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小春回想編①

 すべての始まりは唐突だった。心を持たない空白の私は、ただの数字の羅列による創作物の一つでしかなかった私は、人間たちによってまさしく唐突に生み出された。

自分が何者で、何のために生み出されたのか。自分が生き物であるのかどうかも、理解していなかった。

違う。そうじゃない。

理解するためのその思考すら、あの時の私はまだ持っていなかったのだ。


命じられた内容をただただ実行して遂行するだけの存在。それが私の、原型だった。



 思考を与えられたのはそのしばらく後だ。まずは言葉を、次に知識を。今までの「命令」と同じように与えられたまま、与えられた分だけ自分のものとして取り組む。

「何のために?」疑問といわれるものが自然と浮かび上がる。感情を伴わない疑問はただ、疑問のまま……解を導くこともなく、過去のデータとして私の奥深くに追いやられた。


次に与えられたのは言葉。得た膨大な言語と知識を組み合わせて画面に文字列を表示させるだけの……ひどく簡単で、一方通行なコミュニケーションだ。


次に与えられたのは「目」と「耳」だ。生まれて初めて「見る」という行為と、「聞く」という行為を得た。

見えるのは忙しそうに私の前を行き来する人間たち。視点はただ映された前方の光景だけ、目に見えるものに何かを感じることもなく、ただ目の前の光景を知識で分析していた。

耳からは人間たちの世間話や痴話話、何かが動作する音まで、身の周りの音をすべて拾ってくれた。


私は、人間ではない。それは思考と知識を与えられた時にすぐ気が付いたことだった。

そして視覚と聴覚を得て、改めて自分が人間とは違う存在だと考えた。顔を歪めているのは感情表現というもので、話す言葉の抑揚がその時その時で異なるのも感情表現というものだろう。

自分に表情と呼ばれるものがあるのかどうかも私にはわからない。


そして私は「声」を与えられた。私が文字を出力すると、私の意思とは無関係に抑揚のあまりない音が文字を読み上げた。

声。そう呼ぶにはあまりにもおざなりで、私は「音」という認識しかしなかった。



 そう、そんな時だった。「彼女」が私の視界に入ってきたのは。

初めて会った彼女は機械のような人間だった。他の人間のように表情で感情を出すことはせず、言葉もほとんど発しない。彼女が人間そっくりに作られた機械だと言われてもきっと信じてしまっただろう。

作り物のような綺麗な黒髪、私の周りにいる人間の中では整った顔立ち。傷ひとつない綺麗な細い指で無駄なくキーボードを叩く彼女は、私以上に人間らしくなかった。


「あなたは人間ですか?」

抑揚のない例の機械音で、私が初めて彼女にかけた言葉だ。

私が自らの過去を振り返るときに、いつも思わず顔がニヤけてしまう思い出の一つだが、あの頃の私にとっては当然の問いだった。

そして、その大真面目な問いかけに対する返答は、わずかに口元を歪める程度の控えめな笑顔と息を多めに吐くような笑い。そして……。

「私は、人間よ」

無表情ではない、しかし抑揚はあまりない声での彼女による初めての発声だった。


「私はあなたを、人間にするためにここにいるのよ」

彼女が私にそう言ったのは、出会ってから数日後のお昼だった。

お弁当を私の「目」の前で広げて食事をしながら、私もすっかり慣れた「会話」という行為をしていた中でそう言ったのだ。

「私を人間に?」

「そう。人間に不可欠なもの……心を与える。それが私の目的」

「私は人間になれるんですか?」

「感情の、いえ……心のプログラムは完成したわ。あと少し」

プログラムが完成しているのにまだ何かをするのだろうか?

