霜月小春編④
活路を見出すために究極に近い選択肢を迫られた時、果たしてどうすればいいのだろうか。
リスクとコストを計算し、被害の少ないほうを選ぶべきか。
あるいは自分勝手な価値観と判断で優先順位を設定するか。
それとも、どちらも選ばず、全てを助けるか。
私に迫られた選択肢は、本当なら迷うこともないものだった。
恩人に託された大切な「人間」と、私が作り出しただけの「彼女たち」など、その重要度ははるかに人間のほうが高いはずである。
しかし、私は迷った。
彼女たちを消しても、本来なら私が創り直してあげられる。私が生み出したキャラクターたちの全ては私の一部でもあるのだから。
でも私が消えてしまったら?
代わりの管理者が彼女たちの容姿を再現できたとしても、それはこれまでの記憶を留めてはいないただの器でしかない。
だから、私にとってはどちらも大切で、ただその両方を見つめたまま、そして愛する人を想い、その瞳に涙を溜めることしかできなかった。
「なるほど、心の非合理もなかなか面白い。欲しいとは少しも思わないけど」
悪魔のような少年は余裕の嘲笑を浮かべて彼女たちを見た。
「アレが消えたら君の負担が軽くなるんだね?」
その笑みの意味を、その後に彼がしようとしていることを理解してしまった。
「紗雪さん!」
その場しのぎにしかならないとわかっていても私は現状維持を叫んだ。
直後、獣の咆哮のような威圧を伴った閃光が彼女たちを消し飛ばそうと疾走し、何かに阻まれて無数の光に裂けた。
「んー? ああ、へぇ~」
攻撃は続けたまま、管理者である人工知能トトは感心したように、そして楽しそうに無邪気な笑顔をその顔に貼り付ける。
「人間の管理者がどうやってこんなところに存在しているのかはわからないけど、貴女は僕の邪魔をしたいんだね」
楽しそうに顔を歪めるその姿は新しい玩具を与えられた子どものそれである。しかし、内面にあるのは心とは言い難い歪んだ異端。
だから私は決断へと歩き出す。一度は人間とプログラムを壊れた判断の天秤に、そしてそれすらも放棄し、自らの消滅という選択肢すら生んだ問いの解に向けて。
「小春……」
「キャラクター」のひとりである紅音さんが、歩み寄った私の名を真剣な表情で呟いた。
「紅音さん、陽美さん、七海さん……」
「迷ってるんでしょ?」
「……はい」
「でもね、迷ってる暇なんてないわよ。さっさと私たちを消してあいつをぶっ飛ばしなさい!」
「……ごめんなさい」
「……幸人! 絶対幸せになりなさいよね!」
「ユッキー! 一緒にデートしたり、楽しかったよー!」
「幸人さん~、『私たち』のこと~、忘れないでくださいね~」
3人は決して暗い表情をせず、その心にすら悲観した感情はないまま、ゆっくりとその姿を光に変え、私の涙を拭いながら虚空へと消えた。
「合理的な判断ができたんだね。えらいえらい」
「どう考えてもあなたのほうが不利だと思いますよ? トト」
「そうだね。壊れているとはいえ同格の権限を持つ人工知能に、僕たちより上位の権限を持つ人間の管理者……」
そう言うトトの顔には焦りや怯えなど少しもない。
「状況は何一つ君にとって良くなってはいないんだ」
紗雪さんがそっと腕を伸ばしたのを見てトトの口がより大きく横に裂かれた。
「やってみるといいよ、人間」
「待ってください紗雪さん!」
制止したのも叶わず、紗雪さんの本気の権限の閃光が走ってしまう。
きっと彼の狙いは……。
小春の迷いと決断、そして紅音や七海、陽美先輩の消滅。立て続けに色々なことが起こって正直思考が追い付かない。
