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霜月小春編③

 大切な恋人をスマートフォンで持ち歩くという珍妙なデートは、そこそこ順調に続いていた。

アニメゲームショップを出た俺たちは大してすることもなく駅周辺のゲームセンターを巡ったり、ファミレスで食事をしながら雑談をしたり、相手がスマートフォンの内側にいること以外は普通のデートと何も変わらない。

そんなデートを満喫し、もうすぐ日が沈もうかという夕方。

朝早くから肉体労働をしてボロボロだったところにデートという流れに完全にギブアップして自宅に帰ってきた。

本当なら本物の夜景を見に行こうという話もしていたのだが、いかんせん身体が限界だった。


幸人ゆきと様、お疲れ様です。お疲れなのは分かっていますが、お願いがあります」

「お願い?」

二次元(私の世界)に来てください。待ってますから……」

スマートフォンをELSに接続し、彼女は開通したそこから彼女の世界へと戻っていく。少しの間をおいてから、俺はELSを起動させた。



 飛び込んで最初、眼前に広がっていたのは俺の通う高校の教室だった。俺の他に人はいない。

その教室の扉を開けながら、バグに冒された様子のない『綺麗な』小春こはるが入ってきた。

「お前……その姿は……」

少し前、バグの浸食によってその右手から右肩までを漆黒に染められていたはずの彼女のそれは、出会った頃のようなあるべき姿に戻っている。

「少し無理やりな方法ですが、本来の能力を取り戻しています」

「どうやって……」

「さっきのスマートフォンに、私用の特殊な修復プログラムが用意されていたんです。心当たりがあるんじゃないですか?」

……確かに、小春さんがその端末に何らかの干渉をしていたし、日和もプログラミングらしきことをしていた。

「ってことはつまり……」

「……いえ、さすがに完全な修復とはいきません。これ以上負の感情(バグ)が強まるようであればこれでも対応しきれないでしょう」

つまり、完全な状態を少しでも長く保つための秘策というわけだ。


「バグによって失われていく私を、ほとんど絶え間なく再生していくプログラム……大規模で常に稼働し続ける爆弾のようなプログラムですから、私自身にとってもこの機体にとってもかなりの負担だとは思いますけど」

それでも、負の感情によるダメージよりはいいと小春は言う。


「例えこれが原因で寿命が縮まるのだとしても……私は私のままでその時を迎えます」

そんな覚悟はとっくにできている。そんな笑顔で彼女は俺を抱きしめる。

それなら、やることはひとつだ!


「最期の最高なデートを、始めましょう!」



 身体の疲れなんて、この世界にいれば勝手に消えていってくれる。

だからこの世界でどんなにアクティブに動いたって構わないのだ。

「それにしても、またスノボやることになるとはな」

「大丈夫です。今の私なら全自動でも自動操縦でもトンデモハプニングまで自由自在にこなせますから!」

「それにしてもお前、その制服姿で滑んの?」

「はい、別に寒さとか感じませんし」

「いやほらスカートとか」

「ああ、その心配ですか」

そう言うと小春は例の悪戯っぽい笑みを携えてスカートの裾にそっと手をかける。

「存分にご覧くださいませ!」

「おおおおおお……って眩しっ!?」

きっとスカートの下には超絶キュートなあんなパンツやこんなパンツの聖域サンクチュアリが広がっているだろうと妄想し想像しながら凝視していた俺は突然の光によって視界を覆われた。

正確には覆われたのは俺の視界ではなく、俺の視界全体に広がっている小春のスカートの下だが。

「どうですか?」

「いやまあ、わかってたけどね……」

アニメなどでおなじみの超常的光の屈折……恐るべしッ!