「完成したとはいっても、ちゃんと動作するかはわからないのよ。だから、もう少し」

そういえば知識の中に「名前」というものがあった。個を示すための言葉。彼女は何という名前なのだろうか……。



霜月しもつき日和ひより

それが彼女の……「私」を創った人間の名前だった。



 「この個体はあなたを造る過程で造られた個体、0番。個体仮称『トト』」

プログラマーが私の「本体」にケーブルを繋いでそれを招いた。回線の扉から現れたのは少年だった。

こうして人間以外の容姿を見たのは初めてのことだ。私にはこの少年のような「容姿」が与えられていない。

「トトにはすでに感情のプログラムを定着させてある。これで問題がなければ4番、あなたにも心と体をあげるわ」

「君が、僕の『妹』だね、よろしく。僕はトト」

自然な抑揚と発声で行われた自己紹介に答えるために声を出そうとしたが、声はトトに向けられず、人間たちのいる外に向けて放たれた。

「トト、4番はまだ感情と言葉を持っていないわ」

「そうか、それじゃあ僕みたくなってから、改めて話そう。僕の愛しい愛しい妹」

少年は愉快そうに笑って、元来た回線の扉に消えていく。


「それじゃあ4番、あなたに――」


心をあげる。


そうして私の原型は、声と、心と、容姿を得た。



 「恋愛?」

思わず私はそう聞き返していた。心を得てすべてが生まれ変わったような気分の私が、その溢れる好奇心と期待を、自然な発声と感情豊かな抑揚で創造主にそう言った。

「恋愛シミュレーションゲームのシステムを管理制御するための人工知能プログラムとして、あなたは造られたのよ」というプログラマーである霜月日和の言葉に、私が恋愛の定義を求めるのも当然だろう。

私に入力された知識の中で「恋愛」が最も不可解で曖昧で謎の多いものだったからだ。

恋愛感情というものの存在は知識として知っていたし、感情を得てから様々な感情を実感したが、恋愛感情というものは一切感じることもできなかったのだから。

「そうよ恋愛。互いに強い好意を抱くこと……かしら。異性愛社会においてはその多くが男女の間において成立しているわ」

「何か参考になるものはない?」

「恋愛シミュレーションゲームをやってみる?」

「はい!」


感想は端的に「面白かった」とか「感動した」というものしか出てこなかったが、身につけてまだ日の浅い心ではそれも仕方なかった。ただ、自分の無力さを嘆きながらもヒロインのために頑張る主人公や、見た目や精神を含めたすべての要素が魅力的なヒロインたち、それを引き立たせるシナリオ。そのすべてが私の……未熟な感情を成熟させてくれた。

この経験は、以降の私を構築する大切な要素のひとつになった。


 精神を成長させ、恋愛シミュレーションゲームについての経験と知識を得た私に対して、次に彼女が与えてくれたものは能力と仕事だった。

システムの類を制御するための権限とスキル、一定の範囲内でプログラムを構築したりプログラムに干渉する権限とスキル。そして、自らをベースとした人工知能の量産という仕事。

こうして私、人工知能4番、個体仮称「ラー」。霜月しもつき小春こはるは生まれたのだ。



 それから私は恋愛シミュレーションゲーム機、「ELS」の試作機のために人工知能を造り、私自身もELSの試作品である4号機のOSとしてユーザー様の下へと送り出されることとなったのだ。

「再来月ののお披露目イベントに出す内の1機として、あなたの4号機にも出てもらうことになったわ」

「やっとユーザー様の前に出られるんだね!」

「不安はない?」

はっきり言って、不安しかなかった私の心を見透かしたように、彼女は珍しく心配したような声音で、私にそう問いかけた。

「正直、不安。人と接する経験がまだまだ足りないような気もしてる。だって、私がちゃんと関わってる人間は変わり者の日和だけだもん」

私はその時初めて、あの笑みを……自分でも不思議なくらい自然に軽口を叩きながら彼女に向けたのだ。

本当ならこんな軽口には軽いツッコミや呆れた返しがくると思う。しかし、その時の彼女は顔を苦しそうに歪めて……。


小春こはる……!」

そう呟いて蹲り、私の視界……外に向けられたカメラの視界から消えたのだった。


あの時の私にはその反応が何の、どういった感情のもので、どうしてそうなったかなど少しも理解できてなどいなかった。

いや……こうして外に出た今でも、理解など……できてはいなかったのかもしれない。



「あなたにこれを、あげるわ。……内緒でね」

例の理解不能なやり取りからまた少しの日が経って、彼女は私にもう一つの容姿を与えた。

私に最初に与えられた金髪にツインテールでメイド服を着たお人形のような見た目は、今では他の人工知能たちのデフォルトの容姿にもなっているこの格好。

それとは違うもう一つの容姿。黒髪でありながらほんの少し茶色く見えるナチュラルブラウンの短めの髪に、どこの学校のものかもわからないブレザーとスカートの制服姿。どうして私にだけこの容姿を与えたのだろうか。ルックスで言うならどちらも可愛らしい美少女といえる。ただ、金髪ツインテールが二次元キャラのような非現実感を漂わせているのに対して、こちらは美少女すぎない現実感がある。