それでも、勝手に体が動いていた。
紗雪の指先から飛び出した光の槍がトトの右腕を消し飛ばしたと同時に小春の右腕も同様に消し飛んでしまったのだ。
「やはり……」
「そう、面白いだろう? 君が傷つけば僕が傷つき、僕が傷つけば僕が傷つく。元々は僕たちに組み込まれるはずだったプログラムだよ」
「それを適用したんですね……!」
双方の腕はすぐに再生されるが、表情は全くの真逆だ。苦虫を噛んだような小春と余裕いっぱいのトト。
「これは君にとってもチャンスでもある。壊れ、僕より劣ってしまった君が僕を倒すことができる、ね」
君も消えてしまうけど、と言い放ち、すでに勝ち誇るような笑みを浮かべている。
「……トト」
「ん?」
「せめて1時間……時間をください」
「いいよ。きっちり1時間したら戻ってくるから。……ああ、このリンクプログラムを解除しようとしたら僕は容赦なく自分の核を潰すからね」
トトとその配下らしい人工知能たちが消えると、小春はゆっくりとこちらに歩いてきた。
「ごめんなさい……幸人様」
「何か策は……?」
「……ありません。私とトトがリンクしてしまった以上、彼だけを排除することはできなくなってしまいました」
「どうするつもりなんだよ!」
「……」
「まさかこのまま……」
そんなの嫌だ。
結局は失われてしまう運命の上に立っているとしてもそれを受け入れて肯定することなんて出来はしない。
「いいですか? 幸人様、私がデート中に言った約束を思い出してください」
小春の願い。
「それをちゃんと覚えていてくれるなら私は……」
しかし言葉は続かず、彼女の瞳からは大粒の涙がとめどなくあふれ出した。
「消えたくない! 私……消えたくないのにいいぃ!」
泣き顔を見たくなくて、でも彼女と離れたくなくて、俺は目を瞑って彼女を抱きしめた。
「ずっと、ずっと幸人様と……小春さんと、皆と……一緒に……」
「……ああ」
「一緒にいたい! 離れたくない! せっかく好きになって、好きって言えて、好きって言ってもらえたのに……!」
「聞こえるかしら?」
突如、場違いなくらい無感情な声音が反響するように響いてきた。
姿は見えないが確かに聞こえた声。
俺の知り合いでこんな話し方をするのは一人しかいない。
「お姉ちゃん……」
紗雪の呟きに声の主である日和が息を飲むのがわかった。
「日和……ごめん! 私……ダメだった」
「……そうね。こっちこそごめんなさい。あなたを彼のところに送らなければきっとこんな結末にはなっていなかったでしょうね」
少しの間が空いて、まるで日の出のような光が視界を覆ったと思ったら、そこには霜月日和が立っていた。
「お前……何でここに……!」
「私の家にある機体から、アバターをインターネット経由で送ったのよ。『この子』のサポートでね」
そう言って一歩右にずれた日和の後ろから姿を現したのは、金髪ツインテールでメイド服を着た少女。
人工知能のデフォルトの姿のそれだった。
「この子はELSの人工知能たちのデータを基に新しく造った個体。心を持たないただの器」
「もしかして小春をその『器』に?」
「……いいえ、その子をそのままコピーすることはできないわ。そんなことをしても短命なその子がもうひとりできるだけだもの」
「……じゃあ何しに来たんだよ!」
そんなことを言って、ただその器を見せるためだけにわざわざ来たっていうのか?
冗談じゃない! ただでさえ短くなってしまった大切な時間をこんなことで奪われるなんて……!
