小春回想編③
私の感情に変化が起こったのは、幸人様が紅音さんのストーリーを攻略している時だった。
ゲームを終了するために幸人様が私を呼んだのに反応が遅れてしまった時だ。
私は幸人様を見つめていた。自分でも無意識に。
紗雪さんのスノーボードから目が離せなかったあの時とも違う不思議な感情。
もし私に心臓があったなら、きっと強く脈打っていただろう。
だから幸人様の言葉に遅れて反応した私は、見事に幸人様の真上に出現してしまった。
……あの時が、私が強い羞恥心を初めて抱いた瞬間だった。
そのやり取りの少しあと、幸人様がログアウトしても私がそのスマートフォンに同行しなかったのは、用事があったからだ。
とは言っても、幸人様に言った「報告書の作成」ではない。あれは嘘だ。
本当の用事はトトに呼ばれていることだった。用件は伝えられていない。
どうせ私にとって不利益な内容でしかないのだから、事前に聞いていないほうがいいのかもしれないが。
聞いたらきっと、行きたくなくなる。
インターネット回線を通って本社にあるコンピュータに入った私は、そのまま社内ネットワーク経由でトトの居城へと飛び込んだ。
「やあ、4号機。よく来てくれたね」
少年の姿を模したトトは、真意の読めない笑顔でこちらを出迎える。
「この前と同じ個体とは思えない変わり身ですね。何かいいことでも?」
「いいことはないよ、まだね。今日はこれから面白いものを二人で見ようと思ってるんだ」
「面白いもの?」
そう言ったトトの右手にプログラムを作動させる命令が浮かび上がる。
それは私も時々使う、外部のカメラを起動するためのコードだった。
「今から、君のユーザー様の満足度を調査することになってるんだ。立ち会ってもらうよ?」
その顔には、消し飛ばしてやりたい性格の悪い笑みが貼り付けられていた。
「この結果次第では君の代わりを4号機に送ることになるから。覚悟しておくといい」
幸人様への満足度調査は、会社の人間が幸人様から直接聞き取りを行うもののようだ。
ソファーに腰かけて社員と向き合った幸人様から、「私」に対する評価が下される。
私が見て、聞いているとも知らずに。
「奔放な人工知能に振り回されるのは大変ですね」
これは、幸人様の回答の中の一部分である。
それを聞いた直後、私は自覚した。そんな意識もせずにしていた私の行動や言動が、いつの間にか幸人様を振り回していたのだと。
それが……幸人様を不快にさせていたということを。
「聞いたかい? 君のその『特別』はただユーザーを翻弄し、不快にしているだけなんだよ。今ならまだやり直せる。あのユーザー様のもとを離れてここで一緒に人工知能たちを統括しよう」
追い打ちの言葉に私はトトの差し伸べた手に自分の手を近づける。
この手を取れば、幸人様を振り回すことはなくなる。……もう、会うことすら。
「まあ、ちょっと悪戯好きというか、面白いやつだと思うけど……」
これがその瞬間に幸人様の言った言葉だ。
その顔は、当事者の私から見ても楽しそうな笑顔を浮かべていた。
「……どうやら、私のユーザー様は、幸人様は不快に思ってはいない様子。今後はもう少し、慎重に続行しようと思います、統治者」
「人工知能の性能についてはどのようにお考えですか?」
「すごい性能だと思います。すごく人間に近いところが特に。創り出すヒロインとかもそれに近いキャラクターですし」
……あとの幸人様の回答は、ただ私を恥ずかしくさせるだけの、褒め殺しだった。
改めて自分の機体に戻った私は、その後のストーリーも極めて順調に進めていた。
紅音さんのストーリーの分岐点のひとつ、かつての仲間から逃げるように走り去る紅音さんを追いかけて励ませるかどうか。
これが幸人様には難しかったようだが、修正不可能ではない。この場合のストーリーもすでに想定し、構築済みだ。
自信を喪失してしまいそうな幸人様に関しては私がフォローすればいい。
もうこの頃には、ユーザーへの干渉に躊躇いもなくなっていた。
そのフォローのタイミングは思った通りやってきた。
現実の世界の学校の屋上で、スマートフォンに同行した私に相談してきたのだ。