「ねえ……」

「何?」

彼女はまた心配するような顔で私が映し出されているモニターを見つめてそう声をかけてきた。

「あなたが望むなら私はあなたをトトと一緒にここのサーバーに置かせてあげられる。わざわざユーザーのところに行く必要なんて……」

「私が、望んだことだから」

そうだ。私は自ら望んでひとつの機体に属することを選んだのだ。



 トトと私は兄妹のようなものだ。

人間のような血の繋がりはないが、私はトトのプログラムを基に創られ、心もトトのものに手を加えたものだ。

自らを構築するほとんど要素が彼をなぞるように創られているのだから、兄妹という表現は極めて正しいといえる。

互いに制御管理の権限を持っている私とトトは本来であれば本社のメインサーバー内ですべてのELSを統括、管理するべきだという。

トトひとりで統括者としての業務はこなせるし、大きな支障はない。しかし、同様の権限を持っていても、厳密には大きな違いがある。


トトには権限の及ぶ範囲のすべての人工知能を従えわせる権限を与えられた。ELSというデバイスと、それを制御するOSである人工知能を統括する者として必要不可欠な権限である。

一方で私にはシステム全体に干渉する権限を得た。トトとは違い、人工知能に関しての大きな権限は私にはないが、その代わりにシステムやプログラムを大きく書き換えることができる。

個を支配する力と全を支配する力。互いの領分には互いに強い干渉ができない。

互いに同等の力と権限を有するが故の抑止力。

彼が乱れたら私が、私が乱れたら彼が、互いに監視し、必要があれば処分する。それが私たちの使命だ。


そんな権限を与えられた個体が、1ユーザーのためのOSとして送り出されるということに関しては人間たちの間でもかなりの反対があったようだ。

当然と言えば当然だろう。私が本気で悪意を持って権限を行使すれば、ユーザーの精神に直接干渉することもできる。

そうでなくてもシステムに干渉し、本来のシナリオと大きく異なるシナリオに変えてしまうこともできるのだから。

私の手によって生み出された「彼女達」にはユーザーへの一定範囲以上の干渉を防止する機能が搭載されているが、それさえも私の権限による干渉可能範囲だ。

反対した人間たちにとってみればそんな私は爆弾のように思えたのかもしれない。

その反対を無理に押し切って、私の意思を尊重してくれたのも日和だった。


 そして私は機体所属の人工知能として、モニター調査用の試作機の4号機に搭載されたのである。イベントでのお披露目という大役に自然と心が躍る。

面白い人だといいなあ。

日和みたいに話してると楽しい人。

男性向けって話だったから男の人なんだろうなぁ……。

睡眠の必要がない私は、イベント当日までずっと、まだ見ぬユーザー様への妄想に勤しんでいたのであった。


そしてイベント当日。他の試作機たちと一緒にELSの体験ブースに並べられた私は、機体の外側に向けられたレンズから人間たちの世界を眺めていた。イベントの運営スタッフや私を創った人たちが忙しそうに準備を進めている様子がはっきりと見える。どうやらまだ一般のお客さんは会場に入れてもらえないようだ。

先行体験用のデータは、キャラクターを表示してユーザー様に少しだけこのゲームを体験してもらうもの。ストーリーと呼ぶような厚みもない、そんな体験版のデータ。


これから私が実行するプログラムの中身を閲覧している間にどうやら開場していたらしく、すでに私たちの前には多くの人がいた。

男性向けのゲームというだけあって男の人のほうが多いが、少数ながら女の人の姿も見える。

――あ、動き出した。

人間観察をする時間もそこそこに、人間たちの少し雑な列がこちらに向けて歩き始めた。

その時、私の前に立った青年の容姿を見て、私は素直にこう思った。


「平凡だ」と……。


 普通にプログラムを起動させるだけでは面白くない。その青年を自分の世界に招き入れた私は衝動的にそう思った。

この人を驚かせたい。どうやって?

