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小春回想編④

 3号機の修正終えた私は、再び従来の仕事に戻って幸人ゆきと様のサポートを続けていた。

七海なみさんとのデートシーンこれが七海さんとの恋愛の山場のひとつである。

しかし、今回のデートプランでは私のサポートは必要ないだろうと思っていた。

そんな難しいものでもないし、幸人様も前の2人の攻略でずいぶんと自信がついた様子。

もう、私のサポート……いや、干渉も必要ないのかもしれない。


その時だった。私の胸がひどく痛んだ。

体が痛むはずはない。人間の体とは根本が違うのだから。

だとしたらこれは?

何が痛んだ?


その答えは、少し遅れて私から飛び出した。

「3号機の中にいた……?」

見た目の黒さはあの時の漆黒に酷似していた。

そこに帯びている感情も。

しかし、目の前の漆黒はあの時の者ではない。

これは、私の……心だ。


そう肯定した瞬間、それは私の姿を模した。

――こいつに暴れられたら私も……。

3号機の結末を思い出し、私は咄嗟に臨戦態勢を取る。

対ウイルス用のブログラムを宿し、権限を解放して自らのスペックを高める。

「すぐに終わらせます!」

システムに影響を出させるわけにはいかない。3号機の時とは違って今は幸人様や、小春さんもいるのだから!

権限すら持たないはずの漆黒は私の右ストレートを容易に受け止め、私の腹部を貫いた。

システムの制御に割いていた分の演算力も私自身の防御へと供給し、漆黒から距離を取る。


物理的接触によってちゃんと分かった。こいつは、私の嫉妬心だ。


手強い相手だ。私の攻撃を通すのも難しいだけでなく、奴の攻撃には相手をその感情で飲み込む厄介な性質もある。

さっき貫かれた箇所も、防御プログラムで防いだとはいっても、わずかな奴の「毒」が私のすべてを冒している。

権限を解放し、システムの演算力を回してもなお互角。もちろん、手がないわけではない。

今現在も幸人様がプレイしているストーリーの維持や、七海さんへの制限、制御などで決して少なくない量の力は割いている。それをこっちに回してしまえばあるいは……。

その決断すら、相手は待ってくれない。


漆黒は人型を維持したまま私に突撃をかける。

最悪だ。小手先を選ばず最短を選んできた以上はこちらもゆっくり考える時間もない。

まずは防御でチャンスを待つしかない。


私の思考が最善と判断したそれを、私は首を振って否定する。

時間をかけられないのだから、ダメージ覚悟で攻撃に転じて、奴を倒したらダメージを修復すればいい。

私はそう判断して攻勢に出た。防御に割いていた力を奴の破壊プログラムに回して強化する。

漆黒の伸びてきた腕をすり抜け、渾身の拳を叩き込む。

奴の体が少しだけ揺らいだ。それでも、奴の気配は確実に弱まった。

効いている!

この調子で攻撃すれば……。


そんな希望を持った私の前で、揺らいだ影は姿を変える。大きくておぞましい、隙のない漆黒の蛇へと。


蛇になったところで戦い方が少し変わる程度だ。しかし、相手は所詮その姿を模しているだけに過ぎない。

普通の蛇のように噛まれないように押さえつけたとしても、胴体から手が伸びてくるぐらいはあるだろう。

攻略は難しそうだ。蛇はこちらの出方をうかがうように頭を左右に動かしている。

私も迎え撃つべくすべての注意を蛇に向ける。

間の悪いことに、そんな時だった。


七海さんの制限が……解除された?


その思考が生んだ空白によって、私の体は牙に容易に貫かれた。


痛みはない。ただ、思考が、心が飲み込まれる。

すべての想いが、この嫌な真っ黒な感情に塗りつぶされる。


そんなの……嫌だ!



