
絨毯が轟と毛並みを薙ぎ倒され、暴風の一撃が壁まで一直線に放たれたことを理解させる。
「まだまだぁ!」
この打ち終わりのモーションから止まることなく、己の右手側へ逃れた俺を狙いルゥシィは右前腕を横薙ぎにする。
その腕に、
しゃりぃぃぃぃぃぃ――と。
耳を突き刺す回転音がいくつも連なってまとわりついていた。
バックステップで躱す俺の前に振るわれる斬拳。
眼前で吹き荒れる風。
そう。
奴は召喚した複数枚のチャクラムの穴に両前腕を通し、かつ風の魔術により高速回転をかけるという接近戦用の技を持っていたのだ。
「洪家拳の鉄輪かよ。……つーか、そのための長手套か」
肘まで覆う長手套。
それは摩擦で前腕に刻まれているのであろう跡を、隠すための衣服だったわけね。
俺の視線に気づいてか、右半身に構えたルゥシィは少し笑みに苦さを足した。
「あははは。ちょっとお見苦しい跡になってるもんだからさ」
「ん、なんだ手の内を隠すためのものじゃなかったのか」
「そういう意図もないではないけどね。さてそれじゃ……あらためて、殺しにいくから」
右腕を中段に突き出し、左腕は顔を守るように軽く上段に掲げる。
その間も前腕ではしゃりんしゃりんとチャクラムが回転をつづけており、なんとも攻めにくい。下手に仕掛ければこちらの手や指が飛ぶ。
と言って、膠着状態ってわけでもない。
「っと!」
ヒャンヒュンと音を立て空気を斬り裂き飛んでくるチャクラムも健在だ。
多方向からの飛輪剣を躱しつつ、
「よそ見しちゃだめだなー」
ルゥシィにも注意を払わねばまずい。
ぶおんと正面から拳がうなりをあげる。
大きく前後に開いた足幅。低い姿勢から繰り出される左右の拳が、腹部と顔面を同時に狙い来た。
いつもならば凌切りでいなしてから一撃を入れるところだが、触れられない腕が厄介に過ぎる。スウェーバックと半身を引く動作で避けつづけ、俺は少しずつ後退を余儀なくされた。
攻めあぐね、攻め込まれている。
「ほらほらほらほら!」
重たい拳。
肘を伸ばしたまま前腕の払い。
突き上げる五指開いた掌底。
指先を揃えた鉤手での振り下ろし。
多彩な手技に、翻弄される。
武術としての練度はそこそこだが、術との連携で総合的な戦闘力をかなり底上げしてやがるな。
いまもまた、隙が見えて手を伸ばせそうに思ったが。
「あぶなぁい、よっ」
空手の回し受けに似た動作で前腕を引き戻されると、回転する刃が危険すぎてひっこめざるを得ない。
どうあっても上半身は崩せねぇ。
となると。
「狙うべきは下だわな」
ルゥシィの右直突きが俺の顔面を狙って繰り出された。
この瞬間を狙う。突き終わり、腕の周りを覆うチャクラムの動きと空気の乱れがあるため、引き戻した腕で視野が狭まる一瞬。
俺は一歩で奴の視界から消えた。
右足を前へ出した状態から左足を浮かせ、わざと己の右足小指より外の方へ踏みだすことで身体を横倒しにした。
津無流《叉跨》。
ここから、左足で踏ん張りをきかせて右足で低く蹴り抜く。
狙うのは左膝裏だ。いかに身体強化していようと関節は関節、衝撃で多少なりとも曲がる。
受けて止まるか、あるいは跳躍して避けるか。いずれにせよ体勢を崩すのはまちがいない。
はたしてルゥシィは――跳ぶことを選んだ。
「だったら!」
空ぶった右足が接地してすぐ、今度は左の後ろ回し蹴りを打ち上げる軌道で放つ。狙いは股間、急所。
あとは相手が落ちて来たところに当真打ちで仕留め――って、
「うおおお?!」
「あちゃ、外した」
暴風が頭上を過ぎ去る。鉄こん棒を振るったような音の正体は、ルゥシィの蹴りだった。
あり得ない速度で空中にてぎゅるんと旋回したルゥシィの旋風脚に、あやうく頭部を打ち抜かれるところだったようだ。
右足の接地前に反撃に気づいて身を伏せたからよかったものの、そうでなければ頭蓋が弾けている。
「惜しいなぁ。誘い込めたと思ったのに」
言いながらチャクラムを即座に追撃として飛ばしてきたので、俺はうつぶせ四つん這いから床を蹴って前転しながら距離をあけた。逃れた道筋をズカドカとチャクラムが追い刺さる。
なんだ? なにしやがった? 風の魔術による自分の身体の操作?