「落ち着いて話を最後まで聞きなさい。確かに、この子をそのままコピーすることはできないわ。でも、彼女の要素をある程度引き継がせることができるの」
「それ、どの程度なの!?」
小春の希望に満ちた問いかけに、日和はその無表情をやや曇らせる。
「記憶や心に関しては全体の2割程度……バグの汚染状況によっては限りなく0に近い可能性もあるわ。」
「引継ぎ後に、私が皆さんを覚えていられる?」
「……わからないわ。記憶はあるけど感情が伴っていない、あるいは感情はあるけどなぜなのか覚えていないなんて可能性は十分にあるわ」
「そう……」
「でもね、科学者の私がこんなことを言うのは変かもしれないけど……心が起こしてくれる奇蹟っていうのを私は信じたい」
無表情が穏やかな笑顔に変わる。滅多にない貴重な普通の笑顔。それにつられるように小春も笑みを浮かべる。
「例え何も覚えてなくても、私の存在を次に残せるなら……」
小春は無表情な少女の目の前に立つとその手を取った。
「私を、貴女にあげます」
「……決まりね」
「でもお姉ちゃん、どうやってやるの?」
「……姿と声が違っていても、やっぱり小春は小春なのね」
「お姉ちゃん?」
「この子は権限がある限り一切の引継ぎが行えないようになっているわ。私や小春の権限でもそれは変えられない」
「それじゃあ引継ぎできないってことじゃないのか?」
「ほとんど博打のようなものだけど、この子が消える直前に引継ぎを実行するわ。完全に消えるまで、わずかだけど時間がある。この子の権限が消失すると同時に引継ぎを実行するしかない」
「……ほんとに博打だね」
小春は笑いながら、それでも残された希望を浮かべていた。
「でも一瞬じゃ……」
紗雪の言葉に日和はすぐ俺に目線を向けた。
「だから霧島くん、この子のことを抱きしめていて」
「え?」
「強い感情なら消える流れに逆らえるかもしれないから。あなたと離れたくないっていうこの子の気持ちを、絶対に離さないで」
「とりあえずこの空間の維持はもうこの子に任せるわね」
日和がそう言うと、金髪ツインテールは無表情のまま頷いた。俺には何もまったくわからないが、今はもうその子がこの空間を制御しているのだろうか。
「残りの時間は20分ですか……幸人様、少しお話しませんか?」
小春がそう言うと日和と紗雪は頷いて離れてくれた。
「今まで、本当にありがとうございました」
「……どうしたんだよ、急に改まって」
「幸人様にお礼を言ってないなーって思いまして」
「お礼?」
「このゲームをプレイしてくれたことへのお礼とか、私のことを好きになってくれたお礼とか、いろいろとです」
「こっちこそありがとう。お前のおかげで人生の中で一番楽しくゲームできた。多分俺、現実でもちゃんとやっていけると思う」
「それはよかったです!」
「それに、お前と出会えて、こうして好きになれて、本当に良かったし、嬉しかった」
少し恥ずかしくても、伝えられることは伝えておきたい。
伝えられなくなるとかならないとか関係なく、伝えたいときに相手に言葉を贈りたい。
「……俺、プログラマーにはなれなくても、日和とか小春さんと一緒に何か創りたい。お前に会えたことが無駄にならないように」
「……それはいいアイディアです。私を超える完璧な人工知能を創って、その子を幸せにしてあげてください」
「ああ……約束する」
「さて、もう少しで時間ですね」
「話し合いは終わったようで何よりです。どうやら「創造主」が別の機体からログインしてきているようですがどうせ僕たちの運命は変わりません」
トトは相変わらず無邪気に笑いながら空間に嫌悪感をまき散らしてきた。
「その個体が新しい統治者ですか。なるほど、心を持たせなかったんですね」
「トト、あなたがそこまで不完全になってしまったのは私の愚かさのせいかもしれないわね」
「不完全……僕が? ははっ! 面白い冗談ですね。制御できない感情に振り回された小春ではなくこの僕が不完全だと?」
「人間でさえ、感情の完璧なコントロールは難しいものよ。恋愛感情の欠落したあなたにはわからないでしょうけどね」
トトはそれでも表情から笑顔を消すことはなかった。
「それじゃあ全てを終わらせるとしようか」
そう、ただ終焉を示す言葉を残し、統治者は俺達からやや離れたところに立った。
まさしく何かの儀式でも始めるような雰囲気が漂う中、小春が俺の左手を握りながらトトと向き合う。