 七海さんの制限に使っていた分もすべて私自身に使って牙から抜け出すと、

権限のすべてを使って、心を持たない「私」を創り出す。

独立した私のコピーならば貫かれて毒に冒されても多少は大丈夫なはずだ。そうやって敵の動きを封じている間に奴を一撃で仕留められるようなプログラムを構築すればいい。

その判断は、やはり届かない。蛇の毒に対する防御のない彼女たちは一瞬で支配され、奴を構成する要素として吸収されてしまったのだ。

蛇は次の攻撃のためにその姿を消した。

万事休す……。


そこに、光がやってきた。こんなシステムの奥深くに来るはずのないユーザーの気配に、私は目を疑う。

「幸人……様!」

「小春……! どうしたんだよこれは……」

「ダメです! こっちに来たら……!」

そう叫んだ私の足下が蛇の頭に変わる。迫る牙を、まともに動かなくなってきた体を無理矢理に動かして避ける。

「こいつを倒すにはどうすればいい! 何か方法はあるのか!?」

その呼びかけに対して、私が提示した2分間という時間を稼ぐため、幸人様が蛇に向かう。

幸人様に常に稼働させてある防御プログラムは、私自身のそれよりもずっと強固なものだ。それでも、タイミングはギリギリ。

私は持てるすべてでプログラムを組み上げる。

幸人様のシールドが破壊される前に、私はそのプログラムを蛇の頭から流し込んだ。

まさに一撃必殺。


 私が蛇に対して使ったのは、心のプログラムを破壊するプログラムだった。

基本が私の心から生まれたのだから、という理由だけで組み上げた一か八かのプログラム。

それは期待したとおりの効果を発揮し、災難を退けることに成功した。


そして私は嘘をつく。あれは外部からきたウイルスで、出現元は不明である、と。

本当は私の中から生まれた嫉妬心だなんて、知られたくなかったから……。



 蛇の後始末自体はさほど問題はなかった。

システムも修復が可能な程度で、私の中の毒もほとんど無効化ができた。

しかし、気になったのはあの蛇のことだけではない。

紗雪さゆきさん」

「何ですか? 小春こはるさん」

「本当はもう、すべて分かっているんですよね?」

「……うん。全部、思い出したの。今までのことも、あの事故のことも」

「そうですか……ではもうこの計画も終わりですね。日和に言ってあなたの魂を肉体に――」

「待って」

「……え?」

「きっと、私は戻れるんだと思う。またお姉ちゃんと一緒に、スノボもできるようになりたいよ。でも……」

『霜月小春』は、プログラムの外に目を向ける。

「もう少し、この世界にいたい。柊紗雪という、ひとりの女の子としてもう少しだけ……」

「いいんですね?」

「幸人さんがゲームをクリアしたら、私はここから出ようと思う。本当の姿で、幸人さんに『初めまして』って言いたい。……本当の私は、幸人さんよりも二つも年下だけどね」

彼女自身の笑顔は、私なんかよりもずっと自然で可愛らしくて……。

私はごまかすように、悪戯っぽい笑みを浮かべるのだった。


「でもどうして、私が全部思い出したって分かったの?」

「最初は何もなかった小春さんが――」

唇を指で塞がれた。

「この中では「紗雪」でいいよ」

「わかりました。……何もなかった紗雪さんが、スノーボードをしてるときにその心をざわつかせたりしていたのがきっかけです。そして、完全に思い出したと気づいたのはさっきです」