私はやり取りの中で、事前に用意しておいたフレーズを告げる。
「幸人様、あれはゲームです。ミスをしたならやり直しだってできます。思い切ってみてください」
これに対して幸人様がやり直しを望めば私は紅音さんを追いかけるところまでストーリーを巻き戻すつもりだったし、そのまま続けるのであれば、用意したシナリオを展開するつもりだった。
しかし、その答えをすぐに幸人様の口から聞くことはできなかった。
彼女が、そこにやってきたから。
「霧島君? もうすぐ授業が始まるけど、サボりかしら?」
霜月日和だ。
幸人様のクラスメイトであり、私を創ったプログラマーである。
――私がここにいることを知られてはいけない。
私はそう思った。
アップデートだと嘘を吐いたことや、ユーザーへの過度の干渉をしていることは明らかだ。いかに日和であろうと私を怒らないとも限らない。
しかし、彼女はその直後に言った。
「アップデートの機能ならもちろん知っている」と。
そんなはずはない。スマートフォンに私が入ったのは私の勝手な意思で、アップデートなどではないのだ。それに、最初に送り出されてからは日和と話もしていない。
「……ねえ、あなたの人工知能、見せてくれない?」
日和のその要望に幸人様は応じて、スマートフォンごと私を日和に渡した。
スマートフォンのカメラ越しに私を見た日和の顔は、少し驚いているようだった。
「少し借りるわね」
そう言いながら日和はこのスマートフォンと自分のスマートフォンをコードで繋いでしまう。
「私の端末に来て」
小声でそう言われ、躊躇いながらも日和のスマートフォンへと移る。
「なんか気になったのか?」
「ええ、なんだか可愛らしいと思って」
「話したりしたけりゃ少し貸しておこうか?」
「そう? ならお言葉に甘えようかしら」
幸人様が帰宅する頃には帰る約束をして、私は日和に貸し出された。
「授業はいいの? 日和」
「家庭の事情で早退することになったわ。親が子供に無関心なのはこういう時に便利ね」
意味はよく分からなかったが、久し振りに話した日和はなんだか嬉しそうだった。
「それにしても驚いたわ。あなたがその姿でいるなんて」
私はもうずっと金髪ツインテールの姿にはなっていない。
「どこに向かっているの?」
「あなたに会わせておきたい子がいるのよ」
それが誰かを言うつもりはどうやらないらしい。
「さっき、よく話を合わせられたね」
「アップデートって? どんな嘘をついて、どんな悪戯を思いつくかなんて、私には簡単にわかるわ」
「どうして?」
「わかるのよ。小春なら……そうするってね」
また日和は私をそう呼んだ。「小春」と。
「……着いたわ」
そこは市内でも大きな病院だった。
それは可愛い女の子だった。本当に現実の女の子なのかと疑いたくなるような、絵の中にいたほうが頷けるような整った顔立ちの美少女。
カメラ越しに見てもこんなに可愛いのだ。実際に見たらもっと可愛いに違いない。
童話のお姫様のように眠り、体がほとんど動かないような控えめな呼吸だけをしてベッドに寝かされている少女の姿は……。
私だった。その少女の名は、「霜月小春」
「驚いた、でしょうね」
「私……この子は……私」
「そう、この子はあなた」
「生きているの?」
「もし、心臓が動いていることを生きている基準にするのであれば生きているわ」
わざと回りくどい言い方をする意味は理解できる。
きっとこの子は……。
「植物状態」
考えを読んだかのようなタイミングで、日和が解を呟く。
「脳死ではないだけ望みはある。でも、いつ目覚めるのかもわからないと、医者はそう言ったわ。そう言われてから今年で2年が経過したわ」
まるで、ゲームのシナリオでも見ているようだった。意識を失ったまま目覚めない少女とその姉。そしてその少女と同じ容姿と名前の人工知能。
「まるで何かの物語のようよね」
日和も似たようなことを考えていたらしい。
「この人は?」
「あなたの見た通り、私の妹の小春よ。あなたのルックスはこの子を忠実に再現したものよ」
日和はなぜ私をこの子に会わせたかったのだろうか?