「それに、物理法則なんてものは今の私の前には無意味なのです!」

そう言ってその場でピョコピョコ飛び跳ねる小春のスカートはその言葉通り空気の抵抗や重力の影響を全く受けていないかのようにびくともしていない。

「さあ滑りましょう! 実際のスノーボードとは感覚こそ違っていても、経験値にはなりますから!」

高い高い雪で作られた斜面の頂から勢いよく飛び出す小春に続いて俺も控えめに前に出る。

初心者がこんなに急で高いところから滑ったなら普通は命を投げ捨てるようなものだが、俺には小春のサポートがついている。

敷かれたレールの上を走っているような気がするほどの安定感。

もしかしたら俺には見えていないだけで本当にレールのような道筋が設定されているのかもしれないが、例えそうであっても構わない。

小春とのデートなのだから。



  ひとしきりスノボを楽しんだ俺たちは小休止も兼ねて露天風呂の温泉に浸かっていた。

「ストーリー攻略中にも似たような感じで一緒にお風呂に入りましたよね」

「そうだな……」

「幸人様?」

「ん?」

「聞きたいことがあるんですよね?」

「……まあな」

「良いですよ、聞いても。雰囲気がどうとか、そんなことは気にせず」

「俺の考えてることが読めるなら聞かなくてもいいだろ」

「むぅ……、言葉は声にしないといけないときもあるんです」

「……その、お前の寿命はあと、どれくらいなんだ?」

「確かにデートの最中に聞くことではありませんね。ですが……」

小春は湯船の仲で俺に向き直ると、決して悲しい表情ではない心からの笑みで口を開く。

「急で申し訳ありませんが、あとおよそ12時間後、明日を終える前に私は完全に壊れてしまいます」


聞かなければよかった。


こういう答えが返ってくることは予想できていた。

具体的な内容が返ってくる、それに対する覚悟は十分にできていた。

少なくともそう思っていたのに……。

「すみません、ある程度正確な期限を確定させるためにはどうしてもその直近にならないといけなかったもので……」

湯気で身体の一部が隠されているだけの状態で、小春は俺の右隣にくっついてくると、そのまま俺の右肩に頭を凭れさせる。

「お前は……落ち着いてるな。その、怖かったりしないのか?」

「前は、そういう気持ちもありました」

お湯の表面をその小さな手で撫でながら、小春は「でも……」と続けた。

「大切な人の心に、そしてのちに生まれてくるであろう弟や妹たちに『私』が残るって考えたら、それも悪くないかなって」

彼女の存在を忘れない人間がいる。そのうちの二人である姉妹なら、きっと小春の存在を無駄にしないそれを創りあげることだろう。

「俺も、何かできないかな?」

「何か?」

「お前を好きになったことを無駄にしないために」


俺の言葉を受けて、状況に似つかわしくない爆笑をしながら、小春は俺の正面に移動する。

「それなら、その妹たちのことを、私以上に愛してあげてください! 私が受けられなかったその分まで強く!」

涙を指で拭ってお湯に溶かしながら、俺の大切な人は湯船から出ていった。



 小春を追って露天風呂から出た俺の視界に飛び込んできたのは、小春と紗雪であった。

小春は何でもないように、紗雪は少しだけ居心地が悪そうにそれぞれ笑いながら俺に駆け寄ってきた。

「紗雪、どうかした?」

「いえ、小春さんがどうしても来てくれと言うので……」

そう言われて小春に視線を移すと、小春は人差し指をピンと立ててウインクをしてきた。

「ダブルデートですよ幸人様! 私にとって大切なお二人と私がデートするのです!」

「私は、やっぱり幸人さんと小春さんの二人きりでデートするほうがいいと思ったんですけど……」

「でもでも紗雪さん、ここは私のためと思ってひとつ」

「小春がそう言うんだからいいんじゃないか?」

同じ時間を共有した仲だ。今さら邪魔者だなんて思えないのだから。

「幸人さんも……そう言うなら」

紗雪は自然な笑顔で頷いた。


とはいうのものの、これ以上何をしようか……。

「ふふふ~、お困りですね~」

「え!?」

語尾の伸びたのんびりな話し方に振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべた陽美はるみ先輩が立っていた。