「さっき?」

七海なみさんの制限を解除しましたよね? あれって、私が持ってるような権限がないと使えないんです」

「あ……あの時の?」

「無意識だったんですか?」

「事故に遭う前に、お姉ちゃんとパソコンで遊んでいた時のIDとパスワードでログインできたんだけど……」

「きっと日和は、小春さん……いえ、紗雪さんと一緒にこのゲームを造りたかったんでしょうね」

私から見た紗雪さんの認識は「ユーザー」から「管理者:霜月小春」に変わっている。

「お姉ちゃんは、元気だった?」

「元気でしたよ。あなたを取り戻すためにこんなことをしてしまうくらいには」

本物と偽物は笑う。共通の姉を思い出し、同じような仕草で。




 私が、私を嫌いになったのは、幸人様が七海さんのストーリーを終えて体験版も終え、椿つばき陽美はるみさんのストーリーに入った後だった。

トラブルも乗り越えた私は、今まで通りに適度な干渉をする私に戻ろうとしていた。

仮想世界の学校の屋上で、陽美さんのことを考えている幸人様に軽口を叩く。

そんな軽い、いつものノリで隣に立ったのだ。

しかし、私の心は決してそんなに軽いものではなかった。


軽口を叩きながらも、体は、視線は、幸人様のほうを向いたまま動かせない。

目が合っても、私はそのまま見つめていた。

「幸人様は……」

先の言葉が、続かない。

「どうかしたのか?」

「幸人様は……」

先の言葉を、紡いではいけない。

「聞きたいこと、あるんだろ? もし声に出して聞きにくいんだったら俺の考えとか読み取ればいいんじゃないか?」

「……いえ」

そんなことは、したくない。

この問いの答えを、自分の力で知ってしまうのが怖い。

「……何でも、ありません」

すぐに幸人様のそばを離れよう。

そうしないときっと後悔してしまう。

そう思って歩き出した私の腕を、幸人様が力強く掴んだ。


「……放してください」

「放せるわけないだろ!」

幸人様の強い語気に、私の言葉は容易に引っ込んでしまった。

「そんな意味ありげな反応で、名前呼ばれて、そんな辛そうな顔されたら……そのまま行かせられるわけないだろ!」

「幸人様は……!」

言ってしまおう。言ったらきっと楽になる。

この辛さも消える。


「私のことが好き……ですか?」


幸人様からの答えはない。

それでも、その表情からすべてがわかった。

幸人様も、私が好きだ。


でも、その感情を受け入れてはいけない。受け入れられてもいけない。


だから、嘘つきな人工知能は、また嘘をついた。

自分の、大好きという気持ちに。



 感情とは、ここまで御することのできない、思い通りにならないものなのか。

幸人様が陽美さんの自宅でお風呂に向かって歩き始めたときにその異変は起こった。

何度プログラムを構築しても、廊下から先のお風呂場までのステージに繋がらずエラーになってしまったのだ。

それどころかその廊下以外の場所データもなぜか消えていく。


そこで気付いた。構築されたデータが消えているのは、ただ消えているのではない。「何か」が上書きされる形で塗りつぶされているのだ。

そして、その上書きされているものの気配は……。

「私の……心?」

その呟きとともに、私は自分の心に飲み込まれた。



「羨ましい」

「妬ましい」

「憎らしい」

「独占したい」

「愛してほしい」

「私だけを見てほしい」

私の願い。私がずっと抑えようとしていた想い。

漆黒の世界。プログラムのはずのその空間にはなぜか干渉ができない。

浮いているような感覚の中で右手を伸ばすと、誰かの手が私のことを掴んだ。

「小春さん!」

「紗雪……さん!」

ひいらぎ紗雪さゆきというキャラクターの姿を借りている彼女は、私を自らのすぐ目の前に引き寄せた。

「幸人さんがまだ抜け出せていないの!」

「幸人様が……? でも、私はこの空間に干渉できません!」

「外部からじゃないとダメなのかも。……お姉ちゃんのアドレスって、昔と同じままかな?」

紗雪さんは「霜月しもつき小春こはる」という彼女本来の名を冠するユーザーの権限でメール機能を実行。私も知らないメールアドレスに今の現状を乗せて漆黒の外に送り出した。