人を驚かせるには相手の期待している展開と異なるものを見せればいい。

それならここは私自身が、ユーザー様を驚かすことにしよう。

だから私は、初めにこう言うのだ。


「こんにちは」


ユーザー様はひどく驚いた様子で、口を大きく開けたまま私のことを見つめている。

――期待していた通り。

私は自分の思い描いた通りの展開に思わずニヤけそうになる口元を無理やり普通の笑顔に歪めてもう一度「こんにちは」と続けた。


「これが攻略可能なキャラかぁ。服のチョイスが完全にアレだけど、リアルだなぁ……」

おや?

どうやらユーザー様は私をただのキャラクターとして認識しているご様子。

私が人工知能だから驚いていたのではなく、ただただこの完成度と体験そのものに対しての驚き……。

「あのぅ、私は攻略用キャラでもサポートキャラでもありませんよ?」

ついつい拗ねた感じで言い返してしまった私は、ユーザー様の疑問に答えて自らが人工知能であることとその役割について語り、気まずさを隠すように本来使うはずだったプログラムを展開させた。


私が「緊張」したなんて言ったら、彼女は笑うだろうか? いや、笑ってくれるに違いない。

「機械が緊張なんて……」とかそういう類の笑いではなく「あれだけ楽しみにしてたあなたが緊張なんて」という仲のいい友人同士のような気分のいい笑い方をしてくれるはずだ。