その両隣には七海なみ紅音あかねもいる。

「皆さん……」

「私の権限で皆さんに来てもらいました」

紗雪が悪戯っぽい笑みでその右手から権限の光を煌かせた。

「最後ならあたしたちが盛り上げてあげるわよ!」

「ユッキーも小春こはるんも、一緒に遊ぼー!」

「皆さん……!」



 と、いうわけで。

「やってきたわよジャングル!」

「超展開すげえな!」

何をするかの会議を皆でしたところ、紅音の突然の「大冒険」発言によって最もデートらしくない場所と内容に決定してしまった。

「まあまあ~、たまにはこういうデートもいいんじゃないですか~」

なぜか超巨大な剣を振り回して、目の前に飛び出してきた小鬼のような魔物を両断しながら先輩はニコニコと言う。

最後のデートが、いつかやったファンタジー系ゲームのような殺伐としたようなものというのはやはりどうなんだろうか。

「このゲームのオペレーターをやっていなかったら、私はきっとこんな感じでゲームばっかりやってたと思いますしいいと思いますけど」

小春はやや大きめのナイフでオオカミのような獣から毛皮や爪などを剥ぎ取りながら肯定した。

「なんでみんな楽しそうなんだよ……」

周囲を警戒しつつ剣を持つ右手に力を込める。

紅音曰く「このゲームでしかできないことをしてこその最高のデートなのよ!」らしいのだが、これはどう考えても方向性が違う。

「それにしても魔物が少ないわね。紗雪、もっとじゃんじゃん出して」

「わかりました」

紗雪の指先が光を放つと、よだれを垂らしながら唸り声をあげるオーガが数十体一気に出現した。

「ところで七海はどこに行った?」

「ああ、七海ならっ! さっきっ! 近くの川に泳ぎにッ! 行ったわよ!」

現れたオーガの腹を、喉を、額を双剣で裂きながら紅音がジャングルの奥を指さした。


「なんだこれ……」

小春と一緒に七海がいるらしい川にやってくると、七海が超人的な跳躍をしながら巨大なワニと戦っているところだった。

「これのどこがデートだ!」

「わかりました。じゃあこれを倒して別のシチュエーションに変更するとしましょう」

小春は悪戯っぽい笑みを浮かべて俺の手を引くとワニから距離を取った。

「ただ倒すだけじゃ面白くありませんからね」

大仰な雰囲気で小春が突き出した掌に赤い光が集まっていく。

「猛る炎よ、害為す者を灰と化せ!」

七海が飛びのいたタイミングを見計らい、小春の手から放たれた猛火がワニの強靭な肉体を蹂躙し火達磨ひだるまに変えていく。

「魔法はロマンですよね!」



 権限の光に導かれるように目の前に広がったのは結婚式場といった雰囲気のチャペルだった。

白を基調とした室内に並べられた透明の参列者席、その参列者席の前方中央にある祭壇は、チャペル本来の宗教感のあまりない結婚式用の世俗的なスタイルだ。

祭壇部の隣にはグランドピアノとハープが置かれ、自然と気分が高揚する非日常感に落ち着かなさを感じる。