いや……ちがうか。
俺は答えを目にする。
飛来するチャクラムと共に突っ込んできたルゥシィが、
両脚が地面を離れているタイミングであり得ない加速を成している。
「武器を、足場にしたか!」
「せーかぁい」
己の周囲に飛ばし操るチャクラムを、足が浮いてる瞬間に足裏に移動させて蹴り、空中で加速する。
この加速が俺の目測の距離感を狂わせる。先ほどの暴風のごとき反撃の蹴りも、おそらく空中で軸足の下にチャクラムを移動、踏みしめた際に足裏から伝えられた回転力で成したものだろう。
足場が崩せないってなんつー反則だ。
「やべえな」
思った以上に難敵。
迫る一撃の重さに、追い込まれてる感覚が強まっていく。
「死ぬよ、死ぬよ。死んじゃうよ?」
楽し気なルゥシィはいよいよ足技も交える。前掃腿、後掃腿、起き上がってまた手技のコンビネーション。上下の打ち分けがこちらの反撃の芽を潰していく。
「……ジュン!」
猿轡を解かれたらしいカナンが叫んでいるのが後方で聞こえる。おう、なんだそんな心配そうな顔して。
「あはぁ。彼女だけでも逃げられたら、話は変わってくるんだろうけどね」
攻め手はやまぬまま。
カナンの声を耳にして、ルゥシィは小ばかにした笑みに変わった。よく笑う奴だな。
「変わってくるってなにがだ」
「あの剣士ちゃんときみと、二人でボクにかかってきたら勝算あるかもよ? まあいまはあの銀髪ちゃんを守るのに離れられないみたいだから無理っぽいけど」
「ああそういうことか。無理っつーか、それはねぇわ」
「ないの?」
「楽しくサシでやり合うときに、横やりなんざ無粋だろ」
左半身になりつつ距離を二メートルほどあけた俺の前で、少しだけルゥシィは動きを止めた。
にいい、と笑みが深く、濃くなる。
「……暗殺とかそういうのばっかやってると、きみみたいなひとにあんまり出会えないんだよねぇ」
「そうかい」
「うん。だからボクもいま、ひどく楽しい。久々なんだよね、出せる手をすべて使い切るの」
「わかるぜその気持ち」
全力を使い尽くしたい。武を極めようとする奴の窮極的な望みのひとつだろう。
それゆえにこそ、目の前の敵が強くあると嬉しい。
「テルシオ」
「あん?」
「ボクの本名だよ。間の音を伸ばしてルゥシィなの。そっちは?」
「ジュン。ジュン・スミスだ」
「ジュン……覚えたよ。残念だなぁ、きみみたいなひととの時間が終わるのは」
「そうだな。俺も残念だ」
どちらもどちらで、そんな言葉を交わした。
おそらくどっちも、己の勝利を確信していた。
「さあ――幕引きだよ!」
ここまでは位置取りでうまく躱していた飛ぶチャクラムを、背後に配置されたのを感じる。
正面はもちろん双掌を構えるルゥシィ本人。
どっしりと低く構え、後ろからのチャクラムに追われた俺が飛び込んでくるのを待っている。
だがこの程度予想できない俺ではない。
「ああ、幕引きだ。――《天歩》」
前に出した右足の膝を抜き、初動の少ない前進から逆の手足を前に送り出し距離を稼ぐ。
急接近で奴の眼前に躍り出て、
踏み込みの際に接地する左足を、右足の外に叩き込んだ。
《天歩》からの《叉跨》。急接近からの急転換、身を横倒しにすることでルゥシィの眼前から消え、一瞬背を向けて地に手をつき、ぐるんと一回転して奴の右手側を抜ける。
背後を取った。
「それも読んだよ」
前へ双掌を突き出した際の風の放出を支えに、後ろに置いていた右足を低く薙ぎ払ってきた。
当然俺は空中へ避ける。
そこへ連ねてくるのは、接近戦の初手でも見せた繋ぎ目なしの前腕横薙ぎ。
振り向きざまの右裏拳が、空中で逃げ場のない俺を襲う。
「ああ」