「紗雪さん……いえ、小春さん。お願いがあります」

彼女のことを偽りで呼ぶのをやめ、彼女に名を返す。私が無名になってしまうが、それも仕方ない。これは決して、私の名ではないのだから。

「もしもこのまま助けが来なかったら、私を消してください」

彼女の権限は私が持つそれよりも高次に位置するものだ。

彼女なら私の心と存在ごとこの漆黒を消し去れるはずだ。

だから私は、自分の最期を託した。


幸いだったのは、その最終手段を使わずに持ちこたえることができたことだろう。

それなりに待ちはしたが日和ひよりが飛んできてくれたのである。

私の知るはずのない、恐らく日和のプライベート用のアドレスにメールが送られてきたというのが相当衝撃的だったようだ。

紗雪さんと私は、幸人様が無事にログアウトできたという報せに安堵し、同時に息を吐く。


『小春は、いるかしら?』

日和からのメッセージ。おそらく私の機体に接続しているパソコンから送ってきたものだろう。

「小春さん、返事をしてあげてください。私はまだ、自由に動けませんから」

自らの心によって浸食されたデータを日和の助けを借りながら修復している私はこの機体から離れることができない。しかし、権限を持つユーザーであれば行けるはずだ。

しかし、小春さんはその場で文字を浮かび上がらせる。


「もう少し待って」


ただその一言を、自身のアカウント名を添えて送ったのだ。

『あなたが目覚めてくれて本当によかった』

日和からの返信はその一言と、小春さんへの「秘密兵器」だった。




 無事修復を終えた私はかなり悩んでいた。幸人様にどんな顔をして会えばいいのかわからない。

幸人様は三次元の住人とは思えないほど優しい人間だ。きっと私のことを許して心配してくれるに違いない。

でも……。

「そんなことされたら……泣いちゃいますよ……」

プログラムが泣くだなんて……。日和が聞いたらきっとそう言って笑うかもしれない。

私は昔の私よりずっと感情が豊かになった。だから泣きたい気持ちも悲しい気持ちも、そして恋も。そのすべてを身をもって知った。



 悲しそうな顔なんて絶対にさせない。やはり幸人様はそう言って私を肯定してしまう。

こんな時くらい否定してほしい。これでは嬉しすぎて罪悪感と嬉しさの板挟みだ……。

「前の私なら……こんな状態でもきっと笑えていたと思います」

声が震えてしまったのはその板挟みが、罪悪感の優勢であるが故だ。

「でも今は……。だから……こっちを見ないでください、幸人様」

泣いてる顔を見られたくなくて。

罪悪感で彼の顔を見たくなくて。

それでも、彼は、そんな私を可愛いと思ってくれた。

だから……。


見せるのは泣き顔ではなく、いつも通りの笑顔だ。



 落ち着いた私は、私自身の現状と今後について幸人様と話し、その後ストーリーを再開した。

本当なら残りは最後まで成り行きを見守っているつもりではあった。ただ、のんびりと眺めていられるだけの余裕は、今の私の心にはなかった。

だから、適当な理由をつけて、例の金髪ツインテールで幸人様のそばにいることにしたのだ。


結論から言えば、その邪な考えはやはり大失敗だった。

私がつい弱音を漏らしてしまった時のことだ。


「心配、してくれるんですね……幸人様だけは」

「当たり前だ! こんなに、こんなにお前のことが好きなんだぞ! 好きに、させられたんだ!」

告白するムードもシチュエーションも、最低レベル。今までこのゲームで何をしてきたのか聞きたいくらいだ。それなのに……。

「応えることは、できません。もう……」

それなのに……。

「それでも! 俺は何度だって言ってやる。例えお前が消えてしまうような運命だって、お前が消えるその時まで! いや、お前が消えた後だって俺は……」

それなのにどうして、私の心はこんなにも動いてしまうのか。

だから、それ以上心を乱されたくないからとか、そんなデタラメな安い理由で自分を納得させて……。


幸人様の言葉の続きを、キスで塞いだのだった。