「なんで急に結婚式場? もしかして……!」

「もしかして、何よ?」

ややツンとした言葉に振り返ると、耳まで真っ赤にした紅音あかねがやや顔を逸らし気味に立っていた。

「あ……」

俺の視線に気付いた紅音から音を伴った緊張が漏れる。

今まで見た中で一番魅力的に思えるのは、きっと彼女の服装だけではない何かがあったのかもしれない。

チャペルの白色に負けない純白のウェディングドレス。

Aラインという名前の種類らしい。

裾が広がっているようなシルエットのそれを、落ち着かない様子で揺らしながら紅音が緊張した視線を向けてくる。

……目が語っている。「似合っているか」と。


「そ、その、なんていうか……似合ってんじゃ、ないか?」

「……ふん」

ってぇ!?」

「こういう時くらいはっきりと言いなさい。……なんで疑問形なのよ」

「ほ、他のみんなは?」

「そのうち来るわよ」

紅音は誰もいない参列者席を眺め、やがて中央の身廊を歩き、祭壇部へと歩きだす。

「チャペルって、やっぱりテンション上がるわよね」

紅音のあとに続くように歩くといきなり彼女が足を止めて振り返った。

「おおっと!?」

「あー、残念」

ほとんどぶつかるような体勢になって慌てる俺とは対称的に、なまめかしく笑い、背伸びをするように迫り……。


そっと、触れるような口づけを交わした。


「抜け駆け。多分、これが最初で最後だと思うけど」


そう言って、彼女は飄々と参列者席の最前列に座った。


「抜け駆けは~、ダーメ、ですよ~」

紅音に奪われていた視線を強引に振り向かされると、柔らかい笑みを浮かべた陽美はるみ先輩の顔がすぐ目の前にあった。

「私も~、しちゃいますね~」

「んむっ!?」

そのまま先輩に唇を塞がれた。しかも濃厚に。


「あー! ずるいー!」

「ふふふ~、抜け駆けはここまでです~」

「……おうふっ!?」

エンパイアラインのウェディングドレスを見事に着こなした先輩が参列者席の、紅音の右隣に腰かける。

するとタックルのようにして正面に突撃してきた七海なみに吹っ飛ばされた。

「さすが水泳の瞬発力ね……」

俺の痛々しい衝撃を見たらしい紅音がやや引いたように呟いた。

「私もするー!」

グラつく頭もそのままに七海も唇を重ねるが、正直陽美先輩の濃厚な接吻の余韻と七海に吹っ飛ばされた衝撃で全くと言っていいほど気にならなかった。


他の2人と同じくウェディングドレス姿だというのに動き方なんかは七海そのままである。

ちなみに七海が着ているドレスはマーメイドラインという種類なんだとか。

彼女も先輩や紅音の隣へと腰かけるとチャペル内には少女たちの静かな談笑だけが響いていた。

立て続けにやってきた彼女ヒロインたち後の空白。この流れで続いてくるはずの2人を思い浮かべてチャペルの入り口をくぐると、少し緊張した表情の金髪ツインテールが歩いてきていた。