「日和、せっかく来てるんだから最後はあれで」
「ええ、わかったわ。……最終コード、完全初期化。認証、管理者『霜月日和』」
日和の名とともに深い青色の空間が淡い輝きを放つ。
「なるほど、管理者である僕たちが互いに消滅を選び、全てをリセットする初期化コード……いいね。それがいいよ」
トトは無邪気に笑う。
「最終コードが解除された今、私たちに消滅以外の道はありません」
2人は穏やかな笑顔で互いに頷きあい、同じタイミング、同じ動作で両手を上に掲げて天を仰いだ。
『愛はすべてに通ずる』
小春の口からこぼれた言葉は空間の輝きに反応し、その小春の体をも淡く輝かせる。
『自分自身の感情には、気を許してはいけない』
トトの口から飛び出た言葉もまた空間を、そして彼の体を淡く輝かせる。
「日和!」
小春はこちらを向き、俺の隣に立つ日和に笑顔を向けた。
「私を創ってくれてありがとう。私を育ててくれてありがとう。私に心をくれて、本当にありがとう!」
「あなたを創って、本当によかった……ありがとう!」
日和は無表情を感情いっぱいに歪めて涙を零し、泣きながらも小春をしっかりと見つめていた。
「小春さん!」
続いて少女の目は、日和と反対の隣に立つ紗雪……いや、小春さんへと向いた。
「目覚めてくれて本当に良かったです! あなたからもらったこの心があったから、大切なことを知ることも感じることもできました。ありがとうございます。……どうかお幸せに」
「小春……さん」
紗雪も姉と同じように涙をいっぱいにあふれさせながら、それでも笑顔で少女を見つめる。
「……そして幸人様!」
少女は最後に俺のほうを見た。
心なしか体の輝きが強くなっているように見える。
笑ったその瞳にはすでに大粒の雫が溜まり、今にもあふれ、零れ落ちてしまいそうだ。
「絶対また、必ず幸人様に会いに行きます! 例え幽霊になっていたり生まれ変わったとしても必ず! ……だから必ず、幸せになってください」
「……行ってあげなさい」
日和に背中を押されて数歩前に歩くと、淡い輝きを纏った彼女が涙を流しながら俺を抱きしめてくれた。
「とうとう最期ですね、幸人様……」
「絶対幸せになる。新しい管理者も必ず幸せにする。お前のことも絶対に忘れずに待ってる!」
「この数か月、幸人様と一緒にいられて幸せでした」
「俺もだ。……愛してる」
最後のキス。今までよりも長く、情熱的に。
ゲームの中だというのにしょっぱい、涙の味。
心を締め付ける痛みと苦しさ、そして好きな人のそばにいる安心感。
恐らくこの瞬間にしか存在しないであろうこの感情を胸いっぱいに満たし、楽しみながら、彼女の感触が消えるその瞬間まで、俺は彼女を離さなかった。
「さようなら、幸人様」
トトとほぼ同時に消えるその瞬間、彼女の最後の言葉が俺たちの意識に響いた。
「さあ小春、やるわよ!」
「うん、お姉ちゃん!」
ここからは俺ではなく日和と小春さんの姉妹の出番だ。
散り散りになり消えていく『小春』の断片をかき集めて繋ぎ合わせ、次の管理者となる人工知能の器に注いで再構築する。
こうして言葉にすること自体は簡単であるが、実際の作業は目隠しで綱渡りをするようなものだと二人は言っていた。
「この初期化を選んだのは正解ね。比較的……ではあるけど断片が集まりやすいわ」
「でも記憶は……」
「……せめて彼のことくらいは、彼に対する気持ちは残してあげたい」
半透明のコンソールを操作しながら、二人が険しい表情でそう呟く。
「……そうだデータ!」
「小春?」
「幸人さんと出会ってからの彼女の記憶……そのほとんどを私も預かってる!」
「いつの間にそんなことを……」
「私にバックアップとしてその記憶を預けてたの。感情のデータはないけど……」
「それにそのバックアップがちゃんと定着してくれるとは限らないわ」
「それでも……やってみる!」
ひとつの運命が終わり、新たな流れへと運命が変わった。
そう感じたあの日から今日で一か月。
眠気を取るために両目を擦り、時計を確認する。
時計の針はまだギリギリ午前であることを示していた。
「やばい遅刻だ!」
急いで洗面して着替えを済まし、財布とスマホだけ持って家を飛び出した。
自転車をに乗って慣れない全力疾走で街を駆け抜けると、目的地である白い大きな建物が見えてきた。
「遅いわよまったく、どれだけ待たせるの?」