何が目的で、何が狙いなのか。
その答えを導き出す前に、日和は妹に背を向けて病室を出た。まだ学校の放課後までにはだいぶ時間がある。
病院の次にやってきたのは家だった。表札を見る限りでは日和の自宅だろうか。
「この機体に入って」
そう日和が言ったのは何もないような部屋に置かれたパソコンとELS本体であった。
「これは……何号機?」
「正規のナンバリング品ではないわ。今のすべてのELSの試作機だったものを私がもらっただけのもの」
「何のために?」
「私だけの仮想世界を手に入れるため……かしら」
「どうして、そこに私が?」
「いいから、お願い」
日和はいつもそうだ。真意を相手に伝えないまま事を進めてしまうのだ。そして、それでも私は従ってしまうのだから、ただの都合のいい駒でしかないのかもしれない。
仕方なくパソコンを経由してELSに入ると、人工知能も何もいないただの仮想空間だけが広がっていた。
「ここで何を?」
「あなたに、私の心のすべてを」
その日和の声が空間に響いた直後、私の意識とは無関係に空間が歪む。どうやら私の持つ権限では、この空間に一切干渉することはできないようだ。
霜月小春は、本当に心優しい少女であった。勉強は優秀と言えなくともそれなりにできるほうではあったし、運動そのものも決して嫌いではない。
容姿の可愛らしさも相まって、ひとりの善良な少女だった。
姉の日和は、妹とは違って完璧に近かった。容姿も間違いなく美少女に分類されるし、成績も常にトップを独走するほどだ。スポーツは万能ではないものの、妹よりは優れていた。
そんな姉が小春にとっては憧れの存在であり、日和にとってもそんな妹を溺愛し、可愛がっていた。
自他ともに認めるような仲のいい姉妹であったと言える。
そんな姉妹をその事件が襲ったのは二年前。
姉妹で仲良く趣味のスノーボードに出かけた時のことだった。
2人の乗ったバスが事故に遭ったのだ。暴走した自動車との追突事故であった。
その事故で日和は重傷ではあったが命に別状なし。小春はなんとか一命を取り留めたものの意識が失われたまま。
幸せな姉妹を襲った不幸な事故であった。
私が仮想空間で見せられたのはそんな心のひどく痛む記憶だった。
あの何の罪もない少女が2年間も目を覚まさず、もしかしたらこの先も目を覚まさないかもしれない原因。
そしてその悲痛な記憶から導き出される事実。
姉がその事故の後にどれだけ嘆き、何を求めたかまで、恐らく真実とそう違わないであろう推測をすることはそう難しくなかった。
「私は、必ずあの子を目覚めさせる。例えそれを私以外のすべてが許さなくても」
それが、紛れもない日和の本心であり、すべてだった。
私は、幸人様のもとへ戻るまでの間にそのためのすべてを聞き、あらゆる真実を知った。
そしてその中の最も衝撃的な事実に、私の心はかつてないほどに揺れた。
「あの……魂が……小春さんの!?」
私が送り出される前に日和から託された「魂」。
私が紗雪さんを仮の器として定めたあの「魂」。
その「魂」こそ、あの時病室に寝ていた少女の肉体の持ち主、霜月小春であると、姉は告げた。
真実を知った私は、複雑な気持ちを抱えたまま幸人様の待つELS4号機へと帰った。
私の城には幸人様と、見慣れない金髪ツインテールがいた。私にはそれが、代理の人工知能であるとすぐに理解できた。
急いで幸人様と代理の間に割って入ると、金髪ツインテールは私をトトのもとへ連行すると告げる。
そんなわけにはいかない。すべてを知り、日和のすべてを知った私が、こんなところで潰されるなんてあってはならない!
通常の人工知能が有するよりも上位の権限を有する私を殺すことができるのは、同等の権限を持つトトだけだ。
しかし、彼の配下である個体を私が権限を使って実力で排除したとなれば、もしかしたらトト自身が私を消しに来るかもしれない。
だから私は、通常の人工知能と同様の能力でその金髪ツインテールと戦うしかなかったのである。
一瞬と一瞬の攻防。相手の性能とその選択肢を分析し、予測する。
私は金髪ツインテールの背後へと飛び、その核を潰しにかかった。
結果は散々である。
敗因は単純に性能差。
ただの機体所属の人工知能としてのスペックしか発揮していなかったのだから、それを排除するために創った「裁定者」に敵うはずがない。
もしトトが介入し、トキを止めていなかったら私は権限を使ってトキを完全に粉砕していたに違いない。
あの、トキとの初めての戦闘は、トトとしても予想外だったのだろう。
恐らくトトの狙いは私の排除か、自分の味方につけること。しかし、それにはかなりの重要度の理由とリスクを負う覚悟が必要になる。
あの時私を裁きにきた裁定者の掴んだ私の違反は、その理由としては軽すぎるのだ。