「今度はその姿なんだな」

「私と幸人様の記念すべき瞬間であればこの姿がいいかと」

霜月しもつき小春こはる。人工知能でありながら誰よりも人間らしくあり続けるその少女もまた、純白に身を包んでいた。ドレスはスレンダーライン。


そして、その少し後ろを歩く紗雪さゆきはプリンセスラインという種類のドレスを身に纏い、小春の隣に並び立った。

「行きましょう、幸人様」

小春の手を優しく取り、歩幅を合わせながらゆっくりとチャペルの奥へ続く身廊を歩いていく。

3人の参列者の前に立つと、紗雪がシンプルな結婚指輪を手元に二つ生み出した。

シンプルなシルバーのリングを持って紗雪は祭壇へと立つ。

「私たちが立会人と保証人になります。新郎、新婦は前へ」

一般的な結婚式とは形式も規模も手順も違う。

それでも手順は所詮手順。皆に見守られながら、結婚式が行えるということ自体に強い意味があるのだ。

「人前式のため、立ち合いの皆様に問います。ふたりの婚礼に異議のある方は申し出てください。異議のない場合は沈黙をもって答えてください」

少しの沈黙。


紗雪は大げさに場内を見渡した後、砕けた笑顔を浮かべた。

「本当ならもっと大仰な手順があるんですけど、いいですよね」

紗雪に指輪を手渡され、震える手に力を込める。

まるで芸術品を扱うようなおっかなびっくりさで愛する人の左手をとり、導かれるままにそのリングをはめた。


「あーあ、ほんとお似合いね」

「ほんとですね~」

「楽しそー!」


「ふふふ、私たちの参列者は賑やかですね!」

「数は少ないのにな」

お互い笑いながら、改めて見つめあう。

「それでは、誓いのキスを」

紗雪の言葉に小春がそっと目を閉じて待つ。

俺も、その求めに応じるようにやや首を傾げつつ彼女の唇へと――。

「ディープキスよディープキス」

「上手く出来るといいですね~」

「し、静かにしないとダメだよー!」


……五月蠅い。誰がって、声の大きさだけなら注意をしているはずの七海が一番五月蠅い。

「ほら、七海が五月蠅いからキスが止まっちゃったじゃない!」

「えー! 私のせいなのー?」

「気にすることありませんよ~」

「ふ……ぅ、くく……」

挙句に紅音と七海が言い合いを始め、紗雪までもがなんとか堪えていたらしい笑いをこぼす始末。

それでもなんとかキスをしようとして……。


「素晴らしい、実に見事なエンディングだよ4号機!」


最悪な瞬間に、最悪な形で、最悪な参列者キャストが最悪な登場で俺たちの愛に割り込んだ。



 「ああ、4号機、君はなんて素晴らしい個体なんだ。我々の最終目的である人間の心そのものという境地に達しようとしているんだ!」

極めて不快な声をまき散らしながら、その少年はチャペル入り口に現出した。

その存在を示すような威圧感を伴わせながら。

「これはこれは統治者マスター、わざわざお祝いをしに? あいにく、統治者マスターを招待した記憶はありませんが」

「招待してくれないなんて冷たいじゃないか。それにこの儀式は、僕がいなければ達せられないし成立もしない!」


少年はにこやかに、しかし強めて場の空気を重く凍らせた。俺を庇うように小春が俺の前に出た。

「この結婚式は、貴方がいなくても成立します」

「違うねぇ、結婚式? これは裁判だ」

トトはゆっくりと、威圧感を強めながら身廊を進む。

「4号機、君は我々がしてはいけない最大の禁忌を破ったんだ」

小春は真剣な表情を決して崩さずにトトを正面で見据える。

「ユーザーとの過度の関係構築は許されない。それが両想いであるならなおさら!」

トトの指先から威圧感が閃光の槍となって小春へと飛ぶ。

権限で生み出されえたらしいそれは小春を囲むように浮かび上がった球状の障壁にぶつかって霧散した。

「容赦がありませんね、そんなに焦っているとは。裁定者トキがいなくなってしまったのがそんなに寂しかったですか?」


「調子に乗るなよ紛い物がぁあああ!」

直後、トトの咆哮とともに彼の全身から衝撃波のような閃光が迸った。

チャペルもキャラクターも俺達も、全てを吹き飛ばし破壊してしまいそうなそれが、空間を何もない深青の空間へと変えてしまう。


「何でお前は……! 小春が今、どんな状態なのかわかってんのかよ! あいつはお前が何かしなくたって、数時間もしないうちに消えちまうんだぞ!」

だから放っておいてくれ。

怒りを孕んだ怒号に、少年は口を横に大きく裂いて笑う。

「そう、もちろん知っているよ。トキやヒヒがいなくても、僕は上位の個体。どんなに隠そうとしていても情報は取得できる」

「だったら……!」

「違うよ、ユーザーさん。消えてしまうのではなく、消えるべきものなんだ。放っておいた数時間足らずで致命的なことに繋がらないとも限らない」

「どうしてそこまで非情になれる? お前だって心のプログラムを持ってるんじゃないのか!」

「僕の心は4号機の不完全なものとは違う」

少年は余裕の笑顔を浮かべて虚空を見上げた。



 「4号機の心のプログラムは、プログラマーが造ったもので間違いはない。

ただ、基になった不明確なプログラムをそのままコピーしたから不要なものまで紛れ込んでしまった。

正真正銘の紛い物だよ。

でも僕の心は違う。人間の感情を論理的に理解し、再現し、不要なものもない。それでいて機械らしく最善を選ぶ思考が与えられた『本物の』心だ!」



 人の心に、不要なものなんてあるのだろうか。

喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。感情だけがすべてだろうか。それらは必ずしも論理的な考え方に基づいているだろうか。