絶命の一撃が風と共に迸る。
ばつ、ん。
太いゴムを断ち切ったような音が俺たちの間で爆ぜる。
「――俺も、読んでた」
ぎりぎりだったが、間合いを完全に把握した。
左掌で右裏拳を受け止め。
右足裏を、伸びきった奴の右膝に着地させていた俺は、静かにそう告げた。
《天歩》《叉跨》……からの、《白浮》。
空中に跳んで「もう躱せない」と誤解させてからの、カウンター。
ミカリとの戦いのときのように『体勢を崩されている』のでなければ、自分の意志で空中におり自身の意思で肉体を十全に動かせるのであれば。俺が《白浮》を使うのにはなんの問題もないのだ。
靭帯が断裂した致命的な音だった。ぶわっと汗を噴いたルゥシィは、苦悶のうちに無言で崩れ落ちる。激痛で集中が途切れたためか、チャクラムの回転も止まってからん、がらんと腕から空から床へ次々に落ちていった。
距離を詰め、俺は左掌を奴の頭にかざした。
「言い残したことはあるか?」
「……ははは。もし食べるのに困って、手段を選ばないと決めたときがあれば。《大雑貨》という闇の寄り合いを探しなよ。テルシオに聞いたといえばきっときみならすぐに幹部にもなれる」
「考えとこう」
当真打ち。
額を打ち抜いた。
ルゥシィはどうと絨毯に倒れて動かない。
……息はある。首に致命打を与える、まではいかなかったようだ。
別にこれは手を抜いたわけではなく、左掌の方が近かったから使っただけで。加えて左掌はいまの白浮で受けに用いたせいで少し痛み、伝達力が低下していたためだ。
「まあ。そういうこともあるだろ」
そして俺は決着がついたあとの相手をわざわざ殺すことはない。横を通り過ぎ、ミカリとカナンの元へ戻った。
「まーなんか疲れる夜だったな。さっさと帰ろうぜ」
二人に声をかけて、大あくびをかました。カナンは張りつめていたのか、どっと疲れた顔である。ミカリは納刀して額の汗をぬぐっていた。
「こんな目にあったのにノリ軽いよね、ジュン」
「深刻そうにしたら余計に疲れるだろ」
「まあたしかに……でもなんかごめんね。私がしっかりしてないばっかりに迷惑かけて」
「気にすんな。帰って早く寝て忘れろ。今日は部屋の外で番をしててやる」
ぽんと肩を叩いてやると、相当に筋肉がこわばっていた。
なんだかんだで、緊張していたのだろうと俺は察する。ぷはあと息を吐いて、ようやく彼女は肩の力を緩めていた。
「……慣れてるつもりだったんだけどな」
「あん?」
「いやこっちの話。それと……おとと」
腰が抜けているのかまだ立てない様子のカナンは、俺とミカリの手を借りながら立ち上がって、ちょっとふらついたのか俺にすがりついた。
「大丈夫か」
「うん、平気。ありがと……で。それと、ね。あの、今日は外じゃなくていいから」
「おう?」
「……中でいいから」
おう。
なんだ。
前後の文脈無視するとかなり際どい発言したように聞こえたぞ。
だがさすがに茶化すような場面ではないので、俺はもう一度真剣そうに「おう」とだけ返しておいた。さらわれた今日の今日じゃ不安なんだろう。
「さって。じゃあ帰るかね」
「じゃの」
ミカリとうなずきあい、俺たち三人は離脱に移ることにした。
ふっと窓から三人で外を見ると、正面玄関でなんやら話し込んでいたマチェーテがこっちを見上げていた。頭上に両腕で大きく丸をつくって奪還成功を示してやった。
一瞬驚いた顔をして、すぐに状況を察したのか。彼は交渉していた相手につかつかと近づいていった。相手があたふたしているのが見えたが、どずんどずんと鈍い打撃音が聞こえ始めたのでまあすぐに終わるだろうと俺は判断する。
こうしてながーい夜が、終わっていった。