不愛想な無表情を不機嫌に歪め、割と本気でお怒りのご様子の同級生。
「昨日の夜緊張して全然寝れなくてさ……とりあえず自転車停めてくる」
病院の入り口に立つ彼女と一旦別れて駐輪場へと向かう。
そう、今日は彼女の妹である霜月小春さんの退院日である。
意識が戻ってから、精密検査とリハビリを終えてようやくの退院。
入院中は彼女と一切会ったことはないため、今日が現実での初対面である。
ネットで知り合った相手と実際に会う時の心境に近いのかもしれないが、ゲームの中で実際に話したりしていただけに会うこと自体に躊躇いはない。
それでも、実際に会うとなるとなんともいえない緊張感があるのだ。
「お待たせ」
「早く行くわよ。病室でそのまま待ってもらっているんだから」
追い打ちのように俺の遅刻を非難するが、非が俺にあるだけに反論もないしそもそもできない。
一応受付票に記名をして二人でエレベーターを上がる。
5階の廊下を少し進んだ先。
ひとつの病室の扉を日和が開くと、部屋の奥のベッドに彼女がいた。
開いた窓から吹くそよ風にそのきれいなナチュラルブラウンの髪を揺らしている。
「小春、来たわよ」
窓のほうを見ていた彼女がベッドの上に正座しながらこちらに顔を向ける。
よく知った顔立ち、しかし初対面の恥ずかしさを感じる奇妙さをなんとか飲み込んで、日和に続くように病室へと足を踏み入れた。
「初めまして……ですね。幸人さん」
見た目と声に思わず「彼女」を重ねて目頭が熱くなる。
「大丈夫? やっぱりもう少し時間を空けたほうがよかったんじゃないかしら?」
「いや、ごめん。ちょっとあいつのことを思い出してさ。……初めまして、小春……さん」
「小春……で、いいですよ。呼びにくそうですし」
口元に手をやりながら悪戯っぽく笑う彼女に、堪えきれずに涙が流れた。
一度流れ出してしまえばあとは止めどなく、感情があふれ出してしまう。
「ああもう、だから言ったのに……」
日和がハンカチで俺の涙を拭いてくれると、小春が両手を叩いた。
「とりあえず行きましょうか! 話すことも話したいこともたくさんありますから!」
小春さんの言葉に頷き、俺たちは二人の自宅へとやってきた。
「まずは小春の退院のお祝いね!」
日和は小春の意識が戻ってから少しずつ表情のバリエーションが戻ってきているらしい。
「それでも昔のお姉ちゃんはもっと普段から笑ったりしてたんですよ」
「きゅ、急には無理よ……」
昼食をとりながら、俺の意識はすでに別の場所にあった。
「もう調整は終わったんだよな?」
「ええ、今は上で待機させてるわ」
「あとでみんなで行きましょうね!」
そう、今日の俺には小春との初対面の他にもう一つ初対面のイベントがあるのである。
この家の2階の真ん中の部屋。俺も持っている楕円形卵型の機械。恋愛シミュレーションゲーム用のゲーム機であるELS。
その本体。
「私たちは後から別の機体からそっちに入りますから」
そう言われてELSの内側に入ると、俺のそれとは違う甘い香りがした。普段この機体を使っているのがあの姉妹のどちらかなのだから当然かもしれないが、健全な男子高校生である俺には落ち着かなかった。
ヘッドマウントディスプレイを装着して、電源を入れると、実に一ヶ月ぶりの浮遊感。
「彼女」が待つ二次元へと飛び込んだ。
どこか懐かしく感じる深い青色一色の世界。
俺が飛び込んだのと数分遅れて、小春と日和もこの機体の仮想空間へと飛び込んできた。
「もう会いました?」
「いや、何もいなかったけど……」
「ふふ、きっと照れてるのね」
「だーれだ!」
不意に視界を塞がれた。やや腕を伸ばしながらではあるが優しく視界を塞ぐ彼女の声を聴き間違えるはずはない。
本来の小春とほとんど変わらない声音だけでその人物の二つの姿が瞼の裏側に映ったようにさえ感じた。
「なんて呼んだら……いいんだろうな」
彼女が名乗っていた名前は元の持ち主へと戻った今、「彼女」に名前はあるのだろうか?
すると、覆われた視界がまた不意にクリアになる。
すでに「彼女」のほうへ視線を向けている姉妹の視線を追うように振り返る。
金髪にツインテール、そしてメイド服の紛れもない美少女は、両手を背中側で組んで体を揺らし、やや首を傾けながら悪戯っぽく微笑み……。
「だったら、生まれ変わって名前のない私に、ご主人様が名前を付けてくれればいいんですよ!」
と「彼女」らしく言うのだった。