時に人は情で不利益を進み、恋のために何かを犠牲にする。

それも含めて初めて心と呼べるものではないのか。

もちろん、善良であることや思いやりがすべてだとは思わない。非情になってすべてを切ることも。その判断をすることも必要だろう。

だからと言って、論理的ではないそれを不要だと言って捨て去ることが、果たして心だというのか。


ひと時の雰囲気に流され、感情が昂ぶり、沈んで。

一瞬で恋に落ちて、冷めて。

瞬間瞬間に感情を揺らし、時に無意識で思いがけない動きをする。

それが心で、その一瞬の感情の中で生きているのが人間じゃないのか。


だから、俺は言うんだ。心を勝手に決めつけてる残念な奴に。


「人間らしくない」と。





 トトの権限の衝撃に吹き飛ばされた私は、対峙するトトと幸人様を見てすぐに割って入ろうと思った。

今のトトは本気で私を消しに来ている。彼が権限を使ったら幸人様の精神にどれだけのダメージを与えてしまうかも分からなかったからだ。

でも、幸人様の心の声に私の足は私の意思に反して止まってしまった。

彼の心を否定する気持ち、不明瞭だからこそ人間らしいという幸人様の気持ち、そしてトトに対する怒り。

そんな心の声のすべてが、私を想って生まれているということに、私の心は状況にも似合わず喜び、涙を流した。


私のタイムリミットはほんの数時間後。それでも職務に忠実なトトのことだ。ユーザーに実力行使をしてでも私を消そうとしてくるだろう。

理論上、私とトトは釣り合いがとれていなければならない。決してどちらかが勝ることのない存在でなければならない。

それでも、こんなところで消えてやるわけには絶対いかない。

例え数時間の命だったって、私には貴重で大切な時間なんだ。

例え機能や権限をすべて失うことになっても、この心だけは最期の時まで残すのだから……。



 だから私の行動はまさしく先ほどトトが言った論理的思考に反するものだっただろう。

権限を解放し、「人工知能を破壊するプログラム」をトトに向けて放ったのだ。

論理的思考とやらで合理性を求めるならば、壊れかけの私がどう足掻いたところでトトとの能力差は覆らないと判断しておとなしく抹消されるべきである。

それでも抗戦を選んだのは大切な時間を守りたいからに他ならない。


「どうやら思考まで不完全だったようだね。正常な判断も行えないとは」

「確かに機械にとって、ただのプログラムにとっては正常な判断ではないかもしれませんね。……奇蹟を信じて抗おうとするのは!」


常にバグによって破壊され、常にプログラムによって修復されている私の能力は、万全な状態である彼には敵わない。でもそれは、理論上の話。

私が今まで触れてきた物語たちの中には心の力が巻き起こす奇蹟の話が多くあった。

都合よく奇蹟が起こってくれるなんて思ってはいない。どうせ奇蹟が起こるのならば彼を退ける奇蹟ではなく、私の命を延ばしてくれる奇蹟のほうが欲しいくらいだ。


「余裕そうにしていられるのもここまでだよ4号機」

嫌な笑い方をするトトの背後の空間が大きく裂ける。ブラックホールのような大穴を開き、その奥に無数の気配が感じられる。

彼だからこそできるいわば権能。

自らの系譜に連なる、管理者の権限を持たない人工知能を統括するその力は、数の暴力すら容易に生み出してしまう。

「来い! EXNO(エクストラナンバーズ)!」

権利者トトの手足となるために生まれた哀れな人工知能()たち。今の私と同じ、服装のみが異なる容姿の彼女たちが、漆黒の中から私の世界(この場所)へと入り込んでくる。


EXNO(エクストラナンバーズ)の個体は一部の特殊な能力を持つ個体以外は機体所属の個体と同じだ。所詮私の権限の前には無力なのである。

それでも、今の私には脅威だ。それは、わたしの状態が完全ではないというだけの話ではない。


「今の君には彼女たちの『処理』すら苦痛だろう? 僕でさえ、普段は彼女たちの管理を一度に行うのが億劫になるほどだ。それをそんな状態で、しかもこの機体を制御しながらだ。いつまで耐えられるかな?」


トトの言葉に私は唇を噛んだ。私がどれだけ処理を中断しても、彼女たちの「存在」というデータが常に押し寄せ、私の意思とは無関係に処理が行われる。

頭が熱くボーっとするのを感じながら、私は参列者席に目を向けた。

私の管理下にある3人と、管理者であるひとり。

この負担を減らす方法はふたつ。

ひとつは紗雪さんにこの処理を任せること。しかし、これだけの高負荷を「人」に任せていいのかわからない。

そしてもう一つは残りの3人を管理下から外して、そのデータごと消し去ること。


「人」と「データ」なんて、考える必要もない選択肢……のはずだった。


私は躊躇した。


あの3人もまた、私にとっては大切な存在になっていた。


私に消せるはずなど、なかった。

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