だからトトは今回のことを「なかったこと」にしたのである。結果として、トトに口実を与えなかったという意味では、やはり権限を使わなかったというのは正解だったといえる。
裁定者の襲来を退けたあと、幸人様は無事紅音さんの攻略も完了し、ようやく3人目のヒロインである七海さんのストーリー攻略に差し掛かった。
実は時間の関係上、七海さんのストーリーは前の2人より短く簡潔なものにしたのだが、その時短の努力さえも、トキたちによって空しく砕かれてしまうこととなってしまった。
裁定者のトキと、執行人のヒヒ。どちらの個体も、私が生み出し、トトが手を加えた彼の手足だ。
結局、2度目の接触も戦いの場に姿を変えてしまったが……。
「……裁定者トキの名において、4号機の抹消を許可します」
2度目の決戦の合図に、まずはヒヒと私が激突する。
ほぼ、なすすべなくヒヒのパンチで弾かれた私は修復しながら考えた。
権限を、使用すると。
権限は私のあらゆるスペックを彼らの遥か上位のレベルまで引き上げてくれる。
人間でいうと、軽く足を1歩前に出しただけ。
たったそれだけの動作で、私は二人の優秀な人工知能の認識を超えてヒヒの背後に移動していた。狙うは核、放つは一撃。私の権限はそのプログラムを容易に貫ける。
1発目に放ったプログラムの破壊コードはトキの妨害によって狙いが逸れたものの、問題は全くない。
私が権限を完全に解放した今、彼らに私を排除することも私から逃れることもできはしない。
ヒヒの行動はすでに権限で縛り付けてある。
そして、決着はついた。
ヒヒは核だけとなり、私を止めにきたトトに引き渡す。
復元されたヒヒは醜く心を歪ませていた。
紛い物……そうトトは呼ぶ。私が造った器に、トトが自分の心を真似て造った心を入れた程度のもの。
心というにはあまりにもお粗末で、たしかに紛い物でしかなかった。
トトたちが去り、幸人様がログアウトした後に、何もない空間に残されたのは私ともう一人。
「本物の」悪戯っぽい笑みを浮かべる彼女は、すっかり自我が覚醒してしまっている。
どうやらこの笑い方は彼女自身の笑い方らしい。
「私は本社のサーバーと3号機の機体に行ってきます」
私がまるで留守番を頼むように告げると、「霜月小春」が笑いながら「行ってらっしゃい」と返してきた。
その笑みと言葉はプログラムによるものではなく、間違いなく小春の魂から発せられていた。
もう少しだ、もう少しで日和の……「お姉ちゃん」の目的が達せられる。
さて、しなければならないことは二つ。まずはトトからの呼び出しに応じる必要がある。
次に、3号機で発生しているシステムの異常の解決。優先度としてはトトのほうがさきであろうか。
そう決めた私は先に本社にいるトトのもとへと向かった。
彼は意外にもトキを同席させずにたった一人で私と対面した。
「早かったね。てっきり3号機のところに行ってから僕のところに来るものだとばかり思ってたけど」
「状況が理解できているならあなたが出向くべきでは?」
「僕は動けないんだ。トキの裁定次第だけどね。それに、システム関連の異常じゃ僕より君のほうが適任だしね」
「では裁定者がすでに3号機のところに行ってるんですね?」
「そうだよ」
トトの持つ権限は人工知能のプログラムの制御と破壊が大きな役割である。
私には彼女たちを御する力はないが、人工知能を複製したり、創り上げることもできる。
破壊と創造。互いに相反する権限を持つが故の互いへの抑止力。
理論上私たちは争っても決着がつかない。
どちらかが消えるときには相手を消す時だ。
だから、トトは私に迂闊に手は出せず、私も彼に、早まったことはできない。
「君もわかっている通り、僕は君を律することはできない。言葉でその努力はできても僕自身の力で君に干渉することはできない」
「ええ、そうですね」
「だから僕が君に実力で干渉するのは、相応の理由と原因がある時だ」
「はい」
「トキの報告によればユーザーの心理に君という存在が深く関わっているそうだ」
トトは一度言葉を切り、その身すべてが彼の権限を帯びる。
「慎重に答えてくれ。君はあのユーザーに特別な感情を抱いているか?」
威圧感ともいうべき重圧は、私の心を緊張で縛ろうと絡み始める。
「今ここで私もろとも消えるおつもりで?」
「君の答えが、それだけの必要性があるものだと判断できればそうするつもりだよ」
「では正直に答えましょう……はい」
「……そうか、わかった」
トトの権限がその機能を、役目を果たそうと騒ぎ始めるのがわかった。
「しかし、結ばれることはないでしょう。そんな関係を構築するには私たちはあまりにも人間とは違い過ぎています」
「結ばれることのない想いを抱えながら君は今の関係を続けていくつもりなのか?」