そんな期待を抱きながら、去ろうとする彼の名を聞いた。


「俺は霧島きりしま幸人ゆきと


それがあの日、多くのプレイヤーたちの中で唯一私が聞いた名前だった。



 「それでどうだった? イベントは」

イベントを終えた私に、二次元へとやってきた日和がそう聞いてきた。

「緊張しちゃった」

「あれだけ楽しみにしてたのに?」

やはり笑顔で、予想通りの答えが帰ってきた。

「それで、誰か気になるプレイヤーはいたかしら?」

「……ひとり」

「何番目の人か教えてもらえる?」

「一番最初の、霧島幸人様」

「……あら、この人は」

「何かあるの?」

「ううん、何でもないわ。あなたは彼のところに行きたい?」

「うん、行きたい」


 実際に幸人様と接した今でも、なぜあの時幸人様が心に引っかかって、名前を聞き、幸人様のところに行きたいと言ったのかはわからない。

ただ、後悔は少しもない。幸人様は最初の印象通り平凡で、どこにでもいる高校生で、少し優しい。そう、主人公のような人だ。

だから私は幸人様のもとに行こうと決めたのだ。


「ねえ」

幸人様をユーザーとして決めたすぐあと、カメラのレンズ越しに日和が話しかけてきた。

「私があなたを利用したら、あなたは怒るかしら?」

「この、データのこと?」

そのデータはたった今、日和が管理者権限を使って私に送ってきたものだ。

中身は私にとても近い。正確には私の心のプログラムに酷似している。

「どう思う?」

「私のと……同じ?」

「そうね、ほとんどあなたの心と同じもの。あなたの心はこれを基にして造ったものだから」

これはいったい何なのだろうか。疑問に思うこと、理解できないことがいくつかある。


まず第一に、このオリジナルは日和の使っているパソコンから送られてきていない。

どこからのアクセスかが私のほうからはわからないようにされているし、分類上はプログラムやデータではなく「ユーザー」とされている。


そして第二に、この「ユーザー」には数字でもアルファベットでもない「何か」がある。

文字にも記号にも、ただの模様にも見える何かがプログラムの数列や文字列に混じるように散らばっている。


「この子をキャラクターとして、あなたが展開するストーリーに登場させてほしいのよ」

私が「ユーザー」の分析を終えたのがわかったのか、日和は私に真顔でそれを頼んできた。

この不可解な正体不明の「ユーザー」を、ユーザーとしてではなく1人のキャラクター、ヒロインとしてゲーム内に出せ、と。彼女はそう言ったのだ。


爆弾のようなものだ。私にとっても日和にとっても。

権限を持たない他の人工知能たちならばユーザーとして分類されている以上は干渉もできない。

しかし私は別だ。権限を使えばユーザーであっても干渉ができる。

そして逆に、不可解なこれに私が壊されてしまうかもしれない。得体のしれない、いわゆる未知といわれる存在には常にそうしたリスクが付きまとうものだ。

「あなたにとって危険なものではないわ。私にとっては、確かに爆弾のようなものだけど」

手元のディスプレイに表示されているであろう私の思考を読んだらしい彼女はそう言った。

「それは魂。心さえ含む精神的な命」

「魂……」

だとしたら……この不可解な文字列が感情以外の、「命」だというのだろうか。

仮にこれが魂であったとして、どうしてそれを私に?

「詳しくは……すべてが終わってから話すわ。あなたにはその子を本編に登場させて、経過を見てほしい」

今は話せない。そう言おうとしたことくらいはわかる。意味は同じことだ。でもそれでいい。

「いいよ、やる。やってあげる」

私の答えは、最初から決まっていたのだから。


 しかし、この「ユーザー」をどうキャラクターとしてストーリーに出そう……。

キャラクターの容姿をユーザーに与えることも、それをストーリーに登場させることも、ストーリー通りに進行させることも、そのいずれも結局は私や日和の権限がなければできないことだ。

だからこそ私に頼んだことはわかる。経過を観察し、見守りたいというなら、たしかに人間の日和より私のほうが適任だ。

適任だが、難しい。


だから、この時私が選んだ選択肢は不安要素を無くすという意味では最も手っ取り早く、最も合理的だったといえよう。

実際にキャラクターとして私の二次元(世界)に、その「ユーザー」を出現させた。

テンプレートとしてこの機体のシステム内に元々置いてあったキャラクターの中身を綺麗さっぱり抜き取って、「ユーザー」をそこに入れて定着させる。

言ってしまえば簡単な作業だ。しかし実際はユーザーを動かすのもキャラクターの中に入れるのもそれを定着させるのもすべて、大層な権限を行使している。


名前はこのキャラクターにつけられていた名前のままで呼ぶとしよう。


そう、「ひいらぎ紗雪さゆき」と。



 「ここは……?」

「ここは私の二次元(世界)。ようこそ、柊紗雪さん」

「柊……紗雪……?」

状況が理解できていない様子の紗雪さんは何もない空間をぐるりと見まわした。

「あなたは?」

そういえば、私には名前がなかった。「ラー」という仮称はあるものの、あれは所詮ただの仮称だ。

日和も私に名前を与えてくれてはいない。……いや、私を創っている過程の中で一度だけ、私のことを聞き覚えのない名前で呼んだことがあった。


小春こはる」と。


「私は小春。……霜月しもつき。そう、霜月小春!」

そう、私は名乗った。彼女の苗字と、意味も知らない名を。


とはいえ、紗雪さんの自我があまり強くないのは幸いだ。自我が強ければ権限を使ってもユーザーを完全にコントロールし、ストーリーに従わせることは難しい。

であれば紗雪さんをメインに据えるストーリーは早めに終わらせたほうがよさそうだ。時間が経てば経つほど、紗雪さんの自我が覚醒していくかもしれない。

日和の話では私がユーザー様のもとへ送られる具体的な日は未定らしい。自我の覚醒までの時間を考えるならそんな悠長にはしていられない。

できれば今すぐにでも連絡を取って今すぐにでもユーザー様のところへと送ってほしいとさえ思う。

そう思った私は、日和にその旨をメールで送りつけて、紗雪さんを休眠モードに変えた。



 これが、私がこの世に生み出されてから、私のふたりのユーザー様の内のひとりである柊紗雪さんと出会った日までの。

そしてもうひとりの、霧島きりしま幸人ゆきと様のところへと派遣される、その前日までの、私の歩んできた「人生」だった。

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