 私は、やはり嘘つきだ。自分の心にも、私の大切な人にも嘘を吐く。

日和が私のために造った負の感情を抑制するプログラムは、所詮ただのプログラムだった。

シミュレーションの必要もないくらい、これではまるで改善されないことがわかりきっている。私にも、そしてきっと日和にもそれはわかっている。

だから、悲しみを自らの心の奥底に隠し、幸人様に悟られぬように希望を「演出」した。

それがただ逃げているだけだとわかっていても、私には他の選択肢を選ぶことなどできはしなかったから。


それでも、幸人様は勘が鋭い。

せっかく用意したアウトドアデートのプランを途中で切り上げて私に会いに来たのだ。

根拠のない焦りや危機感。人間の第六感は、時として機械の予測を凌駕するというが、その時はまさにそうだった。

だから私は嘘を塗り重ねる。

心配させたくなくて、無理矢理にでも笑顔を向けてしまう。

そして権限を使って幸人様の不安をすべて取り除く。


幸人様のためと言っているが、結局すべて私自身の我儘と私自身の願いでしかない。きっと神は、そんな嘘つきな私を許さない。

だから、あの後のことも全て、私がしてきたことへの報いなのだ。



 幸人様が陽美はるみさんから告白されるシーン。

私の感情は爆発した。今度は、速度も深さも段違いの闇となってあっという間にすべてを飲み込む。

何ひとつ見えない漆黒は、容易に私の権限による防壁を超えて私を侵食していく。

幸人様が漆黒に飲み込まれる直前、小春さんがその権限で幸人様を守ろうとしていたのが見えていた。

彼女の管理者権限は私の上位であるとはいえ、どの程度防げるのかは完全に未知数。

私はただ、受け入れきれない自分の感情にほとんど無抵抗で蝕まれるしかなかった。



「光あれ!」


秘密兵器であるそのたった5文字の言葉は、文字通りの意味で漆黒の闇を一瞬で散らした。その言葉を発した管理者は、心配顔で幸人様にくっついている。

「小春さん……」

「今は紗雪って呼んで……って小春さんその姿……!」

「今回ばかりは、もう、ダメみたいです」

「待っててください、今……」

管理者用のアクセス権で「私」にアクセスした小春さんは、すぐにその手を止めた。

「だから言ったじゃないですか。もうダメだって」

私のプログラムは、文字や数字ではない何かによって侵されている。原因が単純なプログラムでない以上、修復などできるはずはない。

「私は、私の心ごと、しばらく眠ります。小春さん、『ユーザー』であり、『管理者』でもあるあなたにこれを頼むのは申し訳ありませんが……」

私はもう、嘘などつかない。


「後をお願いします。霜月小春さん」


そうして、私は幸人様が残りのストーリーを終わらせる僅かな時間で眠りについた。




 ここまでの全ての出来事、私の歩んできた道とも言うべきそれを文書ファイルとしてデータの中に保存する。

ただ書き記していただけなのに、気が付けば少なくない涙が流れていた。

「泣いてるの?」

音もなく、人のような重量感も感じさせずに軽やかな動きでいつの間にか私の背後にやってきていた小春さんが、微笑みを浮かべながら私の泣き顔をのぞき込んでくる。

「見ないでください、小春さん」

「今の私は紗雪だってば」

「そうでしたね」

ストーリーが完結したというのに、彼女はなぜか三次元に戻る気配もなく二次元のこの世界に留まっているのだ。

「紗雪さんは、現実の世界には帰らないんですか?」

「もう少しだけ、ね。幸人さんと小春さんがどんな答えを出すのか気になるし」

素の彼女はとても明るくて優しい人間だ。彼女の感情を基に創られた心を持つ私は確かに彼女に似ている部分が多いように感じる。それでも、所詮は似ているだけだ。


「そのファイル、小春さんの?」

「はい、私の歩んできたすべてです」

「……その人生、私に背負わせてほしいな」

人生。人の生。人ではない私が使っていいものか悩んでいたそれを、小春さんはあっさりと使ってみせる。

「私の人生を、背負う?」