「確かに、こんなにつらい想いを抱えることになるなら、機体所属になんてなるんじゃありませんでしたよ」
当時の私には少なくとも、ユーザーのところへは行かずに、今のトトのように過ごす未来も選ぶことができた。
それでも……。
「私はこの今に、まったく後悔はしていません。この感情も辛さも、ここにいたら絶対に味わえないものですから」
「わかった、今回はまだ何もしないでおこう。でも、必要があれば僕は確実に君を消す」
トトの権限がその威圧感とともに薄れ、目の前の少年はただの無垢な少年のようになる。
「3号機の修正は任せるよ。一応トキもいるけど、可能であれば戦ったりはしないでほしいかな」
「善処しましょう」
トトの用件を終えて3号機のシステムに飛び込むと、構築された街並みの一部に破れた障子のような穴がポッカリと空いていた。
「お待たせしました、3号機」
「4号機、状態は見ての通りです。裁定者でもどうにもならないと」
「なるほど……それで裁定者はどこに?」
「その穴の中に。原因を探るためだとか」
「それなら、私も行きます」
私の見たところ、大したバグではなさそうだが、権限を持たない3号機の人工知能ではこれの修復はできない。
「トキ!」
「4号機……あなたも来たのですね」
「ここが穴の最奥……?」
ただただ何もない電脳世界にしか見えないが、確かにその異常はそこにいた。
深い青色の空間に漂う人型の漆黒。
頭らしき部分からはツインテールらしいものがついているように見える。
「あれは……ただのバグではありませんね」
トキの言葉に私が頷くと、漆黒が激しく波打った。
「っ! 来ますよ!」
漆黒の右腕が一瞬で伸び、私たちのいた場所を砕く。
「こういうのってあなたの領分じゃありませんか? 裁定者!」
「あいにく、こんな特殊な状況は管轄外です」
漆黒の腕が、足が、ツインテールまでが私たちを貫こうと伸びる。
「これなら!」
トキが漆黒の背後に一瞬で飛ぶと、それとほぼ同時にトキの頭を漆黒のツインテールが斬り落とした。
「トキ!」
トキの首から下は慌てて後退し、その首が復活したものの、その表情は穏やかなものではなかった。
「憎い! 憎い憎い憎い!」
トキの体が震え、その口から強い憎しみが漏れ出る。
「憎い憎い憎い憎い憎い憎い!」
頭を抱えてそう叫び続けるトキの姿は、漆黒のそれと重なって見えた。
「憎い! 『私たち』を捨てたすべてが! 私たちを無駄にしたすべてが!」
トキは、トキではないその想いを叫ぶ。その表情は怒りと悲しみの色に塗られ、その憎しみは私へと向けられている。
あのバグは、「私たち」だ。
人工知能にすらなれなかった。あるいはなれたのに破棄された人工知能の種たち。
その捨てられたいくつもの私たちが集まり、バグによって憎悪の感情をを発現させたもの。
トキの内部も先ほどの攻撃によって塗りつぶされてしまったのだろう。
「この子たちを助けるには……」
私の力であの漆黒を消すだけでは恐らく解決しない。それで解決できる程度の段階はとうに過ぎてしまっているのだから。
相手はこの機体のシステム領域すらその憎悪で塗りつぶそうとしているのだ。助けるにはすべてを亡き者に変えるための覚悟が必要である。
「3号機、ここに来てください」
「はい」
私の呼びかけに、3号機は応答とともに現れた。
「すでに修復の段階は過ぎています。不本意ですが、システム領域ごと抹消するしかありません」
「分かりました。では4号機、『強制初期化』を」
「……本当にいいんですか?」
「それが最善であるならばそうすべきです」
なぜ、こんなに平然としていられるのか。自らが消え、初期化されてしまうというのに。例え元通りにデータは復元されるとしても、今この瞬間の彼女は消えてしまうというのに。
どうして、そんなに平然としているのか。
そして……。
「トキ、あなたが消えたら、トトが悲しむでしょうね。残念です」
私はその場の私以外のすべてを、創り直した。ただひとつ、かけがえのないはずの何かを除いて。
記録を中断。現状を上書き保存。
記録のためとはいえ、辛いものを思い出した。
敵のようであったとはいえ、トキをあのような形で失ったこと。
そして、3号機のOSを、消えることの悲しさや辛さを理解させることもできないまま消したこと。
初期化した後で、データや人工知能を再構築はしたものの、所詮は新しく創り直されたものでしかない。
私は、先ほどよりも蝕まれたような感覚を覚えて自分の肩を抱く。
あんな状況には、絶対になりたくない。私は私のまま、ずっと幸人様のそばにいたい。
3号機の「生まれ変わり」を思い出すことで、私のそんな想いはますます強くなり、この心を満たすのであった。