「私が眠っていた間の欠けた人生の分、あなたのものを背負わせて」

小春さんはそのファイルと私の頬、それぞれにそっと触れる。

「あなたの存在と心を残しておいてあげることは誰にもできない。でも、想い出は……あなたが存在した証だけは、私が背負う」

それから数十分。そっと手を離した小春さんは、笑いながら涙を流した。

「辛い……苦しいよ……」

私が感じていた感情を呟きながら私の手を握り、そして抱きしめる。

「……悲しすぎるよね、こんなの」

私のすべての記憶を知り、私に似た、私以上の心を持つ彼女だからこその完璧な共感。

「霜月小春でいてくれて、ありがとう」

「え?」

「あなたが私の名前で過ごしてきてくれたことが、なんだかとっても嬉しい」

意味がよくわからない感謝。それでもなんとなくわかる私がいる。


「私に素敵な思い出をくれて、ありがとう」


「こちらこそ、今までありがとうございます。小春さんがいなかったらきっと、私も生まれていなかったでしょう。幸人様にだって会えていなかったかもしれません」

彼女が事故に遭っていなかったら、日和が私に心を与えることがなかったかもしれない。

感情を持つことなく、ただの性能が良いだけの機械となって、全く別のユーザーのところに派遣されていたかもしれない。


――心がなければ、きっとこうして死にゆく運命さだめに魅入られることもなかっただろう。


でも、それでは大切な人に出会えた喜びも感動も切なさも全て理解できない。

苦しさも切なさも、何より人を好きになるという気持ちも感じることができない。


だから、今の私の心に、過去の私の行いに……何ひとつ、恥じることなどない。



 「もう、幸人さんをログインさせないつもりなの?」

「はい。不安定な私が次に幸人様にどんな害を及ぼすかわかりませんから」

「それは本心?」

「……正直、分かりません。本当に害を及ぼしたくないのであれば、私が選ぶべき最善は私自身で全てを終わらせることです。でも、私はそれを選べない」

選ぶこと自体はできる。最善の選択肢として存在しているのだから不可能などでは決してない。でも私の心がそれを望まず、拒否してしまうのだ。

「いいんじゃないかな、それで」

「え……?」

「最善を選ぶだけの選択肢なんて、『心』には似合わないと思う」

小春さんは私の両手をそっと包むように握る。

「あなたの本当にしたいことは何?」


その問いに嘘を吐くなんて選択肢は、もう私にはなかった。

もう嘘は吐かないと決めたのだから。


「幸人様と、一緒にいたい!」

「うん」

「一緒に笑って一緒に歩いて、ふたりで話がしたい!」

「うん」

「有限だとか無限だとか、私が消えるとか消えないとか、そんなこともどうでもいい!」

「……うん」

「私は、ただ、好きな人と結ばれたい!」


それが、私の……『人工知能』霜月小春の心の全てだ。


「……それなら、その心に素直にならなくちゃ……ね?」


小春さんはその手を青色の虚空へと伸ばす。


「人工知能『霜月小春』、その権限において命じる」

口調を変え、権限の光を伸ばした指先に瞬かせながら、人間『霜月小春』は言い放つ。


「自分の心に正直に、そして我儘に……笑顔で」

それと同時に、私の心のように閉じていた三次元との繋がりの扉が開く。

彼女の命令に、実際の強制力は伴っていない。でも、私は前へと歩き出す。


最善から外れ、人工知能として正しくない行動だとしても。

「小春さん、ありがんん!?」

小春さんは私の感謝の言葉を、人さし指1本で塞いで悪戯っぽく笑う。

「私は柊紗雪。私の名前と見た目、貸してあげる」

その触れた指が光を放つと、明滅を繰り返していた私の体が本来の色だけを取り戻す。

「見た目だけしか保てないけど、私はちゃんと見届けるから」


私は頷いて、今まさにこの世界に飛び込んでこようとしている想い人のために、本心そのままの笑顔を浮かべるのだった。

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